殺しのライセンス

鈴木眼鏡

殺しのライセンス

 オガタは電話の向こうの沈黙に耳を澄ませていた。


「もしもし」と少なくとも一分間は続いたように感じられる沈黙の後で、オガタは真っ黒な受話器に向かって再び口を開いた。


 殻を硬く閉じたムール貝のように、相手はかたくなに喋ろうとはしなかった。もしかしたらいたずら電話なのかもしれない、とオガタは考える。殺し屋の電話番号宛てにいたずら電話をかけてくるとは、なかなか変わった趣味の持ち主だ。あるいは相手はランダムに電話番号をプッシュして、無差別にいたずら電話を仕掛けるのが趣味なのかもしれない。そして、偶然、今回の相手がオガタだったということなのかもしれない。


 しかし、いくらオガタが殺し屋だといっても、いたずら電話をかけられたくらいで殺しはしない。「仕事以外で無用な殺しはしない」というのがプロフェッショナルとしてのオガタのポリシーでもあった。普段の日常生活においては殺しどころかむやみやたらに喧嘩すらしないように注意を払っているくらいなのだ。


  オガタは受話器を耳に当てたまま、事務所の壁際に置いてあるハト時計に視線を移した。時刻は午後十一時を過ぎたところだった。電話がかかってきてから正確に五分が経過している。しかし、相手はいまだに一言も喋ろうとしない。もしかしたら本当にムール貝が電話をかけてきているのかもしれない。都会の道端に打ち捨てられた古びた電話ボックスにもたれかかって、スーツを着たムール貝がダイヤルを回しているところをオガタは想像した。


 そのとき、電話の向こうでかすかに声がしたような気がした。声というよりは空気の振動といった方が近かったかもしれないが、少なくともこの五分間の通話で初めて相手が立てた音ではあった。オガタは受話器を握り直した。そして、何かしらの音声が続かないかどうか、注意深く耳を澄ませた。


「助けて」と相手は突然囁いた。


「助けて」とオガタは相手が言ったことを繰り返した。


 しかし、相手はオガタのリアクションに対して、すぐには返事をしなかった。通話回線に再び沈黙が流れこみ、オガタは天井を見上げる。何の脈絡もなく、突然、ものすごく酒が飲みたくなってくる。そして、酒のイメージに引きずられてか否か、煙草まで吸いたくなってくる。頭の中にウィスキーのボトルと煙草のパッケージのイメージが植え付けられて離れなくなる。


 オガタが禁煙を始めてからもう一年以上になる(正確に言うなら一年と六ヶ月と二週間と一日だ)。病院の健康診断で異常が見つかってからというもの、オガタは愛煙していたアメリカン・スピリットを吸うのをやめたのだった。それと同じ時期に禁酒も始めた。ジョニー・ウォーカーのブラックラベルを寝る前に飲むというのが長年の習慣になっていたのだが、オガタには酒を飲み始めると必ず煙草を吸わずにはいられなくなるという悪癖があり、いままでもグラス一杯のウィスキーを飲んだ後で煙草を一本か二本は吸い、それから眠りにつくというのが毎晩の儀式のようになっていた。要するに煙草だけをやめようとしても酒もいっしょにやめなければ意味がなかったのだ。


「オッペンハイマーの箱」と相手は再び囁いた。そして、何の予兆もなく──本当に何の予兆もなく──通話回線が切断された。


 ツーツーツー、と音を発している受話器を耳から離して、電話機に戻しながら(昭和の時代に使われていたような黒電話のデザインを模したレプリカだった)、オガタはいましがたまで電話をしていた相手について、簡潔に要点をまとめてみた。


 ①相手は自分に助けをもとめていた


 ②電話をしている間、相手は基本的に沈黙しており、話すときもつねに囁くような声だった


 ③「オッペンハイマーの箱」というのが相手の口にした中でただ一つの具体的なワードだった


 しかし、これだけではあまりにも情報が少なすぎる。第一、どういう用件で電話をかけてきたのかもよくわからない。本当にただのいたずら電話という可能性もありえるのだ。「オッペンハイマーの箱」というのも何を意味しているのかまったくわからない。あるいは逆探知をかければ相手の現在地くらいはわかるのかもしれなかったが、そこまでの労力をかける価値があるのかどうかを見極めるには、不確定なファクターが多すぎた。


 オガタは一分ほど考えたところで、先ほどの電話についてはとりあえず忘れてしまうことにした。いつまでもわかりそうにないことを考えていても仕方がない。しかし、ジョニー・ウォーカーのラベルとアメリカン・スピリットのパッケージの幻影はどうしても頭から離れてくれなかった。本当にいまここに酒と煙草があれば申し分ないんだが、と思った後でオガタは深呼吸をした。そして、酒と煙草の誘惑を断ち切るべく、長い間腰かけていた革張りの椅子から立ち上がって、ひとまず外に出かけることにした。



 オガタは自宅兼事務所であるマンションの一室を出て、エレベーターに乗りこんだ。二十五階から一階へと下降していくエレベーターの中で、オガタは壁一面に取り付けられた鏡に映る自分の姿を何とはなしに眺めた。


 ロマンス・グレーといってもいい色合いになってきた髪をセンターで分けたヘアスタイル、べっこう縁の丸眼鏡の奥に並ぶ一対のよどんだ瞳、皺の増えてきた顔には剃り残した髭がまばらに生えており、唇はつねにへの字に曲がっているように見える。身に付けているダークスーツと総柄のネクタイと牛皮の革靴は、かつての依頼者から贈られたイタリアの高級ブランドのものだったが、クリーニングに出すという習慣がなかったせいで、スーツもネクタイも持ち主と同じくらいくたびれている。新品だったころはまばゆいばかりの光沢をはなっていた革靴も長年の傷と汚れにまみれて見る影もない。


 オガタが殺し屋として仕事を始めてもう二十五年ほどになる。四半世紀というのは人の一生にとって決して短いとは言えない期間だ。それだけの時間があったらたいていの人間は何でもできるだろう。NASAの宇宙飛行士になって冥王星に行くことだってできたかもしれないし、出会うべくして出会った誰かと結婚をして子どもを生み育てて大学まで進学させてやることもできたかもしれない。脱サラして画家になってニューヨーク近代美術館で個展を開くことだってできたかもしれないし、新しいベンチャー企業を起業してマーケットを拡大してあっという間に世界的大企業のCEOの座におさまることだってできたかもしれない。


 オガタは三十五歳のときに「殺し屋」という職業を選んだ(殺し屋になる前は陸上自衛隊所属のレンジャー隊員として務めていたが、上官とトラブルを起こしたことをきっかけに職を辞した)。それからの四半世紀というもの、ただひたすらにプロフェッショナルの殺し屋としての技術を磨いてきた。客観的に見て、そのような技術的洗練は一つの達成ではあったし、オガタ自身もある時期までは自らの技術を誇りに思っていた。確かにオガタの仕事ぶりは同業者と比べてもトップクラスといっていいものだったし、依頼者の中には「芸術的だ」というものさえいた。やって来た依頼をこなせばこなすほど、業界内における信頼も厚くなっていった。


 しかし、人生のある段階から、オガタはそのような職業的ピラミッドの頂点にいることについて、一切の興味が持てなくなってしまっていた。具体的に何かがあったわけではない。ただ、ある朝(あるいは夜だったかもしれない)、ふと自分がそのような競争原理に関心を持てなくなっていることに気が付いたのだ。自分でも原因がわからなかった。もしかしたら加齢による精力の減退が関係しているのかもしれない。


 オガタはそのとき五十五歳になっていた。それからの五年間、何とか惰性で仕事を続けてきたものの、最近ではもう、あらゆる仕事がテトリスのように感じられた。ひたすら落ちてくるブロックを最適なスペースに配列し、然るべきタイミングを狙って一気に消去する。だが、そこにはもう快感は存在しない。喜びもない。楽しみもない。ひたすら落ちてくる無機質なブロックと果てしなく続くように感じられるBGMが存在しているだけだ。来月にはいよいよ還暦を迎えようとしている。六十歳という年齢を自分が迎えようとしているというのはいささか信じがたいことだった。


 エレベーターが一階に到着したことをピンポンという音が知らせる。扉が開くとそこにはスーツを着たビジネスパーソン風の男性と女性、二人の子どもらしい制服を着た小学生くらいの子どもがいて、何やら談笑をしていた。恐らく両親は都内の大企業勤め、子どもは私立の小学校にでも通っているのだろう。同じマンションに住んでいながら苗字も名前も知らない家族だった。一度か二度はエレベーターで顔を合わせたこともあるのかもしれなかったが、少なくともオガタの記憶には残っていなかった。オガタがエレベーターの外に出るまでの間、子どもが開ボタンを押しっぱなしにしていた。オガタは社交用の微笑みを浮かべながら、子どもと両親に向けて軽く会釈をした。


 しかし、三人のうち、誰一人としてオガタに会釈を返す者はいなかった。意表をつかれて思わず振り返ったが、親子連れはそのままエレベーターに乗り込んで、上の階へと上がっていってしまった。きっとお互いの会話に夢中でオガタの挨拶に気が付かなかったのだろう。あるいは自分はとっくに死んでいて、幽霊になっていたから気付かれなかったのかもしれない。ありえなくはない、とオガタはロビーの自動ドアを通り抜けながら考える。



 タクシーがちょうどマンションの前の通りに一台停車していた。空車のランプが点いていることを確認してから、オガタは運転手に向かって手を挙げた。後部座席のドアが自動で開く。タクシーに乗り込みながら「恵比寿の『見張り塔』というバーまでお願いします」と言うと、運転手はうんともすんとも言わずにただ頷いた(制帽を被った頭が上下に動いたので後ろからでも頷いたのがわかった)。そして、一言も言わずに出発した。


 オガタはダッシュボードに取り付けられている運転手の名札を読み取ろうとしたが、車内が暗いせいでよく見えなかった。カーステレオからは聞き取れるか聞き取れないかくらいのボリュームで音楽が流れていた。音楽のジャンルに造詣が深くないので、正確なところはよくわからなかったのだが、恐らくいま流れているのはアンビエント・ミュージックに分類される音楽だった(オガタがアンビエント・ミュージックのアーティストとして知っているのはブライアン・イーノしかいなかった)。別に「タクシーの車内でアンビエント・ミュージックを流してはいけない」という法律があるわけではないから構わないのだが、オガタ自身、アンビエント・ミュージックの流れているタクシーに乗るのは初めてだった。なかなかユニークな運転手だ。


 環境音楽の眠りを誘うような雰囲気に身体を浸しながら、オガタは後部座席のシートにゆったりと背中を預けた。いまカーステレオから流れているのが誰の何という曲なのかはわからなかったが、ポツポツと断続的につらなる電子音にときおり自然の音がサンプリングされているサウンドは非常にここちよかった。タクシーで行くなら『見張り塔』までは十五分ほどだが、このまま眠っていってもいいかもしれない。最近まで関わっていた依頼でかなり疲れてもいた。今日だって自宅兼事務所に帰ってきたのは朝方になってからのことだった。そのままシャワーも浴びずにソファベッドで眠ってしまい、次に目覚めたときには夜になっていた。それから急いでシャワーを浴びて、電子書籍で読みかけになっていたミラン・クンデラの未発表短編集を読むか、ずっと観たかったポン・ジュノとパク・チャヌク共同制作の新作映画をストリーミング・サービスで観るか、その二択で悩んでいたところに例の電話がかかってきたのだ。オガタはひさびさにやすらかな気持ちでタクシーの後部座席にもたれかかっていた。そのまま眠ってしまいそうだった。



 オガタが最近まで関わっていた依頼のクライアントは「昇龍会」という反社組織の幹部の一人だった。昇龍会がサイドビジネスの一つとして手がけていた児童ポルノビデオの販売事業について、しつこく嗅ぎ回っていたライターがいたのだ。有名な週刊誌の元記者で、現在はフリーの身分で働いている腕利きだった。「マムシ」という月並みなニックネームが付けられるくらいにはしつこい記者で、要するに一度噛みついたらなかなか離さなかった。取材のためなら何だってやるというのが売りで、(真偽のほどはわからなかったものの)過去には北朝鮮の核ミサイル問題を取材するために現地に乗り込んで、当局にスパイ容疑で拘束されたこともあるという話だった。昇龍会の幹部はもちろん「マムシ」の存在をよく思わなかった。そして、オガタの事務所に電話をかけてきて、「マムシという記者を殺してくれ」と依頼をしてきたのだった。


 依頼を受ける際には基本的に善悪の概念は持ち込まない。クライアントの社会的なポジションや個人としての人間性も考慮しない。最も重要なポイントは、クライアントの依頼に対してオガタが提示した金額に「イエス」と即答できるか否かだ。ほんの少しでも「ノー」と言いそうな素振りを見せた場合には、その後どれだけ頼まれても依頼を受け付けない。それがこの仕事を始めたときからの鉄則だった。


 オガタの提示する条件に「イエス」と即答できる前者の場合は、ターゲットの殺害に関して迷いもないからトラブルが起きる可能性が低い。一方、少しでも「ノー」と言いそうな素振りを見せた後者の場合、まかり間違って依頼を受けでもした日には、オガタ自身の身が危なくなる可能性が高い。何らかの理由によって、途中で依頼をキャンセルしたくなったクライアントに仕事の邪魔をされ、最悪の場合には逆にオガタの方がターゲットにされかねない。一度始まった依頼は途中でキャンセルできないというのも、オガタの仕事における鉄則だった。中途半端な覚悟で依頼をしてくるようなクライアントはこちらの方からお断りだった。


 マムシの殺害を依頼されたオガタはいつもの手順で仕事を進めた。


 ①ターゲットの自宅前に張り込む


 ②姿を現したターゲットのiSee(※)をクラッキングして拉致する


 ③オガタが仕事部屋と呼んでいるマンションの一室にターゲットを監禁して拷問する


 ④必要な情報がある場合にはターゲットが吐くまで何日でも拷問を続け、目的が達成されたら即座に殺害する


 ⑤死体処理を専門とする昔なじみの「掃除屋」に一本電話をかけて、その後のことは全て一任する


 ※米アップル社が2050年代後半に発売した世界初の完全型ウェアラブル・デバイスで、コンタクトレンズのように眼球に直接装着して使用する。脳神経系と直接連動することが可能で、それまでのアップル製品で提供されていたユーザー・インターフェースをそのまま三次元空間で体験できるとして、「iPhone以来の革命的デバイス」とまで言われた。


 以上がオガタのルーティンだった。


 「殺し屋」と名乗ってはいるが、必ずしもいつもターゲットを殺害するわけではない。適度に痛めつけて何かしらの情報を引き出してほしいという依頼もあるし、あるいは単純に身の程を知らせることが目的だという依頼もある。オガタの実感からいって、「殺し」まで完遂してほしいという依頼は全体の三分の一ほどにも満たなかった。しかし、今回のマムシに関しては、数少ない三分の一ほどに含まれる依頼だったというわけだ。



 マムシは拉致された後、パイプ椅子に座らされ、両手と両足を手錠で拘束された状態でもなお、不気味な笑顔を浮かべていた。オガタは向かいに置いたパイプ椅子に座って、ターゲットの様子を観察していた。マムシは先ほど昏睡状態から目覚めたばかりだった。


「おたくは殺し屋なんでしょう」とマムシは口を開いた。「あたしも本物の殺し屋にお目にかかるのは初めてだ」


 オガタは何も言わなかった。ターゲットとは必要以上の会話をしないというのもまた、仕事におけるルールの一つだった。


 マムシはオガタが返事をしないのを確認すると諦めたように頭を横に振った。あらためて近くで見てみると、マムシという人間は実に奇怪な風貌をしていた。年齢は恐らく五十代中ごろ、ほとんど禿げ上がって両サイドにそれぞれ少しだけ残っている髪の毛、もぞもぞと動く芋虫のような眉毛、縁の太い黒縁の丸眼鏡、その奥ではつねに何かを企んでいるような目玉がぎょろぎょろと動いている。耳はいわゆる福耳と呼ばれる形状だったが福というよりは災いを呼びこみそうだったし、鼻は一度強く殴られたことでもあるかのように潰れていて低く、血色が悪いせいでほとんど紫色に見える唇はぼってりと分厚かった。ときどき唇のすきまから舌が覗いて、上唇と下唇を素早く舐めていった。どうやら唇を舐めるのがマムシの癖になっているようだった。あるいは緊張しているとそのような癖が出やすくなるのかもしれない、とオガタは思った。


「おたくが喋らないならあたしが一人で喋りますから結構です」とマムシは続けた。「あたしが殺されるまでにまだ少しの猶予はありますでしょう」


 またしてもオガタは返事をしなかった。ただ腕を組んで正面からマムシの姿を見ているだけだった。


「よろしい」とマムシは唇を素早く舐めてから言った。「あたしの話したいことを話す前に、まずおたくの知りたい情報を提供しておくことにしましょう。まあ、話しても話さなくても、どっちみち狂犬病にかかった犬っころのようにぶっ殺されるんでしょうが、どうせ殺されるなら拷問されたくはない。あたしもこう見えて人間ですから、痛い目に遭う機会はできるだけ少ない方がいい。おたくもそういう気持ちは理解できるでしょう」


 それから、マムシはいくつかの情報を開示した。昇龍会のサイドビジネスである児童ポルノビデオの制作と販売について、自分がどこまでの情報をつかんでいたのかということ。取材資料は自宅のどこに保管されているのかということ。そして、今回の取材にはフリーライターである自分一人しか関わっておらず、書きかけの原稿も自宅のパソコンのハードディスクとクラウドの中にしか存在していないということ。そのデータを削除してしまえば、マムシの仕事の痕跡はこの世界からきれいさっぱり消えてしまうということ。


 マムシはそれだけ話してしまうと、疲れたようにため息をついた。そして「いささか喉が乾いてきたんですが、レモンを絞った炭酸水なんていただくことはできます?」と質問した。オガタはそれにも答えなかった。


「わかりました」とマムシは諦めたように笑った。「どうせこれからすぐ殺される人間に飲み物なんか飲ませても仕方ないです。あたしがおたくの立場でも同じように考えます。もちろん最後の晩餐なんてものもないんでしょうが、もし食べられるとしたら、あたしはグレイビーソースがたっぷりかかったステーキが食べたいです。おたくは食べたことあります? グレイビーソースがたっぷりかかったステーキ。


 いえ、答えなくても結構です。おたくはどっちみち何も話すつもりはないんでしょう。あたしの見たところ、おたくはプロ中のプロだ。仕事に私情は差し挟まない。善悪の判断は持ち込まない。無駄なことは一切しない。おたくと比べたらあたしなんてただのしがない三流ライターですけど、それでも一応は同じプロフェッショナルとして、自分の腕一本で生きてきた人間として、こころからの敬意を表します。別にこれはおためごかしとかおべんちゃらとか、いわゆるゴマすりなんかじゃありません。本当にこころからおたくに連帯意識を持っているんです。ひと目見た瞬間からおたくはプロフェッショナルだってわかりました。それも同業者から一目も二目も置かれるプロ中のプロ、プロフェッショナルズ・プロフェッショナルだ。格好のよろしいこと!」


 マムシは本当に口が達者だった。オガタは一言も相づちを打たなかったし、頷きさえしなかったのに、マムシはそんなことは全然気にならないようだった。放っておいたら一週間くらいはずっと喋り続けるタイプの人間だ。しかし、どれだけ道化めいたことを喋っていても、あるいは卑屈なことを言っていても、マムシの目は決して笑っていなかった。その一対の目はつねに相手の様子を怠りなく観察している。マムシはこちらのことを「プロ中のプロ」だと評したが、オガタから見てもマムシは「プロ中のプロ」であるように見受けられた。恐らく相当な数の修羅場をくぐり抜けてきているのだろう。北朝鮮に乗り込んでスパイ容疑で拘束されたことがあるという噂もあながち嘘ではないかもしれない、とオガタは思った。


「でも」とマムシは話を続けた。「こういう言い方が気に障ったら申し訳ないのですが、おたくもそろそろヤキが回ってきているんじゃないかという印象をあたしは持っています。あるいは年貢の納めどきと言ってもいいかもしれない」


 オガタは腕を組んだまま眉を少しだけ持ち上げた。そんなことをこれから殺すターゲットに言われたのは初めてだった。こけおどしに過ぎないのかもしれなかったが、オガタはマムシに最深部に眠っている最も柔らかい部分を覗きこまれたような気がして、ほんの少しではあったが動揺させられた。それはあまりにも微妙なリアクションだったので、普通の人間だったらまず見逃していたはずだった。しかし、マムシはオガタが一瞬見せた反応を見逃さなかった。そして、意地の悪そうな笑みを深めた。


「現にいまだって、おたくはあたしに好き放題喋らせている。プロフェッショナルズ・プロフェッショナルのおたくに似つかわしくもない。少し前までのおたくだったら、こんなどこの馬の骨ともしれないちんちくりんに好き放題言わせておかないはずだ。必要な情報を引き出したら、あたしのくだらない話なんて聞かずにさっさと始末しているはずだ。そうでしょう?


 あたしの見立てではおたくはそろそろ疲れてきている。いま現在の話じゃありません。人生そのものにです。あるいはもっと範囲を限定するなら、殺し屋という仕事そのものにです。いや、あたしの方がおたくよりまだ数年若いと思いますが、気持ちはよくよくわかります。この年になってくると何もかも若いときと同じというわけにはいきません。精神的にも身体的にもあらゆる部分においてガタがきます。ボロだって出てきます。あたしももう若いときのようなガッツはありません。今回の昇龍会のヤマだって最後の記念みたいなものだったんです。このヤマが片付いたら、あたしは北欧のフィンランドあたりに引っ越して、絵でも描きながら余生を過ごすつもりだったんです。こんなナリで意外でしょうけど、あたしは絵が好きなんです。見るのも描くのも好きです。おたくもご覧の通り、自分の外見があまりにも醜いので、かえって反動で美しいものが好きなんです。せめて自分の描くものだけは美しくあってほしいと思っていました。別に美大か何かを出たわけじゃないので、完全に素人の日曜画家ですけど、それでも芸術っていうのは、こんな汚らしい人間にとってもやっぱり一種の救済だったんです」


 オガタは組んでいた腕をほどいて、椅子から立ち上がった。それから、手足を手錠で拘束されているマムシのもとまで歩いていきながら、自分のジャケットの内側に右手を伸ばした。拳銃か何かが出てくるものと予想していたマムシはオガタがジャケットの内側から取り出した手錠の鍵を見て、何とも不思議そうな顔をした。


「気が変わった」とオガタはつぶやくように言った。「昇龍会にはお前のことはコンクリートに詰めて東京湾に沈めたとでも報告しておく。だからフィンランドにでもどこにでも行け。その代わり、二度と日本には帰ってこられないと思え。話は以上だ」


 それだけ言ってしまうと、オガタは拘束されているマムシのもとに身をかがめて、両手と両足を拘束していた手錠を外した。そして、iSeeの通話機能を起動して、スケジュールを押さえていた「掃除屋」に「突然で申し訳ないんだが、今日の仕事はなくなった」と連絡した。


 マムシには「気が変わった」と言ったものの、本当に気が変わったわけではなかった。気まぐれでターゲットを見逃したりするほどオガタは甘くはない。いままでどれだけ命乞いをされても冷酷なまでにターゲットを殺してきたのだ。ときには家畜のように残酷に屠ってきたのだ。そうでなければここまで仕事を続けてこられてはいなかっただろう。ただ、今回ばかりは何かが違った。マムシの中に存在している何かしらがオガタの魂の奥に押し隠されていたものを(一瞬ではあったが)呼び覚まそうとしたのだ。ほんの一瞬のことだった上に、ひどく抽象的な感覚だったので、具体的に言葉にするのは難しかったのだが、あえて既存の言葉を使うのであれば、啓示エピファニーというのが近かったかもしれない。いずれにせよ、もうオガタの中にはマムシを殺そうという気はなくなっていた。大きな嵐がやってきて何もかも吹き飛ばされた浜辺のように静かな気分だった。


 オガタはそのまま何も言わずに仕事部屋を出ていこうとしていた。ちょうどパイプ椅子に座ったままのマムシに背中を向ける格好になる。その瞬間、後ろから飛びかかってきたマムシに勢いよく押し倒され、抵抗する暇もなくジャケットの内側に差していた拳銃を抜き取られる。とっさに身体を起こそうとしたオガタが振り向いたとき、すでにマムシは自分の禿げ上がった頭に銃口をつきつけている。オガタは口を開いた。何を言おうとしたのかは自分でもわからなかった。待て。ただ、そう言おうとしたのかもしれない。


 マムシは謎めいた笑みを浮かべたまま、拳銃の引き金を引いた。サイレンサーに押し殺された銃声が響いて、マムシはそのまま横向きに倒れた。


 何もかもが一瞬だった。



 「見張り塔」の前の通りにタクシーが横付けで停車したとき、オガタは完全に眠りこんでしまっていた。ドライバーに身体を揺さぶられて目を覚ましたオガタはiSeeで支払いを済ませると(視線の先に決済サービスのロゴとリアルタイムで減っていくチャージ残高が表示される)、後部座席から道路に降りた。タクシーが走り去っていく音を聞きながら、オガタは「見張り塔」が店を構える地下一階への階段を降りていった。


「いらっしゃいませ」と挨拶をした顔なじみのマスターは、オガタの姿を見て幽霊にでも遭遇したような顔つきをした。「死んだのかと思ってましたよ」


「殺すなよ」と返事をしながら、オガタは空いていたカウンター席に座った。珍しく店内にはオガタ以外の客はいなかった。


「今日はさっぱり客足が伸びてなかったんで助かりました」とマスターは職業的習慣に従って、オガタがいつも一杯目に飲んでいたジョニー・ウォーカーの黒をロックで作りながら言った。「一年ぶりです、オガタさん」


「一年以上だ」とオガタは言った。「一年と六ヶ月と二週間と一日」


 マスターは頷きながらオガタの腰かけているカウンターテーブルにコースターを置き、その上にジョニー・ウォーカーが注がれたグラスを提供した。グラスを口元まで持っていくと、馥郁としたスコッチ・ウィスキーの香りが嗅覚を刺激するのがわかった。ひさしぶりの感覚だ。オガタはそのままジョニー・ウォーカーを舌の上に乗せるようにして飲んだ。甘みと苦みがほどよいバランスでブレンドされた、芸術品とでも呼びたくなるような味わいがオガタの酒に対する飢えを一瞬で満たしてくれた。


 オガタはそれから煙草を吸おうとして、自分が一箱も持っていなかったことに気がついた。


「マスター、アメリカン・スピリットのターコイズを一箱」


「オガタさん、運がいいです」とマスターは青いアメリカン・スピリットの箱を差し出しながら言った。「これで在庫限り」


 オガタはアメリカン・スピリットの箱をつつんでいるフィルムを剥がすと、ひさしぶりに煙草を一本取り出して唇の間に挟んだ。カウンターに置いてある「見張り塔」と印刷されたライターを近づけて、煙草の煙を深く吸い込む。それから感に堪えかねるように顔を歪めて、ゆっくりと煙を吐き出す。アルコールとニコチンが脳の神経回路に素早くもぐりこんでいって、一年と六ヶ月と二週間と一日ぶりにオガタを快感の渦に引き込んでいく。


 天井のスピーカーからはまたしてもアンビエント・ミュージックが流れているようだった。先ほどまでタクシーで流れていた音楽の続きのようにも聞こえた。もしかしたら同じチャンネルを流しているのかもしれない。アンビエント・ミュージックがそんなに流行っているとは知らなかった。


 オガタはマムシのことを考えた。世にも醜い三流のフリーライター。フィンランドで美しい絵を描くのが夢だった人間。馬鹿なやつだ。あのまま逃げていればよかったものをどうしてわざわざ自殺なんかしたのだろう。二十五年のキャリアの中で、ターゲットを見逃そうとしたのはマムシが初めてだった。やつの言っていた通り、本当にそろそろヤキが回ってきたのかもしれない、とオガタは思った。あんなことがあるようなら、もうこの仕事を辞めた方がいい。一度あることは二度あるし、二度あることは三度ある。三度目になったころにはすでに何もかもが手遅れだ。


 いまのオガタにとって、仕事を引退するというアイディアはそこまで非現実的なものではなかった。奇しくもマムシが見抜いたように、最近のオガタはもう何もかもに疲れてきていた。そもそも殺し屋という職業そのものに限界を感じていた。偉そうにプロフェッショナルの殺し屋などと言ったところで、しょせんは真っ当な仕事ではない。別に殺しの許可証ライセンスがあるわけでもない。パスポートの職業欄に「殺し屋」と書けるわけでもない。殺し屋などというのはただのイリーガルな存在に過ぎないのだ。若いころにはそんなことは考えもしなかった。あるいはあえて考えないようにしていたのかもしれない。金を稼いで生きていくためには仕方なかった。殺し屋としてのアイデンティティについて思索を巡らせている暇があったら、一人でも多くのターゲットを殺して報酬をもらうべきだと思っていた。しかし、いまのオガタの価値基準において、富というのはもはや重要なファクターではなかった。マムシが「プロフェッショナルズ・プロフェッショナル」と揶揄したような名声も重要ではなかった。「オッペンハイマーの箱」などという訳のわからないキーワードから始まるだろう冒険譚にももう興味を持つことはできなかった。わざわざ夜中の十一時に電話をかけてきた相手には悪いが、助けなら別のところを当たってくれとしか言えない。


 北欧旅行、とオガタは突然思う。フィンランド、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー。とりあえず本当に引退するかどうかは別として、一ヶ月くらい休暇をとって北欧あたりまで出かけたって罰は当たらないだろう。考えてみれば(あるいは考えてみるまでもなく)、オガタはこれまで一度も長期休暇なんてものをとったことはなかった。別に何をするというあてがあるわけではない。特に行きたいところがあるわけでもない。それでも北欧旅行というのはなかなか悪くない思いつきだった。


 ヘルシンキにはいくつの美術館があるのだろう?


「オガタさん?」とマスターはカウンター席の一点を見つめた。


 オガタの姿はすでにそこにはなかった。


 三分の一だけジョニー・ウォーカーが残っているグラスと灰皿にもたれかかって煙を上げているアメリカン・スピリットだけが存在していた。

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殺しのライセンス 鈴木眼鏡 @megane_suzuki_

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