下 二羽の蝶


「せんせイ、おハよ」


 自室からあくびをしながら出てきたぺペラ君は、キッチンに立つ私の視線に気付くとはにかみながら挨拶をした。

 元教え子のナオミ君から、彼女の実の息子であるぺペラ君を託されて、一年と三ヶ月が経った。テレパシーだけで意思疎通を行えるぺペラ君に、一から言葉を教えるのは、困難を極めると思っていたが、彼はそれを覆してきた。


「おはようぺペラ君。朝食がもうすぐできるから、少し待っててくれ」

「うン。分っタ」


 素直に、洗面台に向かうぺペラ君。彼の背中越しに、「チょう食は、朝ごハん。少シは、ちょっト」と、これまで教わったことを復習する声が聞こえる。

 幼少期は声を積極的に出してこなかったので、そのイントネーションなどに課題が残るものの、ここまでの成長には目を見張るものがある。今現在、ぺペラ君とは、違和感なく日常会話を交わせていた。


 洗面台から戻ってくるぺペラ君を横目に、今日の朝食をリビングのテーブルに並べていく。彼の見た目の方は、あまり一年前とは変わらない。身長の伸びは、成長期の子供にしてはとてもゆっくりだ。その代わり、髪の毛の発光が無くなり、ただの白色になっていた。

 地球ではあまり知られていない事実だが、ペギール星人の髪の毛は、発光することで、十万本以上のアンテナとなって相手の心を読み取り、自身の気持ちを送り出す。ぺペラ君は、意図的にテレパシーを使わないことで、覚えた言葉を自分のものにしようとしている。


「きょウのごハんも、オいしそう」


 自分の席に着いたぺペラ君が、嬉しそうに笑う。言葉を覚えていくたびに、ぺペラ君は表情が豊かになっていった。その笑顔を見る度に、ナオミ君にも見せてあげたいと、少し胸が痛む。

 ただ、私もそんな気持ちを悟らせないように、にこやかな表情をしていたので、ぺペラ君は気にせずに、テーブルに並んだ料理を指さしていく。


「こレは、フランスパン。フランスは、クにの、名まエ。こレは、オムレツ。焼イたたマごのリょうリダけど、スクランブルエッグじゃナい。こレは、サラダ。入ってイルのは、レタスと、トマトと、ニンジン」

「ニンジンの調理方法は?」

「スライス」

「そう。よく覚えているね」


 照れたように頬を赤く染めるぺペラ君は、最後の一皿を指さした。


「こレは、デザート。ごハんの後ニ、食べル。グレープフルーツ。でモ、ブドウじゃなくて、ミカンのなカマ」


 完璧な説明をした後なのに、ぺペラ君は不思議そうに小首を傾げた。


「どウして、ミカンなのに、ブドウのくダものっテ、呼ブの?」

「それは、たくさんのグレープフルーツが実っている姿が、遠目で見ると葡萄と似ていたからだよ。あとで調べてみなさい」

「うン」


 素直に頷いたぺペラ君と、いただきますと言ってから、それぞれフォークを持ち、食事を開始した。

 長いこと未婚なので、料理を人に振るまいという事をあまりしてこなかった。さて、今日のオムレツはどうだっただろうか……とそっとぺペラ君を窺うと、幸せそうに頬張っているので安堵する。美味しいものを食べている時の顔が、ナオミ君にそっくりだ。


「せんせイ、しつモん、しテもいい?」

「ああ、何だい?」


 専用のスプーンでグレープフルーツを掬いながら、ぺペラ君が尋ねてくる。私は、ホットコーヒーを啜ってから、彼に頷く。


「グレープフルーツと同ジように、似テいるもののナ前を付ける、ノは、分カる。デも、『マルで、何か、のヨうな』って言イ方ガ、分カらない」

「ああ、比喩のことだね」


 ヒユと、初めて聞く言葉を繰り返して、ぺペラ君は少しだけ頬を膨らませる。最近出てきた、分からないことに対面した時の彼の癖だった。

 最近、ぺペラ君は同世代の子が使っている教科書を読んでいるので、分からない言葉にぶつかる比率がぐんと増えた。特に、直接的な感情のやりとりをしてきたぺペラ君には、比喩などの遠回りな言い回しを理解するのが難しいようだ。


「その、『まるで何かのような』という言葉は、どんな風に書かれていたのかい?」

「ホんの中ニ、『まルで氷のよウに冷タいこエ』って書かレてイた。『冷タいこエ』だケでも、ボクは想像デきる。ナのに、『まルで氷のよウに』って付けタのは、どうシて?」

「ふむ。その話をする前に、少し復習しよう。強調する言葉の例と使い方を、覚えているかい?」

「うン。ツよい気モちは、『トても』とか、『すゴく』とか付ケクわえて、パワーアップさせテ、ツたえる」

「そう。その通りだ」


 以前にも、同じような質問をされたことがある。

 それは、「好きな食べ物が晩御飯に出た時」の気持ちと、「愛する人と会えた時」の気持ちとで、感情の動きの大きさは全然違うのに、どちらも「嬉しい」と呼ぶのはどうしてか、というものだった。


 ぺペラ君に指摘されるまで、当たり前のように「嬉しい」を使っていたので、こういう視点があったのかと驚かされた。確かに、感情の強弱という観点から見ると、同じ「嬉しい」でカテゴライズされるのは、非常に乱暴に見えるのだろう。

 私は、この質問に対して、感情の形が一致しているのなら、そこの部分は変えずに、強調語を加えることで、「好きな食べ物が晩御飯に出て嬉しかった」と「愛する人に会えてとても嬉しかった」という形で差別化しているのだと答えた。


「君が言ってくれた『とても』『すごい』のように、一見まどろっこしい修飾語が、より自分の気持ちを伝える手段となっている。既存のものを例える『比喩』という表現方法も、その一種だ。

 『冷たい』と一言で言っても、様々なバリエーションがある。だが、『氷』を比喩として使うと、触れる事すら拒むような冷たさを、氷に触れた瞬間を思い出させることで、伝えているのだよ」


 私は、七歳の少年向きでは無い説明をする。ただ、ぺペラ君は髪の毛を光らせながらそれを聞き、時折頷いていたので、分からない言葉は私の頭の中から感じ取ることで補っている。それが、私がぺペラ君に言葉を教える時のやり方となっていた。

 説明がひと段落したが、ぺペラ君は、スプーンを置いて、自分の膝に目を落とす形のまま、じっと考え込んでいる。何か、足りない部分があったのだろうかと、私が自省していると、彼はぱっと顔を上げた。


「ムかし、不思ギなイメージを見たコとがアって、そレがナにか、ズっとわかラなかったんだ。でモ、それハ、せんせイが教えてくれタ、ヒユなのかも」

「それは……ナオミ君、君のお母さんのイメージなのかい?」


 私が尋ねると、ぺペラ君は頷いた。隠して育てられたぺペラ君にとって、接触のある他人はナオミ君だけだとは分かっていたが、妙に興奮が湧き上がってくる。


「おカあさんが、赤チゃんのボクを初メて抱っコした時に、流レてきたイメージ……せんせイにも、見せてあゲる」


 ぺペラ君はそういうと、静かに目を閉じた。すると、彼の髪が青白く輝きだす。初めて会った時以上に、遮光カーテンが無ければ朝でも外に漏れだしてしまいそうな光の中で、私はある光景を見た。

 夜の中を、一羽の蝶が羽ばたいている。いや、白に近い灰色の砂に、ぼこぼこと空いたクレーター、背景に浮かんでいるのは青い地球だから、きっと月なのだろう。その中を、黒い蝶が、角度によって緑色に煌く羽を、重力から解放された状態で地球上よりも軽やかに、ふんわりと浮かんでいる。


 —―見えたのは、そんな十秒ほどのイメージだったが、それとともに、強い喜びが伝わってきた。彼女が息子を迎え入れた瞬間の、噓偽りのない気持ちなのだろう。

 しかし、どうして月を飛ぶ蝶のイメージなのだろうか。月は人気の観光地であるため、ナオミ君も行ったことがあるのかもしれない。だからこそ、月を蝶が飛んでいる姿なんて、ありえないのだと分かるはずだが……。


「せんせイ?」


 ぺペラ君にこちらを覗かれて、我に返った。教え子の前で難しい顔をしてしまったことに、苦笑する。


「すまない、そのイメージの意味合いについて、考えていたからね」

「せんせイでも、難しいノ?」

「ああ。言葉はあくまでコミュニケーションツールだからね、伝えるために、個々で異なる感受性をそぎ落としてしまう、という一面がある。対して比喩は、手垢のついた表現というものもあるが、感じたものを感じたままで示す表現方法であるからね」

「おカあさんが、感じタ気モち……」


 一言一言を噛みしめるかのように、ぺペラ君が呟いた。喜び以上に、感激しているのだと、泣き出しそうな表情に変わる。

 私から見ると、ぺペラ君はあまり母親の死を悲しんでいるようには見えなかった。きっと、母との思い出をすべて覚えているから、死別の実感がないのだろうと考えてのだが……やはり、勘違いだったようだ。


「ぺペラ君のお母さんのイメージだが、正解が分からなくとも、その意味を考えること自体に、価値があるはずだ。ぺペラ君は、月を飛ぶ蝶を見て、どのように感じるかい?」

「うーンと……」


 斜め上を向いて、ぺペラ君は考える。目の前で蝶が飛んでいるかのように、瞳の焦点がふわふわと動く。


「無ジュうりょクの中ダから、どコまでも飛んデいきそう。でモ、ツキの上ハ真っくロで、さビしくて、こワいかも」

「きっと、ぺペラ君と出会えたのが嬉しくて、幸せで、しかし、君を一人で育てていくことに対して、不安も抱いていたのだろう。だが、その背景には地球が出ている。大きな存在が、自分をずっと見守ってくれている、そんな心強さも抱いていたのかもしれない」

「おカあさんは、ボクと会エて、とっテもとっテも、嬉しカったんだね」


 ぺペラ君は満面の笑みを浮かべたが、一瞬だけ鼻を啜った。母の愛を確かに感じていたのだが、心配もしていたのだろう。この瞬間に、彼の中の雲は去っていたのだ。

 私は、ぺペラ君を今すぐ抱きしめたくなった。その額にキスをして、君はずっと、そして、これからも愛されているんだよと伝えたかった。……こんな時、言葉の無力さを感じてしまう。


「ぺペラ君。君の名前だけどね、調べてみたら、グルジア語で蝶のことを指すんだ」

「そうナんだ。なんだカ、嬉しイ」


 代わりと言っては何だが、私は彼の名前の由来を伝えた。ぺペラ君は、素直に微笑んでくれる。ただそれだけでも、私は喜ばしかった。






   〇






「せんせイー。はヤく、はヤくー」


 玄関のドアの先で、ぺペラ君が私を急かす声がする。準備に時間が掛かった上に、革靴をヘラを使っても手間取りながら履いているか私に、非常にじれったく思っているようだ。

 午後は、ぺペラ君と演劇を見に行く約束をしていた。ぺペラ君は映像の人物に対してテレパシーを使えないため、ある程度の言葉を使えるようになってからは、様々な人による感情と言葉が結びつくようにと、外に連れ出すようになった。


「すまないね――」


 ドアを押して、外に出ると、髪の毛をすべてスカーフで包んだぺペラ君が、隣に住んでいるレイモンド夫人と塀越しに話しているところだった。私の声に振り返ったぺペラ君は、一瞬で笑顔になるが、レイモンド夫人の笑みは、気まずそうに引き攣っている。

 挨拶を交わしたレイモンド夫人に手を振って、ぺペラ君は私の方へ歩み寄ってくる。レイモンド夫人は彼に手を振り返すが、僅かに向けた私への視線が、随分とよそよそしい。


「せんせイ。おソいよ」

「いや、悪かった」


 二人並んで、門の外にある、私の車へ向かう。その間も、レイモンド夫人がこちらを見ているのではないかと、気が気ではない。

 近所の人たちには、ぺペラ君のことを「宇宙難民の子供を預かっている」と紹介している。私が言語学の教授だと知っている彼らは、それを信じてくれたのだが、最近は疑いだしているのに、私は勘付いている。


 ぺペラ君が、ペギール星人の子供だということはおそらく、知られていないだろう。外に出る時も、遮光性のスカーフを巻き、テレパシーを使っても見えないようにしているからだ。

 ただ、私の家が急に遮光カーテンをつけて、昼も夜もそれを閉めっぱなしという状態から、不信感を募らせているようだ。こういう時、独身の立場は辛い。もちろん、彼らが善意からくる勘違いをしているのだと分かっているからこそ、余計に。


「せんせイに待たされて、やっとキてくレた時、ボクはスごく嬉シいんだ。ツキじゃなくて、チ球でチョウが飛んデいる、みたいな気モち」

「小さな再会は、そう言うものかもしれないね」


 滑らかに進む車の中で、ぺペラ君が声を弾ませてそういうので、ハンドルを握る私は苦笑してしまう。少し大袈裟な気もするのだが、彼がそう感じたのなら、私は肯定する。


 そう遠くない将来、私とぺペラ君は引き離されるだろう。ぺペラ君の父親が迎えに来るのかもしれない。あるいは、私が近所の人からの通報で、逮捕されるのかもしれない。

 どちらにせよ、こんな穏やかな春の日差しのような日々は、そう長く続かないだろう。しかし、離れた後の再会は、私たちに大きな喜びをもたらしてくれる。


 その瞬間、私の心の中にも、きっと蝶が飛ぶのだろう。























  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月を飛ぶ蝶のように 夢月七海 @yumetuki-773

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ