生まれ変わったら人の子になりたい
高黄森哉
蟹
男が蟹をホームセンターで購入したのは、つい半年前のことであった。
ベンケイガニという流通名で入荷したその蟹は、実のところ、アフリカ奥地に生息する、非常に珍しいカニであった。どれくらい珍しいかというと、ざっくりとサイテス1くらいだ。どうやら、飛行機の中で積み荷が混ざってしまったらしく、本当は研究に回されるはずだったそれが、偶然、ホームセンター向けの流通に紛れ込んでしまったらしい。
その事実を、男は知らなかったし、知っていても、だからどうした、といった態度をとっただろう。のべ一万円という一生使いきることのない大金を提示されても、研究機関に引き渡さなかったに違いない。彼が、その蟹にほれ込んだ理由は、決して、その蟹の価値ではなく、その甲殻類の、仕草、形、表情であるからだ。
蟹というのは確
ある神話の蟹は、おおよそ星座にするような逸話を持ち合わせていないにも関わらず、星座にされた。それらの不合理は、ほかでもない蟹の魅力のためである。それは、ある先生が、ある美人の生徒を、贔屓してしまうような、人間的な感情に似ているかもしれない。
蟹は男を見上げていた。その時、男は蟹に上目遣いで見つめられていた。蟹は幸せだった。男も幸せだった。幸せな時間が、水槽を中心に半径五十センチを支配した。男は、蟹が恥ずかしさで真っ赤に甲羅を染めているように見え、いい年なのに、どぎまぎしてしまい、目線をそらす必要があった。蟹は、ご主人がお手洗いに駆け込むのを見送る。蟹は男が、自分を愛していることを知っていたので、その行動にも寛容になれた。つまり、いつものように、彼はトイレへ、ほにゃほにゃをしに行ったのだ。
人間が見ていないときの動物の行動を、知らない人はいない。
もっとも、人間が見ていないときだけ動物は、動物を休憩するのは、周知の事実であろうから、わざわざ、ここで改めて解説する必要はないだろうが。
蟹は、彼女が、いかに甲殻類であるかを主張する泡ふきを一旦休憩して、ある妄想にふけった。その時、蟹は流木に座っていた。そう、まるで彼女が本当は、キグルミかのように、人間らしく背筋を伸ばして座っていた。”しかし、そうではない”(もし、蟹サイズの人間がいるとすれば、それは明らかな嘘だから、それを許せば、このお話はより陳腐なものになっただろう by 作者)。ある妄想とはまさに、”しかし、そうではない”、ということについて、逃避するために作り出した、甘美な夢であった。そうだ、虫だって夢を見るのだ。
彼女はその時、人間だった。そばには、あの日、彼女の詰め込まれたプラケースを選んでくれたご主人の姿があった。彼は蟹の恋人だった。彼女は彼の頬をつまんだ。この生き物は、指の構造上、このやりかたしか、物のふれ方を知らなかった。ほっぺたを強くつままれた男は、それでも、不器用な彼女に優しく微笑んだ。とても、優しい、蟹味噌のように濃密な夢であった。
その時、涙が外骨格を流れ落ちる。仮想の涙腺が、今だけは具現して、現実という夢を演出した。どうして、私は人間ではなかったのだろう。どうして彼は蟹でなかったのだろう。人間は蟹ではなく蟹は人間ではない、という明快かつ簡単なこと、どうして私には難解に映り、なんど聞いても理解できないのだろう。a≠b、b≠a 。しかし、彼女にとっては a=b でしかない。この道徳学性相対性理論に似た複雑怪奇な宿命の理論をほどくには、彼女の甲羅には余白が少なすぎた。
神様。そこにいるのですか。嗚呼、私を転生させてください! もし、死んでしまって、そしたら、私を人間に変えてください。その時、決して私を説得してはいけません。確かに、人間は蟹などの甲殻類に比べると、はるかに原始的な生き物かもしれない。でも私はそれでいいのです。生まれ変わったら、彼の下に生まれたい。
この蟹が死んだのは、去年の今頃だった。補足をすると、今というのは、現在という意味である。
男は、最初は悲しみはしたものの、一年もたつとケロッ(蟹なのにケロとはこれはい
「ふむ。あなたの体を調べさせてもらいました。これから、あなたに告げることは、とても深刻なことです。心の準備はよろしいですか」
「はい。よろしくお願いします」
「あなたの前立腺に悪性新生物が見つかりました」
「悪性新生物? 寄生虫の類ですかね」
「一般的には、癌として知られています」
「ガーン」
癌は英語で、
生まれ変わったら人の子になりたい 高黄森哉 @kamikawa2001
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