新しい日常

 あの騒動から一週間が経っていた。

 僕はしばらく登校しなくていいと学校から言われていたので、自宅でゴロゴロして過ごしていた。

 この一週間は本当に平和だった。

 誰からも連絡もなく、というか学校の誰とも普段から連絡をとっていないのでアレなのだが、とにかく何人にも邪魔をされることなくのんびりとした時間を送っていた。

 訳あって取り憑かれている、僕の理想の彼女の姿となっているサキュバスにたまにチャチャを入れられながら、その可憐な姿にドキドキしつつ、ムラムラしつつ、毎日を楽しく過ごしていた。


 ——ホントずっとこのままでもいいのになー。


 なんて考えていた夜のことだった。

 担任の瀬戸口愛先生から電話があった。


「明日からは登校してください。とりあえず朝は職員室に来てほしいです」




 僕はため息を吐きながら、職員室のドアを開けた。

 職員室に来たのは瀬戸口先生に『サキュバス・コード』を使ったとき以来だ。今でもあの時の先生の恥ずかしそうな表情を思い出しただけで、下半身が少し熱くなる。


「体の方はどうですか?」


 ネイビーのセットアップに白いブラウス姿の瀬戸口先生は緊張した面持ちで僕を例の相談室へ案内すると、すぐに尋ねてきた。

 

「一週間ぶりの学校ですけど、不安はありませんか?」


 僕はなんと答えたらいいのか逡巡していると、先生は椅子に座ると頭を抱えてつぶやいた。


「…………この部屋に来るとなんだか気分悪くなるのよね。変な夢でも見てるかのように」

「……つ、疲れてるんじゃないですか」

「ホントに一週間大変だったのよ……もう教師辞めたいくらい……」

「はあ」

「ああ。ごめんなさい……君の話を聞く時間だったのに。それで、体の方は大丈夫ですか?」


 瀬戸口先生は僕の様子を伺うように尋ねてきた。

 正直、体はまだ痛い。

 脇腹や背中にはあざもまだ消えてないし、口の中も違和感が残り続けている。

 ただまあ、これはいつものことでもある。今回はちょっと酷くやられた程度のことだと思っていた。

 いつも無視していたくせに、今回は妙に気にするのはどういうことなのか。


「まあ、順調に回復していますので、大丈夫です」

「そう……それならよかったです。今日は一度顔を見ておきたかったので、来てもらいました。このまま一時間目から授業に出られそう? 無理なら一旦ここで午前は過ごして、午後は帰宅してもいいのだけれど。明日以降もその日の調子によっては登校したり、登校する場合も保健室とか……ああ、いや、難しいなら自宅療養ということでしばらく休んでいても問題ないし——」


 手のひらを返したような、この丁寧な対応は本当にどういうことなのか。

 僕は多少困惑しつつも、過去のことからもこのような考えしか思い浮かばなかった。我ながら、嫌な聞き方だとは思う。


「えっと、もしかして、僕はあんまり学校に来ない方がいい感じですか?」

「いやいや、そういうわけではなくて……」


 その後も瀬戸口先生はモゴモゴ何やら言いずらそうにしているので、僕はそろそろ授業のはじまる時間ということもあり、席を立つことにした。


「とりあえず、授業は出ます」


 このままこの人と話していてもしょうがないし、嫌なら帰ってもいいかなくらいの軽い気持ちだった。




 職員室から自分のクラスまで歩いていくと、ちょうど一時間目がはじまるタイミングで教室に入ることとなった。

 僕がドアを開けると、クラスメイトは一斉にこちらへ視線を送ったが、みなヒソヒソと何かを近くの生徒と話すだけで、僕に直接声をかけてくる人間はいなかった。

 なんとなく教室を見回すと、望月さんは前を向いたままで僕を気にする感じはなかった。金谷は来ていないようだった。

 どことなく重苦しい空気感のまま授業が始まると、背中をこづかれた。


「なあ、森下が急に泡吹いて倒れたってホントかよ。お前、現場にいたんだろ」


 声をかけてきたのは、牧田だった。

 高校一年のときも同じクラスだったと思うが、今はじめて声をかけられた。

 彼の印象は坊主頭ということ以外になく、よく知らない。


「……ん。まあ」

「えええ。マジかー。なんかヤバい薬でもやってたのかなー」


 牧田は好奇心に満ちたウキウキとした声で色々質問を投げかけてきたが、途中でダルくなってきたので、適当に返事をして流すことにした。

 授業が終わった後、牧田は僕との話を別の生徒に触れ回っていて、こうして噂が広がっていくのかとまさにその現場を目撃したような気分になった。


 その後も奇異の目に晒されて午前を過ごした。

 お昼になるとその目を避けていつも通り個室トイレに駆け込むことにした。

 だが、弁当を持って席と立とうとしたタイミングで、望月さんと目が合った。

 望月さんはさり気なく親指をクイっとして、屋上を示した。集合の合図だと受け取り、僕はそのまま黙って従うことにした。



「今日から登校になったの?」


 望月さんは屋上にやってくると周囲に誰もいないことを確認して、僕に尋ねてきた。

 大きなクリッとした目に見つめられると吸い込まれそうになるし、緩くウェーブのかかった茶色ロングが風に揺れ、僕の心を掻き乱した。

 

「あ、はい」

「なんか、わたしに言うことあるんじゃない?」


 望月さんは腰に手を当て、こちらを睨みつけてくる。

 少し前だったら心臓がバクバクし、震えが止まらなかったが、不思議なことに今はそうでもない。


「あー、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」


 僕は深々と頭を下げた。


「いやいや、そうじゃなくてさ。アレはなんだったの?」


 望月さんの言わんとしていることは、わかっていた。

 僕はどう答えたものかと空中に視線を投げていると、サキュバスの彼女がどこからともなく現れた。

 綺麗に切り揃えられた黒のミディアムロング、どこまでも透き通った色白の肌、大きな黒目、白を基調としたセーラー服、紺のプリーツスカート、白いハイソックス、茶色のローファー。僕が妄想した完璧な美少女だ。

 彼女はニヤついているだけで、何も語らない。

 『サキュバス・コード』のルールには他人に話してはダメとは記載されていなかったが、果たしてどうなのか。


「……アレというのは? 色々あって、正直記憶が曖昧なんですよね……」

「ふーん、そういう感じでいくんだ」


 望月さんは少し目を細める。


「わたしがママとパパにお願いして、大事にならないようにしてあげたんだけど。はぁ……弱男がそういう態度で隠し事するなら、覚悟しておいてね。わたし、今めちゃくちゃ機嫌悪いから」


 望月さんの言葉に僕は一瞬たじろいだ。彼女の態度に違和感を覚え、思わず口を開いてしまった。


「機嫌が悪い? ど、ど、どう、どういう意味ですか……?」


 望月さんは驚いたように目を見開いた。

 まさか聞き返されるとは思っていなかったとでも言わんばかりの表情だった。


「はー、急に生意気になったわね。あのQRコードとか、あんたのスマホのことを聞いてるのよ。最近、あんたがコソコソ何かしてたのは知ってるんですけど」

「…………え」

「んー? なんかコソコソ嗅ぎ回ってたよね。この前も挙動不審だったし。どうもここ最近の出来事が全部、弱男のキモい行動と重なる気がするのよねー」


 僕は一瞬躊躇したが、もう隠し通せないと悟った。変な汗が背を流れる。深呼吸をして、決意を固める。


「…………はい。でも、それがどうしたっていうんですか?」


 望月さんの表情がわかりやすく曇った。


「どうしたって…………あなた…………本当にあなたの仕業だったのね。美涼の件も、森下の件もすべて」

「そうですね。でも、金谷のあれは結果的に事故みたいなものですし…………それに僕を散々いじめてきた人たちを少し困らせただけです。そもそもの原因は向こう側にある」


 望月さんは言葉を失った。正直、この態度は想定外だった。

 それからしばらく間、お互い何も言葉を発しなかった。

 僕も何を言っていいのかわからなくなっていたし、おそらく望月さんも激しい動揺と困惑、そして未だに信じられないといった顔で僕を見つめてくる。


「…………ど、どうやって? どんな方法であんなことを……」


 望月さんがようやく絞り出したセリフに、僕は答えることなく立ち去ることにした。


「ちょ、ちょっと!」

「——金谷も森下も、そして望月さんも……僕にしてきたことは許されることじゃないはずです! なのに、誰も何も言わなかった。先生たちだって見て見ぬふりをしていた!」


 これは否定しきれない真実だった。


「それに、僕はもう『サキュバス・コード』は使いません。気分が最悪なので……」

 

 望月さんは言葉を探していたが、突然、呆れたように笑い出した。


「そう、サキュバスね。まあ、弱男の言う通りかもね。私たちだって酷いことをしてきた。みんなウチのパパとかおじいちゃんが怖いみたいで、みんな私にヘコヘコするのよ。ホントに気持ち悪いくらい。それにだいぶイライラしてたのは事実」


 僕は黙って頷いた。

 それはこの前、聞いた話だ。


「……ごめんなさい。私の勝手なストレスの捌け口にしてしまって。酷いことをしてしまって。本当にごめんなさい」


 望月さんは、深々と僕に頭を下げた。


「……正直、僕はどうしたらいいのかわからないんです。謝られてもそんなにすぐ気持ちの整理もできないし、解決もできないです。でも、少しでも気持ちがわかってくれるなら良かったです」


 僕は率直に今の想いを答えた。

 望月さんは少し安心したように見えた。


「そう。それなら……まあ、今回のことはこのまま黙っておいてあげる」


 望月さんは去り際に、ふと立ち止まって振り返った。


「……ごめんね。今までのこと。今度スムージー奢ってあげる」


 そう言い残して、望月さんは立ち去った。僕は彼女の後ろ姿を見送りながら、これからの学校生活について思いを巡らせていたのだった。

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