第6話 ヒナミとウミ
夏休みもあと数日となった日、ヒナミはそこへやってきた。
緩い曲線を描く砂浜。今まで幾度となく見た、いつもの景色。
「よいしょ」
ヒナミは防潮堤から砂浜へと続く階段の途中に腰かけ、両手に一本ずつ持っていた杖を脇に置く。
絵の具をムラなく塗ったような青空と、ふわふわの入道雲。
リュックサックからスケッチブックと鉛筆を取り出し、描きはじめる。
ふと、視線を感じて横を見ると、いつの間にやら五、六歳くらいの女の子が立っていた。
頭には大きな麦わら帽子をのせていて、その下から、おかっぱにした銀色の髪がチラリと見える。この子の名前はウミといった。
ウミは澄んだ青い瞳でヒナミのスケッチブックを覗く。
「夏休みの宿題。夏っぽい絵をスケッチでも想像でもいいから描いてきなさい、って」
ウミは納得したようにうなずくと、かぶっていた麦わら帽子をヒナミの頭にのせる。
「ありがと。気を付けるね」
ヒナミは笑顔をウミにむけた。
砂浜と、打ち寄せる波を描く。
ヒナミは学校の授業くらいでしか絵を描くことはない。今回の宿題だって、先生に怒られない程度にやっとけばいいと思ってた。
だけど、やりはじめると本気になってしまう。
何度も描いては消してを繰返す。
何度も水筒の水を飲み、スケッチブックに汗をにじませながら鉛筆を走らせる。
どのくらい時間がたっただろうか、ヒナミは大きくのびをした。
絵はまだ完成が見えない。
ずっと横にいたウミは退屈そうにあくびをしている。
「まだかかりそうだから、遊んでおいでよ」
ウミはうなずくと、立ち上がり、砂浜へと駆け出す。
ヒナミは穏やかな表情でそれを見送った。
ウミに出会ったのは一年と数か月前。
交通事故で動かなくなった脚が、二度と元に戻らないと知らされた日のことだった。
ヒナミもウミについて知っていることが多いわけではない。
海の底の国から来たこと。
その正体は、亀らしいこと。
魔法のような不思議な力を使えること。
ヒナミが本当に困っているときは必ず助けてくれること。
甘えん坊なこと。
食いしん坊なこと。
そのくらいだ。
いつか、別れの日は来るのか、それともヒナミが死ぬまで傍にいてくれるのか、それもわからない。
ある日突然いなくなっていても、そんなものだと納得するしかない。
砂浜ではしゃぐウミは、空に手をかざした。
すると、その指先に一羽のカモメがとまった。
ヒナミは無意識のうちにスケッチブックの新しいページに鉛筆を走らせる。
夢中で描き続けて、どのくらい時間が経っただろう。
絵は完成した。
気が付くと、ウミの周囲には大量のカモメが群がり、遠目に見ると白い塊のようになっていた。
「ウミ、大丈夫!」
ヒナミが叫ぶと、カモメは一斉に飛び立つ。
ウミはそこに立っていた。
髪はボサボサで、白い羽根が大量に刺さっている。
ウミはヒナミの側に駆け寄ってくると、青い瞳を涙目にして、訴えかけるようにヒナミを見た。
「大変だったね。おいで」
ヒナミは膝にウミを座らせると、羽根を抜き取り、髪を整える。
「そろそろ帰ろっか」
ヒナミが言うと、ウミは膝から飛び降りて、ヒナミに手を差し出した。
「ありがと、でも、私は一人で立てるから」
ヒナミは今まで座っていた階段を支えにしながら、ゆっくりと立ち上がる。
「今は、大丈夫だから、私が転んじゃったら、そのときは助けてくれる?」
ヒナミの問いに、ウミは笑顔でうなずいた。
「絵、描けた。これで宿題は全部終わり。思う存分遊べる。夏休み、あと三日しかないけど」
ゆっくりと歩きながらヒナミは言った。独り言のようであり、ウミに言っているようでもある。
「ねぇ、私、ウミに会えてよかったって思ってる。側にいてくれて、ありがとう」
ウミのことはなにも知らないし、理解しようとしてもできないことも多いと思う。
だから、ウミはある日突然いなくなってしまうかもしれない。
だけど。
「ウミ、来年の夏休みもこうやって一緒に歩けるといいね」
ウミは首を横に振った。
ヒナミの杖を握る手に、ウミの手がそっと触れた。
――来年だけじゃなくて、ずっと。
「うん。そうだね。ずっと一緒にいようね」
ヒナミが言うと、ウミは笑顔でうなずいた。
五日後。二学期の始業式の次の日。
ヒナミはクラスで一番最初に学校にやってくると、職員室へむかった。
「先生、おはようございます」
「はい、おはようございます。ヒナミさん」
担任の女性教師、立花先生から教室の鍵を受け取り、職員室を出ようとすると。
「ヒナミさん」
先生が呼び止めた。
「宿題で描いてもらった絵、凄くよかったですよ」
「え、あ、ありがとうございます」
ヒナミは予想外の言葉に驚きつつも、その口元は微かににやけていた。
五年二組の教室。
後ろの掲示板に宿題の絵が全員分、名前と共に貼られていた。
その中に、カモメに手を伸ばす女の子の絵があった。
青い瞳のウミ2.5 ~ウミの時間~ 千曲 春生 @chikuma_haruo
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