第5話 おかにんぎょの子供

 夏休みの少し前、ナミノは市のスピーチコンテストに出た。

 各学校から二人ずつが代表で出場するのだ。五年生のナミノと、もう一人、六年生の男の子が選ばれた。

 元々、大勢の前で話すのは得意ではない。

 なぜ、代表に選ばれたのかもわからない。

 それでも、やると決めた以上はやる。

 壇上に立ったナミノの膝は微かに震えていた。

 今日の為にお母さんが用意してくれた、上等なワンピースを誇らしく思う余裕なんてなかった。

 手には、以前、お母さんにもらったお守り――赤い勾玉を首から下げて「大丈夫」と何度も何度も自分に言い聞かせた。

 スピーチの題材には、お母さんのことを選んだ。

 お母さんは両方の脚がほとんど動かず、杖をつきながら生活している。子供の頃に交通事故に遭ったそうだ。

 だから、ナミノはお母さんが買い物に行くときはできるだけついていって、荷物を持つし、掃除や洗濯も積極的に手伝うようにしている。

 そんなお母さんとの生活をスピーチで話したら、大絶賛だった。

 結果は最優秀賞で、地方の新聞の取材もうけた。

 見に来てくれたお母さんも誉めてくれた。


 ガタン

  ゴトン

 ガタン

  ゴトン


 帰り道。

 軽快な足取りで走る伊予鉄道の電車。

 その車内で、ナミノはお母さんと並んで座る。

 なんとなく連結部の窓から隣の車両を見ると、一緒にコンテストに出ていた六年生の男の子が見えた。

 眉間にしわを寄せ、ナミノのことを睨みつけてくるように見えたので、ナミノは慌てて視線をそらした。

 なにか怒らせるようなことやっちゃっただろうか?

「ナミノ、今日は頑張ったね」

 考えを遮るようにお母さんが話しかける。

「うん。すっごい緊張した」

「私、嬉しいな。あなたは私の、大切な娘だよ」

 母さんはそっと、ナミノの方を抱き寄せた。

『梅津寺、梅津寺です。ありがとうございました』

 ナミノたちが降りる駅を告げるアナウンスの後、ブレーキがかかり、電車はホームに滑り込む。


 お母さんをベンチで待たせながら駅前のトイレで用を足し、手を洗う。

 顔を上げると、鏡があって、ナミノの顔がうつっていた。

「これからも、お母さんのことを支えていきたいと思います」

 スピーチの最後の一文。

 鏡の中のナミノがそれを言った、気がした。


 トイレを出ると、例の六年生の男の子がいた。

 軽く会釈して通り過ぎようとしたが、男の子はナミノの進路を塞ぐように立ちふさがる。

「最優秀賞おめでとう。三津ナミノさん」

 男の子は不機嫌そうで、とても祝福している風ではなかった。

「えっと、ありがと」

 ナミノは男の子の不機嫌さに気付かないフリをした。しかし、それが余計に気に障ったようで、男の子は威嚇するように地面を蹴った。

 ナミノはビクッと身を強張らせる。

「お前、ずるいよな。母親の脚が悪いのをネタにして、いい人アピールなんてさ」

「違う……そんなんじゃ……」

 違う。違う。違う。そんなんじゃない。

 否定しようとした。

 なのに、気持ちが上手くまとまらず、何も言葉が出てこず、ただ口をパクパクと動かす。涙があふれてくる。

「調子に乗んなよ! 三津ナミノ!」

 男の子はそう怒鳴ると、去っていった。

 ナミノはうつむく。

「ナミノ」

 声がした。

 お母さんが、杖をつきながらゆっくり近づいてくる。


 いい人アピール


 いましがた、男の子に言われた言葉が何度も頭に響く。

 違う。

 違うんだ。

 ナミノは思わず走り出した。

「ナミノ!」

 背中から、お母さんの声が聞こえた。


 何度も何度も涙をぬぐいながら、がむしゃらに走る。

 ナミノは運動が得意な方ではない。

 だけど、息を切らせながら、走り続ける。

 どのくらい走っただろう。

 突然、足がもつれてバランスを崩す。

「きゃっ!」

 しまった。と思った次の瞬間には、アスファルトに肘と膝をこすりながら転んでいた。

「違う……違うの」

 手も、足も、色々なところが痛い。

 涙があふれてくる。

「違う……違うの」

 うわ言のように繰り返す。

 そのときだ。

 ふと、視線を感じた。

 顔の前に一匹の亀がいた。

 甲羅の大きさが十センチくらいで、青い瞳を持つ亀だった。

「……亀?」

 亀はしばらくナミノを見つめると、尻尾をむけて歩いていく。

 やがて、曲がり角を曲がり、その姿は見えなくなった。

 その直後、亀が去った方向から、別の少女がやって来た。

 その小柄な少女は、両手に杖を持ちながら、ゆっくりとナミノに近付いてくる。

「大丈夫?」

 杖の少女は倒れたナミノの側まで来ると、そう言った。

 不思議だ。

 なぜか、とても落ち着く声だった。

「ごめんね。私は手を貸してあげられないの。自分で起きられる? 大人の人、呼んでこようか?」

 ナミノは頭を横に振ると、ゆっくりと、起き上がった。

 足のすねに大きな擦り傷ができていて、血がながれている。他にも細かい傷がいっぱい。

 ワンピースはドロドロに汚れていた。

「近くに救急箱、貸してくれるとこあるから行こっか。歩ける?」

 杖の少女はそう尋ねる。ナミノは小さくうなずいた。

「私、高浜ヒナミ。よろしくね」

 杖の少女――ヒナミちゃんはそう言って笑った。

 ヒナミ。お母さんと同じ名前だ。

「ナミノ。私、三津ナミノ」

 ナミノは小さく言った。

「ナミノ。いい名前だね」


 すぐ近くに洋食店があった。

「ここ、友達の家なんだ」

 ヒナミが言った。

 二人は店に入る。

 店内は古びた木目調で、壁際の本棚には洋書がぎっしりと詰まっている。

「いらっしゃい。その子はお友達?」

 カウンターの内側にいたのは、髭モジャで年齢がよくわからない男性だった。

「ちょっとこけちゃったみたいで。救急箱あります?」

 ヒナミちゃんが言うと、男性はすぐに救急箱を持って駆け寄ってきてくれた。


 数分後。

「ありがとう、ございます」

 ナミノはカウンター席に座っていた。

 すねにガーゼが当てられ、包帯が巻かれていた。他にも、手や足の何か所か絆創膏が貼られている。

 ヒナミちゃんがやってくれた。

「ううん。いいんだよ。私も時々、転んで怪我しちゃうから」

 ナミノの横の席に座るヒナミちゃんはそう言って、首を横に振る。

「もし急がないなら、ゆっくりしていってよ」

 髭モジャの男性はそう言ってくれた。

 お母さん、心配しているだろうか? そう思いながらも、まだ戻る気になれずナミノは店内を見渡す。

 カウンターテーブルの端っこに写真立て。飾られている写真はナミノと年が近いと思われる女の子が笑顔で写っているものだった。

「チサトちゃん。前にここに住んでた、私の大事な友達」

 ヒナミがいった。

「ナミノちゃん、だっけ。コーヒー飲める?」

 男性が尋ねた。

「え、あ、はい。でも、今、お金あんまり持ってなくて」

「いいよ。おごるから」

 男性はそう言ってガラスのコップに氷を入れ、アイスコーヒーを注ぐとナミノの前に置いた。

「ありがとう、ございます」

 ナミノはコーヒーフレッシュと、ガムシロップを一つずつ入れて飲む。

 本当は、コーヒーの美味しさってよくわからない。

 ちょっと大人を気取ってるだけ。

 苦くて、苦い。

「ナミノちゃんって、大人だね」

 その様子を見ながらヒナミが言った。

「ヒナミちゃんはコーヒー飲めないもんね」

 男性が笑いながらヒナミの前に置いたのは牛乳だった。

「飲めないんじゃいなくて、飲まないんです。おっきくなるために、牛乳飲みたいから」

 お母さんも牛乳を飲めとよく言っていた。飲まなきゃおっきくなれないぞ、と。

 だけどナミノはあの生臭さが苦手で、学校の給食以外で飲むことはない。

 スピーチでは『お母さんのことが大好きです』と言っておきながら、あんまり素直に言うことを聞いていないのかもしれない。

 ナミノは暗い気持ちになった。

「大丈夫? 痛む?」

 ヒナミが尋ねた。

「へ?」

「ずっと浮かない顔してる。脚、痛むの?」

 ヒナミは心配そうに尋ねた。

「ううん。大丈夫。大丈夫だけど……」

 ナミノは視線を落とす。

 テーブルの隙間から、ヒナミちゃんの脚が微かに見える。

 お母さんと一緒で、骨と皮しかないのではと思うほど細い脚。

「何かあった? 私でよかったら聞くよ」

 ヒナミちゃんはそう言って笑った。

 ナミノは少し考えてから、ゆっくり口を開く。

「実はね、私のお母さん、ヒナミちゃんみたいに脚がわるくて……」

 ナミノは話す。

 スピーチコンテストのこと。

 その後の男の子との一幕のこと。

 ヒナミちゃんは「うんうん」と相づちをうちながら聞いてくれた。

「きっとさ、その男の子は悔しかったんだろうね。ナミノちゃんに完敗したから」

「うん。それはわかってる。わかってるんだけどね……」

 ナミノはコーヒーを一口飲む。

 さっきより苦い気がする。

「あの男子の言ったこと、本当なんです。私が『いい人アピール』してるって」

「そうなの?」

「お母さんと買い物に行くの、時々面倒くさいなって思っちゃう。はやく家に帰ってゲームの続きをしたいのに、お母さんと歩調を合わせて歩くの嫌だなって、時々思っちゃう」

 ナミノは息を吸いなおした。

「本当は、私はお母さんを助けたいって思ってるんじゃなくて、周りからいい人って思われたいだけなのかもしれない」

 コーヒーの中に、ナミノの涙が落ちた。

「ナミノちゃんは優しいね」

 ヒナミの言葉は予想外のものだった。

「私が思うにだけどね、ナミノちゃんは優しくて、なんでも真面目に聞いちゃうから男の子に言われたことも、自分の中に取り込もうとしちゃってるだけだと思う」

 そうなのかな。わからない。

 悩むナミノをよそに、ヒナミの話しは続く。

「スピーチの原稿は、ナミノちゃんが書いたんだよね」

 ナミノはうなずく。

 先生が軽く手直ししてくれたけど、ほとんどはナミノが書いたままだ。

「ナミノちゃんの心に全くない気持ちなら、ナミノちゃんの言葉として出てこないはずだよ。だから、ナミノちゃんはナミノちゃん自身の優しさでお母さんのお手伝いしてると思うよ」

「そう……でしょうか?」

「うん。きっとね。まあ、私だってそうだし、ナミノちゃんもそうだと思うけど、調子のいいときも、悪いときもあるし、機嫌のいいときもあるし、悪いときもある。だから、出来るときだけお母さんのお手伝いすればいいんじゃない?」

「でも、それじゃお母さんが困っちゃう……」

「それは、ナミノちゃんの思い上がりだよ。ナミノちゃんのお母さんは、ナミノちゃんが生まれる前から生きてきて、ナミノちゃんが泣いてばかりの赤ちゃんの頃からお世話してたんだよ。だから、大丈夫」

「……へ?」

 ヒナミちゃんは笑顔を浮かべ、牛乳を飲み干す。

 その姿がみるみる変化して、大人になっていく。

 それは、ナミノの母だった。

「大人になっても背が低かったり、この年になってもコーヒーが飲めなかったり、出来ないこともいっぱいあるけど、それでも、ナミノが生まれる前から生きてきたの。ナミノ、勘違いしないで。私はあなたに寄り掛からなくても、生きていける。こんなに細い脚だけど、あなたが思いっ切り寄り掛かってきても、支えられる」

「……お母さん」

「ナミノ、あなたの優しさは、私の誇りよ」

 ナミノの目に、涙が溜まってくる。

 お母さんの指が伸びてきて、涙をぬぐう。

 窓から、オレンジ色の日が差し込む。

「お母さん帰ろ」

 ナミノは残っていたコーヒーを飲み干す。

 氷が溶けて、かなり水っぽくなっていた。

 だけど、やっぱり苦い。

 次に飲むときは、もう少し大人になってからにしよう。

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