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あの悪夢のような宿泊から、一週間が経った。
僕から先生には連絡を取っていない。だからその後キリンの件がどうなったのか、僕は全く知らなかった。
僕はアルバイトに明け暮れた。しがないコンビニアルバイトだが、これはこれでやりがいが無いとも言えない。結局のところ、気のもちようなのだ。働いている間、「この時間を使えば小説をもっと書けるのだ」などと思い上がってしまうのか否かで心もちは随分変わる。純粋に。その場その場の接客や、同僚との会話を楽しむ働き方というのも、自分にはあるはずなのだ。
僕は筆を折ることにした。なんとなく、小説を書く気になれないのだ。それよりも、身の丈に合った人生経験を、今からでも積むべきではないかと思っている。
ここまで育ててくれた先生には申し訳ないが、そもそも新人賞に応募したところで二次選考すら通ったことがないのだ。小説は趣味でも書ける。改めて考えてみれば、僕は小説家になりたいのではなく、小説を書きたいのだ。ときには潔く、自分で線を引くことも必要だろう。
そんなある日、先生から一本の着信があった。
「すまない。君に、謝りたいんだ」
先生はそう言った。
昼の喫茶店は、午前中の繁忙を過ぎ、人影もまばらだった。ナポリタンをつつく作業着姿の男女や、週刊誌に読みふける年配の人々がほとんどである。どことなく昭和らしさを残した木造の店内には、休日の――あるいは昼休みの――弛緩した空気が充満していた。
僕が店内に入ると、すでに着席している先生が見えた。その手元にはアイスコーヒーがある。店員に「連れです」と断り、そちらへ歩を進める。
「すみません、お待たせしましたか」
「いや、そんなことはない」
先生は首を振りながら僕の着席を促す。
先生は少しやせただろうか。しかし、目の下に隈は見られない。
店員が注文を取りに来たので、僕もアイスコーヒーを注文した。
「今日は、君に謝りたくてね。呼び立ててしまってすまない」
「いえ、僕も先生にお聞きしたいことがあったので」
「聞きたいこと?」
「ええ。『迫りくるキリン』のことで」
先生の表情が強張るのが分かった。僕は冷静に、先生の方を見つめ返す。
「それは、私が謝りたいこととおそらく同じだね。いつ気付いた?」
「初めから、怪しいなとは思っていました。確信に変わったのは、先生のご自宅に泊まったときです。僕が悪夢から覚めてシャワーを浴びた後に、リビングで一人になるタイミングがあって」
「私が原稿を置いたままだったのか」
先生は自嘲するように笑った。最近、先生は卑屈な表情をよく見せる。
「僕が推測したことを、お話ししてもかまいませんか?」
「もちろん」
僕は一呼吸置く。
「キリンが近付いてくるなんて、すべて嘘だったんですね。先生は僕の反応を見て、それをそのまま小説の描写に流用したんでしょう?」
僕の手元に、アイスコーヒーが届いた。僕は黙って、それを一口含む。静かな苦みが口の中に広がった。
先生はあのとき、確かに追い詰められていた。
編集の竹重は、「会話に現実味がない」、「リアルにそんな反応する人間がいるのか」という偏った意見を押し付け、真面目な先生は、何とかそれに応えねばと思ったのかもしれない。
書き始めていた連作短編の一部、「迫りくるキリン」は、毎夜近づいてくるキリンを描いた作品だ。精神的に追い詰められた主人公は、友人にそのことを相談する。先生は、その会話文にリアリティをもたせるため、僕を実験台にしたのだ。
「『キリンが近付いてくる』なんて話を聞いた人間が、どんなリアクションをするのか。どんなことを推測してどう会話を進めるのか。先生はそれを確認したかったんですね」
先生は黙ってうなずく。実際「迫りくるキリン」の原稿には、「麒麟」と混同する間抜けな応答や、相手の精神状態を疑う発言が描かれていた。どちらも、僕が先生に対して示したとおりに。
僕とキリンの話をしているとき、先生はポロシャツの胸ポケットに時折手をやっていた。無意識にシガレットケースを探っているのだとばかり思っていたが、それはボイスレコーダーの作動を確認する動きではなかったか。
「もちろん、奥さんも協力していたんですよね」
「そのとおりだ」
あの頃の、先生のやつれ具合は、奥さんのメイク技術によるものだろう。彼女であれば、目の下に隈をつくり、頬に影を落とすことくらいわけがなかったはずだ。
先生は、ことの顛末を説明し始めた。僕の推測どおり、全ての元凶は竹重であるようだ。実際に誰かの反応を確かめるようそそのかしたのも彼らしい。先生はそのやり取りに疲れ果て、次第に正常な判断力を失っていったという。
本当は、僕を泊めたあと、豪華な朝ご飯を囲みながら種明かしをし、夫婦で謝罪するという流れを考えていたそうだ。しかし、僕が悪夢を見て前後不覚に陥ったことで、そんなことをしていられる状況ではなくなってしまった。
「君には、本当に悪いことをした」
先生は頭を下げる。
「師弟関係を利用したんだ。そして、君の信頼に背いたんだ。すまない」
僕は、「いいんです」と返す。
「これを機に、一度小説から距離を取ることにしました。もういい年ですし、今一度、自分の生き方を見直してみるつもりです」
それは僕自身の素直な心境変化によるものだった。しかし、先生の目には、この件をきっかけに僕が先生との師弟関係を解消し、同時に筆を折ったように見えるだろう。ある意味で、この発言には意趣返しの意図があることを否定できない。
「申し訳ないことをした」
先生はもう一度頭を下げた。
「もう一つ聞きたいんだ。耳を疑うかもしれないが、今から私が話すことは全て真実だ」
眉間にしわを寄せ、先生がつぶやく。
「もう一つ?」
「そうだ。君が家に泊まった翌日から、本当にキリンが現れるようになったんだよ」
僕は冷静だった。自分ではそのつもりだった。しかし、少しずつ腹の中で湧き上がってくるものがある。それは怒りに近い感情だった。
先ほどまで、先生は謝罪をしていたはずだ。キリンの件が、すべて虚偽であることを認めていたはずだ。それなのに、ここに来て再び、キリンの話を持ち出そうとしている。今度は何の実験が始まるのだろうか。僕はそれほどまでに軽んじられているのだろうか。
――本当にキリンが――
その予期していない言葉を、僕はつい、鼻で笑ってしまった。
「冗談でしょう?」
「いや、断じて違う。今では、毎晩ガラスを破って首を伸ばしてくる。君が泊まったときと同じだよ。妻に聞くと、ガラスの割れる音は聞いたと言うんだ。しかし、翌朝確かめてみると実際には割れていない。――今では、キリンの首が、もう三分の二あたりまで部屋に入っている」
「こんな言い方はしたくないんですが、また何か、小説に流用するつもりですか?」
「いや、そうではない。違うんだ」
何が違うと言うのだろう。あきれ果て、僕は荷物をまとめ始める。
「これは呪いなのかもしれない。君を騙し、裏切ったことへの」
「僕が先生を呪っていると?」
「違う。報いだ。因果応報だ」
一息に、アイスコーヒーを飲み干す。先生の言っていることが虚言であれ、罪悪感と自己憐憫から来る妄言であれ、これ以上取り合う必要はないだろう。
僕は卓上に小銭を置いた。
「僕の分の会計です。すみませんが、これで。もうお会いすることもないでしょう」
先生との別れが、こんな形で訪れてしまうのは不本意だった。しかし、こうする以外にどうすればよいというのだろう。また先生に協力し、今度は「本当に」現れたというキリンの対処法を考えればよいのか。僕は、そんなに時間を持て余しているわけでもない。
席を立ち上がった僕の目を、先生が悲しげに見据えた。
「……そのうち、私はキリンに齧られて死ぬだろう。君に出会えて、光栄だったよ」
そんなやり取りから、数か月が経過した。
その間に僕は出版社の採用試験を受け、めでたく採用通知を受け取っていた。これから、雑務に追われる日常が始まるのだろう。それはそれで、面白いものなのかもしれない。
結論から言えば、先生は死ななかった。
代わりに、先生の自宅で、編集者の竹重が変死体となって発見された。なんでも打ち合わせで酔っぱらい、一泊したらしい。翌朝ちっとも起きてこないので、先生と奥さんが声を掛けに行くと、ベッドの上で血まみれになった竹重を発見したということだ。
当然、先生も奥さんも被疑者として取り調べを受けた。しかし、捜査は難航しているそうだ。
竹重の遺体には、偶蹄目のものと考えられる歯型がはっきりと残されていたという。
僕は一度だけ、事件後に先生の姿を目撃した。
先生は以前よりも一層痩せ、目を大きく見開いたまま、妙にひょこひょこした動きで通りを歩いていた。
そこに昔のような朗らかな印象はもうなく、僕はどこか、キリンのようだと思った。
迫りくるキリン 葉島航 @hajima
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