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 先生からキリンの話を聞いたちょうど二日後の夜に、僕は先生の自宅へとお邪魔した。ほかならぬ先生の頼みなのだ。すぐにでもその検証に協力したかったのだが、僕に夜勤の予定があり(コンビニのアルバイトなどするものではない)、結局二日後の今日ということに相成った。

 いつものように、リビングの座卓でお茶をいただく。

「すまないね。よろしく頼む」

 そう言う先生は以前にも増してやつれている。隈もわずかに濃くなったようだ。

「あれから、キリンはどうなりましたか?」

 僕の言葉に、先生は曖昧に頷く。

「動きがあったかと言えばイエス。しかし変化があったかと言えばノーだ」

 なんとも先生らしい言い回しだ。それで、と僕は先を促す。

「キリンは、この二日間も現れている。一歩ずつ近づいているのも変わりない。今では、もう窓のすぐそばまで到達した。そのうち、窓を破る日も近いのかもしれない。そのせいもあって、私は眠れずにこのざまだよ」

 自嘲気味に笑う。

「別室で眠る、ということをお試しになったことは?」

「今日からだ。今夜、君に泊まってもらい、私は別室で眠る。これは、二つの意味をもった実験だ。あの部屋で眠ることで、私以外の人間もキリンを目撃するのか。あの部屋で眠らなければ、私も安眠が得られるのか、というね」

 君には負担を掛ける、と言い添えて、先生は頭を下げた。

 負担も何も、僕はやはり、夜な夜なキリンが現れるなんて話を信じることができない。十中八九、先生の妄想か幻覚か、それに類するものだと思う。

 それに、万が一、僕がキリンを見ることがあったとしても、何を怖がればよいのだろう?

 窓の外にたたずむキリン。

 キリンと言えば、牧歌的で平和を好む草食動物という印象が強い。毎晩ライオンが部屋の中に現れるというのならまだしも、キリンからそこまでの害意を受けることなどなさそうなのに。

 だから僕は、先生が憔悴していることに疑問を抱いていた。キリンの何がそれほど恐ろしいのですか、と聞いてみたい(あるとすればサイズ感か?)。

 ただ、少なくとも先生本人にそれを尋ねられるような状況ではなさそうだ。

「それから」

 先生が話を続ける。そんなふうに自分が疑われているとは毛ほども思っていないようだ。

 その深刻な様子とは裏腹に、先生が放った一言は、さらに僕を混乱させた。

「――陽気なんだ」

「え?」

 つい、素の反応を返してしまう。僕が聞き逃していただけで、先生の話はもう別の話題に移っていたのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。それで、その、何が、どう。

 落ち着け、と自分に言い聞かせて、僕は一つずつ頭の中を整理していく。

 陽気。雰囲気が明るく、晴れ晴れとしているさま。

 ここで問題なのは、誰が、どのように陽気なのかということだ。すでに予想はついているが、あまりにも突飛で馬鹿馬鹿しいことこの上ない。

「陽気というのは、キリンが、ですか?」

 自分の言葉が信じられない。何が悲しくてこんな台詞を吐かなくてはならないのだろう。

 わずかながら、僕は苛立ちのようなものを感じ始める。

「そうだ」

 先生はあっさり頷いてしまった。悪夢だ。

 夜になると、窓から陽気なキリンが覗き込んで来る。これでは、海外産のやたらとハイテンションなテレビアニメではないか。

 落ち着け、落ち着くんだ。

「それはその、どのように陽気なんでしょうか? たとえば楽しげに話し掛けてくるとか」

「いや、キリンは話さない。ただ満面の笑みで――おそらく笑みだと思うのだが、そんな表情で首を左右にくねらせているんだ」

 誰か教えてくれ、と僕は叫びたかった。先生は何を言っているんだ? 先生は何を怖がっているんだ? いよいよ、僕は何を怖がればよいのだ?


 夕飯も風呂も済ませてきたので、あとは部屋に案内されるだけだった。

「堪忍ね」

 先生の奥さんが、クッションにシーツを掛けながら、そう言う。

「あの人を許してあげてね」

「許すも何も、僕にできることなら」

 慌ててそう濁す。もしかしたら、先生との会話を台所で漏れ聞いていて、僕の苛立ちを察知したのかもしれなかった。

 奥さんはてきぱきとベッドを整えていく。なんでも器用にこなす人だ。

 訪問し始めた頃、お茶出しや家事を全て奥さんがやっているのを見て、先生も意外と亭主関白なのかと思っていた。しかし、実際のところは奥さんが好んでそうしているのだそうだ。料理好き、洗濯好き、掃除好きという稀有な性質をもっているらしい。先生はたまに「掃除用具がどんどん増えていく。この前などは、知らぬ間に洗濯機が新しい機種に変わっていた」とぼやいているが、家事をやってもらっている手前、大きな声では言えないようだ。

 先生と奥さんは、おしどり夫婦と言ってもよいだろう。もとは、先生の三作目「三つ目の門をくぐるとき」が舞台化されたときに役者のメイクを奥さんが担当し、その縁で知り合ったと聞いた。なお、このとき主演を務めた俳優は素人同然だったらしいが、オーディションで先生が彼の演技をいたく気に入り、プロデューサーに直談判したそうだ。結果として、彼はその後映画やドラマで人気を博し、今でも演技派として主役級の役柄を務めている。

 しばし無言の時間が続き、気まずくなった僕は、奥さんに最近の先生の様子を尋ねてみることにした。

「最近どうですか、先生は。その、何かを心に抱えてみえるとか。妙な様子があるとか」

 奥さんの方でも、僕がそのように切り込むことは予想していたようだ。穏やかに首を振って、「ないのよね」と言った。

「あの人がおかしなことを言うのは、キリンのことだけ。それ以外は至って普通よ」

「それは」

 よかった、と言おうとして思いとどまった。もちろん、先生の妄念が日常生活に差し障るほどではないと知れたことはよかったと言える。しかし、キリンのことだけであそこまで追い詰められているとは、やはり異常性を感じずにはいられない。

「全部、あの編集のせいだわ」

 突然、奥さんが強い言葉を使う。おしとやかな彼女が――朗らかな先生と本当にお似合いだった――、他人をそのように言うのは珍しかった。

「編集って、竹重さんですか?」

「そう。あなたも“さん”なんてつけなくていいわよ。あいつが、旦那をあそこまで追い込んだんだから」

 やはり、先生と竹重の衝突は、生半可なものではなかったらしい。衝突というよりも、偏った価値観を先生が一方的に押しつけられているだけなのだが。

「出版社に訴え出たらどうなのって、何度もあの人に言ったんだけど……。あの人、ああいう性格でしょ? 無名の頃から恩義のある会社に、クレームなんて入れたくないって言い張るのよ」

「そうだったんですね」

 掛け布団に最期のシーツを掛け終え、奥さんはパンパンと手をはたいた。

「よし、準備オーケー」

「奥さんは、ここで寝てみたことはあるんですか?」

 ただ思いつきで尋ねてみたのだが、奥さんは申し訳なさそうな顔をした。

「ごめんね、私はここで寝たことがないの。『試しに私が』って何度か言ってみたんだけど、主人が許してくれなくてね。それなのに、こうやってあなたに協力してもらうことになるなんて、本当に悪いんだけど」

「全然。そんなつもりで聞いたんじゃないんです。こちらこそすみません」

 朝ご飯は豪華にするからね、と言い残して、奥さんは部屋を出ていった。

 僕は荷物をベッドわきにまとめ、深呼吸をする。

 部屋の中には物がほとんどない。一方の壁にはクローゼットの扉。反対の壁には小さな本棚があり、そこには旅行雑誌やパンフレットが並んでいた。きっと、仕事用の本棚は別にあって、こちらは余暇用の本棚なのだろう。

 部屋の中央にはセミダブルベッドが鎮座している。重厚な木製で、凝った意匠のないシンプルなデザインだ。

 ベッドの正面が、件の出窓である。

 それは、先生の話にあったとおり、通常よりも高い位置に備えられていた。外壁からわずかに出っ張っていて、その分、外をよく見渡せるようになっている。もとから視界を遮るつもりはなかったようで、カーテンどころかカーテンレールも無い。ガラスの手前に花瓶が置かれていたが、今は何も飾られていなかった。

 まだ寝間着にも着替えていなかったが、試しにベッドの上に寝転んでみる。

 空には雲が目立ったが、それでも普段目にすることのないほどの星光が散っていた。先生がこの窓にこだわったというのもよく分かる。

 そこにキリンが現れるのを想像してみた。

 やはり、何一つ怖くはなかった。


 目が覚めた。

 全員を、違和感が包んでいる。大きな音が聞こえたわけでも、何かに身体を揺さぶられたわけでもない。微かな、それなのに無視できない気持ちの悪さ。二の腕や首の後ろがチリチリとする。肌が粟立っているのだ。

 おそらく夜半過ぎだと思う。明かりを消した部屋の中に、星明かりが差している。

 ――まさか。

 僕の目は窓の外に吸い寄せられる。自分がなぜこの部屋で眠っていたのかを思い出したからだ。

 馬鹿馬鹿しいと思いながら、それでも窓から目が離せない。

 ゆらり。

 何かが動いた。窓の外。月明りの下。

 ――そんなはずは、ない。

 先生の話を聞いて、僕自身こそが、変な夢を見ているだけなのだ。現に、身をよじろうとしても動かない。典型的な金縛りだ。僕は今、「起きている」と勘違いしたまま夢の中にいるだけなのだ。

 しかし、僕の全身を、えもいわれぬ焦燥感が包んでいた。ここにいてはいけない、よくないものが来る――これは、本能的な危険察知だろうか。

 窓の外の影は、にじり寄ってきているようだ。それが一歩前進するごとに、輪郭があらわになる。

 ――キリンだ。

 無論、見なくても分かる。出るぞ出るぞと言われて、これが現実であれ夢であれ、キリンを見ない方がおかしい。そんな滅裂なことを僕は思う。

 キリンは、窓にくっつきそうなくらい近くまでやって来た。斑点模様が見える。

 ブルゥー、スプルゥー、スプルウァー。

 キリンの鼻息で、窓ガラスが曇る。

 ブルゥー、スプルゥー、スプルウァー。

 じわじわと白い蒸気が引いていく。身動きできない僕は、それを注視するしかない。

 キリンは窓の向こうで、唇をめくり上げた。剥き出しの歯が並んでいる。

 笑顔だろうか?

 そのまま、キリンは、上体を左右へくねらせ始める。奇妙な柔軟性をもって、首が左右へ揺れた。

 ブルゥー、ブルゥー、ブルゥー、スプルゥー、スプルウァー。

 ダンスの下手な人が棒立ちでステップを踏んだらこんなふうになるのだろうか。なんとも歪なダンスを僕は見せられている。

 未だに鳥肌は引いていないし、じりじりとした焦燥感も続いていた。しかし、僕はかえって落ち着きを取り戻し始める。何のことはない、きっとこれは夢だ。キリンがダンスする様子を見せられるだけの夢だ。

 しかし、その余裕も、唐突に終わりを告げられる。

「モオオオオオオオオオオオッ」

 キリンが吠えた。牛をさらに低くしたような鳴き声だ。

 そのまま、一度大きく首をしならせて、キリンの頭が窓を突き破った。

 ガラスの砕ける音が響く。

 キリンの真っ黒な眼が――頭部の側面についているはずの目が、奇妙に中心へ寄っている。

 こちらを見ているのだ。

 それは、まだ笑みを浮かべていた。歯の隙間から、呼気が漏れている。

 ブルゥー、スプルゥー、スプルウァー。

 強い確信を覚えた。

 ――齧られる。

 身体を何とか動かそうとするのだが、どうにもうまくいかない。焦りばかりがつのっていく。

 キリンは漆黒の瞳で、まだこちらを見つめている。眼は顔面の中央に寄りすぎて、ひとつ目になろうかという状態である。

 齧られるッ!

 その言葉が真上から僕を直撃する。雨みたいに、僕の全身へ降り注ぐ。

 齧られる齧られる齧られる齧られる齧られる齧られる――。

 僕はあらん限りの力を込め、悲鳴を上げた。


 気が付くと、先生と奥さんがこちらを覗き込んでいた。照明がまぶしくて、僕は少し目を細める。

「大丈夫かい?」

 先生が、上体を起こすのを手伝ってくれる。寝間着のシャツに、汗がびっしょりとついていた。

 棚の置き時計を確認すると、午前三時過ぎである。

「何が――」

 僕はかすれた声で言った。

「何が、起きたんですか? あれは、何ですか?」

 先生と奥さんは、顔を見合わせた。

 二人の話によると、三時前に突然、二階からガラスの割れる音が聞こえたという。驚いて目を覚ましたところに、僕の絶叫がとどろいて、何事かと見に来たということだ。

「でも、あれを見て」

 奥さんが窓を指さす。そこには、窓があった。ひび一つ入っていない、眠る前と変わらぬ出窓が。

 先生も首を振る。

「確かにガラスの割れる音を聞いたんだが、あの窓にも、どの部屋の窓にも問題はなかったんだ」

 僕も、自分の見たものについて、しどろもどろになりながら何とか言葉にした。陽気なキリンが現れたこと。先生に聞いていたとおり、金縛りのような状態になったこと。キリンが突然、敵意をむき出しにして窓を破ったこと。

 先生は神妙な顔で聴き入っていた。

「すまない、私が無理な頼みごとをしたのがいけなかったんだ。さあ、シャワーを浴びておいで。そのままでは冷えるだろう」

 厚意に甘えることにする。別室で寝直すにしても、帰宅するにしても、たらいでかぶったような汗をどうにかしておきたい。

 熱いお湯を頭から浴びているうちに、少しずつ頭の中が整理されてきた。先生の話と同様に、僕もキリンを目撃した。先生が憔悴している理由も分かった――「キリンに齧られる」という直感は、今でも胸の中でくすぶり続けている。これでは消耗するはずだ。

 一方で、これでもまだ懐疑的な自分がいるのだ。あれだけキリンについて具体的に聞いた後に、同じ部屋、同じ状況で眠れば、誰だって似たような夢を見るものなのかもしれない。しかし、そうすると先生たちの聞いた「窓の割れる音」はどう捉えればよいのだろう。

 現実的に考えれば、近隣の家でガラスが割れ(空き巣なのか喧嘩なのか)、その音を全員が聞いた可能性はある。僕は夢の中でそれを「キリンが窓を割った音だ」と解釈し、先生たちは「二階で何かが割れた」と受け止めた。真相など、案外そんなものなのかもしれない。

 問題は、この辺鄙な――隣の家との距離はおよそ百メートルといったところか――場所で、隣家でガラスの割れた音が聞こえるなんてことがあるのか、という点だ。こればかりは、何らかの形で検証してみないと何とも言えない。

 取り留めなく思考を広げながら、普段着に着替えて脱衣所を出る。

 居間には誰もいなかった。奥さんが台所から、「紅茶を入れてる途中だから、座っていて」と声を掛けてくれる。先生は、二階で僕の荷物をまとめてくれているという。

 僕は座卓の前にあぐらをかく。新聞紙やティッシュペーパーの箱が卓上にまとめられていた。何気なくその辺りを見渡していると、原稿用紙が目に入った。先生の新作の下書きらしい。

 エンターテインメント路線に振り切った青春群像劇。恋愛やホラー、スラップスティック・コメディといった要素を盛り込んだ連作短編集。これは、そのいくつめの話だろうか。

 つい出来心で、原稿用紙を少しだけ引っ張り出してみる。

 原稿用紙の最初には、「迫りくるキリン」というタイトルが書かれていた。

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