面影

@mumuna-0v0

面影

今日、「井奈菜こと」が死んだ。





朝ネットでそのニュースを見てから、私は普段通り学校に行く準備をした。

母の作ってくれた目玉焼きと白米にいただきますと手を合わせ、しっかりと咀嚼して飲み込む。

自室に戻って、昨日アイロンをかけたばかりのしゃきっとした制服に袖を通す。スカートは膝上になるように調整。

髪の毛にヘアミルクをつけた後耳上でくくって、前髪には丹念にヘアアイロンをかける。鏡の前で右左と向いて、今日もばっちりキマっていることを確認したらスプレーで固める。

時計を見ると普段通り、家を出るにはちょうどいい時間だった。

ローファーを履いて「行ってきます!」と声を張り上げたら「行ってらっしゃい」と返事がある。その声に背中を押されて家を飛び出した。


狭いバスに揺られながらスマホをいじる。昨日友達からラインが来ていたけど、割とどうでもいい内容だったので返信は後でもいいだろう。

SNSには最近流行りのスイーツ、テーマパークの新アトラクション、かわいい犬の動画……とにかく色々なものが転がっている。ぼんやりと画面をスクロールしていたら、あっという間に時間は過ぎて学校についた。出口に向かう人の群れに押し流されて車内から出る。まぶしい朝日が私の目を覚ましてくれる。


昇降口で上履きに履き替えて廊下を歩いていると、後ろからおはようと声をかけられた。振り返ると笑顔のクラスメイトがそこに立っている。

私は人と話すのが苦手なのだが、彼女は話題を振ってくれるので話しやすくて、ひそかに尊敬している。

「ねえ、昨日の歌番組見た?」

「あ……見たよ。好きな歌手が出てたんだ」

そんなことを話しながら階段を上って教室に向かう。


教室に入ると、私に気づいた友達がこちらに手を振った。

手を振り返しておはようと声を掛けたら、おはようと元気よく返ってくる。

少し友達と話してから自席に荷物を置きにいく。今日は提出する課題が多い日だから、かばんは重い。

席に座って今日の授業の予習をする。本当は昨日の夜に済ませておくべきだったのだが、歌番組での好きな歌手の出番が思いのほか後半で、課題を終わらせるのが精一杯だった。

しばらく教材と向き合っていると、チャイムが鳴って先生が入ってくる。

ざわついていた教室が静まり返ったのを確認すると、彼はいつも通り今日の連絡事項をつらつらと述べ始めた。

「以上、今日も一日頑張って下さい」

連絡を終えた先生はそう言うとすぐに教卓の上の荷物を持って、教室を出ていく。いつものことだ。彼のこういう自由なところを私は結構気に入っている。

教師がいなくなった途端に聞こえだすクラスメイトの話し声をBGMに、あと少しで終わりそうな予習を再開した。


予習が終わるのと同時に鳴ったチャイムを合図に、今日の授業が始まった。

一時間目、家庭科。

二時間目、体育。

三時間目、英語。

今日は最悪だ、嫌いな授業が多すぎる!授業中は落書きなんかをしながらなんとか乗り切った。

昼休みは他クラスの友達にお願いされて一緒に購買へ行った。ペンをなくしてしまったのだとか。この子はちょっとおっちょこちょいなところがあるから心配になる。

四時間目、理科。

五時間目、国語。

六時間目、数学。六限の終了を知らせるチャイムがなったのに気づいて力が抜けた。握りっぱなしだったシャーペンを机に置く。

いつも通り、授業をなんとなく受けて一日が過ぎていった。最近は勉強へのモチベーションが上がらなくてすごく困っている。


授業終わりの解放感で朝よりも一段と騒がしい教室で、私も友達数人と輪になって話した。最近の私たちの話題は、友達のうちの一人に気になる人がいるとかで、もっぱら恋バナである。彼女へのアドバイスや冷やかしなどを好き勝手言い合うと、その子はちょっと怒りながらも照れる。最近では定番の流れだ。

十分くらいすると朝と同じようにチャイムがなって先生が入ってきた。明日の連絡を少ししたあと、「気を付けて帰ってください」と言ってとっとと教室を出て行く。

すぐにざわつきだした教室を背にして、私も教室を出た。


今日は部活がない日だからすぐに帰れる。

朝よりも空いているバスに乗り込んで、椅子に座った。

なんとなくスマホを触る気にはなれなかったので、窓の外を眺めることにする。ちょうど日が傾き始めていて、横の車線を走る車も、大型のショッピングモールも、ファミレスも、全部がぼんやりとまぶしい光につつまれているように見える。



家に帰ると、誰もいなかった。机の上の書置きを見たところ、母は買い物に出かけているらしい。

自室に戻って部屋着に着替える。

ベッドに転がってスマホを操作する。


井奈菜ことの歌を聞く。


わたしが一番大好きな歌だ。

世界中にあるどんな音楽よりも大好きな歌だ。

ゆったりとしたリズムに優しいけれどよく通る声が重なって混ざる。私もその中に混ざっていく心地がする。


あくびが出る。だんだんまぶたが重くなってくる。

今は寝たくないのに、この歌を聞いていたいのに。

ことちゃんがよく食べていると聞いて私も買ったのど飴が棚の上に置いてある。そう、ファンのみんなは彼女をことちゃんと呼んでいた……

あくびが出る。窓から差し込んでいた橙色の光がどんどん滲んでくる。

昨日の歌番組で、私の一番好きな歌手であることちゃんは、ちょうどこんな色をしたスポットライトの下で、私の一番大好きな歌を歌っていた。

鼻の奥が痛くて苦しい。

今日の朝見たニュースがわたしの頭に蘇る。今日、井奈菜ことが死んだ。

彼女は死んでしまったんだ、昨日は歌っていたのに。

この前のインタビューで、まだまだ歌いたい歌がたくさんあるって言ってたよね?

歌がもう終わる。

ことちゃんが死んでも、先生はすぐに教室を出たし、太陽は沈んでいるし、私は学校に行ったよ。

なんで死んでしまったんだ、昨日はまだ歌っていたでしょ?


歌が終わった。

わたしはベッドの上で丸まって暫くじっとしていた。

さっきまで強すぎるくらいに差し込んでいた光も、今はもう部屋になかった。

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