視える者たち

翔流

視える者たち


狭く薄暗い、どこまでがこちらでどこまでがあちらかわからぬような家々の並ぶ道。色彩は乏しく、どこか灰色を思わせる淀んだ空気。ここは、ぎゅう詰めの建物でろくに日の光も届かないような貧民街の一角。音はと言えばそこらの布がはためく音と小動物の走り去る音くらいのものだ。加えて時々子供の声。


そしてそこには一人の人がいた。細身な身体に短い髪。決して煌びやかではないが柔らかな衣を纏い、刀を帯びている。貧民街の者ではない。その者は名をツェイという。


ツェイは神経を研ぎ澄ますように深く息を吐き、じっくりと辺りを見回した。空中のある一点で視線が止まり、きゅっと目を眇めるがまたすぐに泳ぐ。そしてその泳いだ先、その奥の方から誰かが逃げ惑うような足音がした。ツェイは音のする方向に走り、そこにいたのは……。


子供か。見たところ十歳程度だろう。


怯えたような表情の少年の近くにうすぼんやりとした影が揺れたのを見、素早く〝狐ノ窓〟を作り、目にかざす。すると突然〝物ノ怪(もののけ)〟の姿が現れた。人間ほどの大きさのガマガエルが服を着て後ろ足で直立したような格好。大蝦蟇(おおがま)と呼ばれる物ノ怪だ。


気配が薄いとは思ったが、やはり違う奴だったか。さてどうしたものか。


物ノ怪と子供、双方を見比べながらそろばんが弾かれる。


……――っ、なぜここで見ないふりができない。子供なんて面倒くさいだけだろう。それに余計な殺しなんてしないほうがいいじゃないか。大蝦蟇は人を殺す物ノ怪ではない。ここで見過ごしたところで子供は死なない。


それなのになぜ刀に手が伸びる! ……なぜだって? こんな目を向けられて、見捨てられるわけがないだろう!


不安と恐怖が入り混じったような色の一対の目が、すがるように見つめてくる。その視線から逃げるように目を逸らし、鯉口を切る。


それは一瞬の出来事だった。


ツェイが走った後に風が残った。それほどに速かった。そして路地に風が吹き抜けた次の瞬間には大蝦蟇の首は落ちていた。少なくとも少年の目にはそう見えただろう。


血に濡れた刀を持つツェイは呼吸一つ乱れていなかった。






――そんな目で見るな。助けたことに悔いはない。しかし目は口程に物を言うとはよく言ったものだ。つい先ほどまで見捨てようとしていた人にそんな感謝に満ちたような目を向けないでくれ。


「…………あ、あの、……ありがとう、お兄ちゃん」


少年にそう呼びかけられ、喉の奥がひゅ、と鳴った。しばらく息が止まる。大きく息を吐き出し、何度か深い呼吸をする。


気付けば、少年が不安げな表情でこちらを見ていた。


「――――、アタシは、お兄ちゃんじゃない」


そう返すのがやっとだった。


「……ごめんなさい……」


「君が謝ることじゃない。家はどこだ? 送っていこう」


自分が口下手な自覚はあるが、昔はこんなに無愛想ではなかった。これでは怖がらせる一方だろう。


「こっち」


少年は小さくつぶやき、指差した方向に歩き出す。その後ろの数歩離れたところをツェイがついていく。


「物ノ怪が見えるのか?」


「うん」


物ノ怪の姿は普通の人間には見えない。アタシにもうっすらとしか見えない。だが、実体はあるから斬ることができる。さっきのように。


しばらく歩き、着いたのは貧民街も外れの方。


「……ここ」


指し示された先にあったのは、家並みの中でもことさら古い粗末な建物だった。


「なっ……ここなのか?」


少年は黙ってうなずく。


嫌な予感がする。こんな誰かが放り出したような家に住んでいるなんて、まさか。


「……両親は?」


そう聞きながら答えは半分わかっていた。わかっていながらそれを聞くのは酷だ。しかし、送り届けたからじゃあね、ともできない。アタシは他の方法を知らない。


「……お、お父さんも、お母さんも……流行り病で……、死ん、じゃって……」


っ、聞くんじゃなかったか。


予想は的中した。できれば当たらないでほしかった。が、聞いてしまった以上どうにかせねばならない。さすがにこのまま放ってはおけない。


正直なところ、旅をするにも戦うにも子供を連れているのは足手まといだ。この先何が起こるかわからない。だが引き取ってくれるような知り合いもいない。


――お前は、十三歳の頃の自分に出会ったとして、その境遇を知らされたとして、見捨てることができるのか。十三歳の自分を見捨てるのか。できないだろう。ましてや当時の自分よりも幼いであろう子供を見捨てられるのか。できないだろう。じゃあ、答えはわかるよな?


「――アタシの旅についてくるか?」


俯いていた少年が顔を上げ、訝しげな表情でこちらを見ている。さすがにこれだけでは言葉足らずだ。子供にわかりやすく説明するには……。


「アタシは悪い物ノ怪を倒す旅をしているんだ。ほら、さっきみたいな、人に悪さをするような奴をだ。だから戦うこともあるし、必ずしも身の安全を保障できるかはわからない。でも食うに困らないようにはできるし、生きるのに役立つことを教えてやることはできる。……あとは君がどうしたいかだ」


こちらを見つめて話を聞いていた少年は、いつの間にやらじっと考え込むような表情になっている。


ちゃんと怪しんでいるみたいだな。それが正しい反応だ。大人の言うことにホイホイ流されないのはこれまでの境遇ゆえか。さあ、どうする。こっちから投げかけた以上できる限り意思は汲むぞ。


「……お姉ちゃんは、誰?」


訝しむような声が問う。


「ツェイ。一人で旅をしている。……ごめんな、こういうのが聞きたいんじゃないだろうが、本当に話せることがないんだ。怪しいよな」


長い沈黙。聞こえてくるのは相も変わらずそこらの布がはためく音と、小動物の走る音。


「――――僕、お姉ちゃんの旅についてく」


そう告げる声は、思っていたよりしっかりとしていた。


今はまだ信用されてないだろうが、とりあえずはそれでいい。思慮深くていいことだ。


この子はきっと、あまりしゃべらないだけで自分の考えはしっかり持っているだろう。それなら連れていくにも少しは安心できる。


「そうか。じゃあ決まりだな。名前は?」


「リュウ」


口数が少ないのは先ほどまでの会話でわかっている。それに物静かなのは嫌いじゃない。


「リュウ……リュウか」


口の中で何度か転がしてみる。


「いい名前だな。よし、リュウ、とりあえず今日寝る場所を探しに行くか」


「……うん!」


リュウの顔がぱあっと明るくなり、今日一番の笑顔で頷く。どうやら名前を褒められたのがうれしかったらしい。


なんだ、いい顔で笑えるんじゃないか。


ゆっくりと歩き出したツェイにリュウが小走りで追いついて隣に並ぶ。辺りを染める赤い夕陽が二人の影を映し出していた。






共に旅を始めて数日経った頃。なんとなく間合いと性格が読めてきたが、とはいえたかが数日。最初に会った日の記憶を掘り返していいものかはわからないがこれだけは確かめておきたい。


薄暗い宿の一室に、赤い火が揺れる。


「なあ、リュウ。こないだ物ノ怪が見えるかって聞いたときにうんって言ってたけど、それってどのくらい見えてるんだ?」


リュウは質問の意味がわからないというように首を傾げる。


「僕の他に見える人に会ったことないけど……見える人にも差があるの?」


「ああ。アタシにはぼんやりとした影程度にしか見えない。それに、知っての通り大半の人間には見えてない。即答で見えるって言ったってことはそこそこはっきりと見えてるんだろうが……」


「うん。普通に……周りにいる人たちと同じように見えてるよ。それと……小さい頃から僕のそばによく物ノ怪が寄って来る気がする」


――これはすごい。これなら視覚的に助けてもらうことも……っ、何を考えているんだ。なぜ子供に助けさせようなどと。旅には連れて行っても戦いには連れて行かないと決めただろう。この子とアタシじゃ話が違う。避けられるなら幼い頃から戦いに身を置かせることはない。


ふと、珍しくリュウの方から口を開いた。ただしおずおずとだが。


「でもさ……お姉ちゃんはあんまり見えないのになんで戦えるの?」


リュウは口数もだが表情の変化も少なく、感情が読みにくいところはある。だが今の様子だとこの話に興味を持っているのだろう。


「ああそれはな、呪(まじな)いの力を借りてるんだ。狐ノ窓って聞いたことあるか?」


ふるふると首を横に振っている。まあそうだろう。


「こうやって両の手で狐を作って……そう、親指、中指、薬指で。で、片方の手を返して人差し指と小指をくっつけて、つまんでる指を開く。開いた指を小指に寄せるようにして」


時折確かめるようにこちらを見上げながら、まだ柔らかい子供の手が形を真似る。


親狐と子狐のような四匹の狐の影絵が揺れる。もしくは姉と弟か。


「したら真ん中に窓ができただろ? それを覗く。そうすると物ノ怪の姿が見えるようになる。アタシは形も大きさもざっくりとしかわからないから、細かいところはこれで見てる。それともう一つ。狐ノ窓を使うと人間に化けた物ノ怪の正体を見抜くことができるんだ」


そう言うと、つい先ほどまで感心したように窓を覗いてみていたリュウが驚いた顔をした。


「ん? ああ、物ノ怪っつってもいかにもな奴だけじゃないぞ? 今まで気づいてなかっただけですれ違ったことくらいあるかもな、人間に化けた奴」


「じゃ、じゃあ、僕が見えてるよりたくさんの物ノ怪がいるってこと?」


まあそういうことにはなるんだが、


「そうは言っても変化(へんげ)したり人語を操ったりするような高度な奴は稀だぞ? 今までどれくらい、言葉の通じる奴に会ったことがある?」


リュウは目線を左上に向けながら、あんまりないかも、と呟く。


「そういう言葉の通じる奴が化けてるときに会ったか、そうじゃないときに会ったかくらいの違いだと思っとけばいい。狐ノ窓を使ったからって物ノ怪が爆発的に増えて見えるわけじゃないからな。――それと、物ノ怪の側も狐ノ窓のことは知ってるから外で無闇に使うんじゃないぞ」


「……うん」


リュウが眠そうに目を擦りながら寝袋にくるまったのを見届け、ツェイはそっと灯りを消した。




          ✻




とある日の移動中、森の中。ちょうど今日の糧を探している真っただ中。リュウは植物を採り、ツェイは弓を構え空を見据えている。


ひゅん、と空を切る音がし、矢が緩やかな弧を描いた。軌道は緩やかでも速度は恐ろしく速い。射落とされた鳥の上にくるくると羽が舞い落ちる。


「今夜は鳥鍋だな」


言いつつ捌く準備をする。その横にリュウが駆け寄ってきてのぞき込んだ。


「んー、合わせたらうまいのはきのこの類だな。リュウ、こないだ教えたようなのを採ってこれるか? 食べれるかわからないやつは別にしといたら後で見る」


リュウがうなずいて離れていったのを横目に捉え、ナイフを取り出す。


あの子は飲み込みがいいからちゃんと教えたものを採ってくるだろう。


一から十まで指示しなくても動いてくれるのはありがたいことだった。


帰ってくるまでに捌き終えておこうと、慣れた手つきでナイフを操る。


あの地獄のような日から七年、刃物の扱いにも生き物の扱いにも随分と慣れた。だが慣れたとはいえ生き物の命を奪うときには何とも言えぬざらりとした気分になる。


ごめんな。アタシたちが生きるためだ。


この世が弱肉強食、食うか食われるか、狩るか狩られるかだということは嫌というほど知っている。狩られないために、奪われないために、食われないために、狩って奪って食って生きるのだ。もう二度と奪われない、もう何も奪わせない。そのためにもアタシは奴の息の根を止める。


「……お姉、ちゃん?」


 !


いつのまにかリュウが戻ってきていた。


アタシはどれだけ殺気立った顔をしていただろう。この子には戦いに触れさせぬと決めたのに、アタシが殺気を見せてどうする。


この子がうっすらと戦いに興味を示しているのは知っていた。だからこそ見せたくなかったというのに。


「お姉ちゃん、僕に戦いを教えて」


毅然とした揺るがぬ声。


この子は聡い子だ。いずれこうなるだろうとわかってはいた。






当面の間は護身用、守備主体でしか教えない、という条件のもと始めた練習。最初こそ頼りなかったが、やはり飲み込みがいい。体術中心で武器は持たせないつもりだったが、思いの外習得が早かった。勝手に武器を持たれるよりはいっそのこと教えてしまったほうがいいのかもしれない。


空いた時間で共に訓練することがすでに日常になりつつあった。


「いいか、相手に刃物を向けるというのは相手を殺す覚悟を、相手に殺される覚悟を持つということだ。威嚇のためになどと思っているなら武器は持たせない」


「わかった」


「ほんとだな? 半端な気持ちで武器を持つなよ。武器を持っているという安心感で隙ができるだけだ」


「うん」


リュウが緊張した面持ちでうなずく。


戦わせたくないと言いつつも、この子が武器を持ち技を身に着けたらどう化けるのか見てみたいと思うアタシもいる。 


人間とは実に身勝手な生き物だ。下手に知能が高い所為、――高度な物ノ怪も同じだな。その身勝手な物ノ怪が憎い。そうやって憎んでいるアタシもまた身勝手な人間の一人、同類だ。


結局のところ、この子のためにと言いつつもアタシはアタシのためにしか動けないのだ。


荷の中から短刀を取り出し、差し出す。


リュウがアタシの顔と差し出された短刀を見比べながらおずおずと受け取る。


「これはお前の物だ。管理は自分ですること。失くしても代わりの物は与えない」


黙ってこくんとうなずく。


「……お姉ちゃんはさ、いつも使った後の刀とかにお香? みたいなのをつけてるでしょ? あれは何?」


「あれは妖散(ようさん)香(こう)。それを焚き染めることで……どっちかって言うと燻すか。燻すことで物ノ怪に対応できる武器にする。ただの武器だと倒せないからな。……ちゃんと手入れの仕方も教えるから心配するな」


「うん。……ありがとう」


こうして本格化した訓練が始まり、二人の暮らしはより濃くなっていった。






数か月後、夜。ツェイが夜中に目を覚ますと、近くにリュウの姿はなかった。しばらく前から夜な夜な寝床を抜け出しては鍛錬しているのには気が付いていた。いつものように、様子を見に行くためにと起き上がる。


しかし、普段は比較的近場にいるリュウが今夜は見当たらなかった。


何か嫌な予感がする。あの子が夜中に離れた場所に行くとは考えにくい。


負の思考を振り切るように首を震わせると、痕跡を読み、気配をたどり始めた。探し当てた鍛錬していたと思わしき場所から、足跡の残る方へ向かう。


するとその先にいたのは、慄いた様子ながらも短刀を構えるリュウと、巨大な骸骨。野垂れ死にした人々の恨みが集まった、生者を襲い握りつぶすという物ノ怪。


ならば容赦は無用だ。


物ノ怪を倒すには首か胴を切断、もしくは三つ以上に切り離す必要がある。この大きさだと首か胴の切断は難しい、……となると両足を落とすか。いや、でも骨だから足じゃ致命傷にはならないか?


「下がってろ」


リュウと物ノ怪の間に入り、刀に手をかける。リュウがよろよろと数歩後ろへ下がったのが目の端に映った。骸骨がガチガチと音を鳴らしながらアタシに掴みかかろうと向かって来たところに、こちらからも踏み込む。着地と同時に姿勢を低くすると相手の視界から見えなくなったようだ。


相手の動きが鈍ったその一瞬をツェイは見逃さなかった。


鯉口を切る、刀を抜く、刃は左から右へ。骨の両足に切れ目が入る。一拍後、物ノ怪が倒れてくる前に飛び上がり、傾き出したところを首を落とす。


そして、軽い音とともに着地したツェイは刀を鞘に納め、黙ってリュウのほうへ歩いていった。


「怪我は」


いつも以上にぶっきらぼうな声。安否を尋ねるにしてはむしろ突き放すような感じすらある。それに対し、リュウは無言で小さく首を振った。


「…………――――――っ、なぜ物ノ怪と戦おうとした! なぜ会った時点でアタシのところに戻ってこなかった! まだ実戦で通用するような出来ではないとついこの間言ったばかりだろう!」


感情の湧き上がるままに、吐き出す息の圧にのせて怒鳴る。


リュウが怯えたような泣き出しそうな顔で見上げている。


ごめんな、話を聞いてやるべきだよな。わかってるよ。わかってるんだよ。それでもアタシにはその余裕がないんだ。こんなんならなきゃ気付かなかった、いや、気付かないふりしてた。アタシは……きっとアタシが思ってる以上にリュウが大事なんだ。


危ない目に遭ってほしくないと思っても、アタシは自分のためにしか動けない、無事を喜ぶより先に不満が出てしまう。――っなんで気遣う言葉の一つもかけてやれないんだ、畜生!


「…………あ、あの……、ごめんな、さい……」


リュウの弱々しい声が沈黙を破る。鼻声気味の震えた声。


あんなん言われたら怖がるよな、そりゃ。


「いや、すまん、アタシも悪かった。ただ、無茶なことはしないでくれ、頼むから。……――――ありがとう」


無事でいてくれて。


リュウが、なぜありがとうと言われたのかわからない、という表情で見ている。


それでいい。今は伝わらなくても。


「よし、帰ろうか」


「うん」


歩き出したツェイにリュウが小走りで並ぶ。


あの時と同じように、二人並んで歩き始めた。




          ✻




人々の声が飛び交う賑やかな街並み。そこかしこに出店が並び、音や匂いで溢れている。


月日は流れ、流れてもなお二人の物ノ怪を追う暮らしは続いていた。気付けば出会ってから三年の時が経っていた。それでもツェイの探す物ノ怪はいまだ見つかっていない。しかし、この三年の間で変化もあった。


初めて会ったときは口数も少なくおどおどしていたリュウが、今は軽口を叩くほどになっていた。それほど打ち解けたと思っていいだろうか。もともと聡い子だったが、よく喋るようになってからは度々鋭い言葉に刺されてる気がする。これがまた絶妙に痛いところを突くのだ。


一人称も、「僕」だったはずがいつの間にやら「俺」になっていた。あの頃の可愛らしい少年はどこに行った。会ったばかりのころは実年齢より幼く見えるほどだったのに。今ではもう十五歳のたくましい青年だ。本当に、明るくなった。


そこへ不意に声が降ってくる。


「あーいたいた、ツェイさん。見てこれ、あっちの露店で売ってたんだ。おいしそうでしょ」


そう言って、表面のカリッと焼かれた餅を渡してくれる。いつからかお姉ちゃんとは呼ばなくなった。


「ん、ありがと」


受け取って一口かじる。中には木の実が混ぜ込まれていた。餅の甘さと木の実の香ばしさが合わさってうまい。


「――しばらくはこの街にいます?」


「んー、まあそうだな。そこそこ大きい街だし情報取るのにいい。さっき話した武器屋の店主が物ノ怪のこと知ってる感じだっ……」


……‼


ただならぬ強さの物ノ怪の気配。たった今すれ違った奴からだ。そこらに蔓延っている雑魚なんかの比ではない。


頭の先から足の先まで震えが走る。寒い。呼吸が急く。動きたくても動けない。


――っ逃がしてしまう。


無理やり振り切るように後ろを向き、狐ノ窓を覗く。リュウも隣で同じことをしていた。


いた。人型をしている。背の高い男。長い髪を緩く束ねている。三角にとがった獣の耳と尾が生えた――妖狐。……こいつだ。アタシの家族を、お兄ちゃんを殺したのは。やっと見つけた。逃がすものか。


ぐらぐらと燃えるように体が熱い。今までにないほど明確な、殺意。


気付けば、知らないうちに刀に手をかけていた。リュウに止められて初めて気付く。


「ツェイさん、深呼吸して」


ふつふつと湧き上がってくる感情を押さえつけ、深く息を吸う、吐く。それでもまだ熱い。


「……追いましょう」


「ああ」


人波を分け彼が歩き去った方向をたどる。


リュウには、いや、今まで誰にも話したことはなかった。自分の過去、家族のこと、なぜ物ノ怪を追うのか。それでもリュウは気付いている。アタシとあの妖狐に何らかの関わりがあると。そしてそれがただ事でないと。そのうえで何も聞かずに戦いに向かうというのは、信頼だと受け取っていいか?


出店の並ぶ通りを抜け、人がだんだんと少なくなってきた。


見つけた。化けている姿だからアタシにも見える。奴はどこまで行くつもりか。既に周りに人はいなくなった。


ふと、不意に妖狐が足を止め、くるりと振り返る。


「ねえ、君たち。どこまでついてくるのかな」


切れ長な目。淡い瞳。口元にうっすらとした笑みを浮かべている。


それを見た瞬間脳がカッと熱くなった。


お前は、十年前、その顔でアタシの家族を殺した。まるで楽しむかのようなその顔で。


「……どこまでだって? 場所などどうでもいい。十年前、アタシの家族を殺したのはお前だな?」


彼は小首を傾げ言う。


「んー? 覚えてないや。そんな前のことなんてさ。あと、お前じゃなくって、ヘイユン、ね」


は――――――――――――――っ、と、いつまで続くんだというような長い長いツェイのため息。


「いつどこで何人殺したか覚えてないほど積み重ねてきたんだろう。その笑った顔でアタシの兄も殺したんだろう」


ヘイユンは目線を左上にさまよわせる。


「兄、ねえ。ちょっ……と待ってねー。十年前か…………ああ、思い出した思い出した。妹逃がして自分は立ち向かおうとしてたのがいたね。僕のこと見えてたみたいでさ、――あの時は楽しかった、思い出したよ」






『ツェイ、逃げろ!』


農具を構えた兄が叫ぶ。


『で、でも、お兄ちゃんは、』


『兄ちゃんはいいから早く逃げろ、ツェイ!』


 普段声を荒げることのない兄のその圧に押されるようにしてその場から駆け出す――。






アタシは、逃げた。お兄ちゃんを置いて自分だけ。当時の自分にはそうする他なかったとわかってはいても、罪悪感が消えるわけではない。今の今まで絡みついている。その場に残っても何もできなかっただろうが、自分一人だけ逃げた自分が悔しい。


悲しみは怒りに。痛みは憎しみに。


 今まで褪(あ)せることなく持っていた感情。だがそれも今日で終わりだ。怒りは悲しみに、憎しみは痛みに戻るだけだ。


 刀に手を泳がせる。


「あっ、もしかして刀抜いちゃう? じゃあ遊ぼうよ。君割と強そうだし、ワクワクする戦いなんて何年ぶりかなあ」


 相変わらず口元は笑っているが、目は狩る側の獣そのものだ。鼠をいたぶる猫のような。


 遊ぶ。割と。ワクワク。


「何が、」


 ぐっと踏み込み、首めがけて刀を振るう。ヘイユンはひらりと避ける。


「何が遊ぶ、だ。この戦闘狂が。理由もなく人を殺すのか」


放った攻撃はことごとくかわされる。そのくせ向こうは攻撃をしてこない。


「理由もなくっていうのは生きるためじゃないのにってことかな。だったら君も同じじゃない? 僕のこと恨んでるからって殺していい正当な理由にはならないよね」


 ヘイユンは、じゃあ僕の番ね、と長く鋭い爪の手を振り下ろした。日の光を受けて爪がギラリと光る。ツェイはすんでのところで飛び退り、刀を構えなおす。


「それとも人間だけが特別だと思ってる? 他の動物なら食われてもいいけど人間はだめだとか。それは人間の驕(おご)りだよね」


「同族が食われたくないと思うのは当たり前だろう。それに、それとこれは話が別だ。生きるためでもなく楽しみのために人を殺すお前がいなくなれば、助かる命は多い」


 話している間にも攻防は続く。ヘイユンは楽しんでいるような涼しい顔を崩さず喋り続ける。


「話逸らさないでくれる? ……だからそれが驕りなんだって。対象を人間に絞ってる時点でさ、他の動物を軽んじてるんだよ。……物ノ怪はさ、まあ人間含めそこらにいる生き物を狩って食ってるじゃない? 弱肉強食、自然の摂理だよね。でも人間は他の動物を囲って飼うよね。自分たちがおいしく食べるためだけに囲って、掛け合わせて、殺して、食うよね。人間から見たら物ノ怪のほうが悪くなるのかもしれないけど、立場が違えば人間のほうがずっと悪質でしょ?」


 どう? とでも言うようににっこりと笑いかけてくる。言わんとしてることがわかるだけに余計にその笑顔が癪だ。


 ツェイの刀がヘイユンの鼻先をかすめる。


「――っと。菜食主義とかって言ってる人もいるみたいだけど、それだって同じ話だよね。ああ、別に君がどうだってことじゃなくてね。……植物も掛け合わせて改良するでしょ? 育てて刈って食べるよね。菜食主義だって言ったって植物は悲鳴上げないってだけだからね」


 ヘイユンが、わかってくれたかな、と微笑みながら服を整える。


 っ、こっちは肩で息をしているというのになぜ何ともないような顔をしてるんだ。……実力の差か。


 すると、今まで全く話に加わってなかったリュウが口を開いた。


「……物ノ怪が全部悪いとは言わない。お前の言うことも間違ってはいないが、正しいとも思わない。どっちが悪いって言ったって仕方がないだろ。……まあ俺はツェイさんの味方だけど」


 軽い踏み込みの音とともにリュウの短刀がひらめく。ヘイユンの喉元に赤い花が咲いた。


ヘイユンが血をぬぐった指先を見ながら言う。


「物ノ怪が治癒能力高いの知ってるでしょ。殺したいなら切り離さなきゃね」


 言っているうちにもう血は固まっている。


 なら切り離すまでだ。つながってなければ再生はできない。


 リュウとは目だけで合図する。ツェイの打刀とリュウの短刀。ヘイユンはどちらも避ける。彼の長い髪がほどけてふわりと舞った。斬りかかる、避けられるが繰り返される。


攻防を重ねるうちに段々と疲労がたまってきていた。構えなおそうとしたところにヘイユンが蹴りを放つ。刀が手から滑り落ち、伸ばした手は虚しく空をつかんだ。蹴られた勢いでよろめく。


「じゃあね。面白かったよ」


 ヘイユンの爪が光る。


 っ、まずい。避けきれない。――――――お兄ちゃん。






 幼いツェイに兄が狐ノ窓を教えている。正確には手遊びのようにして窓を作ってみせている。


『こうやって指をくっつけて……そうそう』


 窓を目に当てて笑うツェイ。兄妹の幸せそうな日常。




覗いて遊んでいたら物ノ怪が見えたことで、ツェイは少し後になってから狐ノ窓の意味を知った。きっと兄は狐ノ窓が手遊びなどでないと知っていた。




 家が物ノ怪に襲われたとき兄はちょうど兵役から戻ってきていた。体の丈夫でなかった兄が無事に帰ってきたことで一家は幸せだった。ツェイと兄の他にも兄弟はいたが、ツェイは年の離れた兄によく懐いていた。幸せだった日々。


 そして悲劇は何の前触れもなくやってきた。開け放たれた戸。倒れた母、姉。彼女らの肌には赤い色が滲んでいる。


二つの影が家の外に転がり出た。農具を構えた兄が叫ぶ。


『ツェイ、逃げろ!』


 ツェイはその場から駆け出す。十三歳の少女にできる精いっぱいの自衛。


 その後は身一つで転々とし、やがて悲しみは怒りに――。






 ――ガチン。


 硬質のもの同士がぶつかる音がした。目の前にはリュウの後ろ姿。ヘイユンの振り下ろした爪をリュウが短刀で受けていた。ちょうどツェイを背に庇うような形で立っている。


「させるものか。ツェイさんは、希望のない灰色だった俺の暮らしを鮮やかにしてくれた。暗いだけの未来じゃないと見せてくれた。ツェイさんは俺の光だ。お前なんかに殺させない」


 ……――っ。自由を捨て、楽しみを捨て、女であることも捨て――捨てようとして、仇を討つためだけに生きてきた。優しさも彩りも、いらないと捨ててきたつもりでいた。その捨てたかったものたちも、リュウは見えていたんだな。それらも含めてアタシだと。


 リュウ、あんたもアタシの光だよ。


「ありがとう」


 今なら、ありがとうのこの一言で伝わるはずだ。


落ちた刀を拾い、リュウの横に並ぶ。


アタシは、アタシたちの明日のために戦うんだ。アタシたちの平穏な日々のために。刀を持たなくていい日が来たら、その時はきちんと伝えよう。そのときまでは、まだ胸の中に。


 前を見て、思わず顔が険しくなった。ヘイユンが口元に手を当てくつくつと笑いをこらえている。そして、決壊した。


「あっはっはっはっはっは、――っと失礼。いや、仲がよさそうで結構なことだね。でも愛じゃ生きてはいけな……」


 ――ぽつ、ぽつ、ぽつ、っざあああああ。


 通り雨か。今になって厄介な……。や、待て。奴の動きが止まっている。物ノ怪とはいえ狐は獣だ。雨は苦手か。


「リュウ」


「うん」


 二人同時に地面を蹴る。相手を挟むように立ちまわる。ヘイユンのとっさに首元をかばった腕をリュウの短刀が切り裂いた。かすかな呻き声。


 やはり動きが鈍くなっている。さっきまでだったら傷を負うことなく避けただろう。視覚か嗅覚か――いや、どっちでもいい。


ツェイにはその一瞬の隙で十分だった。ツェイの刀が音もなくヘイユンの首を刎ねる。鈍い音を立てて彼の頭が地面に転がり、打ち付ける雨が赤い染みを洗い流す。


 しばらくの沈黙。


「……終わったな」


「終わりましたね」


 アタシに、もう刀はいらない。


 怒りは悲しみに。そしていつかは幸せに。


 …………――――――――。


 降りしきる雨の中、どちらからともなく唇を重ねた。



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