未来が映る鏡

穏水

mirror of the future

 私は目を疑った。鏡の前に立ってあるはずの私が、目の前には映っていなかったからだ。映っているのは、私を除いて何も変わらないただの洗面所だった。見間違いではないかと、ひたすら目をこすって開けての繰り返しをしたが、やはり目の前に映る光景は何も変わっていなかった。今朝までは、はっきりと私の姿が映っていた。この鏡も、長らく触ってすらいない。なのにどうして、今私の姿が映っていないのだろう。

 考えても、何も答えは浮かばず、仕方がないと別の部屋にある鏡へと移動する。とりあえず今は、自分の姿が見たかった。私の家には鏡が三つある。洗面所と風呂場とリビングに一つずつだ。リビングにある鏡は、縦長の全身鏡だ。いつも服装などを確認する時に使っている。私はその鏡の前に立ち、腰を抜かしてしまった。

 確かに、私は映っていた。服装も同じ、今と何も変わらない私が、壁掛け時計の下に立っていたのだ。決して私が反射しているわけではない。私が、映し出されていると言った方が正しい。鏡の中の私は、時計をじっくりと眺めている。私もつられ視線を鏡の中の時計に移動させた。針が刺している数字は、九時三十二分。何がおかしいのだろうかと、首を後ろに回して、そこにあるの時計を見た。針が刺している数字は、九時二十分。一分時が経つにつれ、鏡の中の時計も、一分針が移動する。

 私は、時計の下へとゆっくりと足を移動させていた。壊れているのではないかと、確認をしたかった。しかし、何を根拠に壊れていると思っているのかがわからず、ただ、静かに等間隔で音を鳴らす時計に目を向けていた。気付けば、長針は三十二という数字を指していた。何故かこの光景に強烈なデジャブのようなものを感じる。そして、私はある答えに辿り着いてしまった。

 鏡は、のだと。それも、十二分後の未来だ。私は全身鏡の方を振り返った。そこには、鏡の正面に立った私が映っていた。私も鏡の正面へと移動する。そこで私は本来の目的を思い出して、考えてしまった。ここに十二分間立っていたら、同じように鏡の中の私が対を成すように立っているのだろうかと。そうしたら、自分の姿が確認できる。実際に、目の前には私が立っていた。鏡の中の私は、十二分間ここに立つという考えを実行したのだろう。間もなくすると、鏡の中の私はその場から立ち去ってしまった。そしてまた変なことを考えてしまった。今ここで鏡の前から立ち去ると、未来の私はどうなってしまうのだろうか。未来を変えたことになるのではなかろうか。

 一度思いついてしまっては、行動せざるを得なかった。私は慎重にその場から離れる。完全に後ろを向いたところで、軽い、眩暈のようなものを感じた。これは貧血による作用ではないと、すぐにわかった。未来を変えると、何らかの副作用が生じる。そういうことくらい、私が理解するには十分な情報だった。

 もう良いだろうと、私はソファーに腰を下ろした。先程から少し体調が悪いのだ。その時、スマホから通知がなった。スマホを手に取る。そしてまた私は呆れの溜息を漏らした。スマホの画面に反射する世界にも、私が映っていなかったからだ。恐らく、私の目には光の屈折が全て未来に映るのだろう。ではスマホのカメラ機能はどうなるのだろうか。私はカメラを開いて、その画面を確認した。だがそこには変わらない私がいた。やはり、光の屈折によるものだけが、未来の姿へと変わって私には映るのだろう。納得した私は、カメラ機能があるのであれば、これまでと変わらない生活を送れるだろうと安堵した。

 結局、それからは色々と試して眠りについてしまった。わかったことは、鏡のような光を反射する物には十二分先の未来が映っていて、未来を変えようとすると、身体に何らかの異変が起きる、ということだけだった。


「お疲れですか? 今日はいつもより顔色が良くなさそうですが」

 出勤先で、後輩がコーヒーを両手に、私にそう尋ねてきた。

「ああ、少し寝不足気味で」

「寝不足だなんて、珍しいですね」

 後輩は私に片方のコーヒーを差し出した。お礼を言い受け取る。

「何があったんですか?」

「いや、大したことではないのだが」

 ここで、鏡に未来が反射するなんてことを口にすれば、信じてもらえるだろうか。そんなことはないはずだ。だからと言って、口にしてはいけないわけでもない。

「もしだ。もし、鏡に自分が映らなかったら、君はどうする?」

 後輩は不思議そうな表情を向ける。いきなり私が変なことを言い出すのだから、理解できないのも当然だろう。

「どうするというよりか、ただ驚きますね」

「ではそこに未来が映っていたとしたら?」

「未来ですか?」

 更に困惑の表情を浮かべる後輩。顎に手を当てて、少し考えた末、風変わりなことを口にした。

「まあ、髪型を確認できるからいいんじゃないですかね」

「髪型?」

「はい。美容室とか行くときに、失敗されたら困るじゃないですか。でも美容室はずっと鏡と対面だから、完成した髪型が映るわけで、そこから気に食わなければ早めに指摘できるじゃないですか」

「ほう。そういう考え方もあるのか……」

 私は改めて後輩の機転のよさに感心した。私一人では思いつかないことを、知人は悠々と思いつく。やはり自分一人だけでは限度があるのだろう。


 それから三か月が経った。相変わらず、鏡に映るものは全て未来の世界だった。だが、慣れというものは非常に恐ろしいもので、二週間ほどすると、何不自由なくいつも通りの生活を送れていた。実際、カメラ機能さえあれば自分の姿は確認できたし、さほど鏡がなくても生きていけることに気が付いた。おかげさまで写真の中には自画像がたくさんだ。

 未来を変えると、副作用が生じることに気付いてからというもの、できるだけ鏡は避けていた。家の鏡も、布をかぶせたりして、見えないようにしていた。しかし、鏡がない生活も悪いことだけではなかった。自分の容姿を気にする機会が減ったからだ。今思うと、鏡に映る私を見て、少なからずストレスを積もらせていたことは確かだった。


 いつもの通勤経路だった。渋谷駅で降りて、徒歩五分。不便はしていない。ふと時間が気になって左手首を見るも、腕時計を忘れたことに気付き、仕方なくポケットからスマホを取り出した。何となしに、暗い画面を頭の前まで持っていっていた。しかしそれ以上私の体は止まったままだ。

 スマホに反射した建物が、燃えていた。私は咄嗟に後ろを振り返った。毎日見る建物が並んでいるだけ。まだ何も起こっていない。スマホを見る。そこには私が映らず、燃え盛る建物と、逃げ回る人々。火事だけではなかった。銃を持った、四人くらいの集団が、何かを叫んでいる。一人の男の銃口は、親子連れの幼い少年に向いていた。その瞬間私は何か言わなければならないと口を開いたが、言葉が出なかった。そもそも、今見ている世界は、未来の世界だ。今ここでどうしようと……。

 少年が無造作に倒れる。よく見てみると、倒れた地面から何か液体のようなものが広がっていた。母親は倒れた少年を抱きしめ、肩を震わせていた。また、その母親も横から突かれたように吹っ飛んで倒れた。

 逃げなければ、とすぐに思った。ここにいては、私もこの事件に巻き込まれてしまう。自分の身を守るのが一番大事だと。それにこれは私が介入していいことではない。本来の私であれば、この親子を守っていないのだ。未来を、安易に変えてはいけない。

 私の足は、この場から離れようと、一歩動いていた。その時だ、空気を揺るがす発砲音が耳に届いた。足が止まる。後ろを振り向いた。天に銃口を掲げた男が一人、立っている。何かを叫んでいた。もう、手段を選んでいられる時間は残されていなかった。

 私はスマホの電源を入れ、すぐさま警察へと電話をつないだ。

「事件ですか? 事故ですか?」

「事件だ! 渋谷駅周辺の建物で男達が銃を持って発砲を行っている! 至急向かってくれ! 出来れば消防車もだ!」

 私はそれだけ伝え、スマホを手放し大声で退避を叫ぶ。

「ここから離れるんだ! 早く、殺されてもいいのか!」

 この時間帯は通勤時間ということもあり人通りがかなり多かった。喧騒に声も届かない。何故こうも危機感がないのかと、苛立ちが募ってくる。視線の端に、先程見た、死ぬ予定の親子が映った。私の足は既に動いていた。親子の元へと走り、母親と思われる女性の肩に手を置いて必死に訴えかける。

「頼む、ここから離れてくれ。死にたくなければ、早く!」

 女性は一時困惑の表情を浮かべたが、すぐに進行方向を変えてくれた。それと同時だった。酷い頭痛が私を襲った。頭が割れるように痛い。恐らく未来を変えた副作用だ。しかしここでなりふりは構っていられない。まだ主犯は残っている。私は銃を持った男の方へと走った。幸い人だかりは減ってきている。既に男の周りに人はいない。私は発砲した男へと飛び掛かった。男は銃を手放し倒れる。私はその銃をすぐに拾った。

 しかし、既にことは進んでいた。爆発音が耳を劈く。建物の方に目をやる。建物の窓から、赤い炎が顔を表していた。私は体の力が抜けて、地面に膝をついてしまった。遅かったのだ。何もかも。たった十二分先の未来が見えるからと言って、何かできるというわけではない。

 私は嘆き叫んでいた。知ったうえで、大勢の犠牲を出してしまった。自分の無力さに、ひどく悲嘆した。だがその時間さえ私には与えられなかった。またもや、発砲音が聞こえたのだ。私のすぐ後ろから。腹のあたりが、燃えるように熱かった。手を当てると、粘りついた液体が絡みついてきた。意識が遠のいていくような感覚さえ覚える。遠くから、サイレンのような音が聞こえた。やはり、警察はいつも遅れてくる。

 途端に、意識が刈り取られる強烈な頭痛が私を襲い、ついに私はその場に倒れてしまった。未来が変わったようだった。

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