エピローグ

 エピローグ


「一人が怖いの」

 私はその言葉で生まれた。


 薄暗い階段の踊り場で、砕けた鏡を囲うように三人が立っている。

 隠れなくちゃいけない、と瞬時に気がついて私は音を立てないようにすぐ背後にあった階段を数段下った。揉めているような声が聞こえる。覗くと同じ顔の人間が二人いて、だから私はそうではないもう一人の『もう一人』なのだと思った。

 どうやら彼女は何が起きているのかわかっていないようだった。

 きっとたまたま、鏡に映ったまま儀式が実行されてしまったのだと思った。

 だから私はこんなに遠くに産み落とされたのだと理解した。

 望まれずに生まれたことを知った。


 栗空恋衣クリカラコイ、という名前を知ったのは翌日だった。

 私の望みは決して大したものじゃない。ただ、普通に生活を送りたいだけだ。

 でも気まぐれで生まれてしまった私は普通がよくわからなかった。

 目的なく生まれ、帰るところのない私は、周りに決して気づかれないように髪型を少し変えてマスクをしながら、本物の様子を探ることにした。

 本物は、『高岩詩桜タカイワシオ』に執着しているらしい。

 それはあの踊り場に二人立っていたあの女のことだ。

 どうやら本物の高岩詩桜といることが、栗空恋衣にとっての普通の生活であり日常であるらしかった。

 いくつかの夜を、ひとりぼっちで過ごした。

 誰にも気取られないように、決して見つからないように。

 食べ物は拾い集めた。

 寝床は毎日探すことになった。

 栗空恋衣の帰り道を、じっと遠くから眺め続けた。

 惨めな生活に、長く耐えられるとは思えなかった。

 私は、普通に生きたい。


 カンカンカンカンカンカンカンカン――


 電車は三分ほど遅れていた。

 目の前で栗空恋衣はそわそわとスマホをいじっている。

 今日最初の授業が英語の小テストで、準備不足が気がかりなのだということを私は知っている。

 苛立たしかった。

 目の前の女にとって、普通の生活はそんなことに気を取られる程度のものだということが無性に腹立たしかった。

 きっとこの瞬間、高岩詩桜のことなど頭から消えている。

 そして、たまに思い出しては怒り出して、家族で夕飯を囲うときにはまたすっかり忘れているのだ。

 私の方が相応しいと思った。

 栗空恋衣に、その普通の生活に、私の方が絶対に相応しい。


 カンカンカンカンカンカンカンカン――


 肩を叩いた。

 彼女は気だるそうに振り向いて、それから私の顔を見て目を見開いた。

 何か不思議なものでも見えたのだろうか。

 そんなこと、もう私の気にすることじゃない。

 私は栗空恋衣のスマホと肘に引っ掛けていた鞄を掴んで奪うと、あっけに取られた様子の彼女の胸の真ん中を押した。ちょっとだけだ。でも、私の力は普通よりは少し強いらしかった。

 栗空恋衣の体が宙に放り出される。

 黄色い線を越えて、線路の方へ。


 ギ――――――――――――――――――――――――――――――


 電車は三分遅れてきた。

 地鳴りのような音を響かせて、止まる。

 普通でないことに、普通に生きてきた人間がわらわらと集まってくる。

 たくさんの人に状況を聞かれて、その都度嘘を答えた。

 煩わしさよりも、これから待っている普通の生活への喜びの方が優っている。

 誰が死んだのか誰もわからなかった。

 これからも誰一人としてわからない。

 だって栗空恋衣は生きている。

 私は、生きている。

 鞄の中を物色して、スケジュール用に使っている手帳を取り出した。

 ずいぶん先まで予定が詰まっている。

 バツがついているのは高岩詩桜との予定だったものだろうか。

 ワクワクしながら、私は一番近い予定に丸をつけた。

 まずは今日のお昼休み。

 この調子だと少し遅れてしまうかもしれない。

 でも、走れば――そうしてきたそぶりを見せれば許してもらえるだろう。


「すいません、遅くなってしまって。セミ研の部室……というのはここであってますか?」

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怪底奇譚 七不思議異聞録 碇屋ペンネ @penne_arrabbiata

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