四番目の七不思議

「要するに、『ドッペルゲンガー』ってことね」


 依頼人の言葉が休符に差し掛かるのを待って、麗は事のあらましをそう一言でまとめた。

「……どっぺる、げんがー、ですか?」

「そう。あるいはバイロケーションとかダブルなんて呼ばれたりもするけれど、同じことよ。自分に限りなくそっくりな、もう一人の自分が同時に存在する現象。栗空さん、あなたの話はポピュラーに語られるその源流のストーリーラインとはだいぶ違うけれど、『不思議』は顕現する際に時代に合わせて形状変化することが過去の事例にも確認されているから、細かいことに目を瞑れば十分にドッペルゲンガーにカテゴライズできる。つまり……、そう『四番目』にあたるわね」

 麗はティーカップに手をかけ、口をつける動作に紛れて小さく肩を落とした。

 極めて上品に。流れるようにスマートに。僕だけには伝わるようにだ。

 その理由は明白だった。


 四番目は七番目でないから。

 二番目が七番目ではないように。

 

 つまりこれから始まる物語は麗にとって大した価値を持つことはなく、費やされる時間や体力や思考や感情は全て徒労に終わって形を成さないことがわかっているということ。

 そんな物語の行く末に麗は落胆し、瞳の色を濁らせる。

 だけど僕は彼女の隣で筆をとり、その全てを記録に残すことを決めていた。

 僕らの、僕と麗との目的は実の所重なってはいないから、分かち合った歳月や体温や期待や恋慕はその全てが僕にとって特筆に値するものだ。


 君が――まで。

 たとえ、僕が――でも。

 

 語りはじめは、少し時間を遡る。

 


 ******



 予定の時間を過ぎても、依頼人がなかなか姿を現さない。

 それはままあることではあるけれど、あまり歓迎できることではなかった。チクタクとそれらしい音で進む古い柱時計の秒針が焦る気持ちを加速させ、小さな部室に漂う静寂はピリピリと肌を刺激する。

 落ち着け、という言葉を飲み込んだ。――これは無価値な投薬だ。僕は落ち着いているし、時間にそれほど厳しいタイプでもない。どちらかと言えば無頓着な方だとすら言えるだろう。

 そう、僕じゃないんだ。

「ねぇ、伊佐木くん。一体何分経ったのかしら?」

 麗が僕の名前を呼んで、それから言葉足らずの、けれど答えが分かりきっている質問を投げつけた。彼女が僕に背を向けているのは、チクタク音の発生源であるローマ数字の文字盤を睨みつけているからだろうに。無用なことをわざわざ問いかけるのは約束を取り付けた僕に対する当て付けに違いなかった。

「昼休みが始まってちょうど十五分。午後の授業まではまだ五十分あるよ」

 だから落ち着け、という言葉を僕はやっぱり飲み込んだ。今の彼女にとっては劇薬だ。こちらから覗ける後ろ頭は先ほどから怒りでプルプルと震えているし、ペン回しに使われていたはずの細いボールペンは今や意味もなく握り込まれて微かに軋んでいる。些細な刺激でいつ爆発してもおかしくないように思えた。

 ふわりと肩口までの黒髪がはためいて、整った横顔がやや僕の方へ傾く。視線はあっていないけれど、これはきっと睨まれているのだと僕にはわかった。

「時間を守らないって破壊的な行動よね。それってつまり他者の――ひいては私の有限な価値を犯す侵略行為そのものだわ。こんなにコストパフォーマンスに優れたテロリズムが規制もされず大した罰も課されずに蔓延しているこの世界に未来なんてない。即座に根絶すべき絶対悪よ。伊佐木君もそう思うでしょ?」

「僕は思わないよ、麗。依頼人の栗空さんには今この場に辿り着けていないのっぴきならない事情があるのかもしれないし、連絡の一本も寄越せないような事態に巻き込まれているのかもしれない。むしろ僕は彼女が心配だよ。何か大事じゃないといいけど」

「そう、つまり伊佐木君は私が嫌いなのね。ふーん、そういえば私も同じ。嫌い。嫌いよ。昔からそうだったわ。嫌いな私の言葉だから正論をうまく飲み込めず、私と対照的な意見に身を寄せたがる。そういうことでしょ?」

「そうじゃない。僕は麗が好きだし、君も本当は僕が好きだよ。だけど今の麗は少しだけ気が立っていて、とにかく何かを否定したくてたまらないだけさ。気持ちは理解できるけど、安易に同調することは僕にはできない。それをすれば、いつもの本当に正しくて聡明な君を否定することに繋がるからね」

「そうやって私の全てを知った風に語るのに、同じ唇で私を非難するあなたが嫌い。まどか、覚えておいて。これは本音よ。心からのね」

 軽口の応酬が基本の僕らの会話に、麗が僕の名前を混ぜることには意味がある。今回なら警告。一枚目のイエローカード。

 フレルナキケン、だ。僕は爆弾少女に気を使って音を立てないように慎重にため息をつく。

 視線を部屋の反対に向けると、比良目ヒラメが小さな木片にヤスリをかけている。あいつは良くも悪くもいつも通りで、なんとも呑気なものだった。同じ部屋にはいるけれど、僕らは互いに干渉しあわない。僕が彼の作るものに興味を示さないのと同様に、やつも麗のフラストレーションには無関心なわけだ。比良目はただそこにいるだけ。できることなら、今日ばかりは僕もそちらに回りたかった。

 座っていたパイプ椅子の背もたれに体重を預けて、さして高くはない天井を見上げる。窓のない部室に漂う空気は陰鬱で、息が詰まりそうだ。

 とはいえ、歓迎できることではないけれど、それはままあることなのだった。


 コツ、コツ、コ、


 控えめに扉を揺らすノックの音が響いたのは、それから約二分後のことだった。

「すいません、遅くなってしまって。セミ研の部室……というのはここであってますか?」

「一年生の栗空さんだよね。どうぞ中へ」

 今が十月の半ばであることを考えればやや季節外れな玉の汗を額に浮かべた依頼人を来客用のソファへ促して、僕はすっかり冷え切ってしまった机の上のカップを回収して新しい紅茶の用意を始める。

 相談事を直接聞くのは麗なのだからそれほど急ぐ必要はないけれど、小さな焦りが僕の手先を震わせた。彼女のイライラが言葉に乗らないことを祈りながら、背後で交わされる会話に耳をそばだてる。

 大丈夫、麗は外面を繕うのは苦手じゃない。

「自己紹介から始めましょうか。私は二年の純架麗スミカレイよ。この部の部長をやっているわ。といっても人数の少ないうちの部では肩書きなんて名ばかりのものだけどね」

「一年D組の栗空恋衣クリカラコイって言います。あの、噂でセミ研のことは聞いていて、私今回のことでどうしたらいいのかわからなくて、連絡させてもらいました。でもその、こんなこと言うのは失礼なのかな。本当に『ある』とは思ってなくて……」

 語尾を濁すように栗空さんが語ったのは僕らのこと。

 『噂のセミ研』は一応この学校、つまり開帝学園高等部に正式に認可されている部活動ではあるけれど、世間的には実在を怪しむ声が多いのも事実だ。胡散臭くて理解されにくいことを筆頭に、それにはいくつかの――いや、控えめにいっていくつもの理由があって、身内の僕からしてもそれは無理からぬことに思えた。

「学園の七不思議研究会、なんですよね?」

 依頼人が恐る恐る、といった雰囲気で確認の言葉を口にした。

 それを聞いた麗の真っ赤な唇から細く小さなため息が漏れる。

 いつものこと、だから。これもまた無理のないことだ。

「よくある勘違いだけれど、それは間違いよ。だからセミ研という略称、私は好きじゃないのよね。誰が広めているんだか……。正式名称は『セブンミステリーズ研究会』じゃなくて、『セブンスミステリー研究会』」

 つまり、と麗は一泊溜めた。

「ここは開帝学園に潜む『七番目の不思議』の解明を目的とする部活よ。標的は名無しの七番。それだけ。ただ、あまりに手がかりの少ない七番に至る道を模索するために、他の不思議案件の情報も収集対象となってはいるけれどね。だから安心して、あなたの相談が私の求めるものに直接の関係を持たないとしても、簡単に追い返すようなことはしないわ」

 依頼人の栗空さんは一瞬呆けた顔をして、そんな自分に気づいたのか慌てて表情を戻した。

「あの、はい、なるほど……」

 まぁ、開帝学園の生徒であるとはいえ部外の人間にとって今の説明は理解し難くても当然だ。なんだか訂正されたようだけど一体何が違うのか、と疑問に思っていることだろう。考えることに意味はない。結局、突き詰めれば七番への執着なんて麗のこだわりでしかないのだから。

「えっと、その七番目って――」

「栗空さんの相談内容が七番に掠めることがない限り、私の方からそれに言及することはないわ。それよりあなたの話が聞きたいの。――本題に、は、い、る、ま、え、に、ね。ねぇ、まどか」

 依頼人の言葉を必要以上に冷たく麗が遮る。

 まずい、と思った。言葉をスタッカートで区切るのは、彼女の感情が爆発する前触れだ。

 二枚目のイエローカード。黄色は重なって真っ赤に染まってゆく。

 まったく、麗の機嫌の悪さを一瞬でも忘れていたなんて今日の僕はどうかしているらしい。

「栗空さん、あなた」

 麗が依頼人に迫る様子を片目に、僕はヒミツの引き出しに手をかけた。

 

「一体全体どうしたら予定の時間をこんなにも遅れることになるのかしむぐぅ――」


「粗末なものだけど、栗空さんもどうぞ。口に合うといいけれど」

 カチャン、と小さな音を意識して立てながら僕は机にカップとお茶菓子を並べた。淹れたばかりのカモミールから立ちのぼる甘い香りの湯気がわずかばかりでも空気を和ませてくれるはずだ。

「ん、んぐなむぅ」

「わわわ、えと。純架さん、なんだかすごいことになってますけど……」

 栗空さんが目の前の状況に素直な感想を述べる。

「そうだね。麗の口を塞げるちょうどいいサイズのカステラがあってよかった。あまり気にしなくていいよ。感情的になった麗には甘いお菓子が一番なんだ」

「だむんぐ、いさんぐがががが!」

「かす、てら……、一本丸ごと突き立っているから何かわかりませんでした……。そうか……カステラ……刺さるんだ……」

 喉を押さえて暴れながら机に手を伸ばす麗から紅茶をスッと遠ざけながら、僕は栗空さんの対面、要は麗の隣に座った。さぞ水分が欲しいところだろうけれど、今の彼女には頭を冷やす時間が必要だ。

「僕は二年の伊佐木円イサギマドカ。正式にはセミ研の部員じゃないんだけど、部の雑用兼麗のお守り役みたいなものだと思ってくれればいいよ」

「伊佐木、先輩……。あ、あの私が遅刻したのが悪いんです」

 栗空さんは健気にも、そう謝罪の言葉を口にした。

 いい子だ。あとで麗のために少し爪の垢を分けてもらおう。

「実は登校前に地元の駅で人身事故があって、私すぐ目の前だったから状況の説明とかで駅長室に長い間拘束されてしまったんです。だから学校に着いたのもほんのさっきのことで」

 スッともう一度、僕はカップごと麗の手を避ける。猫舌の彼女が慌てて飲むにはまだ熱い。

「人身事故ってことは、自殺の現場を見たってことなのかな。それはさぞショッキングな出来事だっただろうね」

 この部屋に入ってきた時の栗空さんの様子を思い出す。額に浮かべた汗や通学用であろう革の鞄を抱えていたことからも、校舎についてから教室にも寄らずにこの部室まで走ってきたのかもしれない。

「みんな大騒ぎでした。電車も止まっちゃうし、駅員さん達に囲まれて怖かったです。でも」

 栗空さんがスッと目を合わせる。

「ショッキングってほどでは、なかったかなって」

 凪のように落ち着いた静かな瞳。動揺はうかがえない。

「それはどうしてかな。人の死に際を見たんだよね?」

「そうなんですけど、人って言っても『他人』じゃないですか。友達とか家族だったら違ったかもしれないけど、あんまり感情は動きませんでした。電車が止まろうとする大きな音がして、それからは一瞬で……。あれはすぐに人の形ではなくなったから、多分苦しくなかったと思います」

 彼女の言葉を、僕は面白いと思った。きっと、栗空恋衣という少女を外から見て受ける印象とは少し離れた感想だったからだ。

「それは事故の被害者が即死だったことが関係するのかな。例えば、怪我をして痛がる姿を見ていたとしたら」

「どうでしょう。同じことじゃないかなって。多分私は何もしないし、できないし」

「栗空さんは自分に関係があることとそうでないことをうまく切り分けることができるんだね。そうして不要な自身への干渉を避けることができる。他人の痛みに敏感でテレビの中のニュースに涙を流す人間もいる一方で、あるいは遠く離れたところで起きた不祥事に怒りを隠さずにはいられない人々が存在する中、君は分別をつけられる」

「冷たい人間だと思われちゃいましたか?」

「いいや。そんな君から語られる相談というのに、俄然興味が湧いてきたところさ。確か友達についてのことだったはずだけれど」

 カモミールティーから立ち上がる湯気が細くなったのを見て、僕はそれを麗の手元まで滑らせた。頃合いだ。

「まだ熱いから、気をつけて」

 言葉を待たずに麗がカップを掴む。その所作には普段の余裕が出てきていて、野暮な僕の介入にはそれなりに効果があったことがわかる。些細な音も立てずにカップは受け皿に収まった。

「日本では毎日平均で三千人以上の人間が死んでるわ。老若男女、多少の分布の違いがあるとはいえ私たちのすぐそばでもね。いちいち心を揺らしてたらキリがないってことよ。栗空さん、私たち気が合いそうね」

「麗、カステラの味はどうだった?」

「いつも通りよ。伊佐木くんの所為でほっぺが落ちるかと思って焦ったわ」

「それはよかった。栗空さんも遠慮せずどうぞ」

「あ、はい。いただきます」

「それじゃあ、本題に入りましょうか。確かそう、鏡にまつわる話だったかしら」



 ******



「お二人は、目を瞑って階段を上り切ったことがありますか?」

 依頼人――栗空さんの話はそんな言葉で始まった。

「それを教えてくれたのは、幼稚園の頃から親友の詩桜です。高岩詩桜タカイワ シオって言います。今はクラスが違うけど、それでもずっと仲良くて……。あの日も彼女に誘われて、人がいなくなる放課後を待ってからその階段に向かいました。ほら、うちの校舎ってなんのためにあるのかよくわからない通路とかあるじゃないですか。こんなになくてもいいのに余計にある階段っていうか、その一つです。第二音楽室前のって言えばわかりますか?」

 麗が小さく頷いて、僕もそれに続いた。特徴もなく、存在感の薄い場所ではあるけれど、通って二年目ともなれば校舎に知らない場所はない。とはいえ、それは新校舎に限った話ではあるけれど。

「踊り場まで十二段あるんです。詩桜からそう聞いていたし、実際その場で確認もしてみました。上から数えても下から数えても十二段。だけど、一番下から目を瞑って数えながら登ると、一段増えるっていうんです」

 十二段から、さらにもう一段。

「十三階段ってわけね」

 麗は栗空さんにそれしか言わなかったけれど、僕らにとっては意味のある言葉だった。

 七不思議にはオリジナルセブンである一から七の外にエクストラナンバーズが存在している。

 奇妙なことが起こり続ける開帝学園では、不思議をたった七つに収めることなどできず、規模の小さなものや影響のささやかなものは八番以降に割り振られているというわけだ。

 僕の記憶では、そして僕らの記録では、『十三階段』は十一番目。十一番目の七不思議。

「よく知らないですけど、不吉……ですよね?」

 栗空さんが不安そうに聞くと、麗がそれに答えた。

「まぁ、そう感じてもおかしくはないわね。十三階段はいわゆる死刑囚が登る絞首台への道の暗喩だし、西洋においては十三を忌み数として避けて扱う地域もあるわ。でも数字の印象なんて適当なものよ。七をラッキーに思う人間が決して少なくないようにね」

 つまらなそうに吐き捨てる。

「それで、あなたは実際に上ったのよね? その十三段目を」

「そう、なんです。詩桜に手を引かれて。怖かったけど、詩桜がいたから」

 ぎゅっと、栗空さんが膝の上に置いた両手の拳を握り込む。

「目を開けた時、そこはいつもと同じ踊り場に見えました。ちょっと薄暗いのだって変わらないし、拍子抜けするくらい違いがなくて……。でも詩桜の視線を追って気がついたんです。私たちのすぐ横に、鏡が立っていること」

「大きなものかしら?」

「ああいうの、きっと姿見っていうんですよね。私たちより背が高くて、でも横幅は一人分くらいだったと思います。飾り気はないけど、一度気づいてしまったら目が離せなくなるような不思議な存在感がありました。暗かったけど、私と詩桜が映っているのがわかって、気味が悪いなって私は思ったんですけど……」

 紅茶に手を伸ばす栗空さんの所作を見届けて、麗は尋ねた。

「詩桜さんの様子はそうでなかったのね?」

「はい……。あの、私その瞬間まで詩桜がどうしてあそこに行きたかったのか知らなかったんです。聞かなかったし、気にも留めなくて。ただ詩桜が行きたいのなら、私も行くものだって思ってたから。だからびっくりしました。耳を疑ったし、今でも本当は信じられないんですけど、こんなことになってやっぱりそうだったんだって」

「詩桜さんはなんて?」

「……鏡に向かって近づいて、じっと見つめて、それから、」

 それから、


「一人が怖いの、って」


 ガシャン、という音がして陶磁のカップが砕けた。栗空さんが手元に抱えていた茶器が床に落ちたようだった。

「あの時も……、そうこんなふうに大きな音がして、鏡が割れたんです。思わず目を瞑ってしまって、詩桜に駆け寄って縋るように手を取りました。でもなんだか変で、妙にその手が冷たくて、目を開けたら……」

 記憶に怯えるように栗空さんは肩を抱える。

「二人の詩桜が私を見ていたんです。同じ顔で、同じ表情で、でも立っている位置でわかっちゃって、私の握っているこの手は、これまで一緒にいた詩桜じゃないってわかっちゃって」

 だから、

「だからその手を払って、もう一人の――つまりその本物っていうか、ずっと一緒だった詩桜の手を引いて逃げようとしたんです。怖かったし、すぐにでもその場を離れなきゃいけないって思ったから。私、詩桜も同じ気持ちだって思ってた」

 それなのに、

「詩桜は動こうとはしませんでした」

 言葉に、涙が混じる。

「偽物と同じ顔で言うんです。『ありがとう』でも『ごめんね』って。私、あの時どうしたら良かったんだろう。わからなくて、わからないなりに考えて、詩桜を置き去りにして逃げ出しました。後悔してるけど、今考えてもやっぱりどうしたら良かったのかはわかりません」

 ただ、逃げちゃいけなかったんだ、と。

「次の日の朝、授業が始まる前に隣のクラスに行くと詩桜はそこにいました。いつも通りにぼんやり窓の向こうを覗いていて、私に気がつくとこれまで通りに笑ってくれて、ほっとしたんです。前日のことは夢か何かだったのかもしれないって。怖いの見ちゃったなって。それで、私詩桜のことを呼びました。『詩桜』って。そしたら『恋衣』って返ってきて――黙っている私に彼女は続けました」


『あ、ごめん。もしかして間違ってた?』


「実際、違ってたのね?」

 栗空さんが頷く。

「詩桜は私のこと、『恋衣ちゃん』って呼ぶんです。小さい頃から変わらなくって、私がやめてって言っても直してくれなかったのに。アレは、だから詩桜じゃないんです。本当の詩桜は学校に来てない。電話してもチャットしても繋がらないし返ってこなくて、偽物は本当の詩桜のことちゃんと生きてるって言うけど、そんなの全然信用できないし、それでいて詩桜みたいな顔で詩桜みたいな声で詩桜みたいなことを私に語りかけてきてそれで、それで、それでその」

 これまで捲し立てるように話していた依頼人の言葉が詰まる。

 一瞬の静寂は、彼女が冷静さを取り戻すには十分だったように見えた。

「あ……、ごめんなさい。ティーカップ、割ってしまって」

「要するに、『ドッペルゲンガー』ってことね」

 依頼人の言葉が休符に差し掛かるのを待って、麗は事のあらましをそう一言でまとめた。

「……どっぺる、げんがー、ですか?」

「そう。あるいはバイロケーションとかダブルなんて呼ばれたりもするけれど、同じことよ。自分に限りなくそっくりな、もう一人の自分が同時に存在する現象。栗空さん、あなたの話はポピュラーに語られるその源流のストーリーラインとはだいぶ違うけれど、『不思議』は顕現する際に時代に合わせて形状変化することが過去の事例にも確認されているから、細かいことに目を瞑れば十分にドッペルゲンガーにカテゴライズできる。つまり……、そう『四番目』にあたるわね」

 麗はティーカップに手をかけ、口をつける動作に紛れて小さく肩を落とした。

 僕は麗の講釈を片耳で聞きながら、床に散らばった破片を拾い集める。ざらつく断面がまるでこの場にいる全員の心境を表しているみたいだなんてどうでもいいことが一瞬頭を過ぎった。

「事象そのものはシンプルな内容だけれど、判断に困る案件だわ。ドッペルゲンガーに関する類型はいくつかあって、そのほとんどは実害がないから。もちろん危険なものも存在してはいるけれど――自分と同じ姿の人間を見ると死ぬ、とかね。でもその条件はすでに成立してしまっているし、何より話を聞くかぎり詩桜さん自身がこの状況を望んでいたようにも思える。意図はわからないとしても」

 ふぅ、と栗空さんにも伝わるように麗がため息をつく。

「何かの行動が必要な事案には聞こえないわね」

「そん、な……。こんなおかしなことが今も起きてて、何もしなくていいって言うんですか?」

 栗空さんが驚きを――あるいは失望を隠さずに、言葉を返した。

「おかしなことはね、栗空さん。学園の中では常に起きているわ。不思議はいくつもどこにでもある。初めにも話したけれど、部の活動原理の根底にあるのは名無しの七番それのみで、私たちは正義の味方でも、学園の警備を担っているわけでもないの」

「でも詩桜は、本物の詩桜は学校に来てないんです」

「それ。本当にドッペルゲンガーのせいかしら」

「そうに決まってます! だって、だって本当の詩桜が私を捨てるはず、ない、から」

 麗は黙る。

「私、おかしなこと言ってますか?」

「そうじゃないんだ。栗空さん」

 集めた破片をひとまず机の上に重ねて置きながら、麗の代わりに僕が答えた。

「麗が言っているのは、起きている事柄に対して僕らの観点からは対処の必要がないってことなんだよ。セミ研としてはここまでの君の話を聞けたことで十分な収穫だからね。となると、もしそれ以上のことを栗空さんが望むのなら、これまで話してくれた『事実』以上の部分に言及する必要があるって言うこと」

「それって、」

「そうね。私もせっかくのあなたとの出会いと、ついでに待たされた昼休みの時間を無下にするつもりはないわ」

 自分の紅茶を一口啜って、麗が視線を依頼人に合わせる。

「栗空恋衣さん、これまでの話を踏まえて改めて聞くわ。あなたの依頼は一体なにかしら?」

 チクタクとそれらしい音で進む古い柱時計の指す時刻は思ったほどには進んでいない。

 いつもとそこまで変わらない少しピリピリとした空気の漂うセミ研の部室に、振り絞るように発せられた栗空さんの言葉が静かに反響した。


「お願い――いえ、依頼します。

 私の詩桜ではない詩桜を、どうか殺してくれませんか?」



 ******



「七…………、八…………、九…………」

 探るように出した革靴の先で、恐る恐る段を踏みしめる。

 床からは硬く冷たい音がして、それもあってか手のひらで感じる麗の体温はどこか普段より暖かく思えた。視界がないのも手伝って感覚が研ぎ澄まされているのかもしれない。

「十…………、十一…………、十二…………、十三」

「どうやらここまではあの子の言葉に偽りはないようね」

 麗の言葉を聞いてから、僕はゆっくりと目を開いた。

 薄暗い踊り場。

 階段自体に幅があるのでそれなりに広く区切られたその正方形の空間に、僕ら二人は立っている。それからもう一つ。

「栗空さんから聞いていた印象通りの鏡だね」

 目を逸らしたら忘れてしまいそうなほど特徴がないのに、目を離せないほど引き込まれる存在感のある姿見。サイズは僕よりも少し大きいくらいで、麗が横に並ぶと高さが際立った。

「不気味ね」

 少しも思ってはいなさそうな声音で麗はそう一言呟くと、鏡の裏に回ろうと歩き出す。

「つっ――」

 そうしてすぐにつんのめった。僕の手と彼女の手が、まだ繋がったままだったからだ。

「私が動き出したことには気づいていたと思うけれど、これは怒ってもいいわよね? 伊佐木くん」

 すでに怒りを含んだ声。

「麗が手を離したら解決するようにも思うけど?」

「いやよ」

「僕が離そうか?」

「いや」

 麗の返事はそれだけ。理由を話さないのは、言い合うつもりがないからに違いない。

 結局僕が折れた。彼女の歩調に合わせて近づく。横に並んで、足音が重なる。

「麗、栗空さんの依頼を受けるつもりか?」

「それを考えるためにここに来たのよ。あくまで、七番への手がかりを探すおまけにね」

「殺しの依頼だったと思うけど」

「そうね。けど相手は人じゃない。なら罪には問われないし、怪異を世界の異物と捉えるなら一定の正当性は認められる内容よ」

「ここには僕らしかいないんだから、無理して思ってもないことを言わなくてもいいのに」

「あら、思ってもないかどうかはわからないじゃない」

「わかるさ」

 必要以上に強く握られた君の手が震えているから。――それに、お兄さんのこともある。

「あのね、伊佐木くん。わからなくていいの。私が知って欲しいこと以外、わからなくていい」

 麗が足を止めて、長い髪が翻る。

「私がそばにいて欲しいのはね、なんでもわかったように達観して私のことを見ている理解者なんかじゃないわ。どんなことがあっても私を信じる味方よ。私が何を選んでも、私が何を望んでも、私が誰かやあなたや私自身に嘘を吐いても、見ないふりをして肯定してくれる人間。それでいいの。覚えておいてね」

 まどか、と彼女は最後に小さく僕の名前を呼んだ。

 麗の望みは理解できる。

 だけどそんな関係性が成り立つようには僕らが器用でないことも明らかだった。

 不格好に強がって、不必要に傷つけて、痛みでお互いを感じ合い、失ったものを数え合う。

 結局のところ似たもの同士なのだ。

 麗と円はゼロだから。

 君は音、僕は形で、その本質を――欠落を重ねているだけ。

「そうだね」と僕は答えた。

 返事としてはどこかズレているけれど、それは正しく肯定だった。

「鏡には……、種も仕掛けもないようね。ま、そんなものは初めから期待してないけれど。どこからどう見ても、裏を返して捻ってみても、ただ大きいだけの鏡。ちゃーんとあなたが写ってる」

 一周して、僕らは姿見の正面に立っていた。

 曇り一つない鏡面には僕と、それから一歩引いて見切れた麗。

「さ、試しましょ」

 麗の手が僕の手を離れた。なんの躊躇もなく、少しの未練もなく、その温度も残さずに。

 彼女自身も僕から距離をとって、つまり試すのは自分ではないというアピールをして、何か期待をするような、けれどどこかひどくつまらなそうな顔でこちらを眺めた。

 複雑だな、と思う。麗は。他人は。人間は。

 一歩、前に進む。

 前とは姿見の方であり、そこに映る僕の方。

 向き合うことで視線が重なり、僕が彼を覗くように彼もまた僕を見つめている。

 もう一歩、そこで立ち止まる。

 その言葉、あるいは呪文は、依頼人の栗空さんから聞いていた。


「一人が……怖いんだ」


 ガシャン、という音がして鏡が砕ける。

 聞いていた通り――と、そう表現するにはどこか違和感があった。

 音は目の前から聞こえたようには思えなかった。

 いや、目の前の鏡も確かに砕けてはいたのだけど、それとは別の何か――例えば空間や、存在や、居場所や、歴史、もしくは安心や、束縛や、想像や、連帯なんかに、致命的な傷を受けたようなそんな音。不可逆の過ちが世界を割る音。

 まるでスローモーションのように鏡の破片が一枚ずつ着地してゆくのが見えた。鋭敏になった感覚が胸の気持ち悪さを助長する。何かがきっと起きたのだ、と予感させる。

 構えてはいたはずなのに、理解を超える衝撃に見舞われた僕の体は動かなかった。痺れたようにも、打ち砕かれたようにも思えた。

 壊れたのかと思った。僕が。もしくは僕以外のあらゆるものが。

 とはいえ、その全ては一瞬のことだ。

 僕はすぐに自分なんかよりずっと大切なものに思い至って力任せに振り向いた。

「麗!」

 彼女は僕に、丸めた背中を向けていた。

 肩が震えているのがまだ距離のあるここからでも分かる。

 わざと足音を立てながら近づいて、僕はその肩を支えた。もう一つの手で彼女の拳に触れる。

「伊佐木くん、私……」

「いいよ、麗。ゆっくりでいい」

 彼女の両手は一本のナイフを握り締めていた。

 磨き抜かれた木製の柄と、それに続く金属部の丈が一対一。

 鋭角で直線的な両刃の剣先は実用性を削ぎ落として儀式的な目的を尖らせている。

 つまりそう、切ることには向いていない。

 刺すためだけに作られた特注の刃物。

 彼女の手のひらにも満たない大きさのソレから、一本ずつ指を引き剥がす。

「私、だめだった……」

 麗は自分の体を――体重を僕に任せて呟くようにそう言った。

 事実それは僕に向けられた言葉ではないようだった。自分自身に確認を促すように、言葉を反芻する。飲み込めず、嗚咽する。

 ようやく麗の指から溢れたナイフを僕は近くの壁に突き立てた。自由になった両手で彼女を支える。抱える。普段は凛とした姿の麗がやけに小さく思えた。


「私、あなたを殺したわ」


 麗はそう言った。目を合わせないようにしながら。

「僕はここにいるけど」

「そう。でもあの瞬間、私の横にもう一人いたの」

 ぞく、と背筋に冷たいものが走る。

「伊佐木くん、気づかなかったでしょう? 気づかないように、気づく前に、って体が動いてた。私だめだったわ。あなたの他に、あなた以外の、あなたがいることに耐えられなかった」

 不思議ね、と続ける。

「多い方がいいかもしれないって少しは考えてた。例えば大切にしていたぬいぐるみが、二つになったら嬉しいでしょう? 小さな子供の頃なら、素直にそれを喜べたかもしれないわ。私はそういう子だったしね。一つより二つ。二つよりもっと。けど、大きくなった私にはその先がもう見えている。二つは抱えきれなくて、すぐ扱いに困ってしまうもの。逆もそうでしょ? ……伊佐木くんに守られた私を見たあなたは、いずれ私から離れていくもの」

「一つ残るならいい、とは思えない?」

「私の元にいないあなたを許容できるか、と聞いているの? 愚問ね」

 だから殺した。生まれたばかりの、僕のドッペルゲンガーを。

「麗が気にする必要はないよ。彼は怪異だったし人でも、それに僕でもない。正当性は認められるさ」

「伊佐木くんって都合がいいわ。その時々で簡単に意見を変えられる。正義の味方にはなれないタイプよね」

「意見ぐらいいくらだって変えるさ。麗のためならそれが正義だよ。お兄さんには怒られるだろうけど」

「あんな人知らない。聞きたくもない」

「そっか」

 相槌だけ打って、僕は謝らなかった。

「はぁ、くだらない。くだらないわ。どうして私が他人のためにこんな苦労をしなければいけないのかしら。どうせ七番には届かない。無駄よ、こんな不思議。こんな怪異」

「決めたんだね。栗空さんの依頼にどう答えるのか」

「そうは言ってないわ」

「でもそういうことだろ?」

「きらい」

 麗は落ち着きを取り戻したばかりの体を起こして立ち上がり、壁からナイフを引き抜くと胸元から懐に戻した。彼女にとってそれは武器であること以上に大切なお守りだ。ようやく表情にいつもの調子が帰ってくる。

「放課後、一年生の教室に向かうわ。高岩詩桜さんはC組だったわね。タニくんにうまく場を作らせておいて。……そういえば彼、うまくやってる? 確か、十四番の少女の監視中だったはずだけれど」

「さっき定時連絡が来てたよ。アスパラベーコンの添付画像と一緒に『今日もお裾分けしてもらいました。激うまです!』ってさ」

「…………」

「…………」

 あれ、こいつ監視対象と接触してないか?

「ま、いいわ。何を言っても飄々としているだけのタニくんを問い詰めても詮のないことだし、成果が上がれば文句もない。ただ、上手にコントロールしてね。十四番は鍵になるかもしれないのだから」

 十四番は最新の七不思議。それが観測されたと思われるのはつい先月のこと。

 鍵というのは、要するに七番へと続く道のことだ。

「今度こそ本物か?」

「さぁね。けど期待なんてしない。してもしなくてもいずれ分かることよ」

 麗は焦らない。その様子は、凛とした彼女に相応しい姿勢だ。

 けれど僕は知っている。僕だけは知っている。

 もう、彼女はもがき切った後なのだということ。足掻き切った後なのだということ。

 いくつもの望みを絶たれた先で、麗はまだ七番を追いかけている。

 だから無駄に見えても不毛に思えても、こうして他者の相談に耳を傾け不思議と向き合っている。

 僕は寄り添うだけ。できることは多くない。

 ただできることは多くなくとも、僕は寄り添うだけだ。

「行こうか、麗。もうここに用はないだろ?」

「そうね。けれど授業に行けというのならお断りよ。そんな気分じゃないわ」

 開帝学園は自由な校風が一つの特徴だ。点数さえ取れれば授業への出席は評価に大きく影響しない。とはいえ優秀な人間ばかりのうちの生徒で、それを盾にする僕らのような不良は多くないだろうけど。

「食べ逃したランチにしましょう。今日はフレンチの気分よ」

「麗はカステラ食べてなかったか?」

「忘れたわ。そんなこと。あなたも忘れて」


 ******



「えっと……、どうして二人いてはいけないんでしょうか?」

 高岩詩桜――の姿をした少女は、至極当然の疑問であるかのようにそう語った。

「例えば、大は小を兼ねるという言葉があります。端的にいえば、小さいより大きい方がいいという意味で、二は一よりも大きいですよね。人は減ることや無くすことに敏感で、何事も多いに越したことはないと考えているようにも思えるのです。だから、よくわからないなって。どうして二人いてはいけないんでしょうか?」

 一年C組の教室、窓際から二番目の最後尾が彼女の席だった。

 僕と麗が教室に入ると、窓の向こうを覗いていた彼女はすぐに気がついて礼儀正しく小さく頭を下げた。

「皆さんが、詩桜と私のことを聞きたいっていう先輩方ですよね?」

 切り出し方を迷っていた僕達にこともなげにそう話す彼女は、見た目からではとても我々とは別種のものであるようには思えなかった。

 そういうものなのだろうけれど、人間にしか見えない、というのが僕の感想だ。

「ドッペルゲンガー、か。私そう呼ばれているんですね」

 落ち着いた物腰で僕らを見つめる少女に、となりの麗も少したじろいでいるようだ。

「ねぇ、伊佐木くん。場を作れとは言ったけれど、タニくんは当人に対して物を話しすぎじゃないかしら」

 それは僕も思っていたところだった。僕らとしてはまず高岩詩桜本人と接している体で会話を始めて、綻びを見つけていくつもりだったのだけれど。

「まぁ……、話が早くて助かったととるべきだろうね」

「そう、きっと性善説を信奉していることが伊佐木くんの死因になる日が来るわ。楽しみね」

 はぁ、とあからさまなため息を僕に向けて、麗は少女の一つ前の席に座った。椅子をくるりと回して、長い両足を横に畳む。

「二年の純架麗よ。こっちは伊佐木くん。あなたのことは、なんと呼んだらいいかしら?」

「みんなからは詩桜って呼ばれてますよ。恋衣には、アンタとか言われちゃいますけど」

「難しいわね。同名の人物の存在を二人も知っている私たちには、なんらかの形で区別が必要なのよ」

 麗の言葉に首をこてんとひねる彼女の仕草は、どこか小動物のような愛らしさがある。これが『本物』もそうなのか、それとも目の前の少女だけの特性なのか。高岩詩桜を直接は知らない僕には判断できなかった。

「不思議なことを言うんですね。呼び方、かぁ。それ本当に必要ですか?」

 静かな声で、そう言った。


「だって皆さんは、私を殺しに来たんでしょう?」


 何もかもが筒抜けだった。睨みつけてくる麗の視線を避けるように、僕は頭を抱える。

 タニのやつ一体どこまで話してるんだ。

「……そういった内容の依頼は、確かに受けているわ」

 こちらが用意していたプランの何もかもが無駄であることを悟って、麗は正直に話した。

「あなたは――いえ、ここはあえて詩桜さんと呼ばせてもらうけれど、詩桜さんはなぜここで待っていたのかしら。私たちの意図を知っていたのなら逃げることもできたはずでしょう?」

「できたかどうかでいえばできたと思いますけど、それって意味のないことじゃないですか。今日をやり過ごすだけじゃだめなんです。明日も明後日も、授業があるし、学校に来たいし」

 おかしなことじゃないですよね? と彼女は笑う。

「皆さんのいうドッペルゲンガーには――ってつまり私のようなもののことですけど、望みがあるんです。願いとも言うのかな。笑っちゃうくらい平凡で小さな願いですよ。普通に生きたいんです。普通に学校に通って、普通に友達と話して、何か楽しいことを探して、ちょっと将来のことに悩んでみたりもして、時には挫けたり乗り越えたりもして、そんな生活」

「でも、それはあなたが本物の詩桜さんの生活を乗っ取ることで始めて成立しているものでしょう?」

 麗の言葉に微笑みを返す。

「これは初め、詩桜が望んだことなんです。あの子にはやりたいことがあって、それにはたくさんの時間が必要で、学校で授業を受けている暇なんてないってずっと思ってた。だから私という身代わりを望んでいたんです。普通の生活を望む私と、普通から抜け出す必要があった詩桜。私たちの望みはピッタリ重なっていて、誰も困ってはいません」

「……詩桜さんが望んでいたこと、ね」

 それは事の経緯を聞いた時から、引っ掛かっていたことだった。

 高岩詩桜は計画的に自身のドッペルゲンガーを作り出して、入れ替わったのであろうことはわかっていたことだったからだ。

 僕は何も言わなかった。

 麗も何かを考えているようだった。

 言葉は僕らのずっと後ろから発せられた。


「勝手なこと言わないで!」


 解放されたままだった教室の扉の前に、依頼人――栗空恋衣が立っている。

「恋衣ちゃん」

「アンタにそんな風に呼ばれたくない」

「ちょ、ちょっと、」

 僕の制止に構わず、栗空さんが詩桜さんの前に詰め寄る。

「誰も困ってない? 私から詩桜を奪ったアンタが何言ってんの」

「詩桜が選んだんだよ。詩桜は自分を縛る学校や家族や日常から距離をとる必要があった。それから恋衣、あなたからも」

「だから適当なことを――」

「それに恋衣は何も奪われてないよ」

 詩桜さん――この場にいる詩桜さんは栗空さんの手を取って、大切な宝物に触れるように自分の元へ手繰り寄せる。

「だって恋衣には、私がいるでしょ?」

 パァンっ、と空気の弾ける音が教室を震わせた。栗空さんが振り払った手で詩桜さんの頬を引っ叩いた音だった。

「どの口が!」

 続けて二発目を見舞おうとする栗空さんの手を僕は後ろから掴んだ。

 年相応のか細い腕。こんな風に振るわれていいはずのない腕だ。

「離してください。どうして止めるんですか?」

「僕らは依頼を受けている。だから例えそれが必要なことで正しいことであったとしても、やるのは麗だよ。君じゃない」

 栗空さんは乱暴に僕の手を振り払う。

 納得はいかないようだった。それもしょうがないことだろうけれど。

 イタタタ、と詩桜さんは頬を抑えている。

「その痛みも偽物でしょ?」

「わぁ、恋衣ちゃんひどいなぁ。詩桜が羨ましいよ。……私も自分のために怒ってくれる友達が欲しかった。失敗しちゃったなぁ」

 ははは、と小動物のように笑う詩桜さんが、視線を麗に合わせた。

「純架さん。純架……麗さんでしたよね。素敵な名前。ねぇ、純架さん。私と賭けをしませんか?」

「賭け?」

「そう。私にとってはとっても分の悪い賭けです」

 詩桜さんは机の上に出しっぱなしの筆入れのチャックを下げ、太い金属製のボールペンを取り出した。それをクルクルと手元でほんの少しの間弄んだ後、ぴたりと止める。

 彼女の左胸、ちょうど心臓のあたりにその切先が向くようにして、一直線にその反対の端を麗に向けた。

「硬くて長くて簡単には壊れない、いいペンです。凶器としても十分使えます。このまま、そちら側からぐっと押し込まれたら……私死んじゃいますね」

「それで?」

「押し込んでみて欲しいんです」

「これの一体どこが賭けなのかしら?」

 ふふっと詩桜さんが笑う。不思議なことに、この子からは邪気が感じられなかった。きっと麗も同じことを感じているんじゃないだろうか。やりにくい相手だと。

「もちろん、純架さんが私を殺せるかどうかですよ。手順は整えたのであとは実行するだけです。簡単でしょう?」

 ただ、と彼女は言った。少しだけ私にも希望をください、と。

「皆さんこの教室に入った時――初めて私を見てどう感じましたか? お化けに見えました? それとも怪物に見えましたか? 私の背格好や、仕草や、口調や、表情から、もしかして本当はこう思ったんじゃありませんか?」


 ニンゲンニシカミエナイ、って。


「仮定のお話をしますね。私がドッペルゲンガーなら、きっと消えてなくなるのでしょう。痛みや苦しみを感じる間もないかもしれません。そうして、この学園から不思議なことが少し減って、高岩詩桜という女の子は元通りたった一人だけになる。でももしも、もしもですよ? 今この場にいる私が、本当の高岩詩桜だったらどうでしょう?」

「…………」

「吹き出した返り血を浴びながら、純架さん人殺しになっちゃいますね。あ、でもでもこのペン小さいからすぐに救急車を呼んだら助かるかも。きっと痛いし、苦しいけどそれならあなたの勝ちか。やっぱり分が悪いなぁ」

 麗がそっと、ペンの手前の端に指先で触れた。

「なかなか度胸が据わっているわね。あなたがドッペルゲンガーでも、もしそうでなくても」

「時々自分でもわからなくなってくるんですよ。自分が本物だったか、そうじゃなかったのか。で、考えるのを途中でやめるんです。だってどっちでもいいから。どちらかがやるべきことをなす間、どちらかが普通に暮らしている。それでいいんです。だから本当のところペンをこの胸に突き立ててみるまで、私にも答えはわかりません」

 ばんっと栗空さんが机を叩いた。

「私がやります。だって、私を捨てたこの女が詩桜のはずない」

「恋衣ちゃん……」

「呼ばないで!」

 栗空さんの拒絶を少し寂しそうに受け止めて、詩桜さんは口を開く。

「あなたから離れようとしたのは詩桜の方だよ。あ、だから私かもしれないけど。でも、私がいればずっとそばにいてあげられる。二人いれば、一人はあなたと一緒だよ」

「やめて。詩桜みたいな顔で、詩桜みたいな声で、適当なことばかり言って私を混乱させないで! 私が取り戻したいのはアンタじゃない」

 ぐっと前に踏み込む。

「早く死んでよ、お願いだから!」

 後ろ手に振りかぶっていた栗空さんの手が横薙ぎに叩きつけられ、ペンを強く押し込んだ。

 それは一瞬のこと。

 麗も、そして僕も止めることができなかった。

 高岩詩桜の心臓を狙い澄ましたペン先がゼロ距離で突き刺さる。

 遮るものはなく、叩き落とせる人間もいない。

 反応できたのは――本人だけだった。


「あぁ……、やっちゃったなぁ」

 

 高岩詩桜はその一撃を躱していた。

 体をよじるような動きではない。

 元いた場所から廊下側に十メートルも跳躍して、だ。

「伊佐木くん、ドッペルゲンガーに身体的超常性が見られることはあったかしら」

「あるよ。過去の事例でも記録に残ってる」

「そう、決まりね」

 麗が立ち上がる。その手は自分の制服の懐に伸びていて、臨戦体制に入ろうとしているのが僕にはわかった。

「純架さんとの賭けが続いていたなら、私結構いい線いってましたよね?」

「どうかしら。いずれは私が同じことをしていたかもしれないわよ」

「結果が出てからでは、お互いどんなことでも言えちゃいますね。でもこうして強がる純架さんの可愛いところが見えて良かったのかも」

「伊佐木くん、私あの子嫌いよ。あなたと同じタイプだわ」

「なら、そのうち惚れるんじゃないか?」

 ばか。

 そう言って麗が走り出す。

 高岩詩桜のドッペルゲンガーは一瞬だけ伸びをするように両腕を上に広げると、

「私、逃げますね。明日や、明後日のことはそれから考えます。あと恋衣――」

 最後の言葉は、僕には聞こえなかった。

 彼女は教室を飛び出す。その瞬間、巻き込んだ空気が部屋中の窓をビリビリと鳴らした。

「ここは頼むわね、伊佐木くん。あとで落ち合いましょう」

 麗が追って部屋を出る。続けて走り出した栗空さんの手を僕は掴んで制した。

「無駄だよ。彼女たちに普通の人間である僕らじゃ追いつきようがない」

「でも純架さんは」

 当然の疑問をぶつけてくる栗空さんに、数秒考えてから僕は答えた。

「麗は足が速いんだ」

「伊佐木さん、今初めてちょっと間抜けっぽいです」

 くぅ、今時の若者はきついなぁ。……一つしか違わなかった気もするけれど。

「信じていいんですよね。純架さん、ちゃんとアレを殺してくれるでしょうか?」

「麗は、やると決めたことをやるだけさ。君はどうだい、本当にそれでいいのかな。あの子は栗空さんと友達になりたそうに見えたけど」

「私の友達は詩桜だけです。それに詩桜にも私だけでいい」

「それが、君の本音のように聞こえるね」

 僕が椅子を一つ差し出すと、栗空さんは素直に腰をかけた。僕も別の椅子に座る。

「どういう意味ですか?」

「君にとっては、自分のポジションをドッペルゲンガーに奪われた気分なんだと思うけど」

「初めからそう言ってます。あいつのせいで、詩桜が私の元に帰ってこない。詩桜との生活こそ私の日常なんです」

「では、ドッペルゲンガーがいなくなれば、君の元に本物の詩桜さんは帰ってくるのかな?」

 少しの間、栗空さんが押し黙る。

 窓の向こうからは西陽が差していて、放課後と呼ばれる時間ももう長くはないことを示していた。

「冷たいことを言うんですね」

「物事の本質を探ろうとすれば、時に残酷な事実と向き合わなきゃいけない場面もあるさ」

「私、詩桜にとって邪魔者だったんでしょうか」

「一面では、つまり彼女の目的を達成するためにはそうだったんだろうね。けれど、同時にかけがえのない友人でもあった。だから、君から『高岩詩桜』を奪わないためにドッペルゲンガーを生み出したんだ。それもちゃんと事情を飲み込めるように、栗空さんの目の前でね」

 それを優しさと呼べるようになるのはずっと先のことになるのだろうと僕は思った。

 簡単に飲み込むことなどできない劇薬だ。拒絶する気持ちが強いのも頷ける。

 それこそ、もう一人の僕を殺した麗のように。

「私、これからどうやって生きていったらいいんでしょう。詩桜を失って、私の日常ってなんだったのか……もううまく思い出せないんです」

「これから探せばいいよ。時間が解決してくれることもある。それに、いずれどこかでまた本物の詩桜さんと運命が重なる時が来るかもしれない」

「……やっぱり、わかりません」

「わかる時までわからなくていいのさ」

 ぐずぐずと横から、泣き声が聞こえた。僕はそちらを見ないように夕陽を眺める。

「伊佐木先輩ってモテないでしょ? 純架さん以外に」

「いたたたた」

 唐突に心の深いところをナイフで抉られて、僕は胸を押さえた。

「あの……、参考までにどこでそう思ったのか聞いていいかな?」

「いいんですか?」

 やめておこうかな、と思った。致命傷を喰らえば目も当てられない。

 結果、「オブラートに包んでもらっていいかな?」という僕の日和った返事に、栗空さんは「そういうところじゃないですか?」という弩級のカウンターを返して僕を沈黙させた。

「あの、揺れてませんか?」

 栗空さんの指が僕の胸ポケットを指して、痛みで鈍くなった僕も振動が伝わっていることに気づく。スマホを取り出して画面に映るポップアップを確かめた。

「麗からだよ。どうやら終わったらしい。遺体は消えて、影も形も残っていないそうだよ」

「そう、ですか。ありがとうございます。あの、麗さんにも」

「伝えておくよ。まぁ、僕らとしても学園の怪異が減ることは大きな目で見ればメリットになり得るし」

 良かったんじゃないかな、と僕にとっても栗空さんにとっても気休めにしかならない言葉を吐いた。経験を積むほど、結果に対して寛容になっていく自分を僕は少しだけ憎らしく思う。

 振り向くと栗空さんも沈んでいく夕陽を眺めていた。赤らめた目で、けれど強い眼差しで。

「私、帰らなくちゃ。それから明日からのことを考えます」

「そうだね。少し送ろうか?」

「いえ、いいんです。それより純架さんが待っているんじゃないですか?」

「実はそうなんだ。さっきから、『へとへとになって動けないから迎えに来い』ってチャットが何度も通知され続けてる」

 ふふ、と栗空さんは笑った。それは、初めて見る彼女の笑顔だったかもしれない。

「羨ましいなぁ、誰かがいるって」

 立ち上がる。

 教室を出ようとする彼女に僕は尋ねた。

「ドッペルゲンガーは最後、君になんと言ったんだい? 僕にはうまく聞こえなかったけど」

 小さく振り向いて、それからまた向き直って。


「わからなかったんですよ。『さよなら』にも、『ごめんね』にも見えました。不思議ですよね。全然違う言葉なのに」



 ******



 セミ研の部室に戻ると、ソファに疲れ切った麗が横たわっていた。

 まるで死んだように動かないけれどちゃんと呼吸はしているようだ。少し脈は弱いけど、これくらいならすぐに回復するだろう。薄手の毛布をかけて、お茶の準備のためにお湯を沸かし始める。

 比良目はもう帰ったようだった。机の上に散らかされたままの木屑が赤い日差しに照らされてキラキラと光っている。当然片付けるのは僕だ。他にはいないから。もう慣れっこではあるけれど。

 チクタクと柱時計に合わせてつま先を鳴らした。僕はこうして待つのが嫌いじゃない。

 やがて、ヤカンがヒューと高い音を立てて中身が沸騰したことを知らせてくる。それを少しだけ冷まして、葉を入れたティーポッドに注いで蒸らした。その間にカップを二客用意する。

 片方を僕に。それからもう一方を、机を挟んで対面に。

「まだ熱いから、気をつけて」

 僕がそう言ってカモミールティーを注ぐと、少女は小動物のようにくしゃっと微笑んだ。

「私がここにいること、驚かないんですね」

「驚くことなんてないさ。僕は麗の選んだ結果を全て肯定することにしてるんだ」

「伊佐木先輩って都合のいいように喋る癖ありませんか?」

「……流石にバレるのが早いと思うんだけど」

 まぁいいんですけどね、と高岩詩桜の姿をした少女は答えた。恐る恐るカップに触れて、まだやっぱり熱かったのか手を引く。

「私、もちろん死にたくはなかったけど、半分くらいは諦めてたんです。もう日常は壊れちゃったしそれでもいいかなって。ちょっとの間だけれど、楽しかったし」

「カステラもあるけど、どうかな?」

「いただきます。……あの、もし良かったら――」

 口ごもる詩桜さんのらしくなさに驚いていると、彼女は小さな声で「しょっぱいものも」と呟いた。恥ずかしそうにするポイントは人それぞれだろうけど、それは普通に言ってくれていいのに、と思いながら引き出しの煎餅を取り出すと彼女は嬉しそうな顔をして受け取った。

「逃げてる間ずっと、この後どうしようかなって考えてたんです。当てもないし、目的だってないし、何より逃げ切れるって思うじゃないですか。私速いし、それに強いし」

 びっくりしました、と煎餅を割る音が重なる。

「純架さん、私よりずっと速くて、きっと力もそうですよね。今思えば拳を交わすようなことしなくて良かったなって思います。抵抗しても、見込みなかっただろうなぁ」

「麗は少しだけ特殊なんだ。少しだけね」

「少しかぁ。世界は広いんですねぇ。あ、カステラもいただきます」

「食べ合わせ悪そうだけど」

「そんなことありませんよ。甘いとしょっぱいを同時に摂取できるのって至上の喜びだと思いませんか? いや、そんなことはいいんです。今は純架さんの話。これは本当にただの興味だけで聞くんですけど」

「興味だけならやめておいた方がいいんじゃないかな」

「全部失ったんですよ、私。少なくとも恋衣の中では死んだことになっちゃってこれから学校生活も送れないし。興味以外の何を糧に生きろっていうんですか」

「それもそうか。一理はあるかもしれないね」

「で、教えてくださいよ。正直なところ純架さん、御堂先輩とどっちが強いんですか?」

 危うく吹き出しかけた紅茶を必死に飲み込んだ。咽せた僕がうるさかったのか意識のない麗の足が無造作に僕を蹴る。

 眠っている麗には悪いけど、それくらい突拍子もない質問だったからだ。

『セミ研の部長・純架麗』と、『開帝学園の生徒会長兼風紀委員長にして学園の英雄であり伝説の御堂薙』を比べるということが、だ。

「そんなにおかしかったですか?」

「おかしいね。言っただろ? 麗は少し特殊なだけなんだ。あの何もかもが例外中の例外の御堂薙と比較するなんておこがましいね」

 そうかなぁ、と呟きながらカステラをフォークで切り分ける少女の仕草は、やはり小動物に例えるのが正しいように思えた。

「君のこと、麗はなんて?」

「『セミ研に迎えるわ』って。セミ研ってなんですかって聞くと『これからあなたの居場所よ』と」

「……なるほど」

「聞こえのいい言葉で丸め込まれたことは、私だってわかっているつもりです。これでも馬鹿じゃありませんから。それでも嬉しかったんですよ。『居場所』かぁ。素敵な響きじゃないですか?」

「君は、普通の生活がしたいんじゃなかったかな」

「そう言いました。でも、普通ってみんな違いますよね。水準が高かったり、逆に低かったり、相対的なものであったり、そうでなかったり。特殊なことだってあると思います。ちょうど恋衣みたいに、本物の詩桜とでなければ満足できなかったり、とかとか」

 右手に煎餅、左手にカモミールティーを持ち上げて、少女は上目遣いで僕を見つめている。

「純架さんに言われたんです。『あなたなら普通を、小さな望みを再定義できるわ』って」

「そのための居場所、か」

「『そして無名の七番の解明に尽力するのよ』って」

 この徒労に終わるはずだった物語の結末で、ちゃっかりと麗は自分の目的を果たしたわけだ。常人離れした身体能力を持った部員がいれば、不思議に近づきやすくなるのは間違いない。

「君はそれでいいの?」

「伊佐木先輩はそれでいいですか?」

「僕?」

 突然の鸚鵡返しに少し困惑する。

「純架さんがあなたには断っておけって。理由は言われなかったけど、わかります。突然飼うことになったペットみたいなものなのでしょう? 私、お邪魔じゃありませんか?」

「すごい例えだね」

「でも、そういうことじゃないですか?」

 僕は黙った。

「ね、そういうことじゃないですか?」

 許されなかった。

「セミ研は僕のものじゃない。その目的も、部員も、一切が全て麗のものだ。僕はそれを肯定するだけさ。横にいて、支えるだけ。それに実のところこの部は僕らの他にも数人の幽霊部員を抱えていて、中には僕の大嫌いな奴もいる。いうほど僕にとって居心地の良い場所ではないのさ。それでも君の居場所たりえるのなら――」

 僕はカップを持ち上げた。湯気がふわっと立ち上がって爽やかな香りが鼻をくすぐる。

 小動物のようにくしゃっと笑いながら、目の前の少女も同じように紅茶を持つ右手を揺らした。


「歓迎するよ。ようこそセブンスミステリー研究会へ」

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