第4話


「お帰りなさい」


 無人の玄関、奥から挨拶の声が飛んだ。頷いて、部屋へと戻る。

 お手洗いへと向かった。男女共用のお手洗いは全面タイル張りの功名か、ここだけひんやりと暗かった。木枠の引き戸の向こうが白く明るく、瓶によくわからない葉っぱがさしてある。男性用の小便器の上の黄色の芳香剤は空になっている。にもかかわらず、湿気のある空気に匂いが染みついていた。たった一つの鏡に向かい、顔を写した。

 部屋の鏡は劣化してゆがんでいた。化粧っ気のない顔と目の下の隈は通常の土岐子だが、肌が土気色になっていた。

 土岐子はまだ何も掴めていない。それなのに、芯が寒くなっている。なぜかはさっぱりわからないままに、芯の冷えた土岐子の手もまた冷たくなり始めていた。


 障子張りの襖の連なる廊下。自分の部屋へと向かうも、足取りを信じられないでいる。

 ふと見れば今日も、男の背が見えた。キャンバスに熱心に描き込んでいる。何を描いているかは、全く見えなかった。

 Tシャツから露出した肌などより、男は自分と同じ年の頃ではないかと思いつく。

 すると、土岐子はその丸い背に声をかけたいような気がしてきた。

 土岐子は恐らく気分が浮つき、またとても自虐的な気持ちだった。そして、それをどこかで正しく自覚していた。

 何より、土岐子は自分の部屋へ帰りたくなかった。閉ざされた、一人きりの部屋。窓から見えるものは、緑色の茫洋たる海。昨日までは平気だったものが、今は息が詰まった。それがどういう理由かは判じかね、だからこそより土岐子を強迫的に追い詰めた。


 襖の前に立つ。そうして声を上げようと息を吸って、止めた。目を見開いて、何かを発そうとした口の格好のまま、土岐子は止まってしまった。次に発すべき言葉を土岐子は持てない、持てないだろう自分に気付いてしまった。


 従業員の一人が通りがかり、土岐子をいぶかし気に見た。土岐子は後退した。従業員は敷居をやすやすこえて、内の男に声をかけた。男が振り返る折には、土岐子は去り、自分の影も残さなかった。

 

 ――幼いころ土岐子は父と母に連れられ、ここへやって来た。

 父の知り合いが大勢集まっており、女はそのうちの一人だった。愛想はいいが子供は苦手なのか、ずっと土岐子からは離れていた。

 しかし、両親とはぐれた土岐子を見つけたのも女だった。地元や別の旅行者の子供の声は、土岐子が一人であることを強調し、貝を並べている老女は、土岐子が声をかけても黙々と貝を磨いていた。老女の影はどんどん長く伸びているように感じ、いっそう怖くなった。動けなくなった土岐子を、女は「ときちゃん」と呼んだ。

 土岐子の涙と鼻水に濡れた顔を、潮風ごと綺麗なハンカチでぬぐった。泣き止むようにと土岐子にかき氷を買った。「お父さんのところへ帰ろうね」と、手を握って歩き始めた。土岐子は引かれるままに歩いていた。駆けてきた母に、後ろから肩を掴まれるまで。

 ――ねえ、覚えている――声は脳の裏側に――ずっとそこにいた。


 陽が光の球になり海面に沈んでいくのを、土岐子は部屋で一人ぼんやりと眺めていた。点は辺りを赤く染めながら、やがて線となり海の中に沈んでいった。

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海上のアルファ 小槻みしろ/白崎ぼたん @tsuki_towa

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