Sadistic temptation.
平山芙蓉
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アパートの扉を開けると、蒸れたアルコールの臭いが鼻を衝いた。廊下の奥にあるリビングには照明の光。薄っすらと、テレビの音も聞こえてくる。決して、消し忘れて仕事へ行ったわけじゃない。
ただいまの代わりに溜息を吐いて、玄関の鍵を落とす。億劫な気持ちを置き去りにするつもりで、靴を脱いで部屋の中へ入った。
「また来たんですか、先輩」
テレビの画面を亡っと眺めていた先輩が、背中を隠すくらい長い烏の髪を揺らしながら、こちらへ振り返った。僕を捉えた目元が、三日月の形を成している。赤い月。いや、目元だけじゃない。顔から首元にかけても、Tシャツから伸びる腕も真っ赤だ。
「おかえりー。えらく遅かったねー」
勝手に上がったことを詫びもせず、へらへらと怪しい呂律で先輩は挨拶を口にした。
「残業だったんですよ」
「そんなの、ほっぽって帰れば良かったのにー」
「馬鹿みたいなこと言わないでください」
誰のせいでこんな時間まで仕事をしていたのか、考えてほしい。そう文句を口にしそうなったけれど、今の彼女に言ったところで暖簾に腕押しだ。
「で、いつからいたんですか?」僕は座卓の天板を見下ろして、彼女に聞いた。使えるスペースは、ノート一冊分くらいしかない。それ以外は、ほとんどお酒の空き缶で埋まっている。
「さあ? 電気は点いてるから、陽が落ちてからじゃない?」彼女は当たり前のように答えて、眼前に置かれているビール缶を呷った。
これ以上の幸せを逃さないように、と我慢していた溜息が自然と漏れる。
手にしたままだったスーパーの弁当が入った袋を、僅かなスペース――それも、できる限り落とされないような位置――に置いて、キッチンからゴミ袋を持ってくる。何はともあれ、まずは片付けなければならない。恐らく、数時間もすれば元通りなのだろうけれど、床へ置かれて、事故が起こるよりかはマシだ。
テレビを観ながらだらしなく笑い続ける先輩を尻目に、空き缶を袋の中へと入れていく。新しく開けたばかりなのに、もう半分も埋まってしまった。来週の回収日まで、僕はこいつと過ごさなければならない。そう考えると、とても気が重い。
「というか、昨日も来たのにまた来たんですね」比較的落ち着ける状態になってから、僕はようやく腰を下ろした。今日の仕事のせいではない疲労が、どっと身体に圧しかかる。
「やだなぁ、私がいない日なんて、考えられないでしょ?」
アルコール臭い息を吐きながら、先輩は顔をこちらに近付けてきた。揶揄っているつもりなのだろう。だから、僕はわざとらしく顔を歪ませてみせたけれど、効果は全くなし。寧ろ、それが狙いだったのか、機嫌良く笑うと、またビール缶を勢い良く呷る。それから、ふぅ、と短く息を吐いて、缶をフラスコみたいに振った。中からはちりちりと小さく、液体の弾ける音。どうやら飲み切ったらしい。先輩は無言で立ち上がり、千鳥足で冷蔵庫の方へと向かった。
その間に、袋から弁当とお茶を取り出して、自分の前に並べる。いつもと同じ種類の弁当とお茶。どの具材が、どんな味がするのか、正確に答えられるくらいには食べ飽きていた。それでも、半額シールの誘惑には逆らえない。つまり、この弁当は毎日のように売れ残っている、不人気物ということ。僕としては、お腹に入れば何だって良いから、ウィンウィンの関係だ。
弁当を食べながら、ぼうっとテレビを観ていると、時刻はちょうど、二十一時を回った。堅苦しいニュース番組は終わり、入れ替わりでドラマが始まる。そのタイミングを見計らったように、先輩がビールを持って戻ってくる。
「前から思ってたんだけどさ」先輩が座卓を挟んでテレビの正面に座った。ちゃっかり、二缶も手にしている。恐らく、僕の分だろう。「君、そんなものばっかり食べてたら、不健康になっちゃうよ?」
「あなたにだけは言われたくありません」僕はドラマを観ながら答えた。ジャンルはサスペンス。毎週観ているわけじゃないから、内容は知らない。でも、どこから観ても問題なさそうな作風だ。
「何でよー。私、家ではちゃんと自炊してるよ?」
「あなた、自分の家より僕の家にいる時の方が多いでしょうが」
「おばあちゃんが言ってたけどさ、食べる物はちゃんとしないと、駄目だって」
「飲む物もちゃんとしなさい、って教わりませんでした?」あまりにしつこく食い下がってくるので、僕は睨みながら言ってやった。
「二十歳になる前に死んじゃったから、そんなことは聞いてませーん」
極まりが悪くなり、テレビへと視線を戻した僕に対して、先輩は何故か、したり顔をしていた。咎めることはできたけれど、そうしたところで、先輩の思うつぼだろうから諦める。
「食べたい?」
これ以上の墓穴を掘らないよう口を噤んでいたら、すぐに先輩の方から話しかけてきた。
「何を、ですか?」僕はさっきの詫びのつもりで、彼女の方へと顔を向ける。
「私の料理」
「いえ、結構です」
「えー、美味しいのに……」先輩は嘘臭い泣き顔を作って、缶に口を付けた。
「そう言うなら、冷蔵庫の中のお酒、ちゃんと処分してくださいよ」僕はキッチンにある冷蔵庫を指さして言う。
「うぅ……、意地悪なんだから……」
「そもそも、どうして僕が先輩に遠慮して、自分で飲み物まで用意しなくちゃ……」
「オーケー、オーケー! 分かった、分かったからさぁ……。もう……」
先輩は話を食い気味に終わらせると、鼻を鳴らして、僕から顔を背けた。ああ言いつつも納得していないのだろう。隣からは、いじけて文句を言う先輩の声が聞こえてくる。缶に口を付けた状態だから、フェイザーがかかっているかのような声色だ。
僕だって、こうして毎日、スーパーで弁当とお茶を買いたいわけじゃない。ちゃんと自炊ができれば、経済面で余裕はできるし、味蕾にレパートリーを覚えさせられる。けれど、一人暮らし用の冷蔵庫の中身は、持ち込まれたお酒の缶でいっぱいだ。しかも、増えるばかりで、減ることはほとんどない。そんな状態なのに、食材を買って入れるなんて考えは、満員電車に無理矢理入ろうとするようなものだ。
因みに、電子レンジに関しても以前、彼女が酔った勢いで壊したせいで、使い物にならなくなっている。なので仕方なく、常温でも食べられるスーパーの弁当を、選んでいるというわけだ。
それにしても……。
一体、どうしてこんな風になってしまったのだろう。
少なくとも、出会った頃とは全く違っている。
先輩は、僕の通っていたバイト先の社員だった。優秀とか、完璧という単語は彼女のためにあるのだと思ってしまうほど、仕事熱心な人で、尊敬していた。だから、先輩から教えてもらえることは、一言一句、聞き漏らさないようにメモを取り、アドバイスも積極的に求めた。幸か不幸か、それは今でも身体に染み付いているし、腕を買われて僕は社員へ昇格するに至った。
一年ほど経つと、僕たちはプライベートでも付き合う仲になっていた。よく飲みに連れて行ってもらったし、遊びに行ったこともある。そこで今みたいな酔い方をしているところなんて、見たことがない。ただ、笑い上戸のきらいはあったから、普段より上機嫌になっているところは何度も目にした。でも、それだってギャップくらいにしか思わなかったし、白状するのなら、僕はそんな彼女に惹かれていた。
あの頃の面影は、もうない。
相談もなく勝手に仕事を辞めてしまい、次を探さずに、ただ僕の家で酒に浸るだけの生活。
もっと早くに立ち直っていれば、変わったかもしれない。
だから、僕は彼女を受け入れたというのに。
先輩は何も話してくれなかった。
無理矢理にでも聞き出せば、良かったのだろうか。
そう後悔しても遅い。
分かってはいるけれど……。
弁当を食べ終えると、先輩が持ってきたビールを飲みながら、しばらくテレビを眺めていた。ドラマは中盤に差しかかり、主人公がピンチに陥っている。先輩は、野球中継を見る中年みたいに、野次を飛ばしていた。内容をきちんと理解できているのかは、定かじゃない。
この後どうなるのか、と引っ張りに引っ張ったところで、お約束のコマーシャルに画面は切り換わる。
「何だよー、もう! めっちゃ良いところだったじゃん!」先輩は空になったビール缶を潰して叫んだ。
「やめてください、近所迷惑ですよ」
そう窘めると、彼女は口を尖らせて黙ってしまった。……かと思えば、急に笑い声を上げて、わざとらしく足音を立てて、冷蔵庫へと追加のビールを取りに行く。
まったく、やれやれ……。
これじゃあまるで、自分の家が居酒屋にでもなったみたいだ。
「ねえー、ちょっとぉ、来てくれない?」
少しでも気を紛らわせようと、見たくもないコマーシャルを眺めていると、廊下から僕を呼ぶ声が聞こえてきた。何なんだ、という疑問から、瞬時に嫌な予感へとギアが入る。
「まさか……」
考えるよりも早く、立ち上がり、慌てて先輩の元へと向かう。照明の点いていない廊下には、開きっぱなしの冷蔵庫の光がぼんやりと灯っていた。先輩はそんな状態の冷蔵庫の前で、俯きながら床にへたり込んでいる。
「大丈夫ですか?」僕は近寄って、彼女の背中を摩った。
「分かんない……」彼女は顔を上げると、大きく頭を振る。さらさらと、髪が揺れた。「うぅ、気持ち悪い……」
「ああ、もう、暴れないでください。ほら、トイレ行きますよ」
自力で歩けないだろう、と判断して、先輩の身体に腕を回し、ゆっくりと立ち上がらせた。触れた肌から、熱い体温が伝わってくる。耳元は苦し気な息と、髪の毛先に擽られて痒い。何より、僕に身を任せているから、重たくて仕方がない。こういう時、普段からちゃんとした運動をしていれば良かったな、と後悔してしまう。
ようやくトイレまで運び終える頃には、額から汗が噴き出していた。
「先輩、トイレですから、もう吐いて良いですよ」
ゆっくりと屈ませるとすぐに、彼女は便器へ勢い良く吐き始めた。よくここまで我慢できたものだ、と感心してしまう。元の性格が、真面目だったお陰かもしれない。
他人が嘔吐する様を眺める趣味はないので、先輩を残してトイレから出る。吐き慣れているだろうから、介抱は必要ないだろう。少し落ち着いたら、様子を見に行けば良い。
開けっ放しだった冷蔵庫を閉めて、リビングに戻る。ドラマは既に再開されていた。主人公とヒロインが、ピンチに陥っている。どういう過程でそうなったのか、見逃してしまったから知らない。だから、その後の展開に、興味は失せてしまったので、僕はリモコンで適当にザッピングした。
放送されている番組は、どの局も示し合わせたかのようにジャンルが違う。
バラエティ、クイズ、スポーツ、旅行……。
時間帯のせいもあるのか、映る人間のほとんどが、笑っていた。
幸せそうに、楽しそうに。まるで、お前たちだって笑えよ、と訴えかけているかのように。
最終的に、全局を二周ほど回してみてから、電源を切った。つまり、僕の心を引き留めるだけの力が、どこにもなかったということ。観客を愉快にさせる芸人も、思考を擽る問題も、奇跡めいたプレーも、綺麗な景色も。弾まなくなったスーパーボールみたいに、魅力を感じない。
いいや、違う。
弾まなくなったのは、お前の心だ。
画面に映った僕の影が、表情を隠して僕を否定する。
「なら、どうすれば良いんだ?」
僕はそいつに聞き返してやる。
どうすれば、僕はまた、心を弾ませられるようになる?
どうすれば、僕はまた、世界に魅力を感じられるようになる?
お前は、答を知っているんだろう?
そうやって、僕に助言できるくらいに、豊かな心を持っているんだろう?
さあ、どうすれば良い?
どうすれば、お前みたいになれる?
どうすれば……。
問いかけても、答は返ってこない。
聞こえてくるのは、先輩が嘔吐する音だけだ。
僕はテレビの画面から廊下の方へと顔を向ける。今日はいつもより、一段と酷いみたいだ。吐瀉物が跳ねる音まで聞こえてくる。もっと、他人の家だということを、意識してもらいたい。そもそも、つまみもなしに酒だけをがぶがぶ飲むからああなるのだ。
あんな大人にだけは、腐ってもならないようにしよう。
そう決心しながら、ビールをちびちび飲んでいると、トイレの方が静かになった。どうやら、終わったみたいだ。少しは楽になれば良いのだけれど。
「先輩、大丈夫ですか?」扉をノックしてみたけれど、返事はない。心配だ。「入りますよ」念の為に声をかけて、扉を開くと、混沌とした悪臭が鼻を衝いた。自宅だというのに、終末の繁華街を連想させる臭い。換気扇は動いているけれど、追い付いていない。
そんな中で先輩は、壁に身体を預けてへたり込んでいる。呼吸は長く、深い。どうやら、吐き尽くして、水も流さずに寝てしまったみたいだ。鼻を手で抑えながら、先輩の向こうにある便器を覗き込む。封水は黄色と黒で染まり、水位が高くなっていた。足を踏まないよう気を遣いながら、流水レバーを回す。
これで安心か、と思った矢先、床をよく見ると、水溜りができていることに気付いた。仄かに黄ばんだ液体。トイレの水じゃない。つまり……、きちんと彼女は、僕の信頼を裏切ったということ。
「ああ、もう!」苛立ちを隠しきれず、僕は頭を掻いた。近くで大声を出したにもかかわらず、先輩は目を覚まさない。「起きてください!」先輩の肩を揺さぶり、彼女を起こす。
「んん……、何ぃ?」間延びした声で、先輩はようやく目覚めた。
「何じゃありませんよ。掃除するんで、出て行ってください」
「出て行くって、どこから?」
「ここからに決まってるでしょう! ほら、立って!」僕は彼女の腕を掴み、強引に立たせた。
「痛い痛い、痛いってば」
そんな訴えは無視して、トイレの外へと追い出す。踏鞴を踏んだ先輩は、くしゃくしゃと髪を乱した。
「なんでこんなことするのよー」先輩は不満そうに口を尖らせた。
「いいから、黙っていてください」僕は彼女を意識の外へ遣り、掃除用具を収納から取り出す。
「別に掃除くらい、後で良いじゃん」
「染みになると困るんです。それに、あなたがやったことでしょうが」意識を向けないよう、努めていたつもりだったのに、耳が彼女の声を拾うと勝手に応えてしまう。
「もう、意地悪なこと、言わないでよ……」先輩が、僕の背中に身体を乗せてくる。耳元に、柔らかな息が吹きかかった。
ぱちん、と僕の中で何かのスイッチが入る。
粘度の高い液体の奔流が、首筋を襲う感触。
「いい加減にしてくださいよ」
振り返り、先輩の身体を剥がして、胸倉を掴む。
そのまま、トイレから押し出して壁に叩きつけた。
どん、と鈍い音が響く。
かなり強く打ったはずだ。
だけど、彼女の変化は顔を少し顰めた程度。
声も上げないし、呼吸も荒げない。
僕だけが憤り、必死になっている。
そんな僕を彼女は薄く開いた目で、凝視してきた。
そして……。
あの赤い三日月のイメージが、口元に現れる。
隙間には、並びの悪く、ぼろぼろになった歯。
醜い。
汚い。
不潔。
強く覚えたそんな印象を、いつかの記憶は容易く蹴り飛ばす。
「どう、したい?」
柔らかくて、スローな先輩の声。
それは激情の炎を大きくする油だった。
理性がきしきしと音を立てる。
妄想めいた衝動の連続が、筋肉に緊張を与える。
背後から漏れる明かりを浴びた影が、視界の端に入った。
『どうしたい?』
先輩と同じように。
先輩の真似をするように。
そいつは僕に聞いてくる。
そんなに知りたいのなら、応えてやろう、と僕は言葉を探した。
探したけれど……、何故だろう。
僕の口は、金魚のそれのように開閉を繰り返しただけで、
何も答えは出てこない。
「私のこと、嫌い?」
黙ったまま答えない僕の手首に、手を添えられる。
ゆっくりと吐かれる息。
表情は変わらない。
ただ、その頬の上を涙が伝っていく。
炎の勢いが落ちる。
駄目だ。
このままじゃ駄目だ。
このままじゃ、きっと繰り返す。
「私のことが嫌いなら、私を殺して?」
そう分かりきっていたのに、
その言葉で、僕を包んでいた炎は、熱を失い、消えてしまった。
「そんなこと、ありません」先輩の胸倉から手を離す。「ごめんなさい、かっとなってしまいました……」僕は彼女の瞳ではなく、Tシャツにできた皴を見つめながら謝罪した。
「良いの。私こそトイレ、汚してごめんね」
先輩は神妙な表情を浮かべ、僕の首に腕を回して抱き締めてきた。頬と頬が触れ合う。長い髪が耳元を擽る。酷い臭いが染みついていた。だけど、僕はもっとその感触を味わいたくて、彼女を抱き締め返す。肩が涙で濡れる。
こんな感傷は間違いだ。
ただのまやかし。
気紛れで嘘くさい、良心の呵責だ。
何度も僕は、自分の心にそう言い聞かせてみる。
なのに……。
身体は、憎しみを向けた相手を離さない。
まるで、何かを求めるかのように。
何を?
伸びた影が再び僕に問いかけ、意地悪に笑う。
何をだろうね?
心の中で聞き返してやる。
この場に留まることを選んだ、心の中で。
気付かないフリをして。
気付けないフリをして。
だってそれは……。
◆
先輩をベッドまで運ぶと、彼女はすぐに寝てしまった。その後で、僕はトイレの掃除を済ませた。床の汚れは酷かったけれど、壁紙の方は運良くそれほど目立たなかった。念入りな掃除は、明日の自分に回すことに決める。多少の苦労は必要になるかもしれない。でも、満身創痍の身体に鞭打つよりかは、マシだろう。
今はリビングで、照明の落ちた部屋で、亡っとテレビを観ている。先輩を起こさないよう、ボリュームを絞っているため、音はほとんど聞こえてこない。もっとも、彼女の発する鼾が邪魔で、元から何も聞こえていないのも同然なのだけれど。
時刻はすっかり、二十四時。あれから大体、二時間ほど経過した。ほったらかしだったビールは、炭酸が抜けてしまっている。ただの苦い液体だ。ここまで放置してしまったのだから、彼に臍を曲げられても文句を言えない。
画面を見ながら、缶に口を付ける。垂れ流されているのは、よく知らないアイドルグループのメンバーが、よく知らないゲストを迎えてトークする番組だ。画面の向こう側を意識しているからか、僕と何度も目が合う。
みんな笑っていた。
楽しそうに。
僕の状況なんて、知りもしないで。
「……分かっているさ」
独り言ちた声に、時計の秒針が重なる。ちくたくと、止まることない音は、これまで通りに時間を壊しながらも、これまでとは違う姿へと変えていく。
世界も、先輩も。そして、僕でさえも。
嵐のように例外なく巻き込んで、破壊する。
ベッドで眠る先輩のことを想う。
尊敬を抱いていた、憧れの先輩。
今は別人して扱うべき、あの人は、もう二度と、僕の前に姿を現さない。
これ以上望んでも、抱き締めても。
そんな予感と確信があった。
きっと、全てきっぱりと諦めて、彼女を拒絶するべきなのだ。そうしないと、今日みたいな日が延々と続く。暴れられ、泣き喚かれ。いつしか僕も、壊れてしまいかねない。
そう分かっているのに、僕は一歩を踏み出せない。
何故か……。
それは、僕の中に、彼女を希求する誰かがいるから。
認めたくないけれど、そいつを否定できるだけの強さが、僕にはなかった。
だから、どちらが真実なのかは、分からない。
何が僕を引き留めたり、動かしたりしているのかも……。
唐突に、スマホのバイブレーションが室内に響いた。窒息しかけていた思考が、現実へ戻ってくる。音のした方へ顔を向けると、座卓の上にある先輩のスマホが、通知を表示していた。もし緊急の用件だったら、すぐにでも先輩を起こさなければならない。……なんて、不純な動機を下手な言い訳で隠して、スマホの方へと身を寄せる。
画面にロックがかかっていて、内容までは分からない。でも、アイコンから判断するに、ゲームか何かの類みたいだ。急を要するものでなくて一安心する。
とりあえず、通知が鳴る度に目が向くのは、正直、気が散る。それにまた、不要な興味に唆されたりしたら、誤解を招くような行動を取りかねないし……。
反省して、スマホを裏向けようと、手を伸ばす。すると、ちょうどタイミングを見計らったかのように、先輩が間抜けな声を上げながら身体を起こした。
「んぁあ……、んん、頭痛い」先輩は頭を抱えて俯いていた。
「寝てた方が良いですよ?」僕はさりげなくテーブルから離れて、ベッドに近寄った。
「水……、水飲みたい……」
僕の忠告を無視して、先輩はベッドから蛇のように這い出た。そして、テーブルの上にある僕が飲みかけていたビールを手に取ると、止める間もなく呷いだ。
「うええ、これビールじゃん」苦しそうな顰め面が、テレビの明かりで照らされる。
「手に取ったら分かるでしょうに……」先輩の手から、缶を取り上げた。元から少なかったけれど、すっかり空になっている。一口目で、気付けなかったのだろうか。「ああ、もう……。用意しますから、待っててください」
空き缶をゴミ箱に投げ棄てる。それから、台所へ行って、コップに水道水を入れて戻った。よせば良いのに、先輩はわざわざ立ち上がった状態で、僕を待っていた。部屋が暗く、彼女の髪が長いことも相俟って、ホラー映画の一場面を彷彿させる佇まいだ。
「ほら、持ってきましたから、飲んでください」
僕は水を差し出す。けれど、彼女はそれを受け取る素振りを見せなかった。ただ亡っと、僕の顔を正視してくるだけで、何も言わない。
不思議と、僕も言葉を忘れた。
静かに。
幽鬼のように。
佇む彼女を目にして。
白い顔に、テレビの明かり。
黒い瞳に、纏いつく夜の気配。
風もないのに、ゆらゆらと揺れているような感覚。
「先輩……?」
その呼び声を無視して、
先輩が倒れ込んでくる。
バランスを崩した僕は、彼女を抱きかかえるようにして、後ろへと倒れてしまった。上に乗った彼女の重みが、呼吸を圧迫する。床に後頭部を打ち、視界が眩んだ。鈍い痛みと音が、遠慮したみたいに遅れてやってくる。半ば朦朧とした意識の中で、手にしていたはずのコップがないことに気付く。どこへ行った? 辺りを手で探ってみると、すぐに濡れた感触に辿り着いた。その周囲には、鋭い硝子の感触。運悪く割れてしまったらしい。
「先輩、苦しいんで退いてください」ようやく声を取り戻した僕は、先輩の背中を軽く叩く。けれど、全く退いてくれない。無理に押し退けようにも、床には硝子片が散らばっているから、万が一を考えるとできなかった。
「私ね、もう駄目になったんだ」
僕の逡巡を余所に、先輩は僕の耳元に口を寄せて、そう囁いた。
耳朶に触れた微かな息遣い。
こそばゆいそれは、僕の知らない彼女の一面。
首を動かし、顔を覗こうとしたら、先輩は身体を起こした。でも、僕の上からは退いてくれない。馬乗りの状態になって、僕のことを見下ろしてくる。テレビの喧しい光に照らされた顔に、仄かな笑みが浮かんでいた。ただ、そこある双眸は、黒く虚ろで、生気がない。まるで、夜に満ちる闇の根源が、そこにあるかのように。
「何もかも、全然楽しくないんだよ。テレビを観ても、ゲームをやっても、お酒を飲んで、馬鹿になってみても。すぐに渇いちゃうんだ」
「どうして、ですか?」僕はじっと、その闇を見つめながら聞いた。
「失くしちゃったから」先輩は、僕の胸に手を付く。黒い髪が柳のように垂れて、目の前で揺れる。「築き上げてきたもの、全部」
「仕事を辞めたのは、それが理由ですか?」
「さあ……、どうだったかな」僕から目を逸らし、息を漏らす。抜けきっていないアルコールの香が、肌を擽った。「もう忘れちゃった。まあ、忘れるためにあの日からこうして生きてきたから、当然だけどね」
「今からでも、やり直せるはずです」
「無理だよ」彼女は頭を振って、僕の言葉を一蹴した。「だって、生き方だって忘れちゃったんだもん」視線が再び僕を捉える。「生き方が分からないなら、意味なんてないでしょう? だからね、私は早く、死んでしまいたいの」
「なら……」
一瞬だけ言葉を切って、唇を噛んで視線を逃がす。躊躇してしまった。その先を口にすると、何かを、決定的に間違えてしまいそうだったから。
でも……。
「なんで、死なないんですか?」
僕はそれでも、言葉を紡いだ。
先輩が僅かに目を瞠る。
答は返ってこない。代わりに、点けっ放しのテレビから、誰かの笑い声が届いてくる。ほとんど消音に近いはずなのに、とてもうるさく聞こえた。彼女の声を聞き漏らすまいと、聴覚が鋭敏になっているみたいだ。そのくせ、時計の動く音だけは、都合よく聞こえてこなかった。
先輩は徐に僕の方へと、その顔を寄せてくる。
海月の触手を彷彿させる長い髪が、僕の顔を覆う。
遂には、先輩の鼻先が僕の鼻先に触れて、ぴたりと止まった。
奈落の底のような暗さに包まれる。
顔の上から、生温かい吐息。
臭う。
汚らわしい、獣のような臭いが。
「教えてほしい?」
先輩の声が、光の遮られた世界の中で響く。
思わず生唾を飲んだ。
ちかちかとする視界に、一本の線があった。
越えるな、と誰かが忠告してくる。
誰だろう。
分からない。
だから僕は、
「教えてください」
と、聞いてみる。
くすっ、と笑みの漏れた音。
そうして、
彼女は帳の外で僕の胸を指で叩きながら、
「君がいるせい」
と答えた。
……そうなんだ。
先輩も、僕と同じ気持ちで、いてくれたんだ。
そんな納得を、彼女の唇が塞ぐ。
甘い呼吸。
柔和な感触。
間隙から這入り込んでくる舌。
口内で蕩ける液体。
アルコールと鉄の香。
拒絶。
吐気。
加速していく心音。
擦れ合う肌。
発汗。
蒸発。
蠢動。
脳内で点滅する理性が、記憶を再生する。
それは、あの赤い三日月。
それは、あの熟れた果実。
割れる。
弾ける。
気付くために、言葉は不要。
どちらからともなく、
知恵の実の産物を、その手で脱がす。
激しい接触の中断。
自分の死の忘却と、荒涼たる生の実感。
けれど、安堵はない。
その高揚は、喪失の不安を多分に孕んでいるから。
「良い?」先輩が、僕の方を見ずに聞いた。
「はい」僕もまた、先輩の方を見ずに頷いた。
僕たちの視線は、人間の身体で、一番狂気的なシルエットたちに釘付けだ。
もう歯止めが、効かなかったのだろう。
僕の上に跨った先輩が、腰を落とす。
悲鳴にも似た喘ぎ。
一瞬の快感の連続が、ループして、
時雨のように骨の髄まで降り注いだ。
衝突。
衝撃。
情けない声がうねる。
情けない心が疼く。
そいつらを隠すように、再び口と口が繋がる。
絡み合ったイメージは、融解していき、
世界が二人だけを残すために、消失する。
それは、言葉の欠損だった。
社会を営む生物にとって、致命的な犠牲。
でも、そんなモノは切った後の爪くらい、どうだって良い。
言葉で貫くよりも深く、僕たちは互いの精神に触れ合えているのだから。
それ以上のコミュニケーションが、この世のどこに存在する?
答えてみろ。
そうじゃないと言うのなら、答えてみせろ。
お前たちの得意な論理で、僕たちを否定してみせろ。
どうだ……。
僕は今、成り代わったかのように、彼女の気持ちを理解できている。
逆を言えば先輩も、僕の中にある全てを、その身体で感じ取っているということ。
お互いがお互いに必要不可欠であり、絶対的に不要な存在なのだ。
そんな悲しい現実を、お前たちの手を借りずに、受け入れられている。
どちらかが欠けても、生きていけない。
どちらかが欠けなければ、生きていけない。
幸福という概念から最も遠くて、最も真に迫った、爛れた関係。
それで良いのか……?
僕たちはそうやって、これからを紡いで良いのか?
「ねえ?」
逸れた意識を、先輩の声が呼び戻す。
上で動き続ける彼女が、僕の頬に手を添えた。
「一緒に、行こう?」
火照った顔で笑う先輩の表情が網膜の奥を燃やして、
僕の中にいる誰かが、撃鉄を起こした。
繋がったまま、先輩を突き飛ばす。
ポジションが変わる。
ほんの一瞬の出来事。
自分の行動だとは信じ難い、愚かな出来事。
僕の左手は彼女の身体を押さえ付けて、右手には硝子片が握られていた。気の利かない痛覚が、指の腹が切れたことを教えてくれる。僕はそれに構わず、力を込めた。血で手の平が濡れていく。指先から黒い液体が滴り、彼女の白い肌を汚した。
「先輩」
「なぁに?」僕の声に、先輩は優しい声で聞き返してきた。
「今でもまだ、死にたいですか?」
「うん」彼女は頷く。「死にたい」
「じゃあ」
引き金に指をかける瞬間を思い浮かべ、右手を挙げる。
「もしも、死んだことを後悔したら、僕のせいにしてください」
「何だ……。私を拒むなら、もうちょっと残酷な言葉を用意してほしかったな」先輩が呆れたように笑った。
「すみません」僕もつられて、笑ってしまった。
「君も、これから生きていくことを後悔したら、私のせいにして良いよ」
「はい」
――ありがとうございます。
腕を、彼女の首に目がけて振り下ろす。
肉の裂ける感触。
裂け目からスプリンクラーみたいに飛沫した血液が、僕の顔にかかる。
生きている証が、まだ染みていた。
暗晦の底に浮かんだ赤い三日月の姿が、朧気になる。
溢れた液体の影は、口周りを伝い、髪を伝い、床に溜まっていく。
地球に海ができた時も、こんな風だったのだろうか。
こんな風に、水が溢れたのだろうか。
きっとそうだったに違いない。
だって解放されていく僕たちの生と、そこから始まる世界の兆しは、
とても、
とても美しいと思えてしまったのだから。
僕はその誘惑に逆らえないまま、静かに、手にした硝子片を振り下ろした。
何度も、何度も。
ぐちゃぐちゃになるまで。
その瞳に、死の色が滲んだとしても。
感情なんてどこにもない。
時間なんてどこにもない。
ただただ加虐的な刺激に、全身が打ち震えていた。
先輩がいなくなっていく。
記憶も未来も、時間ではなく、この僕自身の手で砕けて散った。
それでも、彼女の口は、鮮やかな笑みを浮かべたままだったから、
僕も笑った。
この快楽に、浸ることにした。
そうして、僕は最後の瞬間を、息の止まった先輩の身体で迎える。
頭の中が真っ白になって、
夢みたいな心地が筋肉を緩ませて、
二度とはない始まりが終わってしまったことを、悟った。
Sadistic temptation. 平山芙蓉 @huyou_hirayama
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