個人主義による個人主義の破壊

 なんと物々しいタイトル!


 拙作の傾向と物言いからお察しの通り、「常識の変化」と呼ばれる昨今の風潮には思う所がある。敢えて詳しく説明をすると何割かが個人的な恨み言になってしまうが、恥と不興を承知でそれを述べるとしよう。


 配慮――この数年で価値が暴落した概念である。要求だけを行う側の傲慢さと白々しさは目を開けている人にとっては周知の事実であろうが、同時多発的に発生した「変化」という名の侵食は、侵略する側の欲望を伴って外圧と化し、宗教戦争の轍を踏まんとしている。ではなぜ、歴史をよく学んだはずの人々が集う現代社会でそのような代物が拡大し続けるのか。


 私は、少なくともこの国においては、その根本的な原因は教育に、特に「道徳」にあると考えている。

 読者各位には、ご自身の記憶を辿りながらこの時間がどのような代物であったかを思い返していただきたい。道徳なる授業が本当に人間社会を、人類における文字通りの道徳を意識していたかと問えば、手放しで肯定できる人は少ないのではないかと予想する。むしろ「つまらないフィクションを崇める作業」の方が近かったのでは?

 フィクションである。事実をほんの少しだけ参考にした単調なフィクションであるが故に、分かりやすい善悪が存在し、分かりやすい悪役が存在し、分かりやすい罰が存在できる。善は常に善であり、唯一にして絶対であり、「わたしたち」とルビが振られる存在である。

 ではその結末はどれほど現実的であろう?

 そう。結論ありき、教訓ありきで人為的に作られた物語は、現実性さえ失っているのである。正義の味方を自称する悪人が居る現実を見せず、悪は常に悪として威張ると言い張り、「わたしたち」が悪人となる可能性をひた隠してこじつける虚偽の弁論。その上、人を楽しませる、という目的も端から皆無となれば、絵本と比べるのが作家に失礼な程の出来上がりとなるのが関の山だ。

 娯楽としてのフィクションに唾棄しながらその舌が繰り出すフィクションの羅列は、矛盾に気付いてしまえばグロテスクな三文芝居にももとるが、白紙たる子供達を騙して洗脳するには充分な程に眩しく輝かしく偽装されている。

 そして、机上の善を心に満たした純粋な人が、今こうして世界を掻き乱し、善意と仁義のお題目を盾に否定や破壊を繰り返している……とまで推測を広げれば、単純化が一体全体誰の為の行いだったのか不明瞭にもなろう。


 ちょっと拡大し過ぎたかな?


 とにもかくにも、「他人の為」を口実にヒトを騙して言動を誘導するのは世の常であった。しかし今まではそれを行う、あるいは行えるのが一部の権力者だけであったが、誰もが「尊重すべき相手」であると現代では、相互確証破壊とも言うべき粗探しの応酬が繰り広げられている訳だ。

 ただ、先に手を出した側が必ず勝つ、という点ではむしろ無差別攻撃こそが最も行いと判断されるのであるが。


 理解力を育てるのは「国語」の役割ではないのか、と疑問が湧くことと思うので、拡大解釈のついでに語るとする。

 少なくとも義務教育における「国語」の範囲では文章を読む必要、理解できている必要が無いからである。読めていなければならないのは空気であり、理解していなければならないのは暗黙の了解のみ。存在しないはずの筆者の考えが読み解かれ、成立しないはずの意思が共感を受ける……その例の枚挙に暇が無いのはよく知られた話である。

 あくまで前述の通り個人的な経験に由来するものであり、同時に(ほんの一時であったとはいえ)教育する側に身を置いていた者としての信条から来る不信感の表れでもあるが、少なくとも私が居て、見て、聞いて来たその間、数学的な意味での論理が小中学校の中にあったとは記憶していない。

 空気が読むモノに変化したのはここ十~二十年程の出来事だったと記憶しているが、思い返してみればそのずっと前から世間には読まなければならない何かが当たり前のように在ったのだ。それは因と果を捻じ曲げ、是と非を逆転させる。

 つまり時代が変化したと言うよりは、因習に名前が付いたと言うべきだろうか。


 「道徳」に限らず、教育や指導の場は率直に表すなら子供を騙しても許される場である。誤解と曲解の余地こそが美しさだ、とされる言語での意思疎通はもちろん、事実の積み重ねを基に成り立っていたはずの科学に至ってさえ、物事は存在による作為的な取捨選択を受ける。選択の結果は現実と何の関係も無く、あるいはただのこじつけがあり、時間軸さえ逆行したかと思えば、最悪の場合は悪影響が、文字通りの悪影響が及ぼされる事さえある。その後は、堅牢な建物から出た人々に、が為された真実がニュースと名乗ってあちこちから現れては善悪を教える。


 何かにつけて”考察”と評する成立さえしないあれこれがふんだんに振る舞われ、一方では悪い表現だの間違った感想だのを定義する空論が蔓延り、他者を強制する歪んだ圧力が最早ビジネスにまでした世の中ではあるが、「正解」を押し付けるような行為は却って想像力、理解力、共感力を奪う結果になるのではないのか……と私は危惧するのである。

 悪い例すら見せてはならない、などと評する浅はかな事なかれ主義の前では、サピエンスの語など燃えないゴミにも等しいのだろう。だが自分自身が悪い見本になってはいない、悪い例に近付いてはいない、と言葉ではなく行いで示そうとは思わないのだろうか?

 思慮は浅く、欲は深く、悪辣にして狡猾な人間の思惑が故に、人類は自ら反面教師達の創り上げた信仰によって単細胞生物へとされて行くのだ。

 人類は今一度、光の点を繋いだ語り手に顔向けできるよう、無制限の感受性が持つ意味を評価し直すべきであると私は考える(こんな隠喩も回りくどい、誤解を招くと眉を顰められるのだろう)。


 本来ならこうした感情も「作品」として出すのが作家の端くれとしては正しい在り方であろう。しかし、醜悪な利己主義者が一体何の素材になる? こんな輩を題材にしたところで、同じく稚拙な、風刺にも及ばない三文芝居ができあがるだけだ。

 それこそ、教訓たっぷりの映画の脚本くらいになら、なるのかもしれないが。

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日記代わりの拙文 ヒデころ @hide_color

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