下
*
彼女はある日を境に小説を書かなくなった。放課後教室に残っても、私とひたすらくだらない話をするだけで、ペンを動かすことはなくなった。いつもは置かれていた原稿用紙も万年筆も、ぱったり見かけなくなった。
とうとう堪り兼ねて私は恐る恐る彼女に聞いてみた。
「この間まで書いていた小説、書き終わったの?」
うん、と彼女は頷いた。それから、耳を疑うようなことを言った。
「あたし、筆を折る」
え、と思わず声を漏らした。彼女は私の素っ頓狂な顔を見て、くすっと笑った。それから窓の外に浮かんだ、よく熟れた果実を見遣った。果実はどろりと崩れて、赤黒く爛れていた。
「あたしね、自分のために小説を書いてた。どうしようもない惨めな自分を救うために。貴女に見せられないような、目を覆いたくなる作品を沢山生み出してきたの」
あたしにとって小説とは己の救済、それ以外の何でもなかった――。
「貴女があたしの小説を読みたいと言った時は焦った。迷いに迷って、一番まともそうなものを渡したの。そんな拙い小説を貴女に褒めてもらえた時、とっても、とっても、嬉しかった」
あたしのことを愛せるのは、あたししかいないと思っていたのに。
貴女があたしを認めてくれた。
貴女のためなら何だってできる気がした。
貴女のために小説を書きたい、世界を紡ぎたい、そう思うようになったの。
でも、それが間違いだった。
貴女が褒めてくれたような美しい物語を書きたい、そう思う度にあたしの心は濁っていくような気がした。どれだけ心血を注いで書いたものでさえ、中身のないすっからかんの空洞に見えた。
「気づいたの。あたしには、望まれた世界を紡ぐことはできないんだって。誰かのためとか、そんな綺麗なことはできないんだって。どんなに自分を奮い立たせて書いてみた所で、上っ面だけは美しい、驕りを振りかざした、ちゃちな作文にしかならなかったから」
気づいた時には、手遅れだった。あたしは、創作自体が苦痛になっていた。思った通りに表現できなくって、筆を投げ出す。書こうとしても、一向に進まない。自己嫌悪だけが膨張してゆく。
あたしにとって、世界を紡ぐということはただの汚い願望の具現化、文章化だった。そんなものに身の丈以上の価値を与えちゃいけなかった。だけど、あたしは思い上がってしまった。
貴女のために世界を紡ごうだなんて考えてしまったから。
あたしは、あたしを救うことさえできなくなった。
「あたしにはもう、貴女の望む世界は紡げない」
自虐的な笑みを口元に浮かべたまま言った。
「潮時だよ。どんな物語も、引き際が肝心だから――」
ここで、終わらせることにしたの。
彼女はふぅと溜息を吐いた。それから、鞄からあるものを取り出した。最初に私が彼女の作品を読んだときと同じような、厚みのある封筒だった。
「あたしの、最後の小説。貴女の為だけに書いた。納得が行くまで数ヶ月くらいかかったわ。有終の美を飾ることができたと思う。これで全部終わり、そう言ってしまっても後悔しない。もう書けないと思う。これ以上、馬鹿げた行為を美化しちゃいけない。あたしは筆を折るわ」
彼女はそう言って、私に封筒を差し出した。どういうわけか、私に総てを語り終えた後の彼女は酷く安らかな顔をしていた。
「ふざけないでよ」
気づけば、口を衝いていた。
「もう、あんただけの世界じゃないの」
あんたが生み出してくれた世界は私の拠り所だった。私の大切な居場所だった。
「何?私のせいであんたが壊れたって言いたいわけ?私があんたの世界に干渉したことが間違いだったって、そう言いたいわけ?」
「貴女のせいじゃない!あたしが勝手に潰れちゃっただけで――」
「違う!私があんたを壊したんだ。私が、あんたの才能を殺しちゃったんだ」
「そうじゃなくって――」
彼女は必死に弁明しようとしたけれど、その声は私の耳には届いていなかった。
身体の芯が尋常じゃないほどの熱を発しているのが分かった。身体がガタガタと震えていた。これは、この感情は――
怒りだ。
矛先を向けるべき相手を間違えていることは分かっていた。分かっていたのに、止められなかった。
「そうじゃない」?
じゃあ何だって言うのよ。全部、全部、あんたのご都合なわけ?その程度で、私達のこの関係を容易く壊してしまおうって?何よそれ。何よ、何よそれ!
「あんたの勝手な都合で、私達の世界を蔑ろにしないでよ!」
その時の私に制御は効かなかった。心がズタボロになって擦り切れてしまった彼女に向かって刃先を向けていた。
言葉は優しい世界を生み出すための素敵な道具だ。けれど、それは人を簡単に殺してしまう兇器にもなり得る。言の葉遊戯なんて生優しいもので終わりはしない。血みどろの、残酷な結末を迎えてしまうのだ。
私は、絶対に使わないと誓った筈の卑劣な言の葉どもを容赦なく彼女に振り翳した。
彼女が紡いだ最後の世界。私の心に風穴を開けた兇器。
あんたが、これで最後だって言ったから。
こんな世界をあんたが生み出したせいで、こんな言の葉を紡いだせいで――
あんたは、私は――。
封筒から引きずり出した彼女の渾身の一作に手をかけた。何度も手直しされて手垢まみれになった原稿用紙の束に、思いっ切り力を加える。
世界が破け、散り散りになる音と、彼女の悲鳴とが重なった。
理想郷を破壊したのは、彼女じゃない。
私だ。
*
あの日以来、彼女とは会っていない。
二人で見たあの景色も、今はもうない。
私は暗闇の中で、青白い液晶の光だけを頼りにキーボードを打ち続けている。たった独りで。この先、誰かと彼女のような関係になることはない、そんな気がした。そんな関係をつくることができたとして、どうせ壊れてしまうんだから。私が壊してしまうんだから。傷つけ、傷つけられて、絆が深くなる?そんなにうまくいくわけないじゃないか。一度壊したものは元通りには戻らないんだから。いつまでも拭いきれない蟠りを抱えて生きていくか、離れ離れになって別の道を歩むか、その二択以外に道はないのだから。再生は不可能。それなら、端から関係自体無かったほうがマシだ。
棚の下からクッキー缶を取り出した。この中に、私の罪の記憶が眠っている。蓋を取ると、数枚の紙片があった。あの日、我に返って慌てて拾い集めたもの。大半は風に吹かれて、開いていた窓から飛び出して舞い落ちていった。彼女の最後の小説。その内容を知る術はもうない。残されたものだけでは、全く分からなかった。残っていた紙片には赤ペンで修正に修正を重ねた箇所があって、あの日私が完全に壊してしまった彼女の血痕のように思えた。これは、私の罪だ。彼女を追い詰めてしまい、そして、とどめを刺してしまった。あの時、私は彼女と接近戦をしていて、刃を交えているような気さえした。でも、実際は私の一方的な攻撃ばかりだったのかもしれない。彼女は何の切り札も持っていなくって、ただ私に本当の思いを伝えただけだったのだから。私は、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。こんな私に、これ以上言葉を操って、世界を作る権利があるのだろうか。悩みに悩んで、結局私はまた紡ぎ始めた。彼女のように引き際さえも自分で決められなかった。ズルズルと錘を引きずったまま、創作に縋ることしかできなかった。
私は、愚かだ。
*
慌ただしく時は過ぎた。総てが早送りかのように巡り巡って、高校卒業の春が訪れた。
私は、小説家になった。高校最後の思い出として軽い気持ちで応募したある公募に運良く引っかかり、受賞とまで行かなかったものの、長編をリメイクした作品を書籍化する運びとなった。どうして自分が選ばれたのか、分からなかった。一人の作家生命を奪っておきながら、自分だけがのうのうと小説家として世に出るなんて、そんな事できないと思った。それに、もし彼女が今も書き続けていたとしたら、先に小説家になるのは間違いなく彼女だった筈だから。
私には相応しくない。
辞退しようと思ったけれど、私の作品の書籍化の話が出た時両親は調子に乗って二つ返事でオーケーを出してしまった。後日早速編集と打ち合わせがあるとのことで、もう引くに引けなかった。
学校では、何故か私が小説を書いていたことが広まっていた。書籍化にあたり、編集社と学校との何かしらの確認があったらしく、それを盗み聞きしていた生徒、もしくは実際に同席していた先生が吹聴したらしかった。昔の私なら、気恥ずかしく感じたかもしれないが、今の私は、そういった奥ゆかしい心持ちなんて微塵も持ち合わせていなかった。恥じらう仕草も見せることなく、謗らぬ風で通した。今頃になって、友達ヅラしてくる輩もいたけれど、サルみたいに勝手に騒いで喚いていればいい。あんたらなんか知らない。私にはたった一人しか、本当の友人はいなかった。そしてその友人さえももういないんだから。私が絆を絶ってしまったんだから。もう、どうだっていい。全部、全部、くだらない。
書籍の見本は、卒業式の2週間前にはできあがっていた。一つだけ、先にもらえませんかとお願いすると、担当者は快く一冊送ってくれた。真っ白なカバーデザイン。
これじゃあ注目を浴びにくいのではないかと意見を出されたが、逆に斬新で目を引くだろうと押し切った。私の作品に、装飾なんて必要ない。それほどの価値もない。私がここに下ろしたものは、剥き出しの内臓だ。血生臭くって、人間の腐敗臭がする。あの日の懺悔。そして、傲慢な祈り。どれだけ飾ったって美しくなる筈がないんだから。何も施さないでいい。
青白い光の中。私は真っ白な本を無造作に開いて勢いよく力を加え破った。あの日のように。メリッと音がして、ハードカバーが二つに分断される。頁を千切り、細かく切り裂いていく。文章は破壊され、言の葉が散る。紙くずを天井に向かって投げ上げる。一足早く、桜が無様に散った。
私の心は、全く満たされなかった。
*
卒業式が終わった。皆しくしくと何が悲しいのか盛んに涙を流していらっしゃって、私はその光景を白い目で見ていた。涙なんて一滴も出ない。流すだけ無駄だ。
思い出に写真撮ろうと、各々グループになり始めたので、私はひと足早く会場から退散した。中には未来の作家先生とツーショットを撮っておこうと私にすり寄ってくる輩がいたが、微笑んだまま背を向けると、盛大に舌打ちされた。それでいい。私には、軽蔑が一番よく似合う。
外の廊下に舞い落ちた桜の花びらをわざと踏み、靴底で擦り下ろしながら教室に戻る。その途中、急に懐かしい気分に囚われた。あの頃に戻りたくなって、私は思い出の場所、生涯忘れられない場所を訪れた。
教室の鍵は開いていた。ドアに手をかける。
そうだ、この場所で、私は――。
教室には一人の生徒がいた。ゆっくりと振り返ったその生徒の正体は――彼女。
見なかったふりをして引き返そうと試みた。その瞬間、
「待ってよ」
彼女が私を呼び止めた。私は彼女の方に向き直る。彼女は笑っていた。
「本、出すんだってね」
おめでとう、と彼女は言った。どきりとした。彼女から、そんなことを言われるなんて。暫く迷った末に、ありがとう、とだけ返した。
「あたしね」
と彼女はまだ何か言いたいことがあるようで、去ろうとした私の腕を掴んで言った。
「小説、また書き始めたの」
そうなんだ、平静を装って、そう言おうとしたのに、できなかった。動揺を隠せなかった。
「どうして」
「書きたいと思ったから」
それ以外に理由がいる、と彼女は肩をすくめた。
「復讐」
鉛のような言葉を私にぶつけた。
「もう貴女なんかのために、世界を紡がない」
それから間を開けて低い声で告げた。腕にかかる力が強くなったのを感じた。
「赦さないから」
私も、呼応するように言った。
「赦さなくていいから」
赦さないで。いつまでも私の背負うべき十字架であり続けてほしい。この後悔が、今の私にとっては最大の原動力なのだから。私はきっとこれからも小説を書き続ける。世界を紡ぎ続ける。自分のためにじゃない。誰かのために、この身を捧げる。それが長い時間をかけて私が見つけた、私なりの贖罪だ。
彼女は途端、陽気な笑い声を上げた。
「やっぱり、貴女は強いね」
「強くなんてない。弱くなって誰かに助けを求める術を持っていなかっただけ」
「いいや、強いよ。あたしも貴女みたいになりたい。そう思ったから、あたしはまた筆を握ることができた」
ありがとう、彼女は今度は優しく微笑んだ。それから言った。
「あたしも、いつかそっちの世界に行くよ」
いつか――確証のない未来だけれど、きっと、いや、「絶対に」訪れる。そんな気がした。
「いつか、またどこかで」
彼女は力強く、そう付け加えた。
私も――。あの日一騎打ちで交えた本心、今も尚癒えない傷痕、悔やんでも悔やみ切れない過ち――。溢れる思いを総て抱き締めて、生きてゆくつもりだから。良い思い出だったなんて言葉で済ませられないものでも、愛してゆくつもりだから。
一つだけ、心残りがあった。ずっと言えなかったことだ。
「ごめんね」
彼女はふっと口元を緩め、それから首を横に振った。
「今は、まだ受け取らない。受け取りたくない」
「分かってる」
分かってるけど。それでも、足りなかった。
「来週、本出版なんだ。あんたのところにも送るから。思いっ切り、破いて捨ててほしい」
「いいよ、気を使わないで。自分で二冊買う。一つは原型が無くなるまでぐちゃぐちゃにしてやるから」
彼女は不敵な笑みを浮かべた。それから念を押すように言う。
「また会いましょう、今度は、同じ舞台上で」
私は同調するように微笑む。
「いつかまた、どこかで」
白兵戦の果て、私達が得たものは畢竟ただの傷痕だけだったかもしれない。古傷はきっといつまでも残って消えない。時々疼きもするだろう。それでも――この痛みや悔いを懐かしく思うことができたなら――。私達は、また一人の友として、そして言の葉の刃を交え戦った相手として、もう一度再会するのだろう。その時まで、私を恨んで。憎んで。赦さないで。2人で笑い合ったあの頃を取り戻すまで、私は振り返らないでいるから。傷ついた記憶を背負って、それでも、強く生きてゆくつもりだから、世界を紡いでゆくつもりだから。
だから――。
彼女は私の横を颯爽と通り過ぎる。
背中合わせの私達。
「「さよなら」」
暫しの別れの挨拶。
二人から、一人に。
静寂に響き渡るチャイムが、長い長い戦いの終わりを告げた。
【了】
白兵戦 見咲影弥 @shadow128
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