白兵戦

見咲影弥

 「筆を折る」

彼女は宙を見上げたまま、そう告げた。

「あたしにはもう、貴女の望む世界は紡げない」

私が描いていた未来はその時、儚くも崩れ去った。


 *

 私には人間の友達がいなかった。授業中に横の人と少しお喋りとか、教室移動の時に誰かと一緒に行くとか、そういうことができる人は少なからずいた。けれど、その人達を友達とは呼べなかった。ただ周りに親しい人がいなかったから私と話したわけで、他に誰かいたら簡単に私から離れていくような、その程度の人。私は彼らにとって2番手。1番の子がいなかった時の保険用だった。

 

 分かってる、私は1番にはなれない。


でもその事実が悔しくって、それなら端から親しい人なんて作らなければいい、という結論に至った。私は陰気で、そしてどうしようもないほど性根が腐っていて捻くれ曲がっていたのだ。救いようのない馬鹿な私は一層孤独を愛するようになった。

 唯一の友達は、本だった。幼い頃からいつも傍にあって、私に寄り添ってくれていた。本だけは、私を孤独にしない。彼らだけが心を許せる相手だった。彼らは私を非現実に連れて行ってくれた。彼らと遊んでいると、自分の置かれている状況を忘れて、他人の人生を追体験しているような気分になった。新しい友達と出会う度、全く違う世界を見られた。物語が幸せな結末に落ち着いても残酷なバッドエンドを迎えても、必ず私は私に戻ってくる。一番の安全圏で、日常ではまず遭遇しない場面を傍観できる、その行為は私にとっては希少な快楽だった。現実逃避なのかも知れない。言葉で形作られた世界に浸って、自分以外の誰かになっている瞬間が一番楽しかった。


 私も理想の世界を作りたい。


そう思うようになるまで時間はかからなかった。私じゃない、「理想の私」になってここじゃない何処かで非日常を味わいたい。気づけば私はキーボードを打って世界を紡いでいた。言の葉を自由自在に操って、優しい思いを、悲しい心を、懐かしい記憶を、残酷な出来事を、結んで繋いだ。たった独りの世界で、私は多くの人物を生み出し、彼らと対話した。数多の世界を作った。


それでも――


満たされなかった。


ぽっかりと空いた席がいつだって私を惨めにした。どこまで行っても、結局私は孤独だったのだ。生み出すことはできても、所詮総て私の一人芝居。何を話しても返ってくるのは私自身の薄汚れた返答。擦り尽くされたネタ。足りない、暗い靄のかかった感情が胸の奥に広がる海で浮き沈みを繰り返していた。

 そんな私は高校生になって初めて、友達と呼べるような存在に巡り合った。


 彼女は、世界を紡ぐ同志だった。


 *

 彼女は、いつも独りで教室にいた。私も例に漏れず独りでいたのだが、時たま周りの人と生産性のない会話をすることもあった。彼女はその程度の付き合いもしていなかった。話しかけられても、ふーんとか、そうだね、とか当たり障りのないことしか言わないし、挙句の果てにはシカトする。変わった人だった。自分から独りを選んでいるようだった。そのせいで、入学して一ヶ月した頃には彼女に話しかける人はいなくなっていた。

 そんな彼女に私は惹かれた。独りでいるというところに共通項を見出したからなのかも知れない。でもそれ以上に、彼女からは何かしらのシンパシーを感じていた。

 彼女は毎日放課後、特に用もないくせに教室に残ってこそこそと何かをしていた。周囲の目をやけに気にしているようだった。

 5月下旬のこと。勉強もろくにせず小説を書いていたせいで、私は初めてのテストで早速赤点を取った。見事招集メンバーに仲間入りを果たし、追試を受ける羽目になったのだ。試験が終わって教室に荷物を取りに帰った時のことだ。


窓から西日が差し込んで、総てが夕焼け色に染まった教室の中。


彼女は独り、その世界にいた。


机に向かって、必死にペンを走らせていた。私は吸い寄せられるように彼女の席に歩み寄っていった。彼女は私が傍にいることに気づいて、咄嗟に机に覆い被さった。

「何してたの」

「別に」

そっけない返事。早くどっか行けと言わんばかりに彼女はだんまりを決め込んでいた。私はそんな彼女の態度に怯むことなく、彼女を見ていた。彼女は必死に隠しているつもりなのだろうけれど、こちらからは丸分かりだった。

原稿用紙、それから万年筆。

あぁ、彼女は手書き派なのだと、小説を書いているということを飛び越えてそう察知した。

「あんたは、どんな世界を紡いでいるの」

私の問いかけに、彼女はばっと顔を上げて見開いた目をこちらに向けた。

「分かってたんだ」

「分かるも何も、全然隠せてないし。それに、何だか私達似てるなって思ってたから。あのね――」

私も、小説書いてるんだ――。

私はこの時初めて、秘密の趣味を告白した。


 *

 秘密を共有したからと言って、彼女の態度がすぐに軟化したわけではなかった。翌日学校で会った時勇気を出して手を振ってみたのだが、あっさり無視された。その日の放課後、教室に残った。彼女もやっぱり残っていて、私のことはお構いなしに原稿を広げ出した。隠さないということは、私と少し打ち解けたということなのだろうか。それとも、単にバレてしまったから隠す必要はないということなのだろうか。私はまた彼女の席に近づいてみた。

 筆を進める彼女を問い詰める。

「今朝、手振ったのに無視したでしょ」

彼女は少しだけ戸惑いの表情を見せて言った。

「そういうの、慣れてないから」

「あっそ」

短い返事をして、彼女の前の席に座った。

「私に読ませてよ、小説」

そう言って原稿に手を伸ばすと、

「ダメ」

ものすごいスピードで彼女は私の手を弾いた。

「これは、私の世界だから。誰かに見せるためのものじゃない」

その反応に私は面食らって彼女を凝視してしまった。彼女は自分がしてしまったことに気づいたのか、小さな声でごめん、と呟いた。私は何だか気まずくなって、身を翻すように教室を出て行った。

この前少し話しただけなのに、何友達ぶってるんだろ、私。小説書いてるからって勝手に同族扱いして。あの子の触れられたくないところに土足で上がり込んで、プライバシー侵害じゃないか。馬鹿だ、私。恥ずかしくって、情けなくって、兎に角我武者羅に走って家まで帰った。それから安寧を感じられる世界に逃げ込んだ。

 翌日、私は顔を伏せたまま、極力彼女の方を見ないようにして教室に入った。それなのにどういうわけか、一番に彼女と目を合わせてしまった。彼女は私の席に座っていたのだ。唖然とする私の目の前に、彼女はあるものを差し出した。分厚い封筒。ずっしりと重みがあった。

「これなら、読んでもいいから」

中身を覗くと、原稿用紙を綴ったものだった。取り出して見てみたかったが、彼女から

「あたしのいるところで読まないで。家に帰ってからにしてよ」

と制されたので渋々鞄に閉まった。彼女はそれからこうも言った。

「あたしも、貴女の紡いだ世界、見たい」


 *

 終礼が終わってすぐに家に帰って、早速彼女から貰った原稿を出した。分厚い束。彼女の手書き原稿。文字は綺麗だけれど、所々滲んでいたり潰れたりしていて、赤で修正を入れているところもあった。彼女が一文字一文字綴っていった跡が読み取れた。タイトルは書かれていなかった。彼女の名前が枠外に遠慮ばかりに添えられている。

彼女の紡いだ言葉をなぞった。情景がありありと眼前に浮かび上がる。登場人物の姿が象られた。彼女の描いた世界が、私の中でもう一度構築されてゆく――。


 *

 *

 *

 最後の頁をめくった頃には、月が夜空に躍り出ていた。「了」という締めの言葉を以て世界は終わりを告げた。呼吸をするのも忘れて、夢中で読んでしまっていた。


なんて美しい世界なのだろう。


同じ高校生が書いたとは到底思えなかった。素人作家が書いたとも微塵も思わなかった。完成されている。序盤の何やら意味深な行動。登場人物の秘めた思い。そして息を呑む展開。ほろ苦い、余韻を残す結末。秀逸、その言葉が一番似合っている。まだ浸っていたいと思う世界だった。でも、ここで物語が終わることにこそ意味があるのだと、そう思わせてくれる世界だった。嫉妬心は不思議と生じなかった。私が今後どんなに熱心に創作に取り組んだとして、この域に達することはできないのだろうと悟った。圧倒的な技量の違いを感じる作品だった。あまりにも段違いなものに遭遇すると、嫉妬などという無粋なものは端から生じず尊敬となるらしかった。


 私は彼女の紡ぐ世界に惚れ込んでしまった。


 *

 その日以来私達は自分の書いた小説を見せ合うようになった。彼女が見せてくれるのは専ら過去に書いていた小説で、リアルタイムで執筆しているものを見せてもらうことはできなかった。これは私のためだけのものだからと、そう言って譲らなかった。でも、私は過去の作品だけでも満足だった。私は彼女の意志を尊重し、決して書きかけの小説を覗き見るような真似はしなかった。

 彼女は私の小説も読んでくれた。貴女もなかなか良いの書くんだね、彼女にそう褒めてもらえた時は、鼻が高かった。

 二年生になっても、その関係は続いた。クラスは離れたけれど、毎日のように私は彼女のいる教室を訪れて、最終下校のチャイムが鳴るまで居座った。

 彼女の書いたものはどれを取ってもハズレがなかった。世界観は違うけれど、総ての作品の根底に彼女の理念が存在して、それが世界を動かしている。美しかった。もっと浸っていたいと思った所で物語は終わる。胸の奥がぽっと熱くなり、不思議な残響が木霊す。彼女の作品は素晴らしかった。放課後、私は物語を紡ぐ彼女の隣で、延々と作品の魅力を作者自身に語り聞かせていた。彼女は苦笑交じりで、それでも満更でもない顔で、私の話に相槌を打っていた。



 茜色に塗り替えられた教室は、私の理想の世界だった。


 大好きな世界だった。


 永遠にこの幸せな時間が続いてほしい。永遠などないと知っていて尚、そう願った。



それなのに――



愛した世界は、あっさりと終焉を迎えた。



【続】





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