百合短編

雲矢 潮

痛み、心臓を刺すような

「和田さん、聞いてますか」

「聞いてますよー、手依たより先生」

「だったら、頬杖をつくのはやめてください」

 私は、顔を支えていた手を頬から離して、机に置く。別にホームルームが面倒な訳ではない。先生の話を、本当は聞いていないけれど。

 私の学級の担任、陸本おかもと手依たより先生はクールで、人を寄せ付けない雰囲気をしている。休み時間は馬鹿みたいにうるさいこの学級も、ホームルームだけは一切の私語がない。学年が変わってから新たに担任団に入った手依先生の前で私語をした生徒を、私は見たことがない。

 大きめの丸眼鏡の奥、細く鋭い目の向こうに、何か惹かれるものがある気がする。それで私は、先生を見かけたらいつも目を向けてしまうのだった。


 学年で、陸本先生を「手依先生」と呼ぶのは私しかいない。

「手依先生、進路相談の面談っていつですか?」

 先生は、白く光るメガネの奥から私を見返した。

「ああ、明日のお昼休みでどうでしょう」

「りょーかいです」

「もうちょっとこう、『わかりました』みたいな表現はないんですか?」

 国語教師は、私の返答を指摘した。

「他の先生だったら、『ありがとうございますと言え』っていうと思うんですけど」

「私を他の方と同じにしないでください」

「流石、手依先生」

「『流石』って、目上の人には使わないものですよ」

「そうなの!?」

 やっぱり、手依先生は面白い。


 その日の昼休み、音楽室へ行く途中に職員室の前を通りかかると、見知らぬ人と手依先生が話していた。私服のその女の人は、小柄な手依先生よりも背が高く、大学生くらいに見えた。手依先生と同じ、大きな丸眼鏡をしている。

「お弁当、ありがとね」

「今日は残業?」

 女の人が聞く。気になってしまった私は、柱の陰に隠れた。

 手依先生が、ふふと笑った。

「古典の小テストの採点があるから、少し遅くなるわ」

「そっか、急いで採点してね」

「赤ペンと中性紙の摩擦によるわね」

 なにそれ?

「じゃあ、大体正解なんだね」

「多分ね」

 その大学生さんが立ち去ろうとしたので、私も柱の陰から出ようとすると手依先生が目敏く私を見つけた。

「和田さん?」

「えっ、あっ、はい和田です」

「現代文の宿題、提出期限明日だから」

「あっ、りょです。……あの、この方は」

「ああ、私の娘よ」

「陸本なぎさといいます。大学生です」

「やっぱり」

「やっぱり?」

「いえ、何でもないです」

「お名前、和田さん?」

「はい。和田利央です」

「利央さんね」

「えっと、なんで学校に?」

 手依先生が答えた。

「お弁当を届けてもらっているんです」

「お弁当」

「手依は料理できないからねー」

「渚、」

 手依先生が、少し怒ったような声で呼ぶ。感情を見せない先生には珍しくて、思わずふっと目を向ける。それとも、家ではもっと感情を表に出すのだろうか。

「僕はそろそろ失礼しますよー」

 と、渚さんは手を振って職員室横の階段を降りていった。一人称、「僕」なんだ。

 手依先生と渚さん、なんだか面白い親子だな。先生の「私」が見えて、少しドキドキした。

「あれ、でも手依先生って指輪してないですよね」

「……渚には、父親がいないんです」

 渚さんのお父さん、つまり、手依先生の夫さん。

「……そう、でしたか」

「ごめんなさい、貴方にこのことは言わないほうが良かったですね」

「いえ、大丈夫です。……手依先生って料理できないんですね! 新たな一面知れちゃいました」

五月蝿うるさいです。他の生徒には口外しないこと」

「だいじょぶですよ、私そんなこと話せる友人いないので」

「そうですか」


 明らかに現代の住宅ではない、瓦屋根の家に帰る。ガラガラと音を立てる引き戸を開けても、両親はいない。居間にいる祖父母に挨拶はせず、玄関を上がって階段を昇る。重い学生鞄を降ろし、部屋の窓を開ける。冬に入る前の、乾いた涼しい秋風が入り込んだ。階段を誰かが登ってくる足音がして、私は有線のイヤホンを両耳に着ける。

 ガチャ。扉を開ける音。

「利央。帰ったら挨拶くらいしなさい」

 閉じた両目を薄っすらと開けて、小さな部屋の入口に佇む祖母を見上げる。

「ただいま」

 祖母は、はぁと溜め息をついて、一階に降りていった。

「宿題くらいやりなさいよ」

 今からするってのに。やる気なくした。

 ベッドに倒れ込んで、音量を最大まで上げる。

 陽気なEDM。

 そうして、渚さんと手依先生のことを考えていた。

 お父さん、いないんだ。

 私と、同じ。

 ギン、と頭痛がして、枕に頭を埋めた。



「和田さん。今日の昼休み、覚えてますか?」

「え、私なにかしましたか」

「進路相談です。昼食後、職員室に来て下さい」

 そういえば、そうだった。


 昼休み、職員室の扉を叩く。

「失礼します、陸本先生はいらっしゃいますか」

 並ぶ先生の机の向こうで、手が上がった。

「大坂先生、応接室をお借りしますね」

「どうぞー」

 小綺麗な机の向こうに先生が座る。促されて、柔らかいソファに腰を降ろした。

「さて、和田さん。高校卒業までもうすぐ二年になりますが、自身の進路について何か考えていることはありますか」

「いえ、特には……」

 と、困った顔で頭を掻く。手依先生は、私を見つめてじっと黙っている。

「…………大学には、行きたいと思ってます」

「具体的な志望校はない、と」

「は、はい」

「そうですね、」

 かちゃ、と扉が開いた。

「あー、今入ったら不味かった? あっ利央ちゃん」

 渚さんだった。

 呼び方が変わってる。覚えていてくれたのは嬉しいけど。

「不味かったわ。というか渚、なんでここに来てるの?」

「えぇー、手依のいるとこくらい分かるよ」

 何それ、こわい。

「とにかく、あとで、……いえ、ちょっと待って」

「どしたの?」

「和田さんの進路相談に乗ってくれない?」

「「手依先生??」」

「それ、やっちゃだめなやつでは」

 と、渚さん。私も同意だ。

「大学に行こうと思うなら、現役大学生の話は貴重ではないですか? 私、あの大学の関係者でもないですし。決めるのは和田さんです」

「まぁ、そうかもね……」

 渚さんはそう言って、私の向かい、手依先生の隣に座った。

 手依先生と同じ、大きな丸眼鏡。やはり細く鋭い目の奥に、何か惹かれるものがあった。

 逆に手依先生と違うのは、その背丈と髪の色。手依先生よりも背は高く、栗色の髪を長く伸ばしている。よく手入れされているのだと人目で分かる、さらさらと電灯の光を返す髪。

「利央ちゃんは、大学行きたいんだよね?」

「はい」

「その後何やりたいとかは?」

「今のところ、ないです」

「それもいいと思うよ。進路を探すために大学に行くのもアリ。僕もそうだもん」

「そうなんですか?」

「うん。僕の大学は受けたい講義を結構自由に受けられるから」

「!」

「それに、自分で空けたい時間は空けられるんだよ」

 渚さんは、手依先生の方をチラと見る。長い睫毛が、さっと動く。それからニヤついて言った。口元の薄い紅色が映えた。

「だから、手依にお弁当作って来れるんだけどね」

 私も思わず、先生の方を見た。

 手依先生は、目を閉じてはぁと溜息をついた。やはりこういうのが、先生の「素」なんじゃないかと思う。

「ご両親は? その辺り、話したりしないの?」

「あっ渚、」

 応接室に、沈黙が降りる。

 渚さんには、話したほうがいいだろうか。手依先生が、不安そうな目で私を見ている。


「………………私、母がいないんです。四年前に、交通事故で」


 ギン、と頭痛がする。けれど、口を閉じずに話し続ける。クラスメイトは誰も知らないけれど、彼女には話しても大丈夫だと思えた。

 それが何故だか分からない。でも不思議と、落ち着いて話せる気がした。

「それで父方の祖父母の家に住んでるんですけど、父はあんまり帰ってこないし、祖父母とは仲が悪くて」

「………………そっか。僕と一緒か」

 こく、と頷いた。

「もしよかったら、僕を姉だと思って、何でも相談して」

 渚さんが、ふわりと笑った。新鮮で、それでいて懐かしいような、優しい笑顔だった。その笑顔を、じっと見つめてしまっていた。

「あ、ありがとうございます」

「手依も姉扱いしてくれていいから」

 視線を移すと、手依先生は渚さんの冗談に呆れた顔をせず、じっと目を閉じていた。

 予鈴が鳴る。

「今日は、ここまでにしましょうか」

「はい」

 三人揃って、席を立った。

「あの、渚さん」

「ん?」

「渚さんの大学、行ってみたいかもです」

「うん、考えといて」


 時代遅れの、うるさい引き戸を開ける。居間とは反対方向の階段を昇る。部屋の窓を開けると、もうすぐ冬の風が吹き込んできた。

 それから階段を降り、居間の扉を開けた。


「ただいま」


 明らかにそこにいるのに、祖父母からの返事はなかった。

 それでもいい。

 私は何故だか高揚した気分で、再び階段を昇った。

 その日一日、彼女の笑った顔が忘れられなかった。


 あくる日の昼休み、お弁当を忘れて学食に行った帰り、偶然にも渚さんを見かけた。手依先生にお弁当を届けた帰りなのか、通りかかった男子の集団に話しかけられていた。

 彼女の綺麗な目に、陽光が散乱した。

 渚さん、男子の相手なんかしなくていいんだよ。

 はしゃぐ彼らに微笑む笑顔。昨日、私に向けたのと同じ、優しい笑み。







 ズキ。


 …………なに、これ。


 自分の内側に何か真っ黒なものが広がっていって、苦しくなる。

 息が詰まる。

 痛み、まるで、心臓を刺すような。

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百合短編 雲矢 潮 @KoukaKUMOYA

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