黒猫のミーちゃん

@trd

曰く、黒猫は不吉の象徴である

帰路につく。日に日に冷たくなる空気に憂鬱な気分になる。

疲れた。仕事には慣れてきたが疲れるものは疲れる。

ようやく家に着いた。明日から冬服にしよう、そんなことを考えながらいつものように鍵を開けドアノブを捻る。

「ただいまー」

3足の靴が並ぶ玄関、そこからリビングに繋がる廊下。どこの家庭にもあるような薄茶色のフローリングに佇む、黒いモフモフ。

「にゃあ」

おかえりと言うように鳴く天使、その名もミーちゃん。毎日廊下に座って私の帰りを待っていてくれている。

一人暮らしを始めたときに飼い始めたのだが私にとっては家族同然となっていた。

ミーちゃんは私の帰りを待っていたといわんばかりに近づいてきて足に頬ずりをしてくる。タイツ越しに伝わる毛の感触と生き物特有のぬくもりが疲れ切った心を融かしていく。

やった!今日は当たりの日だ。私は内心ガッツポーズを決める。

というのも、猫は気まぐれとはよく言ったもので甘えてくる日とそうじゃない日で差がありすぎるのだ。

甘えてくる日はずっとそばにいてくれるが、そうじゃない日は近づくことすら許してくれずキャットウォークにずっと陣取っている。

その変わりようといったらまるで別人…いや別猫のよう。まあ機嫌が悪い日も帰りを待ってくれているのでなんとかなっているが…

そんなことを考えながらしゃがむと膝の上に乗ってほっぺに頬ずりをしてきた。

ずっとこのままでいたい欲望が襲ってくるがここは玄関だ、仕方なくミーちゃんを抱き上げリビングに向かう。

「ミーちゃん、週末は温泉行こっか!」

ミーちゃんを飼い始めてから月に1回は一緒に出掛けるのが恒例行事になっている。先月は観光に行って、その前は遊園地に行った。

週末の計画を立てながらご飯を食べ、お風呂に入る。その間もミーちゃんは絶えず私の後をついてきた。

昨日はずっとキャットウォークに立てこもっていたのに…

このままミーちゃんと戯れていたいが無慈悲なことに明日も仕事だ。

「ごめんね、ミーちゃん。もう寝ないと。」

ベッドにまで着いてくるというのだからかわいいったらないが、寝なければならない今となってはその可愛さが恨めしい。

「おやすみ、ミーちゃん」

頬にキスをするとミーちゃんは少し不思議そうに首を傾げた。


「疲れたー」

仕事の帰り道、肌を刺すような寒さに息が苦しくなる。ただ明日は待ちに待った週末、日に日に寒くなっていくなかでの温泉だ。そのことを想像すると疲れも吹き飛ぶようだった。

久々にコーヒー牛乳飲みたいな、ミーちゃんと温泉にいくの初めてだな、そんなことを考えてるうちに家に着いていた。

「ミーちゃんただいま~」

いつものようにドアを開ける。しかしそこにいつもの愛猫の姿は無かった。こんなことは初めてだ。

「ミーちゃん、帰ったよー」

部屋に向かって声をかける、しかし呼びかけに答えるのは静寂のみだった。

嫌な予感がする、どこへいったんだ。玄関から順に廊下、洗面所、トイレを探したが毛の一本も見当たらなかった。早まる心臓の音がまるで警鐘をならしているようで無意識に息が浅くなる。

残すはリビングのみ、きっとまたキャットウォークに立てこもているんだろう。そう思わずにはいられなかったが、嫌な予感が脳にちらついて仕方がなかった。

震える手でリビングへと繋がるドアを開ける。そこには見慣れた光景があった。実家を出たときに貰ったテレビ、半年前に買ったソファ、雑誌を見て一目惚れした観葉植物。そして、ミーちゃんのために買ったキャットウォーク。もう何回も見た光景だ、脳内に刻み込まれている。だからこそ視界の隅に映るそこにあるはずのない黒い物体にもいち早く気づいた。いや気づかない方が幸せだったかもしれない。

「みー……ちゃ…」

声を出そうとしたがまるで水中にいるかのように肺から空気が漏れるのみだった。

「う…そ…」

床に横たわる猫は素人目で見ても明らかに息絶えていた。

「うわあああああああああ」

血の気が引いていく。視界が狭まる。焦点が定まらない。呼吸が思うようにできない。心臓は動いているのだろうか。全身から力が抜けていきその場に座り込んだ。不思議なことに力は入らないが体は震えている。

泣いた。ただひたすらに泣いた。

体の奥から際限無く湧き出る悲しみが、涙となり頬を伝っていく。

もうどのくらい経っただろう。

体の水分が全て涙になってしまったのではないだろうか。

もう涙も枯れた頃、ミーちゃんの死体を抱き上げたが、いつも毛の下から感じられる温もりと全く逆の感覚が私の涙腺を再び刺激した。

このまま泣き続けたら枯れ死んでしまうのではないか。そんな馬鹿げた妄想に、かすれた喉から漏れる風切り音が妙に説得力を持たせていた。


そのあとのことは全部夢見心地で現実味が無かった。ミーちゃんの遺骸を庭に埋め、そのまま体に染みついたある種の本能のように仕事へと向かった。

私は生きなければならない、そのためにはお金が必要だ。つまるところこれは自然の摂理といえるだろう。

しかしお昼休憩中に倒れてしまいそのまま救急搬送された。人生のどん底とはきっとこういうことをいうんだろう。

退院して3日ぶりに帰路についた。だが家に帰ってもミーちゃんはいない、ならば帰る意味はあるのだろうか。そんなことを考えていたら思っていたよりも早く家に着いていた。しかし私の帰りを待っている愛猫はもういない。これから訪れるであろう悲しみに身構えながらゆっくりと扉を開けた。

「にゃあ」

「え?」

目の前には一匹の黒猫。しかしそんなはずは無い、遂に幻覚が?それとも幽霊かなにか?

脳が情報を処理出来ていない、だがそんなことはお構いなしに黒猫はこちらに近づいてくる。

一瞬身構えたが、黒猫はそのまま見慣れた動作で足に頬ずりしてきた。

温かい。それは間違いなく生命の温もりだった。2~3日ぶりのその温もりが疲れ切った心に染み込んで、新たな生命を息吹かせる。

「ミーちゃん、ミーちゃん、ミーちゃん!」

思わず抱き上げると、心配そうに頬に伝わる涙を舐めてくれる。こんなに幸せなことがあっていいのだろうか。

あの夜の涙と違い、今頬を伝う涙は温かい。溢れる幸福感で胸がいっぱいになる。


次の日、昨日の寝不足がたたり業務内容が全く頭に入ってこなかった。

一日経って冷静になったが、あの猫がミーちゃんである保証はあるのだろうか。

長い間飼っていた経験からして確かにあれはミーちゃんだと思う。

でも死者が生き返ることは無い。家に帰ったら消えている、なんてことがあったとしても不思議ではない。そんなことを考えていたら少しドアを開けるのを躊躇してしまった。

だがそんな心配をよそに、ミーちゃんはいつもの場所で私を待っていた。そして安堵する私を一瞥すると、そのままキャットウォークに立てこもってしまった。

昨日とはまるで違う態度に普段ならガッカリするところだが、今日だけはその態度がうれしかった。もう間違いない、これはミーちゃんだ!

失って初めてその大切さがわかるとはよく言ったもので、今はただただ目の前の存在が愛おしかった。


あれから半年近くが経った。気温はだんだん暑くなり、毎年恒例となっている過去最高の高気温を今年も記録した。

ミーちゃんとは毎週のように一緒に出掛けていて、その時に撮った写真を眺めるのが毎日の楽しみになっている。

「ただいま~」

「にゃあ」

「にゃあ」

いつもミーちゃんが座っている場所、そこに2匹の黒猫が居た。2匹とも同じ顔でどちらがミーちゃんか全く分からなかった。

ミーちゃんが分身でもしたのだろうか?まるで意味の分からない目の前の光景にそんな呑気な想像が浮かんでくる。

しかし現実は最も残酷な答えを突き付けようとしていた。

一匹は近づいてきて、そのまま足に頬ずりしてくる。その動きと対比するように、もう一匹は私を一瞥するとキャットウォークを陣取っていた。この情報が意味することはおよそ一つだろう。

半年前のあの日のような嫌な予感が頭を埋め尽くす。

私はそのまま庭へと走り出した。庭にあるのはミーちゃんの墓標だけだ。

私はそのままミーちゃんが埋まっている場所を掘り返した。こんなことせずに気づかないふりをしながら過ごしたほうがいいのかもしれない。だが、手は止まらなかった。そしてそのまま掘り出した。半年間目を背けてきた現実、ミーちゃんの亡骸を。

脳はとっくに思考することを放棄している。しかし現実という名のとてつもない汚物が、直接体に注入されていく。あまりの衝撃にめまいがした。

部屋からこちらを覗く2匹の猫の瞳がまるで心臓を舐められているような不快感を与えてくる。

昔、親しい人がエイリアンと入れ替わってしまうという映画を見た。そのときは怖いとしか思わなかった。しかし、実際に自分がその状況に陥ると思っていた恐怖は無く、ただひたすらに気持ちが悪かった。

「おぇ」

粘りつくような悪意に体が拒絶反応を起こす。咄嗟のことで吐瀉物がミーちゃんの亡骸にかかってしまう。

「あっ、ごめっ、みーちゃ…ん……?」

いや、この猫は本当にミーちゃんなのか?

飼い始めたあの日からずっと、この3匹は入れ替わっていたのか?

あの部屋にいる2匹がミーちゃんではないとどうして言い切れる?

なぜこの骸がミーちゃんだと決めつけていた?

「ミーちゃん」

つまりミーちゃんは死んでなくて、生きている。

「みーちゃん」

みーちゃんは死んでいて、生きていて、死んでいない。

「みーちゃん」

ミーちゃんは生きていなくて、死んでいて、死に生きている。

「ミーちゃん…みーちゃん…□ーちゃん…ミーちゃん…身ー茶ん…みーちゃン…?ミーちゃん…ミーちゃん…」


満月に照らされた庭には1匹の死骸と3匹の黒猫が残されるのみだった。


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