Rain

@nachi1010

Rain

   ***


――やった、雨だ。


ポツリポツリという音に、奏介はネクタイを締める手を止め窓の外に目をやった。灰色の空から一つ、また一つと落ちてくる滴が、ベランダに降り込みコンクリートに黒い染みをつくっている。


(やばい、急がなきゃ)


雨の日は普段よりもバスが混む。早目に並ばないと乗れない可能性があるのだ。それだけは避けたかった。いつものバスに乗りたい。――雨の日は、特に。

点けっぱなしのテレビを切ると、傘を引っ掴んであわてて家を出た。ドアに鍵をかけマンションの階段を駆け降りる。バス停は奏介の住む三階建てマンションのすぐそばにある。まだ雨は小ぶりだったので傘は差さずに走った。バスの到着予定時刻まであと3分。やはり普段よりも若干、多くの人が並んでいる。奏介は最後尾、背中の曲がったおばあさんの隣に立った。おばあさんと軽く挨拶を交わし、バスの来るであろう方向を見つめる。心なしか心臓の音が早いのは走ったせいだろうか。

しばらく後、予定より5分遅れてバスはやってきた。雨の日にしては上出来だ。

いつの間にか奏介の後ろにはかなりの列ができていたが、何とか座ることができた。後ろから2列目、窓際。いつもの席。(いつもここに座っている人がこのバス停で降りるので入れ違いで座れるようだ。)窓の外を眺め、一息つく。雨が次第に強くなってきたのか、傘を差して歩く人がさっきよりも多い。奏介の鼓動も、先程よりも更に忙しない。


(これなら、きっと、多分、)


流れていく景色を眺めているうちに、バスはいつの間にか停留所を三つほど通り過ぎていた。車内は奏介が乗った時よりもかなり人が増えてざわついている。


『次は、霞沢駅前、霞沢駅前です。お降りの方はブザーでお知らせください』


霞沢駅はこの辺りではそこそこに栄えている駅で、乗る人も降りる人も多い。当然のようにブザーは鳴り響き、『次止まります』とアナウンスが流れた。奏介の降りる“北浦”はまだ先だが、胸がドキリと跳ねる。間もなく霞沢駅前に到着し、ドアが開いた。車内に立っていた居た人の大半が降り、一瞬がらんとしたと思ったら今度は次々乗り込んでくる。奏介はドキドキしながら入口をじっと見つめていた。ざわめく人々の隙間から、薄桃色の傘が目に入る。

(あ・・・)


―――彼女だ。


  ***


彼女を初めて見たのは、もう三カ月ほど前だろうか。桜の花が散り始めたころ、奏介が今のマンションに越してきたばかりの、肌寒い雨の日だった。

この日もやはり霞沢駅前では多くの人が乗り降りし、雨だったこともあってバスはかなり長く止まっていた。いつもの席に座り早く出発しないかな、と少々イライラしていた奏介の目に留まったのは一番最後に乗り込んできた女性。長い栗色の髪、ほんのり頬が紅潮した白い顔。


(お、かわいいな)


単純にそう思い、何気なく様子をうかがう。薄桃色の傘を持った彼女は、急いでいたのだろうか乱れた呼吸と髪を整え――――こちらを見た。…ように感じた。実際には手すりに摑まるためにたまたま奏介の居た方向に向いただけだったのだが、それは一人の男の心を掴むには十分すぎる眼差しだったらしい。


それ以後しばらく彼女の姿を見ることはなかったのだが、ある雨の日、再び彼女はバス停に現れた。そしてまた別の雨の日も。どうやら雨の日だけバスを利用しているようだ、と気付くのにそう時間はかからなかった。しかし、だからどう、ということもない。奏介が彼女について知っていることと言えばそれだけなのだ。雨の日だけ、自分と同じバスに乗る、名前も年齢も、どこのバス停で降りるのかさえ知らない女性。別に奏介はそれで幸せだった。雨の日にはかわいい子が見られる。ただの目の保養。そう割り切っていた。

そして今に至る。


(自分で言うのもなんだけど、なんか変態みたいだな俺。)


こそこそと一方的に彼女を観察する自分を想像し、自嘲気味に笑う。そんなことを考えている内にもう次は奏介の降りる北浦だ。他にも降りる人がいるようで、既にブザーは鳴らされた後だった。バスが少しずつ速度を落とすとともに、降りる準備をして立ち上がる。しかし目の前の光景に少しドキッとして一時停止してしまった。今日は車内がなんだかいつもより混んでいて、このまま降りようとすれば彼女のすぐ側を通ることになる。いや別にいいんだけどね!と誰への言い訳か心の中でそうつぶやいた。ドキドキドキ。静まれ、心臓。何食わぬ顔で彼女の横を通り過ぎようとした瞬間、バスが揺れ、奏介は彼女にぶつかってしまった。


「きゃっ」


はじめて聞いた彼女の声は、想像以上に可愛いなと思った。

(って、そうじゃないだろ、うわぁぁぁぁぁぁぁ!)

「す、すいません!」

「あ、いえ、大丈夫です…痛ッ」

え。まさか怪我をさせてしまったのだろうかと青くなる。

「す、すみません髪が…」

彼女に言われて気付いた。彼女の栗色の髪が、自分のスーツのボタンに絡んでしまっている。と同時にバスの扉が開いた。いつの間にか北浦に到着していたらしい。どうしよう、降りなければ。いやしかし彼女が。ああ思考回路はショート寸前だ。


「・・・ここですよね?降りましょう!」

「え、えぇ!?」


彼女の言葉を理解する前にぐいぐい押されて、二人一緒にバスを降りた。彼女の髪と奏介のスーツは未だ繋がったままだ。扉が閉まり、バスが走り去って行ったところで、奏介はようやく何が起きたのか理解する。あの彼女がこんなに近くにいて、一緒にバスを降りて、喋って、うわああああ!


「あ、あの!」

「すみません、今とりますから」


懸命にボタンと格闘する彼女をしばし見つめ、気付く。雨は先ほどより弱くはなったもののまだ降り続いており、北浦のバス停には屋根がない。奏介は慌てて自分の傘を差した。


「ありがとうございます」


傘に気付いた彼女がこちらを見上げほほ笑む。

(やっぱり近くで見ると益々かわいい。って何を考えているんだ自分!)

「とれた!」

「あの、すいません!降りさせてしまって」

「え?ああ、私は大丈夫ですよ。どうせあと二つ先で降りる予定だったので、そんなに変わりません」

「いやでも・・・」

二つ先って。そんなに変わらないという事もないだろう。

「あ!もしかしてここで降りるんじゃなかったですか?確かいつもここで降りていたような気がするんですけど・・・」

「や、いえ!ここで合ってます・・・って、」

いつも?今確かに彼女は“いつも”と言った。それはつまり、もしかして彼女は、彼女も、


「僕のことご存じなんですか・・・?」


「あっ!えと、・・・すみません。実は私もよくこのバス使うんです。あなたもいつも乗ってらっしゃいますよね。同じ席に。だから、なんとなく覚えてしまって」


彼女は恥ずかしそうにそう言い、奏介はというと全身の血が沸き上がり顔に熱が集まるのを感じ口元を覆った。実際奏介の顔はゆでダコのようだ。


(俺はもしかして夢を見てるんだろうか?彼女と会話して、しかも彼女も俺のことを認識していたなんて、そんな!)


「あの・・・?あ、すいませんやっぱりキモチワルイですよね。見ず知らずの女に覚えられてたら」

申し訳なさそうに言う彼女の姿に、首をぶんぶんふって否定の気持ちを目いっぱい表す。

「そんなことありません!というか俺も、俺もあなたのこと知ってたんです!」

「え!?」

「あ!えと、その・・・雨の日だけ、同じバスですよね。」

「そうです!雨の日だけ!なんだ、変な話ですね。知り合いだったんだ」


クスリと笑う。こういうのは知り合いとは言わないんじゃ?と思ったが、そんなことはどうでもいい。さっきからうるさく鳴り続ける心臓と、このゆでダコのような顔をどうにかしなくては。ああ、どうしよう全然考えがまとまらない。そんな奏介の思いは余所に、彼女はまだクスクスと笑っている。笑いのつぼが浅いのかズレているのか、どうも天然らしい。


「そうだ!お時間大丈夫ですか?お仕事行かれるんですよね?」


彼女に言われ気がつく。そう言えばそうだった。完全に舞い上がっていた頭をどうにか落ちつけ、腕時計を見る。8時45分。会社はもうすぐそこだが、確かにそろそろ行かないとまずい。かなり名残惜しいが、この幸せな一時に別れを告げなくては。


「すみません、じゃあ僕はそろそろ・・・あなたは時間大丈夫ですか?二つ先のバス停まで行く予定だったんですよね?」

「私は仕事に行く訳ではないので・・・少しくらい遅れても大丈夫です」


仕事ではない?彼女はいつも同じ時間のバスに乗ってくるから、奏介はてっきり通勤だと思っていた。ではいったいどこへ行くのだろう。


「引き留めてしまってすみませんでした。お仕事がんばってください。」

「いや、元はと言えば僕がぶつかったのが悪かったんですし」

「じゃあ、また」


『また』。その一言に心が弾む。そうだ。彼女と知り合いになれたんだ。また、バスで会える。・・・知り合い、でいいのか?今のままじゃ結局何も変わらないのでは?だって彼女のこと、まだ何も―――――、


「あっあのっ!」

「?はい」

「・・・お名前、聞いてもいいですか」


彼女は一瞬キョトンとしたが、すぐさま微笑んで言った。


「そういえば、名乗ってませんでしたね。梅森しずく、です。あなたのお名前も、教えていただけますか?」


「石沢、奏介です」


しとしとと降り続いている雨の中、しずくの薄桃色の傘がぱっと咲いた。


「また雨の日に。石沢さん」



――ああ、明日も雨が降りますように。

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