透明な桜色
宵町いつか
第1話
共感覚、といっただろうか。
そう診断されたのも、もう随分と昔の事だからいまいち確信が持てない。それにもうその診断されたはずのその病気は治り始めている。
今ではもう、あの日のことは夢だったのではないかと思う。けれど実際にあったことなのは僕が持っているスケッチブックが証明していた。些細で夢のような綺麗な日の話だ。
中学の教室の空気は灰色。
天井の隅は淡い水色。
火曜日は橙色。
世界は色で溢れている。比喩ではなくて実際に、色で満ちている。小説でよくあるハッピーな類のものではないし、反対に灰色の人生みたいなものでもなく、もっと現実的なもの。
僕はただ実際に目に見える色彩が他の人よりも多いだけだ。それに特異性もなにもない。
確か美術の授業だった。まだ綺麗な中学の制服を着ていたのを、はっきりと覚えている。好きな漢字をレタリングして色を塗りましょう的な、意味の分からないものだった。
「面白い色味だね」
見えている色のまま絵の具を使っていたら、隣の席のやつがそう言ってきた。名前は知らない。知っているのはそいつが美術部員ということだけだった。
「あ、うん」
そっけない返事になったのは自覚していた。話したことがなかったということも作用して、驚きも混じっていたのだ。
「うんって。ははっ」
静かな美術室に彼女のからりとした笑い声が響いた。ちなみに何が面白いのかは微塵も分からなかった。
彼女はひとしきり笑ったあと、目尻に溜まった涙を指で拭って僕を見た。
「儚い?」
彼女が僕のスケッチブックを覗き込んだ。僕のスケッチブックには「儚」の文字が灰色で塗られている。灰色の中には何色か色が混じっていた。紫、青、黄色、赤。一度色を乾かしてから上から灰色を塗ったのだ。そうすることでいつも見ている光景を表せる気がしたから。結局、上手くは表現できなかったけれど、きっとその上手く出来なかった表現が彼女の興味に触れたのだろうと思った。
「うん。儚い。好きな漢字なんだ」
「好きな漢字って……キミ変わってる」
彼女は興味深そうに僕を見つめる。まるで猫みたいな丸い瞳だ。人を軽々と飲み込んでしまいそうな、危うい瞳をしていた。
僕は盗み見る形で彼女のスケッチブックを視界に入れる。彼女のスケッチブックには薄いピンク色で「透」とだけ書かれていた。まるで桜の中のようだと感じた。なんとなく、きれいだと思った。
「……透?」
「ん? ああ。そう。透明の透」
「なんでその漢字に?」
僕が決めた理由とは違うことは明確に想像がついた。だって僕が決めた理由を変わってると評したのだ。きっと彼女は至って普通の決め方をしたのだろう。普通の決め方なんて知らないけれど。
「んー……私がそうなりたいから?」
急に変なことを言い始めた。漢字になりたい、ということだろうか。
「漢字になりたいの? 君は」
「違う違う。そんなんじゃなくてさ、シンプルに考えて。
透明になりたいなっていう話」
なんか思春期の男子が考えそうな事だな、と思った。ふしだらなことを夢見ている男子だ。
「ああ、下心とかなしでね」
下心以外で透明になりたいってなんだよ。
僕は心のなかで突っ込みながら、スケッチブックにまた色を足す。彼女も同じように淡いピンク色を足した。彼女の文字には、なにも変化は見られなかった。
「ほら、透き通ってる」
へへっと笑う彼女はやけに子供っぽくて、しょうもないことに何でもかんでも全力だった頃を思い出す。彼女の中ではきっと今も延長線なのだろうけど。
彼女はふんふーんと鼻歌を歌いながら意味なく重ね塗りをしていく。集中を強制されているこの美術室の中では、その集中力のなさが浮き彫りになっていた。
「よーし。できた」
いや、これは彼女なりの集中の仕方かもしれない。美しく出来上がった桜色の文字を見てそう思った。彼女の恋い焦がれるほど美しく表現された透明はきっと、その熱で溶かされる。
結局、彼女
理由は知らない。知らなくていいと思っている。
知らなくても思えるから。あの桜色はとても綺麗だった。今でも記憶に焼き付くくらいに、美しいと。
真田透という自分の名前を見るたび、あの桜色の透明を思い出す。
透明な桜色 宵町いつか @itsuka6012
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