潰れていく本屋
特に深い意図なんてなかった。
ブラック会社で月に200時間くらい残業して、肉体も精神も疲れ果てて、情けないことに上司に直接告げる勇気が持てず、退職代行サービスを使って辞めたのが先週のこと。
気分転換がしたくて、ふらっと遠出をした。
電車に乗って10駅くらい離れたところで降りて、そこからは行く当てもなくブラブラと歩いた。
全然知らない道。都会って程ではないが、田舎って程でもない場所。
個人経営の飲食店がまばらに並んでいるところに、ぽつんと、ボロけた本屋があった。
珍しい、最近は本屋自体、少なくなっているのに、こんな古本屋がいまだ残っているなんて……
興味本位で中に入ると、店内には俺以外に客は誰一人いなかった。
受付には、すらっとした長身の女性がひとりいる。
見た目は若く見える、が、なんだか物腰が洗練されているので、三十代以上かもしれない。
「あら、珍しい、あなた、ここの店に来るのは初めての人でしょ」
僕に視線を固定すると、彼女はそう言った。
声をかけられると思っていなかったので、少しびくっと体を震わせてしまう。
「ええ、はい」
「最近は昔なじみの客しか来ないから、嬉しいわ」
と愛嬌たっぷりの笑顔になる彼女。
俺はもう既にこの本屋を気に入ってしまっていた。
本棚の森の中を歩いていると、どこの本屋でも置いているような著名な本は少なく、逆に誰が買うんだ、そんな本、と思ってしまうようなマニアックな本が並んでいた。
でも、こういう個性の強い本屋は好きだ。
いつのまにか、あの女性は受付から離れて、僕の傍へ来ていた。
僕の様子を興味深そうに観察している。
そうじろじろ見られると、緊張してしまうな。
「素敵な店ですね」
「でしょう」
「この店で売られている本はあなたの趣味ですか?」
「ええ、そうなの、買う人は少ないけどね」
「ああ、見るからにニッチですもんね」
「でも、一部の読書家の間では、少し有名なのよ、この店。そういう人たちがこの店を今まで支えてくれたの、でも、最近は通販でマニアックな本も買えるから、どんどん客が少なくなっているんだけどね」
「それは、悲しい話ですね」
「うん、ほんとにね」
と彼女は眉尻を下げて、小さな溜息をついた。
少ししんみりとした空気になってしまったので、話題を変えようと僕は思った。
「いいですね、やはり本屋は。本に囲まれているというのは落ち着く。僕、書斎を作るのが夢なんです。これくらいたくさんの本を家に置けたら、それはとっても幸せなことだなって」
「ああ、それ、わかる、作れるといいわね、書斎」
「ええ、でも、今の家は狭いし、引っ越そうにも書斎を作れるほどの広さの家に住むには、金銭的に厳しくて、そもそも本を買うお金自体あまりないので、現状、ただの儚い夢ですね」
「悲しい話ね、もしかしたら本は全部、いずれ電子書籍になって、書斎なんて将来的にはどこの家にもなくなるかもしれないわね、書斎という言葉自体、死語になったりして」
「最悪な未来ですね、それは」
「同意です」
暗い雰囲気を変えようと思ったのに、さらにどんよりとしたムードになってしまった。
本関連は、明るい話題が最近少ないので、どうしても本の話をすると、暗くなりがちになってしまう。
それから本屋を無言でぐるーっと一周するが、あまりにもニッチすぎて、今は特にほしいという本がなかった。
それでもただ見るだけというのは申し訳ないので、一冊くらいなにか買おうと思ったが、どれも値段が高めで購入を躊躇してしまう。
だから、出直そうと思った。
「すみません、今日のところはこれで、必ずまた来ます」
と出入り口に向かおうとした僕を見て、彼女は儚げな苦笑をした。
「ごめんなさいね、またはないのよ」
「え、それはどういう……」
「実はね、今日、店をたたむの」
「……あー、そう、なんですか」
何を言えばいいのか、わからない。
でも、特に驚きはなかった。
本屋なんて、最近潰れまくっているからだ。
ああ、ここもか……という諦観しか湧かなかった。
「それは……なんというか、すごくもったいないですね、こんなにいい店なのに」
「しかたないわ、時代は移り変わるものなのだから」
「でも、わかっていても、悲しいです」
「うん、悲しいけど、でも、こんなのはありふれた悲劇よ、今時、本屋がつぶれるなんて珍しくないもの」
「僕の近所にあった本屋は、最近、全て潰れてしまいましたよ。本屋に行こうと思ったら、少し遠出をしないといけないくらいです」
僕がそう言うと、彼女はこの世が終わる時に浮かべそうな表情で、声だけは明るく笑った。
「ふふ、本屋なんて、いずれ全てなくなってしまうのかもしれないわね」
「それは、嫌です」
「私も嫌だけど、でも、しょうがないわ、必要とされなくなってきているのだから」
「僕は必要です」
「でも、必要とする人は、たぶん、どんどんいなくなっていくわ、いずれだれも……」
「いずれは、もしかしたら、そうなるのかもしれません、でも、少なくとも僕が生きている間は、本屋はなくさせません、僕がいつか本屋を開きます。今は無理だけど、お金をためていずれ……。たとえ、誰も紙で本を読まなくなっても、全然売れなくても、紙の本をそこにたくさん置きます」
「それは、とても素敵な話ね」
「でしょう、だから、今度はあなたがいつか僕の本屋に来てください」
「うん、ありがとう、必ず行くわ」
彼女は、目からぽろぽろと涙を流していた。
大げさだな、と思ったが、僕も気づいたら泣いていた。
そしてお互いの泣き顔を見て、笑い合った。
暗い話題ばかりで気が滅入っていたけど、少しだけ心が軽くなった。
その後、僕たちは誰も客が来ないこの本屋で、ただ黙々とここにある本を手あたり次第に読んだ。閉店の時間まで……。
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