第26話 新たな川/修正第19条

 闇に沈んでいる丘を、寄り添いあった影が登っていく。何度目か、ヴァネッサの膝が折れた。少し休みましょう、とクレアが気詰まりな目をした。ヴァネッサは強情に首を振った。

「大丈夫だ。追いつかれる前に、少しでも遠くへ逃げよう」

 背中のほうにサン・ミランダの灯が見えた。こんなことが前にもあった、と思う。母を撃ったあの夜だった。不吉な感傷が胸のうちで疼いて、ヴァネッサは顔を歪めた。

(ここで死ぬのか、じゃない。とにかく前に進め、ヴァネッサ!)

 唇を噛み、顔を上げた。軋む身体に鞭を打って、足を前に出す。今はあの時とは違う、と言い聞かせた。殺すためではない。守るためにここにいる。それを思い出した時、踏み出す足が、力強さを取り戻していた。

 二人はようやく廃教会へ転がり込んだ。「手当てをするわ」とクレアは長椅子にヴァネッサを寝かせ、水を飲ませた。ドレスの裾を裂き、手際よく応急の血止めを施す。

「ネッサ、ここからどうするの」

 クレアが上目遣いに訊いた。怯えた少女の瞳ではない。戦う女の目をしていた。

 ここで待ち伏せる、とヴァネッサは告げた。隠れようともいずれやつらは気づくだろう。ボナンザ・ヒルのほうへ行って諦めればいいが、そうはいかないと思っていた。丘の下には追ってきた手下の死体が転がっている。その側にはキャンディも倒れていた。よく保ってくれた、と心の中で祈りを捧げた。

 決着をつけよう。

 ヴァネッサはライフルの動作を確認し、拳銃にも弾をこめる。六発。

「君はこれだ」とクレアにはデリンジャーを手渡した。

「何かあったら使え。二発しかないが、身を守るには役立つ」

「何言ってるの、ネッサ! わたしも戦う、あなただけ死なせはしない!」

 泣きそうな顔でクレアは訴えた。一緒に行くという、その気持ちが嬉しかった。

「心配するな」とヴァネッサは首を横に振った。「これは私の仕事だ。責務だ。君の力は別のところで使われなければいけない。だからこれでいいんだ」

 狼の遠吠えが聞こえた。クレアは目を伏せてヴァネッサの手を握る。星あかりの下、碧の瞳が潤んでいる。いいんだ、とヴァネッサは繰り返す。私はやっと命の使い方を知ったんだから。

「……簡単にはいかなかった」

 クレアが呟いた。「言葉で伝えて、伝わって。いい世界にしていけると思っていた。暴力が阻んだ。わたしもまた、銃に守られている」

 けれど、とクレアは視線を上げる。

「そう、ネッサ。あなたの言うとおりだわ。わたしは、わたしの声で戦う。だから託すわ。あなたを信じて」

 それでいい、とヴァネッサはクレアの前髪をそっと漉いて整えてやる。

「デリンジャーは取っておいてくれると嬉しい。私に渡せるものはこれぐらいしかないから。君みたいに、気の利いたものをプレゼントできればよかったのだけど」

 ネッカチーフは解かれ、右腕に巻きつけてあった。血止めとなって、ヴァネッサの命を繋いでいた。

「こんなものでよかったの……」クレアが微笑する。「あなたには、いつかドレスを着せたいと思っていたのに。鮮烈な赤も、無垢の白も、きっと似合うわ」

「サン・ミランダじゃ、そう気の利いたものもないだろう……」

「だからボストンへ行きましょう。ほんとうの都会よ、服だけじゃない、広い庭園も、立派な美術館も、劇場だってあるわ。時々はミュージカルもやっているの。見たことないでしょう?」

「ないね」ヴァネッサは笑みを浮かべる。「実に楽しそうだ。君が案内してくれるなら、きっと」

 いななきが聞こえた。ヴァネッサは耳をそばだてた。来た。身体が昂りに震えた。生と死の境目で、本能が吠えた。

「私が迎え撃つ。君は床下に。静かにして、出てくるんじゃない。何があっても」

 わかった、とクレアはうなずく。

「ネッサ、ひとつだけ約束して」

「聞こう」

「今日が終わっても、隣にいて」

 そんなことでいいのか、とヴァネッサは笑った。そんなことを言ってくれるクレアが愛おしかった。

「いいとも。だから君も約束を守れ。さあ、行け!」

 クレアが床板の外れた部分へ潜るのを確認して、ヴァネッサは壁伝いに屋根へよじ登った。腰を落ち着け、煙草に火を点け、ライフルをゆっくりと構えた。近づかれる前に殺すしかない、寄られれば数で勝ち目がない。私は殺し合いなどしない、とヴァネッサは小さく呟く。やるのは殺しだけ。

 短く息を吐いた。高所を取り、位置を知られていない。ギルバートと対峙したことを思えば、贅沢すぎるほどの条件だ。これで相手がひとりなら最高なんだが、とヴァネッサは苦笑した。ケリーに限ってそれはあり得ない。必ず盾を連れているはずだった。

 蹄の音が耳に届く。複数のリズムだった。煙草を投げ捨て、スコープを覗き込んだ。緊張も興奮もなかった。あれほど限界に近かった身体のことさえも忘れていた。澄み切った心で引き金に指をかけた。

 森から、5つの灯りが凄まじい速度で現れる。男たちはランタンをかざしていた。あまりに命取りだった。

 夜陰やいんを銃声が引き裂いた。灯りのひとつが転げ落ちた。ヴァネッサはすぐさま次弾を装填している。他の灯は瞬時に消えていた。それでも位置を身体が覚えている。かすかに見える影へ、ヴァネッサは撃ち込んだ。ふたり、と小さく呟いた。

 だが反撃も早かった。重々しい銃声の後に、ヴァネッサは弾丸の熱風を感じた。避けたがる本能を抑え込んだ。

(迷うな、ネッサ!)

 叱咤し、三人目をめがけて引き金を絞った。

 それと同時だった。肩へ引き裂かれるような痛みを感じた。上半身が傾いだ。まずい、と直感した時、既に浮遊感を覚えていた。身体が廃教会の床部へ打ち付けられて、肺の中から空気が吹き飛んだ。意識が混濁した。時間と空間の感覚を失いかけた。一喝する声がした。

「ネッサ、何をしてるんだい!」寂声じゃくせいが言った。「あの娘を守るんだろ! 決めたことぐらい最期までやり通しな!」

(ああ、まったく。その通りだよ、マザー!)

 歯を食いしばって、撃たれた傷口に指を突っ込んだ。獣の声がした。だがそれで覚醒する。ライフルを捨て、ピースメーカーを握る。やっと本当の勝負だ。あとふたり、と気配を数えた。じきにここへ来る。ヴァネッサは壁際へ這って身を寄せ、窓の端から外を睨んだ。

「チャールズ! 周りを見てこい!」ケリーが怒鳴っていた。「やったはずだ、当てた感触はあったぞ!」

「ボス、声が聞こえます」

「うるさい、さっさと言われた通りに動け! お前も撃ち殺されたいか!」

 問答はそれで終わったらしかった。足音がゆっくりと近づいてくる。息を潜め耳を澄ませた。肌が電流を感じたように痺れていた。頭を出すこともできない。一発、一度しかその時は訪れない。正確に、慎重に距離を測る。音は次第にはっきりと聞き取れるようになっていく。草のこすれる音がする。ヴァネッサはライフルを手に取った。最後の仕事だぞ、とキスをする。足音が行き過ぎて止まる。男は壁一枚隔ててそこにいる。

 息を殺す、気配。

 ライフルを外へ放り投げた。草むらに落ちる重い音がした。チャールズはそちらを向いていた。当然で、むしろ的確な反応だった。すなわちヴァネッサには背を向けていた。おおきな影へ、ヴァネッサは吠えながら引き金を引いた。都合六発。どこに当たるかは考えなしに全弾を撃ち尽くした。声もなく、肉の倒れる音がした。

 一瞬の静寂が、訪れ。

「そうか! まだ生きていてくれたか!」

 表のほうで、つんざくような高笑いがした。嬉々としてケリーは教会の入り口に顔を覗かせた。そこには恐れなど微塵もなかった。純粋な歓喜の表情だった。

「さあて、かわいいネッサ」水気を帯びた声がした。「話をしようじゃないか!」

 無論、ヴァネッサは返事などしない。長椅子の裂け目から、ケリーの様子を伺っている。男は隙だらけに見えた。違う、とヴァネッサは飛び出しかけた自分を抑える。恐怖のせいで一挙に勝負を決めたがっている。それは相手の思う壺だ。いつもこの男はそうだった。装うことの上手い男だ。まだだ、と言い聞かせる。

「ネッサ、ネッサ。君の顔が見たいだけさ。……だが」ケリーは袋に手を突っ込んだ。「ここに、最後の一本になったマイトがある。3つだ。3つだけ数えよう」

 ヴァネッサは背中に脂汗を覚えた。「3」自分はいい。だがクレアはどうなる。「2ぃ」出ていけば即撃たれかねない。だがケリーはやる男だ。「1」

「ここにいるさ、クソ野郎」

「ああ、かわいいネッサ。素直で結構。ミッドナイトを殺した夜も、こうやって僕の下に来てくれれば、こうまで苦しむこともなかったのにね」

 ケリーは口元を歪めた。目は笑っていなかった。月明かりが煌々と男を照らし、皺も髭もない肌は一層青白く見えた。

 鮮烈な記憶がまた、ヴァネッサの脳裏へ蘇る。ミッドナイトの、マザーの死に様を、悪魔の囁きを。

 けれど、もう震えてはいない。幼い少女ではない。構図は、いつかとまったくの逆だ。守られた者は守る者へと変わっている。ヴァネッサは男を正面から睨みつけた。果敢な瞳で。

 迷わない。クレアを守るために。

「銃を収めたまえ」ケリーは傲岸な薄笑いのままに言う。「僕のように」

「断ると言ったら?」

「君が死ぬ前に苦しむ時間が増えるだけだ。ネッサ、心配するな……一息では絶対に殺さない。君の声を聞かなければいけない」

 ヴァネッサは黙って腰へ銃を押し込んだ。そのうちにも目で距離を測っている。8ヤード半。五体満足なら殺せる距離だ。

「よろしい。君はよくできる娘だ」ケリーは満足そうに言う。「今夜もここまで逃げてみせた。クラリス嬢を連れて……おい、まさかひとりか?」

 ヴァネッサは皮肉な笑みを浮かべた。その間にも目眩が始まり、着実に足りなくなっている血を感じる。だが虚勢を張った。

「クレアが生きていたほうが、あんたたちが困るだろう?」

「……どういう意味だ」

 男の顔から表情が消える。ヴァネッサは哄笑してみせた。

「誰がやったか証言されちゃあ不味いのはあんただ。『賞金稼ぎが姉妹をたぶらかそうとして失敗した』、そんな出来の悪い脚本通りに踊ってやるほどお人好しじゃあない。クレアだけは守る。そのためにあんたをここで殺す。勘違いしてもらっちゃ困る……私は、待っていたのさ」

 ケリーは目を見開き、そうか、とつぶやいた。男の視線が落ちる。いつ動いてもおかしくはなかった。ヴァネッサは満身で感覚し続けた。頬を汗が伝った。

「君は実によくやる」男の眼球がぐるりと回ってヴァネッサを見た。肉食獣の眼光だった。「いやはや、わざわざ二人の舞台を用意してくれるとは嬉しいね! 正直に言えば、もうクラリス嬢のこともオーカー家の財産もスタンリーも、どうでもいいのさ。僕は君を殺しにきた。犯しに来た。かわいいネッサ、僕は君のことをずっと考えてきたのさ! 殺し損なったあの夜からずっと! だから今日はきみを楽しもう。ミッドナイト程度では足りない。君のすべてを犯し尽くして殺して、やっと僕の心は晴れる。君の手も顔も足も髪一本に至るまで。綺麗な目は最後にしておくよ。すべて君にも見届けてもらいたいからね!」

 男は吠えた。聞くものが怖気を覚えるような、狂気に満ちた叫びだった。

「あんたが化物で良かった」されど、ヴァネッサは安らかに笑う。「良心の呵責がなくて済む」

「ネッサ、かわいいネッサ。もし僕が化物だとしたら、君だってそうさ」

「そいつは無理があるね、クソ野郎」

「どうしてだい、鉛弾で取引をするのは一緒さ」悪魔が囁く。「そいつは開拓地の流行トレンドさ。わかりやすいルールだ。殺したやつが生きる権利を得る。たったひとつのシンプルな話だ。だから抵抗してくれ、かわいいネッサ。出来る限り汚く。それが、君の生きていた証さ」

 ケリーが目を細めた。最後まで対話をすることのなかった男は、右手を腰のほうへ流した。鏡合わせのように、ヴァネッサも同じ構えを取った。

 二人の間に沈黙が落ちた。

 ヴァネッサは床下のクレアを感じた。息遣いが聞こえるような気がした。それだけで力が漲った。祈ってくれている確信があった。いつかと逆の構図だった。だからマザーは最後まで抵抗したんだと気づいた。その血はヴァネッサの中に脈々と流れていた。

 


 は、やがてメキシコ湾へと流れ落ちる。安らぎと豊かさをもたらすせせらぎは、しかし時に姿を変える。雷が鳴り、嵐の訪れと共に暴れだす。底も見えぬ泥水が畑や農場さえも犯し奪い尽くしていく。抵抗などできない、圧倒的な力だ。

 やがて荒天が過ぎ去る。川は何事もなかったかのように、また清流へと戻っている。だがその姿は以前と完全に同じではない。

 。絶えることはない。過去を背負い、はるか未来へ向かって流れ続けている。

 

 続いていく。この血は大海原を、未来を目指している。例え自分がここで終わったとしても、この思いは、願いは終わらない。自身がマザーから受け継いだように。

 クレアは自分の理想だった。ヴァネッサのなりたかった形だった。

 だから祈った。私ではできなかったことを。私が歩むことのなかった道を選んでくれ。生きて、その先で掴んでくれ、と。ヴァネッサが託された思いと、同じものを。

 脳裏にクレアが浮かび上がった。虹のような、満面の笑みだった。かけがえのない日々レッド・レター・デイズのすべてだった。それだけで終わりかけたこの身体が生かされた。

 永遠のような時間が流れた。水中にも似ている。頭を上げることのできない潜水。

 毛穴が針のようにそそけ立つ。視線がぶつかり合っていた。火花と散って互いを計った。完璧に対等な場に立っていた。空には公平無私な月だけがあった。

 男の右手が動く。嗤っていた。粘りつくような笑みだった。

 翠の瞳はそれを静かに見据えている。宝石の輝きを抱いていた。揺るぎなく、行く先を見通す眼をしていた。

 銃声が、夜にこだました。

 彼方。鳥が飛び立っていく。




 合衆国憲法修正19条にはこう記されている。

「合衆国市民の投票権は、性別を理由として、合衆国またはいかなる州によっても、これを拒否または制限されてはならない」

 およそ15年後、1920年8月26日のことである。

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レッド・レター・デイズ 山口 隼 @symg820

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