幻想短編 かんなづきの夜
南瀬匡躬
かんなづきの夜
十一月も二十日を過ぎると、街角にはクリスマスツリーが目につく。華やかな、まばゆいイルミネーションと、いみじくもそれに合わせるかのように、豊かな音色の音楽も店先に響き渡る。そんな楽しい気分とは対照的に、心を律するような凜とした冷気も、吐く息の白さから感じられる。奇妙でアンバランスな風情がなぜか調和する季節。ほんの数日前に吹いていた秋風はゆるい涼風だったのに、それが跡形もなく消されるほど急いで季節は流れゆく。この季節が旧暦ではまだ神無月、十月だというのだから驚きだ。
彼は東京の出版社で働いている。岡山での書店営業とフェアの打ち合わせを終えて、ようやく帰路に就いたところだ。
駅弁と温かいお茶、小瓶のウイスキーをテーブルにのせて、流れていく車窓をぼんやりと眺めながらのディナーである。
さっきまで確認していた書店の注文票が無造作に輪ゴムでまとめたまま足元の鞄の上に置かれている。注文の冊数と書店の帳合もとの印の確認をしたからだ。
彼の脳裏に東京の飯田橋にある会社に着いてからの仕事の段取りが横切った。明日の休日を仕事から解放されるために、今日中に全ての雑用を済ましてしまおうという算段だ。
ところがそんな意気込みとはうらはらに、一定のリズムで心地よく響くレール音の車内で、彼は睡魔に襲われた。仕事の疲れからか、少量のウイスキーからか、車内空調の快適さからなのかはわからないが、とにかく心地よい眠りだった。
うとうとしながら、遠くで人々のざわつく声がしていることだけが感覚に残っているような夢心地をどれくらい過ごしただろう。時間にすればほんの五分十分程度である。彼が寝ぼけ眼でふとあたりを見回すと、結構な乗客の数になっていた。普段はそれほど他人の会話など気にしない彼なのだが、なぜか今日に限ってはそれが自然と耳に入ってきた。まるで何かがその会話を彼に聞かせたいという思い、いや見えざる力によってなされているかのようであった。そしてその聞こえてくる声の主たちが共通して手にしていたのが
『結婚式帰りの団体さんに囲まれたかな?』
彼は共通の大社の袋を結婚式の引き出物の入った袋だと推測していた。
程なくして京都を過ぎる。そのあたりから紀尾井氏の横の女性二人の会話が耳に届くようになる。
「六十年ぶりの新しい場所で清々しい気分でした。また今回名簿がしっかりしていたこともあって選定がスムーズにはかどりましたね」
「本当に。トヨさまにも食事の面では気を遣っていただきありがとうございました」
「とんでもございません。いつものことではありませんか。お粗末様でございます」
通路を隔てて、彼の横に座る女性二人組は穏やかで気品のある、いやもっと端的に言えばとても上品な雰囲気のする方々であった。しかも周りの人たちも顔見知りらしく、時折彼女たちと目線が合うと柔らかな微笑みで軽く会釈をする。まるで全ての面で敬うことを知っているかのごとくである。また不思議なことに彼女たちのその微笑みを目にすると、彼はこころの奥底から温かな気持ちになって優しくなれるのである。日常生活でのこころの汚れがまるで洗われるように。
「名古屋から今日は私鉄で参りましょう」
トヨさまと呼ばれる女性がもうひとかたに提案している。
「ええ、そのほうが一緒に帰れますものね」
柔らかな笑みでそのもうひとかたが返す。
「ただ一つだけ残念なことで申し訳ございません。本来であれば陽子さまの最寄り駅までご一緒したいのですが、今回わたしは一駅手前、自分の最寄り駅で失礼させていただきます。下車なさる駅にはお迎えの者がきてくれていることでしょうから大丈夫のことと存じますが…」
「いいのですよ。うずめ嬢もご一緒してくださるようですから。お互いなにかと忙しい身です。お気遣いなさらずに。また食事のほうはお願いいたしますね」
別段憤慨の気配など全くなく、微笑んで逆にねぎらいをかける陽子さんと呼ばれる女性には、今一度数段上のなにかしらの高貴さを感じた。
「かしこまりました」
まるで時代劇のお姫さまやお公家さまのようなスローな会話が彼の耳に入ってくる。どこの良家のご息女だろうかと驚かされた。やがて列車が名古屋駅に入ると、そのおふたかたはスムーズに気品のある身のこなしでデッキのほうへと移動していく。彼女たちが横切ると両脇の席にいた顔見知りらしき人たちは、一様に立席しお辞儀をする。
「これはすごい方々をお見受けしたのかな?」と彼はひとりごちた。
彼の良いところは誠実な人や正直な人を見た時に、茶化したり、気取っているなどと思わない。その方々の所作、立ち振る舞い、言葉遣いを素直に受け止めた。人がいいとも言えるが、人を大切にしているという証である。
彼は、列車の窓越しにホームを歩く、あのお二方を見つける。いつの間にか両脇には多くのお供が寄り添っていた。きっとこの中にさっき話題に出た、うずめ嬢なる方もいらっしゃるのだろう。エスカレーターで降りてゆくその後ろ姿に、どことなく光るものを感じていた。
「陽子さまのお住まいは常に新しくなります。二十年ごとにですよ。さぞ快適でしょうね」
「常若っていうのがピッタリのお家です。お帰りになるのが楽しみってものですよ」
「ええ、ええ。木の香りとお庭に敷き詰めた白い石のすじがお気に召しているとか」
「ああ、わたしも知ってます。何でも毎回ご近所の方々総出で白い石集めをお手伝いして下さるという話」
「日頃から尊敬されている方だから、みんなが手伝ってくださる。わたしも見習いたいものです」
「それはなによりです。陽子さまは大変責任のあるお仕事で、他の誰も変わることが出来ないものですから、せめてものねぎらいはお寛ぎできる住まいの提供ですよね」
話から察するに、本当に陽子さまは重大な任務に就いているお方のようである。紀尾井氏は「やはり偉いお方だったんだ」と一人で勝手に合点がいったようだった。
下車なさったさっきの方々の話題が、次々と断片的にだが彼の耳にも入ってくる。推測の域を出ないが、彼にもそのわずかなこぼれ話から彼女の性質というものが感じ取れた。
「あんな高貴な方の新居ならさぞかしいいお宅なんだろうな」と再び彼は彼女たちの上品さを思い返した。飲みかけのお茶を飲み干すと、彼の前の席で四人組が楽しそうに談笑しているのが見えた。シートの向きを変えて二対二の対面座席にしてある。
白ひげの年配の男性とその隣にはお孫さんらしき御子。そしてその向かいにはご夫婦が席を向かい合わせに回して対面している。
「お父様が三島で降りるのでしたら、私たちも一緒に降りてそこから車で国道を通って帰ります。そのために今日は関東の別宅に戻ることにしたのですから…」
その声の主を確かめると「なんたる美人だ!」と彼は目を疑った。人それぞれ好みはあるものだが、彼女は万人が共通認識できるほどの美人だ。女優やモデルが束になってかかっても敵わない程の美しさだ。色白の細面、切れ長の涼しい目、さらさらの黒髪にさくら色のイヤリングが映える。
「さくら、無理しなくてもよいのだぞ」
「いいえ、無理などしておりません。三島からでも小田原からでも時間はそう変わりませんから。ねえ、あなた」
「ああ、そうだね。折角だし、今日は三島名物のウナギでも食べて帰りましょう」
どうやら会話の口ぶりから推測すると、ご年配の方はさくらという女性の父親のようだ。父親は三島にお住まいなのだろうか。その横はご主人、そして向かいの席にいるのが若夫婦の息子さんと考えるのが妥当だ。
「みんな疲れとらんかね。今年は名簿の照合の係だったと聞いているが?」
優しい白髪の老人は若夫婦の労をねぎらうかのように話を続けた。
「私は今年は糸結びの係にさせていただいたよ。無理はできんからね」
「お父様はそれでいいですわ。私たちは大丈夫ですよ。帰れば温泉だらけの場所ですから、すぐに疲れも癒やされることでしょう。毎年のことですしね」
「おかげで今年は袋の中身は糸だらけじゃよ。皆が良縁に恵まれることだろう」
話をまとめてみるとどうやら若夫婦は箱根にお住まいのようである。いや別宅と言うから他にもお宅があるようだ。これから帰るであろうその別宅は小田原からも三島からも近く、国道で一本。しかも温泉があると言えばしごく当然な話だ。そして毎年この紙袋持った人たちは重要な会合を開いていることもわかった。
ただひとつ、袋の中身が糸ということだけが不可解であった。
「製糸業組合? …の結婚式? うーん、何のご商売の方なのだろう?」と首をかしげる紀尾井氏であった。
美人な奥さんの横で頷くだけだったご亭主が、もう一つ前の席にいた男性に向かって語りかけた。
「帰りのルートはそれでもいいかな?」
「結構でございます。道案内はお任せ下さい」
そういって、背もたれ越しに振り向いた男性は彫深い高鼻の赤ら顔で、心根の良い口調で返す。その返事に嬉しそうに、またありがたみを帯びたような口調でご主人が返す。
「感謝しております」
「本当なら陽子さま、トヨさまや奥様たちとお戻りになれたのに、わざわざ付いてきていただいて感謝です」
前の席の男性は、
「なにをおっしゃいますか。道案内は私の重要な仕事のひとつです。妻のうずめも私がいないほうが踊りの稽古に時間を使えますので、一石二鳥でございます」と笑顔で返した。
「では今年も道案内を頼むよ」
ご主人がそういうとさくらと呼ばれる女性もその息子さんらしき御子と一緒に一礼をした。彫りの深い男性もそれに合わせて笑顔で一礼、会釈をした。この男性は道に明るいのだろう。ナビゲーションシステムが普及したこの時代でも、こういった方々の活躍の場があるというのも悪くない。いつの時代にも新旧双方の良さはあるものだ。
さらにこの話の内容で、紀尾井氏はさっき「陽子さま」のお伴で下車したうずめ嬢のご亭主が赤顔の男性であることにも気付かされた。
紀尾井麹氏は、この品位に溢れた一行の中に挟まれながら驚きと敬意を感じた。今まで彼が経験したことのない、こういった徳に優れた性分と思いやりや、優しさはどこから出てくるのだろう。日常、人を押しのけたり、ののしったりする人々ばかりを目にしていた彼は、このいたわりや思いやりに満ちた車内の雰囲気に、万人に対する慈しみに似た感覚を覚えた。これは本当に慈しみが涵養した額面通りの言葉の意味を保持しており、間違っても慇懃無礼のような野暮なものではない。
程なくして列車は三島へと滑り込む。先ほどの老人と娘の一行、それに彫りの深い男性の五人連れがエスカレーターのほうへと歩いて行くのがわかる。彼らの会話は紀尾井氏にとって家族の愛情という素敵な心情形態を感じさせてくれた。忠孝滅びることなく健在の道徳観が彼には嬉しかった。
あらためて見渡せば、車内の乗客も半分ほどになっていた。通路を隔てた三人席、彼の後ろ手には三人組の一行がいらっしゃる。ちょうど「陽子さま」「トヨさま」なる人たちが座っていた席の真後ろだ。年配の女性とその息子夫婦。皆は布に包んだ弓らしきものと矢筒を持っている。
「私たちは新横浜から横浜線ですね」と若い女性。
「そして横浜から横須賀線ですよ」とご主人らしき威風堂々とした男性。
「どのルートでもよろしい。お任せします」と年配の女性。
帰りのルートのことで、そのお三方は通路を挟んだ二列席の方々とも親しげに話をしてる。つまり紀尾井氏の真後ろにいるご夫妻である。こちらのご夫妻は、ご主人のほうは太刀らしきものを布にくるんでお持ちになっている。竹刀か木刀の類なのだろうか。どうやら武術を嗜む二組らしい。
「方面も一緒なのでご一緒しましょう」と紀尾井氏の後ろのご夫妻が彼らに勧誘した。
「私たちのほうがホンダさまよりほんの少し先ですけど」と加える。
並びの席のご夫妻に応えて、弓を抱えたご主人が「タケルさん、今日は堺の本宅ではないのですね。奥様のいる横須賀で?」と確認する。
「ええ、今日は戻りません。妻の方に。季節的にもそろそろ熊手が始まります。そのうち嫌でも堺を出られなくなります。こんな時でないと妻と一緒に水入らずになれません」
「あらあら、ごちそうさまでした」と弓を持った若奥さんが手の甲を口元に当てて笑みを浮かべている。
「訊くだけ野暮でございました」とホンダと呼ばれる弓のご主人も笑う。そしてすぐに横を向いて、「お母さん、横須賀線にしましょう。
「だからお任せします、と申し上げているのに……」と、年配の女性は『お伺いはいらぬ』という笑顔で答えた。その女性はお年こそ召されているが、凜とした雰囲気が伝わってくる。
「そうしたらタケルさん、ちょっと鎌倉の拙宅にお寄りいただく時間はありますか。勿論橘子さんもご一緒に…」と弓を持ったご主人。
尋ねられた男性は隣の女性と目を合わせて互いに頷くと、「ほんの数分でしたら可能ですが、それでは失礼ですかな?」と返す。
「いやいや、鳩型のお菓子を持って行っていただきたい」という言葉でにやりと笑う。
すると「あれですな」と待ってましたとでも言わんばかりの嬉し顔になった。
「ええ、ええ、あれですとも。陽子さまのところのあんころ餅ほどではないかもしれませんが…」と謙遜の途中で、タケルという男性は割ってはいり、「なんのなんの、負けず劣らずの代物です。伝統では圧倒的にあちらさんでしょうが、あれにもあれの良さがあります。比べてはいけません。どうして甲乙つけられましょうか」と持ち上げた。
「陽子さまの別宅が桜木町にありまして、たまに神奈川にお越しになるときにお土産にとあのあんころ餅いただくのですが、あれは格別ですなあ」
「たしかに。しかし鳩のお菓子だって紅茶にはあいますぞ」とタケル氏。
「そういっていただけると嬉しく思います」
「うんうん。スイーツ男子ですな、我々は」
「やめられませんなあ」
一見普通の大人の会話であるが、ここには誰も傷つけない謙譲と尊敬の内容が詰まった会話がある。つまり甲乙をつけずに皆の持ち札である菓子、それぞれに良い面があることを話の着地点にしている。いわば「思いやり」である。
そして談笑した彼らの目的地、新横浜だ。示しを合わせたように互いに頷くと彼らは列車を降りた。持ち物や外見の武術指向からは想像も出来ない甘党の穏やかな人たちだった。
新横浜でほとんどの客が降りたため満員だった車内は五分の一ほどの人数へと減っていた。残りは品川と東京までゆく人たちだ。彼はこの穏やかで品位に満ちあふれた一行のいた座席を見ながら思った。
『なんだろう。きれいな気持ちにきれいなこころや言葉が飛び交っていた不思議な空間だった。ジョークさえも互いを尊重する優しさがあったなあ』
これは彼の声として発せられたか否かの、ぎりぎりの小声のつぶやきであった。他人の会話を聞いて、心温まる場面に遭遇するというのは滅多にあるものではない。そんな心地よい余韻に浸りながら静かな新幹線の車内で、窓枠に肘をたて、頬杖をついて終点到着を待つ。
彼の列車は品川を過ぎて東京駅に滑り込む。残った大社の紙袋を持った人たちがデッキのところで紀尾井氏より先に並んでいる。男性の二人組で、一人はサンタクロースまがいの大きな袋を持っていた。もう一人はとても小さな男性だが白衣を召されている。お医者さんなのだろうか?
「オオグロさま、本当に父上さまのもとに残らずに良かったのですか? 主宰者の息子がいなくてスサさまや稲子さまもお困りではないですか?」と白衣の男性。
「大宮の家も重要なんでね。あそこは空けておく訳にはいかないのです、父母の代わりに。逆に感謝されるかも知れませんよ」と大袋の男性が笑顔で返す。
紀尾井氏はその会話に「SOHOでも展開して自営業でもやっているのか」と考えた。
「とりあえず上野東京ラインで帰ることにしましょう。君の部屋もあの家にはあるでしょう」
「わかりました。お供させていただきます」
彼の行動の意図に納得をしたのか、白衣の男性は話題を変えて「それはそうとまだあの怪我をしたウサギを飼っておいでですか?」と尋ねる。
「ああ、あのウサギさん。がまの穂で良くなりましたよ。出雲に戻ったら山に放してあげましょう。自然に帰るのが一番です」
「老若男女問わず、皆があなたを放っておかない理由は心の温かさなのでしょうね。争いごともお避けになられますしね」
白衣の男性は妙に相手に気を遣っている。きっと艱難辛苦をともにした間柄なのだろう。
「お追従はあなたに似合わない」と照れ隠しなのか、笑みを浮かべるオオグロと呼ばれる男性。
「本当ですよ」
そんな会話を交わしながら、男性二人はドアが開くと足早に乗換口へと向かっていった。とても気心の知れたいいコンビ。また自然や動物に対する慈悲や愛着も持つ人たち。争いを好まなくても男性らしさは存在し、両立する事を彼らは知っていた。
『この方々も優しさで満ちあふれている。紙袋を持った皆さん、いったい出雲の大社で彼らは何をしてきたのだろう?』と彼には小さな好奇心も芽生る。
一方、彼はというと、東京駅へと降りた後、一番高い場所に位置する中央線ホームへとエスカレーターを上り、オレンジ色の帯を纏った都会型の電車に乗り込む。二駅先の御茶ノ水駅で、向かいのホームに入る黄色の帯の電車、総武線を乗り継いで飯田橋へと到った。勿論そこに彼の会社があるからだ。
そして先にも述べたが、彼がなぜ会社に戻るかというと、明日の休みを満喫するために、出張帰りのやり残した仕事を済まして、ゆとりを持って休みたいという算段からである。
飲食店の灯りの中大神宮通りを歩いて、東京大神宮にさしかかった時であった。前から彼に向かって歩いてくる女性らしき人影が見える。
その人影が近づくにしたがって顔がはっきりしてきた。するとそれは名古屋で降りた高貴な方に似ていた。「陽子さん」だ。すれ違いざまに今一度確認する。もちろん今さっき、一、二時間前に拝見したお顔なのでまだ覚えていて当たり前である。
「あっ!」と固唾を飲んだが、すぐに気持ちを持ち直して、肩をすくめながら「まさかね」と結論した。すでに名古屋で下車した者がここにいるわけがないからである。しかも自分自身、ホームを歩いて行く彼女を窓越しに目線で見送っているのだ。
次の瞬間、すれ違いざまに、彼に語りかけて来るような穏やかで、柔らかな女性の声を感じた。それは音声ではなく、こころに直接響く声に思えた。
『ちゃんと結んでおきましたよ』
「えっ?」と振り向く紀尾井氏。ところが振り返った後に人影はなかった。彼女の人影もない。不思議に思い、目をこすり、もう一度見るが、その景色は街灯が音もなく光っているだけであった。
彼は「今頃酔いが回ってきたかな」と呟きつつも、その言葉は自分に言い訳をするようなものであった。
ビルのエントランスを入ってすぐ横、一階に彼の会社の事務所がある。通りからも磨りガラス越しに人影は確認できる。灯りがついている。誰かが残業をしている。彼は事務所の扉を押して中へと一歩足を踏み入れた。…とそのとき会社の玄関先で電卓を片手に彼に笑顔を向ける女性がいた。黒のハーフ丈のスカートに、藤色のカーディガンを羽織って、室内で橙色のニット帽を着用している彼にとってはおなじみの人物だ。
「ん? みさきちゃん」
それは経理と事務をしている神田みさきだ。伝票の作成や帳票類のまとめ、経費の領収書のおとしなどを担当する二十代の女性である。前述の通り、いつも室内でニット帽をかぶっているので、「暑くないの?」と来る人来る人に言われている。半ば意地でかぶっていると彼は常々思っている。いつもは仕事終わりを心待ちにしてさっさと帰ってしまう、今時のOLさんである。そのみさきがなぜ今日に限って残業をしているのか。不思議な出来事である。
「お疲れ様でした。注文票いっぱいとれましたか?」とみさきは話しかけてきた。みさきの態度がなにかいつもより優しい気がした。
「まあまあですよ」と彼は月並みの返事をする。
「ところで紀尾井さん。明日のお休み、なにかご予定は?」
唐突になにを訊かれるかと思えばといった風の彼。ありきたりの「いや家で何もしないでごろごろしているよ」という答えを返した。
「やっぱり」とあきれ顔のみさき。
続けて「まだ三十そこそこなのに家でごろごろですかあ? あっという間に老けちゃいますよ」と怪訝そうである。
「だめかな?」との返事とは裏腹に内心では『とうとう年下の女の子にまでお説教される日が来てしまったか』と思い、『我ながら情けない』と意気消沈した。疲れて出張から帰ってきて、とどめの一撃だった。
バツ悪く感じた紀尾井氏は頭をかきながらたじろいでいる。
「いえ。そんなことだろうと思って疲れない休日の過ごし方をお誘いするために待ってました」
展開は紀尾井氏の想像とは正反対のほうへと流れ始めた。
「えっ?」
「中で寝ててもいいんで映画でも行きませんか? 見たかった映画が明日までなんですけど、誰も予定が合わなくて。ひとりで行くのもなんか気がひけるし…」と言って、さらに一息入れてから「本当は『行きませんか?』って言っているけど、『明日おつきあい下さい』とお願いするのがすじでしょうね」と少し謙虚な口調になった。
そして彼の横で出張先の領収書を手早くまとめ上げながら続ける。
「でっ、課長に訊いたら紀尾井さん明日お休みだって言うし、きっと家でごろごろしてるはずだって言うから、こうして今誘っています」
「課長にはえらい思われようだな」と苦笑する彼。
「だめですか? こんなかわいい女性のお誘い断ると紀尾井さんにはもうしばらくはチャンスがめぐってきませんよ」
意外に押しの強い今日のみさきに紀尾井氏は少し驚かされた。割と明るくて面倒見の良いみさきには、日頃から伝票の再発行や経費のお願いでは頭が上がらない。こんな時でないと恩返しの機会もないだろうと考える。
「うん、いいですよ。午後からでいいならおつきあいしましょう。出張帰りなので、午前中は寝坊させてね。それでついでに出張手当を使わないで帰ってきたので夕食もおごりますよ。一人で食べるより楽しいからね」
思わぬ「棚からぼた餅」の展開にみさきは少しご機嫌なようだ。
「ありがとうございます。遠慮なくごちそうになります」
そういって彼女はペコリと頭を下げた。
「課長の言ったとおりでした」と笑みを浮かべるみさき。
「課長なんて言ったの?」と彼。人の評価は気になるものだ。
「たぶん会社の中で明日暇なのはあいつだけだし、一生懸命頼めばダメって言わない性格だから出張から帰ってくるのを待っててみれば、と言われました」
絶句というのはこういう場面なのだろう。信頼されているの半分、見透かされているの半分だ。アテにされているか、馬鹿にされているかの微妙な立ち位置。彼は苦虫を噛みつぶした気分だ。しかしみさき自身は彼の考える意味で言っていないことにすぐ気付かされる。
「紀尾井さんてみんなに愛されていますね」
この台詞が彼女の彼に対する人間的な評価だ。だから彼はさっき彼女が笑顔で出迎えてくれたことを含め、悪意がないことをすぐに悟るのである。単なる暇つぶしの相手でもないのだ。
彼はこのみさきとの粋な取り計らいを客観的に吟味する。そして今さっきすれ違った陽子さんらしき女性の言葉を思い出した。
『もしかすると縁結びの計らいを示唆した言葉だったのか』というのが彼の脳裏にもかすかに宿りかけている。
紀尾井氏の心の夜明けが始まろうとしている。そしてこのお話のハッピーエンドはもうすぐそこまで来ている。O・ヘンリーの短編小説の結末に比べれば小市民的な幸せだろう。
晩秋、浅冬、旧暦神無月の夜のお話はこれでおしまい。紀尾井氏とみさき女史の楽しい休日は機会があればまたいつかお話ししよう。
このように、『さきわう』魔法はあなたにも来るやも知れない。礼節を身につけて、慈しみのある日々を送り、思いやりの言葉を用いてみてはいかがかな? もちろんあなたなりに出来る範囲で大丈夫。あの『ふることぶみ』の方々はそんなあなたを待っている。
おとぎ話に似合うエンディングというのは正直者や心根の良いものに、天のご加護は降り注ぐというハッピーエンドであろう。ましてや神在月の出雲からお帰りのあの方々と出会った紀尾井氏。彼にとってこの『えにし』は何よりのご褒美なのである。
了
幻想短編 かんなづきの夜 南瀬匡躬 @MINAMISEMasami
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