四季のフィルム 後編

茉莉ちゃんと澪ちゃんは

1度でもこの場所に

戻ってきたのだろうか。

それとも、誰も来ていないのだろうか。

それすらわからない中、

ブランコに座ってしまいたくなる。

けれど、もし座ってしまったら。

ここで足を止めてしまったら、

2度と立てなくなるのではないかと

思ってしまったのだ。


こころちゃんのことを経て、

少しばかり憔悴していた。

ずしんとくるものがある。

相手から幸せを奪うと言うこと

他ならないからだった。

こころちゃんが言うには

「自分の夢にまで来させてしまって」

という後悔が感じられたが、

私としては幸せを剥奪してしまうという

後悔が少なからず残るのだ。

不幸にしているわけではない

…と思いたい。

ただ…ただ、幸せを…。


陽奈「…。」


それを思えば私は

魔女同然なのかもしれないな

…なんてどうしようもないことを考える。


本当は私がやらなくなっていい。

見つけ出してって頼まれたのは

こころちゃんだけなのだから、

あとは手を出さなくたっていいのだ。

むしろ手を出すことのほうが

無粋かもしれない。


けれど、立ち向かわなくては

いけないような気もしていた。

こころちゃんだって現に

そのまま放置していたら

戻ってきていただろうか?

みんなだってそうだ。

何かしら戻ってくる理由がなければ

あの夢に浸っていたくなる。


陽奈「………。」


おせっかいかな。

手を出さないほうが…。

…。


自分の手を見つめて、

それからぎゅっと指を組んだ。


私だったらどうだろう。

私がまだあの夢の中にいたとして、

本当に出る気がなかったら。

誰も迎えに来なくって

1人でいたとしたらー…。


幸せは幸せだと思う。

だってそう作られた夢の中だから。

けど、もし誰かが来てくれたら。

見つけてくれたらと思うと

どうしようもなく嬉しくなってしまう。

あくまで私の場合でしかないけれど、

私のことを必要として

迎えに来てくれるのは嬉しい。


もし今囚われているであろう2人も

そう思ってくれるのであれば。

…嬉しいって思うのであれば。

……。


陽奈「…。」


私はそういう存在になりたい。

ここまでこればもう意地だ。

ただのエゴだ。


それでも踏み出す。

踏み出すことしかできない。

私たちは時を左回りに

進むことなんてできないのだから。


茉莉ちゃんと澪ちゃんの

どちらがどっちの扉に入ったのか

どうしても思い出せず、

とりあえず向かって正面の扉に近づく。

誰の夢なのかわからないが、

私は飛び込むことしか…。


陽奈「…。」


足がすくんだ。

手が震えた。

それでも。


陽奈「…っ!」


それでも、立ち向かわなきゃ。


灰色の扉に向かい、

ドアノブを力強く握った。


そしてー。





***





ゆっくりと目を開く。

…2回やってきたからこそ

今回もなんとかなると

思っている節はあったのだろう。

けど、引き締めなきゃ。

前回大丈夫だったからといって

今回も何もかも上手くいくわけじゃない。


そう思った矢先、

目の前の景色に圧倒されてしまった。


息を呑んだ。

生唾が喉を通り、

胃に落ちる音すら

聞こえてきそうなほどの無音。

そして、目の前にはひたすら

真っ白な空間が続いていた。

私やこころちゃんの時のような

教室の中、家の中ではない。

ただ単純に外ということでもない。

どこでもないのだ。

音も、香りも、色も何もない。


驚くほどに何もないのだ。


陽奈「…っ?」


けれど扉は4つしかない。

となれば、ここはもう誰かがいた場所…

…もう夢から抜け出した

後ということなのだろうか。

そうじゃなかったら…。


陽奈「…っ!」


そうじゃなかったら、

2人のうちどちらかが

この空間を「幸せ」と考えていることになる。

何もない空間が幸せって

一体どういうことなのだろう。


幸せと聞いてみんながよく思い描くものは

親との関係が良くて、お金がそこそこあって

友人にも恵まれ、恋人にも恵まれ、

学力があって、運動もほどほどにできて…。

この辺りになってくるだろうと思う。

多くの人が思い描くものだから

それが普通の幸せと

捉えられるようになっていった。


しかし、それだけが幸せとは限らない。

だって現に同性愛の話や

児童養護施設出身の方の話を見るに、

世間一般でいう普通からは

外れているような人でも

幸せに暮らしていることだって多くある。


私だってそうだ。

心の病気や声のことだって

多くの問題を抱えつつも、

親との関係がギクシャク

しているように感じつつも、

古夏ちゃんとの関係や

こころちゃんとの関係、

その他のみんなだって…

幸せだなと感じる場面は度々ある。


ある種の普通から外れた幸せ。

人によって様々な願い。

そして目の前に広がる空白の空間。


…。

…ひとつ。

ひとつだけ嫌な想像が過ってしまった。


そんなこと…ない。

ない、信じられない。

そう言い切れれば良かった。


陽奈「…っ。」


まだ…まだわからない。

私のこの予想が合っているかどうかなんて

本人にしかわからないから。


…非情…にも、

茉莉ちゃんでないでほしいと

願ってしまう自分がいた。


背後に扉があることを確認してから

1歩だけ足を動かした。

すると、足元には1、2cm程度

水が張られているようで、

波紋がふわりと広がっていった。

ぴちりと可愛げのある音が

足元から響いた。


陽奈「…。」


まるであの浅瀬のようだ。

私が1人遁走し、森の中で迷った挙句

たどり着いたあの浅瀬に似ている。

あの時はもう少し水嵩はあったし

周囲に色があった点異なっているけれど、

なんだかその空間の

姉妹のようにも思えた。


しばらく歩いて見るけれど、

これといって何もない。

もしかしたらこの部屋に入った人は

ずっと遠くまで

歩いていってしまったんじゃないだろうか。

私の手の届かないところまで

進んでいってしまったんじゃないだろうか?

まるで彼岸と此岸の狭間のように

思えてきてしまってぞっとする。


もう戻ろうかと思ったその時。


じじ、じ、じ。


そんな夏の欠片が耳に届いた。

頭の中でひとつだけ

当てはまるものがあった。

蝉だ。

蝉の鳴き声だった。

夏の間、鬱陶しさと爽快感を感じた

あの粒の大きい声が、

遠く、ものすごく遠くでなっている。

耳を澄ませなければ

聞こえないほどの小さな音量のはずなのに、

ここが無音のせいで

蝉の独壇場と化している。


陽奈「…。」


一体これは…。

少し前まで、歩き出す前までは

もう誰かが夢から脱したのだろうと

思っていた、思いたかった。

けれどきっと違う。

ここはまだ誰かの夢の中だ。

誰かの望んだ景色が

今目の前に広がっているのだ。


言葉にし難いほどの悍ましさと同時に

心臓を絞られるような

心苦しさに襲われる。


ずっと進んでいけばきっと。

もしかしたら、誰かに通じるんじゃ。


そう思いながら歩くも、

小さくなる灰色の扉を見るたびに

不安が襲ってきた。

もう少し。

もう少しだけ。

そう思えば思うほど

酷く動悸がした。

心臓が口から飛び出るかと思った。


はっとして振り返る。

親指の爪の先ほどに小さくなった物体が

かろうじて視認できた。

歩いて10分するか

どうかくらいの距離感だと思うが、

周囲に何もないが故に

とてつもない距離を

歩いてきたかのように見えた。


陽奈「…っ!」


不安のあまり、走って扉の元へと戻る。

それと同時に、何かがいるのだろうか、

いろいろな場所で波紋が広がった。

まるで雨が降っているかのようで

…まるで誰かが動いているのを

隠しているようで不気味だった。


もしかしたら誰かがいるのかもしれない。

その予感に身を任せることができず、

自分を見失いそうな空間に畏怖した。

扉が近づいていく。

着実に地面を蹴って走れている。

それだけでどれほど安心することか。


灰色の扉を前にした時には

肺がきりきりと痛むほど浅く強い

呼吸を繰り返していた。

頭に鈍い痛みが走る。

普段こんなに運動しないから

明日は筋肉痛になるに違いない。

こういった日常的なことを

考えていないと、

自分自身がこの白色に

溶け入りそうな気がしてしまう。


誘われているようにも感じた。

これまで見てきた夢だって

幸せに誘ってきていたといえばそうだが、

これはもっと本質的に異なった…

…辛いなら何にもならなくていいよといった

全てを諦めているような…。


…不謹慎なことに、

茉莉ちゃんの顔が浮かんだ。


陽奈「…。」


嘘だ。

嘘だよね。





°°°°°





茉莉「元気だなぁ。」


陽奈「…。」


茉莉「あ、そうだ。」


陽奈「…?」


茉莉「心霊スポットさ、怖いだろうし隣歩かない?なんなら手繋いでさ。」


こちらをちらと横目で見る彼女は、

なんだかいつも以上に凛々しく見えた。

さらさらと細く癖のない髪の毛が揺れる。


無性に恥ずかしさを感じてしまって、

小さく小さく頷いた。


茉莉「よかった。…じゃ、置いてかれる前に行こっか。」


陽奈「…。」





°°°°°





陽奈「…。」


ああいったじゃん。

手を繋いででもいいからって。

隣を歩こうって。


まだ茉莉ちゃんと決まったわけでは

ないはずなのに、

半ば心の中では断定しつつあった。


よくない。

よくないのはわかってる。

けれど、この深い白の奥に

踏み込める自信がない。

どうしてだろう。

全てを奪ってくるかのような

不安感でいっぱいになる。


辺りを見回す。

未だ多くの波紋が広がる中、

後ろ手にドアノブを掴んだ。

こんなこと許されない。

許されないだろう。


陽奈「…。」


また来る。

また、後で迎えに来る。

見捨てない。

だから。


陽奈「……………。」


口を動かす。

「待ってて。」

酷なお願いかもしれない。

ここにいるであろう誰かは

それを望んでいないかもしれない。

でも、私のエゴで動いていいのであれば、

否……。





°°°°°





茉莉「茉莉は全然経験ないんだけど、どうやったら出られるの?」


こころ「僕も閉じ込められるようなことは初めてで…あの時はなれ行きで…したいままに行動したかな。」


澪「うちもそんな感じやったな。」


思い返してみれば、

私はあの時どうやって出たんだっけ。

あの永遠に続くとも思える浅瀬から

どうやってー。


こころ「陽奈はどう?」


陽奈『みんなと同じ、なれ行きでだった気がする。』


こころ「そっか。じゃあまずは自分のしたいように…かな。」


澪「…。」





°°°°°





みんなで出るのであれば

必要なことのはずだから。


扉を背にしたまま

ドアノブを回す。

そのまま後ろに倒れるようにして

風を受けることを選んだ。


遠く、遠くで響く蝉の声。

そして少しばかり遠くに広がった

大きな波紋を見逃さなかった。


そこに…。


…。

…。


誰かがいたような気がした。





***





陽奈「…っ!」


手を伸ばすも遅く、

そのまま扉に吸い込まれるようにして

ふと目を開いた。

そこは変わらずブランコのある場所で

ちちち、と知らない鳥が鳴いている。


未だどくんどくんと心臓は

音を立てる中、

さっき見た大きな波紋を思い返す。

誰かがいたような気がした。

気がしただけだけれど、

今すぐ戻れば、もしかしたらー。


そう思って同じ扉に手をかける。

けれど、何故か操られているのでは

ないかと思うほど手は震えていた。

ひらには汗が光り輝いている。

思えば、背もぐっしょり濡れており、

まるで雨に打たれたかと勘違いするほど

汗をかいていた。


行かなきゃ。

そう思えば思うほど

力を込めることができなくて、

その扉の前で思わず膝をついた。


緊張の糸が切れてしまったのか、

しばらくの間

立ち上がることができなかった。


あれは。

あの空間は一体

何だったのだろう。

あれはどんな願いをしたのだろう。

どんな幸せの形なのだろう?

富や名声を欲しているわけでもない。

ありきたりな幸せが欲しいわけでもない。

…。

いなくなりたかったのだろうか。

向こう側に…亡き人の世に

渡りたいと願ったのだろうか?


そんなに苦しいことがあったのだろうか。

それとも、今日たまたま

そう思っちゃっただけなのだろうか。


私にだってある。

時々不意に消えてたいなと

思ってしまうことが。


だから、理解できないなんてことも

全部を否定することもない。


むしろわかってしまう。


こころちゃんの時と一緒だった。

幸せに浸りたい気持ちは、

わざわざここから抜け出して

辛い現実に向き合う必要性が

ないんじゃないかって思う気持ちは

わかってしまうから。


時間を置いてから立ち上がる。

そして、先ほど入った場所とは

また別の扉に、

唯一踏み入っていない扉の前に立った。


この先に誰がいるのかわからない。

わからないけれど。


陽奈「…。」


先ほどよりも幾分も

力の入らない手でドアノブを回した。





***





ふと目を開けると、

手はドアノブではなく

何かに向けて伸ばされていた。

そのままの勢いに任せて

体が勝手に動いてしまう。


刹那。


ピーンポーン…。


と乾いた機会音がこだました。

ぱっと手を離すも既に遅く、

不審ながら辺りを見回すことしか

できなかった。


周囲はマンションの一部のようで、

背後には住宅街が

広がっているのは見えた。

夕方らしく、辺りが赤から

青や黒に染まりゆくのが見える。


刹那、視界の多くが白くて

先ほどの空間が思い起こされてゆく。

ぞっとしたのも束の間、

それは雪らしいことに気がついた。


ちらほらと街灯の命が芽吹き始め、

人々は家に向かって歩いている。

自転車や車が

音を撒き散らしながら走っている。

子供が笑いながら走っている。

母に抱えられた赤ちゃんの

鳴き声が遠くから聞こえてくる。


ふるり、と身震いをした。

何かと思えばどうやら冬らしい。

ここは4階くらいなのだろう。

見下ろすとコートやマフラーを

身に纏っている人たちが目に入った。

かく言う私もコートを羽織っており、

手袋とマフラーもしていた。

下はだいぶ雪が積もっているらしい。

道路だけは雪が溶けていた。


そりゃあ底冷えするわけだ。

浅かったり、終わりかけたり

していない冬だった。


ふと思い返す。

私のいたところは

確実ではないけれど

春の香りがした。

こころちゃんのところは

金木犀っぽい秋の香り。

さっきの空白のところは蝉の声。

そしてこれほどに冷える冬。


…あれ。

そういえば茉莉ちゃんの

活動名の季節って…。


そんなことを考えていると

唐突に扉が開いた。

それは近くにあった灰色の扉ではなく、

マンションの一室の扉だった。


茉莉「あ、陽奈。」


陽奈「…っ!」


茉莉ちゃんは相変わらずの

ショートヘアを冬の風に揺らした。

寒いなんて言いながら

身震いをしている彼女を前に、

どうしようもできない感情が湧き上がる。

それは一体どんな感情なのだろう。

安心か、不安か。

象れない、形のない何かに

侵食されるような思いがした。


茉莉「早く入って入って。荷物も重いだろうし。」


茉莉ちゃんは手招きをしてそういった。

ふと肩にはリュックの肩紐

らしきものが見えた。

遊びに来たていなのだろうか。


彼女の家に入ると、

暖かい波が押し寄せてきた。

寒空の下にいたからか、

ここが既に極楽のように見える。


…。

ここが、家の中が

茉莉ちゃんにとっての

幸せなのだろうか。


茉莉「お母さーん、友達きたー。」


彼女は小さい女の子のように

そう大きな声で言った。

「はあい」と、のほほんとした

声が帰ってくる。

よくあるような家の雰囲気と

いえばいいのだろうか、

声だけでしかないが、

親御さんは優しそうな人だと

直感していた。


茉莉「こっちこっち。すぐお茶持ってくるね。」


陽奈「ーー。」


ありがとう。

そう、言ったつもりだったけれど、

声は出せないようだった。

茉莉ちゃんもそれをわかっているようで

ある一室に案内し、

ハンガーを貸してもらってから

すぐにキッチンへだろう、

向かっていってしまった。


部屋の隅に荷物を下ろす。

すると、ぐっと肩への負担がなくなり

身がとんでもなく軽くなった。

一体どんなに多くの

荷物を持ってきたのだろう。

疑問を抱えながら

まずはコートを脱いだ。


そして鞄の中を確認すると、

なぜか着替えが出てきた。

加えて、寝巻きまで入っている。

櫛や歯ブラシ…

それから丁寧に包装紙に

包まれたお菓子も入っている。

…まるで。


その時、扉の奥でノック音が聞こえた。

慌てて開けにいくと、

茉莉ちゃんがトレーに

お茶とお菓子を乗せて

持ってきてくれていた。


茉莉「開けてもらってごめんねー、ありがとう。」


陽奈「…。」


茉莉「…ん?好きなところに座ってていいよー。」


茉莉ちゃんはのんびりした声でそういった。

彼女は元から

何が行われるかというのは

もちろんわかっているだろう。

ないはずの記憶が

あるに違いないから。


茉莉「人の家って緊張するよねー。」


陽奈「…。」


茉莉「ましてやお泊まり会だもん。」


陽奈「…。」


茉莉「修学旅行みたいで楽しみにしてた。」


笑ってた。

幼い少女のように笑ったものだから

本当に楽しみにしていたのが

伝わってしまった。


陽奈『今日はありがとう。親御さんに。』


茉莉「あらーいいのに。気を使わせちゃったね。」


陽奈「…。」


茉莉「あと30分くらいしたらご飯だって。それまでぼーっとしてよ?」


陽奈「…。」


茉莉「あ、そーだ。今日にーちゃん帰ってくるんだって。」


陽奈『一緒に暮らしてないの?』


茉莉「うん。今関東の方の大学に行ってるから一人暮らし。いいなぁ。」


陽奈『そうなんだ。』


茉莉「うん。冬…いや春休みだし帰ってくるんだって。いいよね、大学生って2月から休みなんだよ。」


陽奈「…。」


茉莉「あーあ、茉莉は明後日からまた学校だって言うのになぁー。」


陽奈『ここってどこ?』


茉莉「え?ここ?茉莉の家だけど…どしたの、頭でも打った?」


陽奈『ごめん、違くて…地方とか県とか。』


茉莉「東北だよ。えっとー…宮城だったかな。」


陽奈『しっかり覚えてないの?』


茉莉「茉莉、引っ越し多かったからわかんなくなるんだよね。あと時々ナチュラルに宮城と宮崎間違える。」


くはは、と特徴的な声で

笑い声を上げた。

宮城か。

きっと少しばかり山の方なのだろう。

雪が降り積もっていることにも

納得するほかなかった。


茉莉ちゃんはずっと

夏のイメージがあった。

と言うのもショートヘアで

さばさばとしていて、

涼しげな雰囲気があったからだと思う。


…何故彼女が冬に

いるのだろうと疑問に思う。

茉莉ちゃんから冬を

感じたことなんて

正直1度もなかった。

けれど、茉莉ちゃんにとっての幸せは

宮城県に住むことだったらしい。


今のところ普通すぎると言うか、

違和感がなさすぎることに

逆に違和感を感じ始めていた。

私もこの近くに

住んでいることになっているのか、

それとも遠くから来た設定なのか。


そもそも茉莉ちゃん自身、

これが夢だと気づいているのだろうか?


絶妙な不快感に迫られ、

すぐさま指を滑らせる。


陽奈『茉莉ちゃんは神奈川に住んでたはずだよ。』


茉莉「…え?」


陽奈『覚えてない…?』


思わずそうスマホに打ち込んで

茉莉ちゃんに見せていた。

すると、徐々に目を見開いて

硬直している彼女がいた。

けれど、ふるふると首を振る。

それも小さく弱々しく。


茉莉「そんなわけないじゃん。何言ってるのー。」


陽奈「…。」


茉莉「あ、そーだ。にーちゃんの部屋に漫画たくさんあるからちょっと持ってくるね。」


茉莉ちゃんはまるで

逃げるようにして

理由を作って部屋を出た。

その速度の速いことったら。


陽奈「…。」


逃げるようにして。

…間違いではないのだろう。

現実から…目を逸らしたかったのだろう。


茉莉ちゃんがその後

漫画を何冊も持って戻ってくるまで

15分くらいかかっていたっけ。

夢であると突きつけ続けようとも

思ったけれど、

必死に漫画の話や

最近気になってるアニメやドラマの

話をするものだから、

口をつぐんでしまった。


「話すな」と言われているようで

心苦しかった。


こんなあからさまに

夢の話を避けるものだから、

彼女がどのような状態にあるのか

それとなく予想がつく。

けれど、口を、手を動かさなかった。


少しだけ、茉莉ちゃんが

こんなにも手放したくない

幸せの形ってなんだろうと

気になってしまったのだ。

東北に住むことだけが

願いなのであれば、

高校を卒業して以降

いくらでもチャンスはあるはず。

それならこんな夢見たりしない。





°°°°°





片時『くははっ。あー、茉莉はねえ…意外に思われるかもしれないけど、雪景色見てる時かも。』


秋『雪景色?こりゃまた新たな一面で!』


いろは「これまで住んできた場所の中に雪国があったの?」


片時『まあそんな感じ。なんかね、落ち着くんだ。ほっこりする。』


秋『あー、ちょっとわかるかも!冬、雪、それから温泉!くぅー、たまらんのよ!はー楽しみ!』


陽奈「あはは、まだ9月だよ、気が早いよ。」


秋『ええー?でも案外あっちゅーまよ?』


いろは「確かにもう9月だもんね。」





°°°°°





私の夢で見た彼女の幸せ。

あの時も雪景色とだけ言っていた。

けれど、本当にそれだけなのだろうか。

それならたった今、

外に出ただけで満たされる。

東北に住んでいなくとも、

旅行すれば済む話だ。


じゃあ一体何が

茉莉ちゃんを縛り付けているのだろう。


そんな疑問を持ちながら、

持ってきてくれた漫画を一冊手に取る。

少年漫画のようで、

キャラクターたちの派手な

バトルシーンが目に飛び込んでくる。

時計の音だけとページを捲る音だけが

静かに響く。


…。

…。

その時、茉莉ちゃんと

一緒にいるのは久しぶりのように

感じたのだ。

彼女と2人きりで

ゆっくりとした時間を過ごすのは、

それこそ雨鯨で活動していた時以来だろう。


あの時は…確か

茉莉ちゃんと一緒に過ごすと

落ち着くと思っていたんだっけ。

彼女が入れ替わってしまってから

緊張しっぱなしなことが多かった。

けど今のような、

お互いが好きなことをして、

干渉しすぎることもなく

同じ時間を過ごすのが本来の世界線だ。


…。

この夢は自然と

私にとっての幸せでもあることに

気づいてしまっては生唾を飲んだ。


いくらかして、

茉莉ちゃんの親御さんの

「ご飯よ」という声が届く。

そんな時間かと思って

時計を見つけると、

早いが18時を指している。


茉莉「はやー。」


陽奈「…。」


茉莉「もう外は真っ暗だろうなあ。冬ってなんでこんなに日が早く落ちちゃうんだろ。もうちょっと長くてもいいのにね。」


陽奈「…。」


茉莉「漫画いいとこだったけど後で読むかぁ。…ご飯行こー?」


陽奈「…。」


漫画を閉じて、ひとつ頷いた。

私ももう少しだけ

この未来を見たいと思ってしまったのだ。


茉莉ちゃんは安心したように微笑んで、

また「こっち」と案内してくれた。


廊下を歩きながら

どこにお風呂や洗面所、

お手洗いがあるのかを教えてくれた。

そしてそのままリビングへ向かう。

すると、穏やかな色の照明が差し込んだ。

リビングダイニングになっており、

ソファやテレビと言った

家具が綺麗に並べられている。

キッチンからリビング一帯を

見渡せるようになっていて、

開放感あふれる作りになっていた。


「お待たせー。」


隣から声が聞こえてくる。

そういえば挨拶をしていなかったと思い、

何も考えずに振り返った。


そして、振り返ってしまったことに

後悔をしたのだ。


茉莉ちゃんのお母さんは

エプロンをつけており、

手にはできたてのカレーの入った

お皿があった。

そこまではいい。

そこまではよくある場面だ。

しかし、問題はそこからだった。

顔に真っ黒なもやがかかっていて、

表情を読み取ることができなかった。

もやは生き物のように蠢いており、

絶対顔を見せまいと

しているようにも見えた。


「あなたが陽奈ちゃんね、こんばんは。」


陽奈「…。」


ぺこりと深くお辞儀をする。

辛うじて体を動かせたから

よかったものの、

今手を見られたらまずいとばかり思う。

かたかたと指先が

震えているのが自分でわかっていた。

ぎゅっと自分の手を握る。

震えを止めるように。

そしてもっと深くお辞儀をする。

長い髪が垂れて、手元がが隠れるように。


顔を上げると、

茉莉ちゃんがさっき私の持ってきた

お菓子を親御さんに見せていた。


茉莉「陽奈からいただいたよ。」


「あらあら、そんないいのに。ありがとう。」


茉莉「ご飯運ぶよ。」


「お願いね。」


茉莉「陽奈、食べよ!」


茉莉ちゃんは笑顔で

お母さんからお皿を受け取っては

そのままこちらを見た。

屈託のない笑顔だった。

もしかしたら茉莉ちゃんには

このもやは見えて

いないのではないかとふと思う。

そうであれば納得できるが、

そしたら何故私は

彼女のお母さんの顔を

見ることができないのだろうか。

そこに茉莉ちゃんの願いが、

幸せがあるのだろうか…?


あまりうまく結びつかない中、

茉莉ちゃんと向かい合うように

食卓についてカレーを頬張った。

私の家の味とはまた違った

家庭の味というものに触れる。

優しい味だった。

中辛のようで、時折ぴりっとした

刺激が口内を走る。

それがちょうどよくって

疑問を抱えながらも

流し込むように食べ進めた。


数十分後にはあっという間に平らげ、

2人で手を合わせる。

茉莉ちゃんのお母さんが

お皿を洗ってくれるというので、

その好意に甘えることにした。


そしてまた茉莉ちゃんの部屋に戻る。

漫画がつまれた部屋の中、

彼女は自分のベッドに身を投げた。


茉莉「はー、美味しかった。」


陽奈「…。」


美味しかった。

それは私も感じた。

それと同時に、今までのことを

整理すべく考えに考えを重ねていた。


まず、先ほどの空白の場所は

澪ちゃんの幸せの形であること。

そして茉莉ちゃんは雪景色と

もやがかった母親の顔が

幸せの形であること。

そして茉莉ちゃん自身、

夢から離れる意思が

多分微塵もないこと。


こころちゃん以上に

現実を見放しているというか、

希望を感じていないような、

何かしらを諦めているような感じがする。


そこを問いかければ

もしかしたら思い直して

くれるかもしれない、と

思うも束の間。

すぐにその考えを飛ばすように

頭を軽く振った。

踏み込まれて嬉しい領域では

ないことは確かのはずだ。

ましてや家庭のことだ。

友人関係よりも

より一層深く、手をつけない方が

いいところにある幸せだ。


陽奈「…。」


茉莉「…はぁー…。」


それでも。

それでも手を突っ込まなければ。

1歩踏み出さなければ

ならないのだろうか…?


意志を決めきれずにいると、

ふと茉莉ちゃんが

勢いをつけて上体を起こした。

そしてこちらに向かうようにして

ベッドの縁に腰掛けた。


こち、こちと時計がなる。

さっきまで開いていたはずのカーテンが

いつの間にか閉まっていた。

隙間からはもう昼の名残は

一切見えなかった。


茉莉「…あのさ。」


陽奈「…?」


茉莉「神奈川に住んでた話…あれ、ほんと?」


陽奈「…!」


全力で頷く。

髪がゆらりと自由に宙をうねる。


茉莉「…そっか。実はさ、そこに住んでた気もしなくはないんだよ。…ってか、今まで引っ越した中にあったんじゃね?って思う。」


陽奈「…。」


茉莉「…陽奈から見て、ここってどこ?」


どこ。

それは何を指すのだろう。

先ほどの茉莉ちゃんの勘違いを思い出す。

そのままの言葉で受け取るなら、

ここは茉莉ちゃんの部屋で、

ここは宮城にある彼女の家の中だ。

けれど、聞きたいのはきっと

そういうことじゃないのだ。

もっと根本的な。

もっと…抽象的な。


陽奈『幸せな夢の中。』


茉莉「あー…幸せな夢、ね。」


陽奈「…。」


茉莉「うわー、言い得て妙だなー。」


陽奈『茉莉ちゃんはどこだと思ってるの?』


茉莉「え?ここ?…うーん…。」


陽奈「…。」


茉莉「過去かな。」


思いもよらぬ答えが返ってきて、

思わず「過去?」と聞き返してしまった。

これまでずっと幸せな夢の中だとか、

あったとしても、

存在したかもしれない可能性の未来だとか

考えていた。

けれど、茉莉ちゃんは全く逆の

過去という言葉を持ち出したのだ。


茉莉「そう、過去。苦い記憶が引っ張り出されてる感じ。」


陽奈『ここは幸せじゃないの?』


茉莉「…幸せ…だよ。うん。そのはずなんだけど…。」


陽奈「…?」


茉莉「あー…なんで言えばいいんだろうな。」


陽奈「…。」


茉莉「ちょっと待ってね。少しだけ考えるから。」


陽奈「…。」


茉莉「…茉莉にとって…うーん…幸せで欲しかった未来ではあるんだけど…。」


陽奈「…。」


茉莉「…茉莉自身が欠けてるせいで、幸せになりきれなかった。」


ぽつりと、まるで小雨のような声で

静かにこぼしていた。


幸せになりきれなかった。

その言葉の意味がうまく咀嚼できず、

首を僅かに傾げた。

茉莉ちゃん自身が欠けている?

幸せな生活をうまく

イメージすることが

できなかったということだろうか?

それとも、現実の生活に

そこまで不幸に思わず、

既に幸せを感じているのだろうか。


そう考えた時に浮かび上がるのは

またしても空白の場所。

もしかしたらあの場所は

願いが…既に幸せであるがために

何も作り出せなかったのでは

ないだろうかと考えだしていた。


茉莉「欠けてるって言葉だけじゃあんまわかんないよね。」


陽奈「…。」


茉莉「…あのね、ちゃんとわかってるよ。ここが夢の中なことくらい。現実じゃないことくらいわかってる。」


陽奈「…。」


茉莉「だって、お母さんの顔見たでしょ?もやがかって見えないの。」


陽奈「…!」


茉莉「…それが「夢だ」って気づいたきっかけじゃないんだけど…。」


陽奈「…。」


茉莉「でもね、もやがかってても、あの人は茉莉のお母さんなんだよ。お父さんももうすぐ帰ってくるから、だから…。」


陽奈「…。」


茉莉「…。」


陽奈『夢ってわかったきっかけは何だったの?』


茉莉「簡単だよ。すぐにわかった。」


茉莉ちゃんは手持ち無沙汰だったのか

それとも何かを隠そうとしていたのか。

指で手遊びをし始めていた。

ぎゅっと掴んだり、

指と爪の間に爪を緩く

差し込んだりしている。


そして、決意を固めたかのように

指を組んだのだ。


烏だろうか。

遠くで今日の終わる音がした。


茉莉「………茉莉、本当の親がわからないの。お母さんもお父さんも知らないんだ。」


小さく。

本当に小さく呟いた。

時計の音でかき消されて

しまいそうなくらいで。

反対に秒針のなる音が

酷く大きく聞こえるほどに。


茉莉「…現実でね、小さい頃、今の育ての親の家族になったんだ。めちゃくちゃ省くと、路頭に迷ってた茉莉をにーちゃんが見つけてくれて、そのまま。」


陽奈「…。」


茉莉「育ての親の2人はものすごくいい人で、茉莉を本当の子供みたいに育ててくれた。」


陽奈「…。」


茉莉「それはめちゃくちゃに感謝してる。けど…。」


陽奈「…。」


茉莉「茉莉は1回もお父さん、お母さんって呼ばなかった。」


陽奈「…。」


茉莉「…呼べなかった。」


陽奈「…。」


茉莉「……本当のお母さんのことが気になり続けて少し経ってて…もやがかってるのはそのせいなんだと思う。茉莉の記憶の底にあるか…そもそももう掠れて消えたかしてるから…。」


陽奈「…。」


茉莉「茉莉が欠けてるから…本当のお母さんなのに顔がああなってるの。」


最後、振り絞るように。

声を震わせながらそう言った。

そう言ってくれた。


怖かったに違いない。

自分のことを、しかも自分の苦しいと

思っているような過去を話すのには

とても勇気がいる。

心に少しばかり

「話してしまった」という傷ができる。

経験したことがある私にとって、

彼女の蹲る小さな背中は

とても痛々しく映った。


彼女に手を伸ばしかけた

その時だった。

がばっと勢いよく顔を上げて、

悲壮感の溢れる顔で

私のことを見つめたのだ。


茉莉「でも、それでも茉莉のお母さんなの。それは絶対なの。こう、頭の中でピンとくるものがあって…あれは本物のお母さんだって。」


陽奈「…。」


茉莉「だから……お願い。」


陽奈「…。」


茉莉「…奪わないで。」


陽奈「…っ。」


奪わないで。

その言葉がずしんと響く。

そうだ。

こころちゃんの時にも

思ったけれど、

私はみんなの幸せを奪っているのだ。

奪おうとしているのだ。

茉莉ちゃん自身、

私がここに来ている理由も

わかっているのだろう。

わかってして、言っているのだろう。


互いに酷なことを

しているだけなのだ。

互いに信念があって、

互いに譲れなくて。

…大切なものを持つもの同士だからこそ

心が痛んで仕方がない。


茉莉「もっとここにいたい。」


陽奈「…。」


茉莉「茉莉、お母さんって初めて言ったんだよ。お父さんも帰ってくるし、そうなったら…。」


陽奈「…。」


茉莉「…こんな言い方ずるいよね…。」


陽奈「…。」


茉莉「…ごめん。」


陽奈「…。」


茉莉「…。」


無言の中、彼女はまた俯いた。

茉莉ちゃんがこの世界のことを

夢ではなく過去という理由も

わかる気がした。


茉莉ちゃんにとっては過去。

本当のお母さんの顔を

一切覚えていなかったことが関係して

黒いもやで覆われている。


幸せな夢はこれまで見てきた

嫌な過去の裏返しなのだ。


静かに音を鳴らさないようにして

文字を打った。

そして、ゆっくりと立ち上がり

茉莉ちゃんの隣へと腰掛ける。

ベッドが軋む音がする。

よく電話では2人きりという

ことはあったけれど、

対面して2人きりというのは

あまりなかったな。

それこそ、一緒に東雲女学院から

駅まで歩いた時くらいで。


その時はまだ緊張してた。

違う茉莉ちゃんに怯えてた。

でも、茉莉ちゃんは茉莉ちゃんだ。

今も昔も変わらず、

目の前にいるのはあなただ。


茉莉ちゃんの背に

手を差し伸べて、スマホの画面を見せた。


陽奈『本当のお母さんに会いにいこうよ。』


茉莉「………っ…。」


私もずるいと思う。

家庭のことに足を踏み込んで、

しかもそれを囮のようにして

彼女を説得しようとしている。

大切な存在がこの世界に、

この夢にいると知っておきながら。

知ることは最大の不幸かも

しれないことを案じておきながら。


知らないことが幸せな時だって

数多あることを知っていながら、

突きつけた。


茉莉「…………。」


陽奈「…。」


茉莉「もう一つ、話してなかった。」


陽奈「…?」


茉莉「茉莉ね、友達がいるの。…正確にはいた、の。」


陽奈「…。」


茉莉「それがさ、思い出せないんだ。」


陽奈「…。」


茉莉「現実では思い出せなかった。けど、今…その子と連絡が取れてて、仲がいいっていう記憶がある。」


陽奈「…。」


茉莉「でも、記憶はあるのに、その子の顔も思い出せない。」


陽奈「…。」


茉莉「何も思い出せない。」


陽奈「…。」


茉莉「見つけ…られないよ。」


そんなことない。

そう文字を打つ前に、

静かに背中をさすった。


見つけられない。

それなら、今ここで

顔がわからずとも

みんなといる方がいい。

その過去の友人と、

お母さんとお父さんと、

お兄さんに囲まれて…。

それが茉莉ちゃんの願いだった。


簡単に割り切ることはできない。

それに、私がいろいろな

扉の先を巡っている間も、

茉莉ちゃんはここで

夢の中の人と過ごしてきた。

その分の信頼関係があるはずだ。


…それは一層離れづらいに決まってる。

苦しいに決まってる。


どうすることもできずに、

初めて知る茉莉ちゃんの一面に

どうやって返事をしたらいいか

わからない。

ただ無言で背中をさする。

私の動揺と、早く帰らなきゃという

焦燥が伝わっていないことを祈った。


どうすればいいのだろう。

帰ろうって、こころちゃんの時と

同様に愚直なまでに

伝えていいのだろうか。


数年間も引っかかり続けている

過去の柵から

無理矢理離すようなことを

してしまっていいのだろうか。

ならこころちゃんの時はどうなる。

無理矢理だったじゃないかと

責め立てられれば

その通りだとしか答えられない。

何故こんなにも自分は

迷っているのだろうか。


…寂しさに共感しすぎて

しまったのか、

感情移入しすぎてしまったのか…。

私自身のことも

あやふやになりながら

唐突に思い出す。


茉莉ちゃんと心置きなく過ごせる

この穏やかな時間は、

私にとっても

幸せだと感じる夢だ。


だから、自分から手放すには

またあのような

決意を固めなければならない。


何度も大切なものを捨てるのには

疲れてしまうのが当然だ。

少しの間後悔するのが当然だ。

その後悔している間に、

挽回できるようなチャンスが

回ってきて仕舞えば、

それをなんとかしようとするのが

当然なんじゃないだろうか。


茉莉「……っ。」


陽奈「…。」


ゆっくりと目を閉じる。

手のひらから茉莉ちゃんの体温を

僅かに感じながら、

外で降る雪に思いを馳せた。


…こころちゃんのことを

裏切るようで申し訳ない。

けれど、私はどうしても

もう1度立ち上がることが

できそうにない。


頑張ったんじゃないかな。

頑張ったと思うんだ。

意思のなさそうな私が、

おどおととしているだけだった私が

いろいろな人に思いを伝えて、

それで覚悟と責任を持って行動した。


私、成長できたと思うんだ。

だから。


だからー。


少しだけ。


そのひと言の甘えに乗じた。


次の瞬間、がたんと地面が揺れた。

何事かと思い、

驚きのあまり目を見開く。

揺れの衝撃で茉莉ちゃんから手を離した。


隣を見ると、変わらず

茉莉ちゃんはいた。

座っていた。


ただ、周囲の景色が

まるっと変わっていたのだ。


がたん、がたんと

定期的に揺れているここは

どうやら電車内のようだった。

4人でのボックス席に

茉莉ちゃんと横並びで座っていた。

1両編成のようで、

目の前の人をのぞいて

誰も座っていない。


目の前には、半透明になって映る

2人の子供がいた。

1人はしっかりと顔が見えるものの、

もう1人はもやがかかっていて

読みとることはできない。


ふと車窓の外を見ると、

少し先しか見えないほど

雪が轟々と降っていた。

こんな中で電車って

動くものなのだと感心すらしている。

関東圏であれば確実に

運休か遅延していることだろう。


陽奈「…。」


茉莉「…ここ…。」


陽奈『電車みたいだね。』


茉莉「………そう、だね。」


茉莉ちゃんは細切れにそう言った。

しばらく互いに

言葉を発することがないまま

乗車し続けている。

一向に駅に着く様子はなく、

一体どこまで走っていくのだろうと

不思議に思うばかりだ。


目の前の2人は楽しそうに

話したり窓の外を

見ていたりしているようだけれど、

その声は聞こえてこなかった。


が、それも時間を経て

変化が訪れた。


徐々にだが、

小さく幼い声が聞こえだした。

まだ遠くにいるような

音量でしか聞こえず、

多くは電車の音で

かき消されてゆく。

けれど、時折楽しそうに

きゃきゃ、と笑う声がした。


茉莉「…さっき、路頭に迷ってた茉莉をにーちゃんが見つけてくれたって言ったじゃん?」


ゆっくりと口を開いた彼女は、

雪よりも静かにそう言った。

茉莉ちゃんは窓の外を

眺めながら目を細めた。


茉莉「あれね、あの前にね。…茉莉、施設から逃げ出してきたの。」


陽奈「…。」


茉莉「あ、やばい施設とかじゃなくって、児童養護施設ね。」


陽奈「…。」


茉莉「その、さっき言った思い出せない大切な友達に誘われて、2人で逃げたの。」


陽奈「…。」


茉莉「理由は…確か、施設内で職員からのいじめがどうこう…みたいな感じだった気がする。もう何年も前だし、定かじゃないけど。」


陽奈「…。」


茉莉「その施設があった場所には毎年冬に雪が降ってた。」


陽奈「…!」


茉莉「…茉莉とあの子を…目の前にいるちっちゃい茉莉の隣にいる…この子を繋いでくれるのは、唯一雪の降る景色な気がしてるんだ。」


そう言って今度は瞼を閉じた。

これまでの夢から

雪景色に幸せを感じると

言っていた理由も、

茉莉ちゃんの夢で

住んでいる場所が東北だった理由も

全てが繋がった。


雪は茉莉ちゃんにとって

大切な記憶のトリガーだったのだ。


だからからと腑に落ちて、

同時に深く深呼吸をした。

吐き出す息が震えていたのは、

きっと電車の揺れのせいだ。


茉莉「ずぅっと電車に乗ってさ。乗り継いで乗り継いで…なんとかものすごい都会にまでたどり着いたんだ。多分、東京のどこか。」


陽奈「…。」


茉莉「それでね、茉莉がちょっとトイレに行った隙に、この子とはぐれた。」


陽奈「…。」


茉莉「それが最後。」


陽奈「…。」


茉莉「…それ以来、その子がどうなったのか全くわからない。どうしてあの時いなくなったのかも、今生きているかも全て謎のまま。」


陽奈「…。」


茉莉「時々思い返すの。」


目の前の2人を見て、

喉を鳴らした。


茉莉「この逃げている電車内のこと。…楽しかったなって。」


陽奈「…。」


…これは、間違いなく

茉莉ちゃんの過去だ。

捏造なんてされていない、

本当にあった幸せの話だ。


もしも私やこころちゃんが

自分の夢で引きこもっていたら、

1番幸せだった過去を

見ることができたのだろうか。

私であればどんな

映像が流れたのだろう。

それを見て、どう思ったのだろう。

どう思えたのだろう。


楽しかったと語った彼女は、

まるで遠くを見つめるように

目の前の2人を見ていた。


何の話をしているのだろう。

楽しそうに、けれど時折

難しそうな顔をし出した。

逃げ出してきたことに

不安があるのだろう。

どこまで電車に乗っていくのか

そもそも決めてなかったのだろう。

未来が何ひとつ見えない中、

怒られること覚悟で

知らない世界に飛び出してきて、

心底不安なのだろう。


段々と顔が曇っていく2人に

同情することしかできなかった。


すると突然、もやがかった顔の子が

左右に揺れ出した。

何事かと思ったが、

遠く遠くから声が聞こえてくる。


…。


「……な……のにー………僕ーがい……。」


覚えて間もないのだろうか。

しっかりとした発音で

明るい声で歌っていた。


そのワンフレーズを聴いて、

自分も耳にしたことがあると直感する。


そうだ、この曲。

確か合唱曲だ。


部活で歌うことはなかったものの、

2分の1成人式か

文化祭で歌った記憶がある。

歌詞はサビしか覚えていないけれどと

思うもそもそも声を

出せなかったことを思い出す。


あまりに楽しそうに

歌うものだから、

聴いている方も心地よかった。

小さい頃の茉莉ちゃんも

歌っている子に合わせて

足をパタパタとしている。

この子は元気づけるために

歌っているのだろうと

自然のうちに理解していた。


隣に座る茉莉ちゃんも

困ったように笑いながら

足でリズムをとっていた。


ああ。

歌いたいな。


そんな願いが叶わないことを

知っていながらも

口を開いてみた。


陽奈「ーー…ーー…。」


掠れた息しか出ない。

わかってた。

あーあ、せっかくなら

私が声を出せるような

夢であればよかったのに。


どうにか一緒に歌うことができないか。

そんなことを思っていると、

何故だろう、唐突に

思い出すことがあったのだ。


それは、私が声を失って

僅かしか経ていなかった頃。





°°°°°





いろは「こえは出せないんだよね?じゃあ口笛は?」


唯一の希望を見つけたと

言わんばかりの顔でこちらを眺める。

試したくなかったけれど、

そうせざるを得ない気がした。


唇を尖らせて、

軽く息を吹きかける。


……ぴぃ。

辛うじて鳴ったけれど、

小さいどの動物よりも

か弱そうな息の音色だった。

私にはぴったりで、

少し笑えてしまうほど。


けれど、いろはは真剣な顔つきで

私の目を見て言ったんだ。


いろは「…まだ歌えるね。」





°°°°°





ぴぃー、と口笛を鳴らした。

茉莉ちゃんがこちらを

横目で見ているのがわかった。

それに構わず、歌った。

記憶にある限り、この曲を。


「大切なもの」を。


茉莉「…知ってる曲なの?」


陽奈「…。」


強く頷く。

すると、茉莉ちゃんは

悲しそうな顔をしていった。


茉莉「…どうして、歌うの。」


陽奈「…。」


茉莉「声を亡くしても歌えるの。」


ぴい。

音を窄めて、スマホを手に取る。

そっか。

私、まだ…。





°°°°°





茉莉「紅はさ、どうやって進学を決めたの?」


紅『高校じゃなくてそもそも進学を決めた理由かぁ…私は何となくだよ。』


茉莉「そうなんだ。」


紅『うん。でも、高校は物凄く悩んで選んだ。』


茉莉「今後通う高校?」


紅『そう。』


茉莉「決め手は?」


紅『普通科の他に音楽系のコースがあるの。私は普通科なんだけど、部活で一緒になったいいなって。』


茉莉「合唱部とか吹奏楽とかだと接点持てそうだよね。」


紅『そうなの!だから…自分を変えられるかなって思って…。』


紅は意気揚々と話していたのに

急に塩らしくなった。

もじもじとした声が耳に届く。


茉莉「自分を変える…かぁ。」


紅『うん。その為に学校に行くようなものなのかも。』


茉莉「…?」


紅『自分を変えるために高校進学を決めたところもあるのかもなって…。』





°°°°°





まだ、現実に未練がある。


相変わらず県外のままで

歌詞を検索することは叶わないことに

落胆しながらも、打った。


陽奈『好きだから。』


茉莉「…っ。…あのね、茉莉、好きなこともないの。夢の中だったら漫画とか色々あったんだけど、現実じゃ何もないの。」


陽奈「…。」


茉莉「曲を作ってたらしいじゃん、でもそれ、茉莉は知らないの。」


陽奈『やってみたらどうかな。』


茉莉「…怖いから、やりたくない。茉莉の知らない誰かにならなきゃ行けないみたいで、嫌だ。」


陽奈『そっか。』


茉莉「…見つけられるかな。」


何を、とは言わなかった。

それが本当のご両親なのか、

目の前にいる幼い友人なのか、

好きなことなのか。

私にはわからなかった。

けれど、ひとつだけ言えることがある。


陽奈『見つけられるよ。』


私は、好きではないと言っていたけど

曲作りに熱中する茉莉ちゃんを

見てきたんだよ。

好きの形も熱量もばらばらでいいんだよ。

あの時の茉莉ちゃんは

確実に音楽を作ることが好きだった。


大丈夫。

茉莉ちゃんは茉莉ちゃんだから。


だからまた見つけられる。


茉莉「………そっか。」


陽奈「…。」


茉莉「全部見つけるまで、死ねなさそー。」


茉莉ちゃんは伸びをして

呑気そうにそう言ったのだった。


これまで纏っていた

重苦しい雰囲気が

一気に砕け散る。

と同時に、窓からは光が差し込んだ。

優しく温かい光だった。


いつの間にか外は

豪雪地帯を抜けて、

穏やかな白い雨が降っていた。


帰るんだ。

そう思った瞬間、

これまで視界に映らなかった

灰色の扉が飛び込んできた。


窓も空いていないのに

涼やかな風がふいた。

はっとして隣を見る。


すると、そこはもぬけの殻となっていた。

目の前で歌っていた子も、

足をぱたつかせていた

小さく幼い茉莉ちゃんもいない。

空の電車はいつの間にか止まっている。


いつの間にか1人になった中、

やっとのことで重い腰を上げた。


多分、茉莉ちゃんは戻れたのだと思う。

そう信じて、灰色の扉を前に

もう1度振り返った。


嫌なことだらけだったかもしれない。

生きるのをやめたくなることだって

何度もあったかもしれない。

でも、こうして幸せだった記憶も

確実に存在している。


これまでこの幸せな夢たちは、

私たちに希望を見させて、

その上で絶望を見せるような…

ただの見せ物のようになっているかの

ように思っていた。

ただただ苦しめたいだけなのでは

ないかと思っていた。

けれど、茉莉ちゃんの夢を見て、

過去だと知ってふと思う。


幸せな夢は、絶望だけの沼じゃない。

臭いことを言うようだけど、

希望へのちょっとした

壁のように見えた。


夢の中でも不完全なのだ。

現実も不完全。

そこに何の違いがあるのだろう。


現実に未練があると

気づかせてくれた。


悪く言って仕舞えば

こんなふうには言えないけれど、

よく言えばきっとそういうことだ。


さざ、と海のような音が聞こえる中、

無彩色の扉をそっと開いた。





***





目を開くと、同じく

ブランコの場所まで来ていた。

茉莉ちゃんの姿はなく、

もしかしたらここにはもう

戻って来れないのかもとすら

思ってしまう始末。


陽奈「…。」


もう迷うことはない。

1人じゃない。

現実に戻ればみんないる。


だから。

だから、大丈夫。


現実は悪いだけの場所じゃない。

それをあなたにも…

…澪ちゃんにもわかってほしい。


そんな願いを込めて、

これまでとは違い

すぐに扉の前に立った。

そして、冷たくなったままの

ドアノブに手をかける。


大丈夫。

あなたと、そして私に案じた。

大丈夫だって。

何度も、何度も唱えながら

扉を潜った。


迷うことはないと言いつつも

不安ではあったのだ。

それをわかって、理解しつつ

最後の夏に足を踏み入れた。





***





…。

…。

ふと、耳が機能しなく

なったのではないかと錯覚する。

ややあって、それが蝉の声だと

認知することができた。

ありとあらゆる方向から

耳鳴りがしそうな勢いの

夏の声が聞こえてくる。

一体何匹もの蝉が

この近くにいるのだろう。

耳を劈くその音に呑まれかけながら

ゆっくりと辺りを見回した。


先ほどまでの何もなくて

真っ白な空間とはかけ離れていた。


そこは川辺のキャンプ場のようだった。

小さく浅い川に、

ごろごろとした大きな石、

砂利の道、バーベキュー用の網や用具。

周囲は森で囲まれており、

自然の豊かさに圧倒される。

圧巻だと言う他ない。


全く違う空間に

躊躇しながらも、

今自分は川の近くの

砂利の上にいるのだとわかった。


バーベキューをしている近くでは

いくつか、人らしい影はあるものの、

あくまで影でしかなかった。

蜃気楼のような、

先程までの白色を見に纏ったかのような

ゆらぎがいくつかあったのだ。

幽霊というものが

本当に実体としてあるのであれば、

きっとこういう見た目なのだろうと思う。

得体の知れない何かに

近づくことは憚られて、

自然とそこから距離を置くように

川辺へと向かった。


川辺では、2人の子供が

はしゃいで遊んでいた。

小さい女の子2人だった。

大人たちはそんなによそ見をしていて

大丈夫なのだろうかと不思議に思う。

見たところ小学生に

なっているかどうかくらいだろう。


水を掛け合ったり、

水の中から生き物を探したり、

はたまた石を探したり

しているようで、

見ていて微笑ましかった。


教室1個分ほどあけて見守る中、

ふとその違和感に気づいた。

何故か、小さい子たちを見ていると、

間に何かがあるように感じた。

ゆらぎのようにも見えたが、

色がついているわけではない。


よくよく目を凝らして見てみると、

じんわりとその輪郭が浮かび上がっていく。

認識しようとしないと

それは見つけることができなかった。


陽奈「…っ!」


気づいた瞬間、足場の悪い中

思いっきりかけだした。

粒の大きい音が耳に届く。

石同士がぶつかり合う硬い音は

蝉の声にかき消されていく。

近づくと近づくほど

その音に埋もれてしまうかのように見えた。


私も、あなたも。

澪ちゃんも。


澪「…なん。」


澪ちゃんは2人の近くで

静かに佇んでいた。

近くにいて、しかも声まで

ちゃんと聞こえる。

ずっとここにいたのだろうか。

そしたら何故、私は今までの数分間、

澪ちゃんを見つけることが

できなかったのだろう。


澪ちゃんはしっかりと実体があった。

頭から足まで、ちゃんと見えている。

それなのにどうして。


澪「…スマホは?」


陽奈「…。」


言われてすぐにポケットに手を当てる。

固形物のある感触が

ちゃんとあったのだ。

取り出して見せて見ると

安心したように、はたまた

興味なさそうに川辺の2人へと

視線を戻していった。


澪「……。」


陽奈「…。」


澪「何であんたがここにおるとね。」


その答えを打ち込み、

彼女に見せようとした。

しかし。


澪「自動音声で読み上げるようにしよって。」


そう静かにいった。

もしかしたら近づかれたく

なかったのかも知れない。


4月当初、飲み物を奢ってくれて

一緒に話した記憶はあるし、

優しい先輩だとは思っているけれど、

今日一緒に過ごしていて

少しばかり怖いとも思った。

よくスマホをいじっていて、

何を考えているのか、

感じているのかを掴みづらい。

少し話しかけづらくて…

私はやっぱり来ない方が

いいんじゃないかって

強く思ったりもした。


私に対して何か

負の感情を持ち合わせていても

おかしくないと思ったのだ。


自動音声に切り替え、

夏の気温に溶かした。


陽奈『扉を潜ってきた。』


澪「へえ、人の通ったところって普通に通れるったいね。」


陽奈「…。」


澪「…さっきも来とったよな。ここに。」


陽奈「…!」


澪「見つけれんかったっちゃろ。」


陽奈「…。」


澪「何で今回は見つけたん。」


陽奈『わからない。』


澪「…はぁ…。」


陽奈「……。」


澪「そりゃ全部が全部知っとるはずないやんな。」


それは呆れのような、

けれどある一種諦めたような

口調で息を吐き切るようにいった。


さっきも来ていたこと、知っていたんだ。

見えなくなるまで遠くに

行っていたわけじゃないのかと安心する。

もしかしたら1回目にここに訪れたときも、

案外近くにいたのかも知れない。


ついさっきまでと同様、

見つけられなかっただけで。


今となってはこうもはっきり見えるのに、

どうしてそんなことができたのだろう。

起こってしまったのだろう。

無意識のうちに人を

無視している感覚は、

たとえ全てが自分のせいでなくとも

多大なる罪悪感が募っていった。


ぴちゃり、と水が跳ねる。

どうやらローファーを履いているらしい。

澪ちゃんを見てみれば、

高校の夏服を身につけている。

私も同じ格好をしていた。

違うリボンのカラーが

夏の光に照らされる。

眩しくって真上を向くことはできなかった。


澪「…あんたは……自分のところはもういいと?」


陽奈『うん。』


澪「出たん?自分で。」


陽奈『出た。』


澪「………そう。」


陽奈「…。」


澪「他の人らは?」


陽奈『多分出た。』


澪「多分って何それ。」


陽奈『迎えにいって2人とも扉からは出たけど、その後はわからない。』


正確にはこころちゃんに至っては

夢から出たところを

見たわけじゃない。

けれど、彼女ならきっと大丈夫。

そう思って澪ちゃんに返事をしていた。


澪ちゃんは私のことを

一切見ることなく、

ずっと川ではしゃぐ2人を見ている。

私がどれだけ会話の間に

頷いていても見えやしないだろう。


澪「迎えにいったと、あんたが?」


陽奈『そう。』


澪「……へえ。………意外と強かったっちゃんね。」


陽奈「…。」


澪「…全部を見て回った感想、どうなん。」


感想。

一体何を聞いているのかと疑問に思う。

やけにのんびりと

しているように見えて、

妙に心配になってゆく。

今の今まで扉から、

夢から出ていないのは

そういうことだろう。

予想はつくけれど、

これまでのことを1度

思い返すことにした。


どれも幸せの夢だった。

けれど、どれも少しだけ削れていた。

現実のことを覚えているあたり、

既に不完全だったのだろう。

だが総じて、感想はひとつだけ。


陽奈『とても幸せで、とても辛かった。』


澪「いる間と出るときで、ってことやんな。」


陽奈『そう。』


澪「他は。」


陽奈『それぞれ幸せの形が違うんだなって思った。』


澪「あんたのはどうやったん。」


陽奈『私のいた、解散したはずのグループがまだ活動してて、みんなで活動した。歌った。』


澪「…そりゃあよかったな。」


陽奈「…。」


澪「2人は。」


陽奈『こころちゃんは学校で、茉莉ちゃんは家で、それぞれの幸せを見てた。』


私が見たこととはいえ、

他人のプライベートを勝手に

赤裸々に話すのは

あまり褒められたことじゃないと判断し

詳細まではあえて言わなかった。

その意図に気づいたのか、

ただただ私の説明が

雑だと感じたのかわからない。

表情をひとつも動かさないままで

口を開いていた。


澪「………じゃあ、うちのは異端やったわけやな。」


陽奈「…。」


ぐうの音も出なかった。

異端。

確かにその通りなのだ。

他の3人と違い、

世間一般でいう幸せの姿とも

大きく異なっていた。


澪「あれを見てどう思ったんか聞きたい。」


陽奈「…。」


澪「……。」


陽奈「…。」


澪「…はは、そんな言いづらいと?別に正直に言ってくれて構わんけん。」


陽奈「…。」


澪「キモかったでも、馬鹿みたいでも、何でもよか。怒ったりせん。」


陽奈『少し怖かった。』


澪「何もなさすぎてってことやんね。」


陽奈『それもそうだし、自分も消えちゃいそうで怖かった。』


澪「消える、な。確かにそう見えたかもな。」


陽奈「…?」


澪「この空間って、自分の願いを叶えると同時に、幸せやった過去を見る場所って認識で合っとる?」


ふと。

ようやく。

ようやく私のことを見つめていった。

少し背の高い彼女は

見下ろすようにして

私を射抜くような目で眺めた。

冷ややかで鋭い視線に

一瞬たじろいでしまう。


人ってこんなにも

冷たい目をすることができるのかと

喉の奥底で思った。


陽奈『私は、幸せな夢をみる場所だと思った。多分、こころちゃんもそう。』


澪「国方は。」


陽奈『過去だって言った。』


澪「へえ…何が違ったっちゃろうね。」


陽奈『個人的にはいる時間だと思う。』


澪「時間…ああ、長くいるといつの間にか過去を見とる…的な?」


陽奈『そう。』


澪「なるほどな。」


何かを確認するように

ひとつひとつ質問していく澪ちゃんからは

冷たいものをずっと感じ取っている。

それがどう言語化されるものなのか

まだ知ることはできない。

けれど、もしかしたら不安なのかもと

感じてしまった。

いろいろ質問する時は、

私の場合にしかすぎないけど

不安な時が多い。

本当に大丈夫か、

これで間違いはないか。

そう確認する時に

よく質問をしていた。


数年前、心配症すぎるがあまり

いろはにいろいろと聞いていたら

怒られたことがあったっけ。

お互い理解も浅かったし、

痺れを切らしてがつんと

言われた覚えがある。


それに似たような状態のように

見えたのだ。


澪「幸せな夢をみるのが前半やとしたら、うちにとってはあの何にもないところが幸せってことになる…それはあんたもわかっとるやんな。」


陽奈『うん。』


澪「じゃあ、勘違いもするわ。」


陽奈「…?」


澪「あんなにもなかったら、こいつもしかして死にたいとか考えとるっちゃないかなとか思うやんな。」


陽奈「…!」


澪「はは…そりゃ怖くなるのも当然や。」


澪ちゃんは乾いた笑い声をあげて

また川辺を見やった。

2人の声が不意に耳に届く。

少しばかり蝉の声が

弱まったのかも知れない。


「見て見て、綺麗なビー玉あったよ!」


「あ、ほんとだ、綺麗!」


「ね、もういっこ探そう。」


「探す!そしたらこれ、宝物ね。」


「うん。宝物にする!」


ずっと楽しそうに

川辺に両手を突っ込んでいる。

時折跳ねる飛沫に

嬉しそうな悲鳴をあげていた。


澪「…死にたいとは思わんかった。そう思ったらいかんような気がしとってん。」


陽奈「…。」


澪「でも、無意識のうちにいつからか思うようになっとったんやろうな。」


陽奈「…。」


澪「透明になりたいなーって。」


陽奈「…っ。」


澪「そんなん、消えたいも同義やんって思うかもしれん。でも、うちの中ではちょっと違うと。」


陽奈「…。」


澪「こう…うまく説明できんけど、透明がよかったと。」


さっきまで見つけられなかったこと、

そして初めあの空間に入った時に感じた

虚無感の全てに

納得してしまった。

死にたいとも消えたいとも違うけれど、

存在を霞ませたいその欲は

一種得体の知れない恐怖だった。

もし消えたら、透明になったら

どうなってしまうのだろう。

誰にも見つけてもらえずに

餓死して死ぬのだろうか。

そんな、透明になって以降の不安が

曲がって死に近いように感じたのだ。


…そんな彼女が今、

確と私の目の前にいる。


それは願う幸せが幸せではないと

気づき始めてしまったのか、

それとも暗に少しばかり

見つけてほしいと思ってしまったのか。


澪「……。みんな、どうして出ることができたん。」


陽奈「…。」


澪「うちは向かい合えんよ。」


陽奈「…。」


澪「自分のこと、1番嫌いなんよ。…って、あんたに話すことでもないか。」


陽奈「…。」


澪「嫌いなやつと一緒に居れんのは当たり前のことやんな。」


陽奈「…。」


何かを言わなきゃ。

そう思うけれど、

全く手が動いてくれない。

何を言えばいいの?

…。

何も…言わなくていいの…?


同意するわけにもいかず、

話を逸らすように文字を打った。


陽奈『目の前の2人、片方は澪ちゃん?』


澪「そ。んでもう片方は忘れた。」


陽奈「…。」


澪「親の繋がりの集まりやったんよ。それで行ったら、たまたま同い年くらいの子がおって、一緒に遊びよったと。」


陽奈「…。」


澪「この日以来あっとらんけん、誰やか名前も知らんまま。」


と話していたけれど、

明らかに違うと感じる部分がある。

茉莉ちゃんと電車に乗っていた時、

何も思い出せないと語ったその子は

顔にもやがかかっていた。

しかし、今回は違う。

明瞭に顔が見えるのだ。

澪ちゃんの他に、長い髪を靡かせながら

遊ぶ女の子姿が、顔が見えるのだ。


また、2人の話す声が聞こえる。

さっきよりもはるかにはっきりと聞こえた。


ミオ「見て、見つけた、もういっこのビー玉!」


「青い、綺麗!」


ミオ「さっき見つけたの白かったね。」


「じゃあ、お互い見つけたやつ交換しよう!」


ミオ「いいよ!やった!」


「いつかビー玉屋さん開こうね。」


ミオ「ビー玉屋さんあるかな、この前ね、家族でガラス屋さん行ったよ。」


「ビー玉そこにあった?」


ミオ「あった!だから、ガラス屋さんね。」


「うん、そうする!」


ミオ「じゃあ次何するー。」


「かくれんぼしよう!」


ミオ「する、する!」


「じゃああたしが鬼ね!」


ミオ「わかった!」


「いーち、にーい…。」


1人は川辺に残り、

小さな頃の澪ちゃんが

ぱーっと駆け出していってしまった。


澪「…そうよな。」


陽奈「…?」


澪「幸せな夢なら終わりはない。願わん限りな。」


陽奈「…。」


澪「けど、過去を見るだけやったら…追憶するだけやったら話は別や。」


陽奈「…っ。」


澪「過去は終わりがある。だけん今うちがここにおるもんな。」


彼女は静かにそう言った。

それと同時に、空間全体に

異変が起こり出した。


まるでここはプラネタリウムの

中だったかのように、

はたまた果物の中にいて

その皮が剥かれているかのように、

天井から空白が覗き出した。


緩やかなスピードではあるけれど、

青い空が割れて真っ白な

余白が生まれているその様は、

まるで世界が終わるみたいでぞっとした。

澪ちゃんはそれを受け入れるかのように

ずっとその場から動かない。

たじろぐ私をよそに、

まだ蝉の声に耳を澄ませていた。


澪「…ずっとうちら、かくれんぼしっぱなしやん。」


陽奈『早く出よう。』


澪「ええわ。うちは残ったまんまで。」


陽奈「…っ!」


澪「だって、人がこのまま残った場合のデータ、とれとらんやろ。」


そう冗談めかしくいった。

小さく笑ったのを見逃さなかった。

誤魔化すように、

もしかしたらと期待を込めたかのように

笑ったのだ。

けれど、すぐに何も感じさせない

表情へと戻っていく。


どうしようと焦った私は、

スマホを投げ捨てて

澪ちゃんの腕を握った。

そして目一杯引っ張った。

不意な出来事だったようで、

彼女かふらりとよろけるのが見えた。


澪「…っ!何するとね。」


陽奈「…!…!」


澪「なんで…。」


陽奈「…っ!……!」


力いっぱい引っ張る。

始めこそ澪ちゃんは

力を入れて動こうとすら

しなかったけれど、

夢が剥けて空白が増えるたびに

その力は弱くなっていった。

何分引っ張ったのだろう。

腕が取れるかと思ったその時だった。


唐突に力を込めずとも

その対象は揺らぐように動いた。

夏の日差しはもう見えないはずなのに、

酷く汗をかいていた。

夏服だろうと川辺だろうと関係なく、

また肌着が背にくっつくのがわかった。


澪「…何で見捨てんと。」


陽奈「…。」


澪「なんで。」


最後の質問だと言わんばかりに

その言葉をつぶやいた。

スマホがなく、答えることができないまま

灰色の扉の前に向かう。

澪ちゃんもここから出られるのか

まるでわからないけれど、

やってみる他ない。

それ以外残っていない。


空白が迫る中、

澪ちゃんは反対の手で

私の腕を掴み返してきた。

ここでまだ出ないと言うのだろうか。

そうなったらどうすれば。

もし逃げ出されたらもうー。


最悪な事態を考えながら

恐る恐る振り返った。


澪ちゃんは下唇を噛み締めて、

もう1度言ったのだ。


澪「…何で。」


陽奈「…。」


もう出なければ。

すぐそこまで白色は迫っている。

扉もこのままでは

空白に呑まれて消えてしまう。

遠くには先ほどのような

床に波紋だけが広がる

あの空間がどこまでも続いている。

バーベキューの道具も、

木々も無くなったのに、

蝉の声だけずっと聞こえていた。

それもやがてなくなってしまうのだろう。


澪ちゃんの手を握り返した。

はっとして彼女が顔を上げる。

見たこともない、

今にも泣きそうな顔をしていた。


…。

何故。

そんなのひとつに決まってる。


口を、開閉させた。


澪「…っ!」


澪ちゃんがこれまで以上に

目を見開いていた。

納得していないような顔で

こちらを凝視している。

…私は困って

笑うことしかできなかった。


それから澪ちゃんの手を引いて、

勢いよく扉を開いたのだ。


夏風がぶわりと

背を押すようにして流れゆく。

風鈴のような音すら

聞こえてきそうな気がした。


蝉の声が遠ざかる中、

自分が発した音を反芻する。



ともだち。



助けるのも見つけるのも、

その関係で十分じゃないか。

それ以上の関係じゃなきゃ

迎えにきちゃ駄目なんてないんだから。


四季折々の風を受けて、

私はそっと目を閉じた。

いつまでも彼女の腕を

離すことはなかった。





***





酸素を食む。

そして、ゆっくりと瞼を開く。

朝とは違い、分厚い雲がない。

広々と晴れ渡った空は

真っ赤に染まっている。

まるでこころちゃんのところで

見たような鮮明な赤だった。


陽奈「…。」


澪「…もう離してよかろうもん。」


真後ろから声がする。

澪ちゃんは俯きながら、

拗ねた子供のようにそう言った。

徐々に力を弱めて手を離す。

周りは山の中のようで、

トンネルの前に2人で立っていた。


こころちゃんと茉莉ちゃんは

どうなったのだろう。

疑問に思うと同時に、

遠くからふと人型の影が

伸びているのが見えた。


こころ「…っ!2人ともーっ!」


茉莉「おーい!」


陽奈「…!」


澪「…。」


こころちゃんと茉莉ちゃんは

少しの間別の場所にいたのだろう。

坂を駆け上がって

私たちの方へと駆け寄ってくれた。

1歩踏み出す。

それを、何度も何度も繰り返す。

後ろから澪ちゃんが

仕方ないと言った歩幅で

追って来てくれるのがわかった。


きっとこの先も、何度でも。

みんなも私も全てを

乗り越えたわけじゃない。

また同じような幸せを

願ってしまうことも、

現状に不満と不幸ばかりを

感じてしまうこともあるだろう。


けど、現実は不幸だけじゃない。


私たちは夕日の元、

戻ってくることができたのだった。







灼け落ちた記憶 終

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