四季のフィルム 前編

慣れないほど大きな人の流れと

賑やかな音楽が鳴る改札の近く。

通り行く人たちを

ぼうっと眺め続けていた。

思えば海老名駅に来たことは

そんなになかった。

通ることはあっても、

実際降りて少し時間を過ごすのは

初めてなように思う。


陽奈「…。」


先日、こころちゃんから

みんなで遊ぼうという

連絡が入った。

全員集まるものだとばかり

思っていたのだけれど、

来るのは私、こころちゃん、

茉莉ちゃん、篠田さんの4人となった。

槙さん姉妹は部活があり

打ち込みたいからと言って来れず、

吉永さんは何やら

家の用事があるらしい。

…とは言っていたけれど、

吉永さんに関してはもしかしたら

篠田さんのことを気にして

来ないことを選んだんじゃないかなとも思う。


どこに行くか相談した結果、

初めは海だったけれど

こころちゃんがいい場所を見つけたと言い、

別の場所になった。

詳しい場所はまだ知らないけれど、

こころちゃん曰く

「期待しといて!」とのことらしい。

きっとおしゃれなカフェとか

ブティックとかに行くのだろう。

その集合場所が海老名駅だった。


ただ、彼女から運動しやすい服装で、と

指示があったことには

疑問を感じざるを得なかった。

アクティブ系…となれば

ラウンドワンにでも行くのかな。


思えば友達とラウンドワンに

行ったことはないような気がする。

映画館や水族館といった場所であれば

何回か行ったことがあるけれど、

アクティビティは初めてだった。

みんなと遊びに行くことに加え、

その点にも別の緊張が生まれていた。


「あ。」


普段拾うことのない、

ましてやこんな喧騒の中

たった1音の響きが耳に届いた。


すぐにノートを取り出せるようにと

鞄の中を漁る手が止まる。

ゆっくり、恐る恐る顔を上げる。


茉莉「陽奈さん…でしたっけ。」


陽奈「…!」


肯定の意を伝えるために

ぶんぶんと首を縦に振る。

茉莉ちゃんは少し髪が伸びたようで、

肩につくかつかないか程度にまでなっている。

白いTシャツに英語が印字されており、

明るめの色のジーンズを履いて

黒色の帽子を身につけていた。

私服で会ったのは

去年を含めて2回目だけれど、

茉莉ちゃんに似合う服装だなと

つくづく思った。


茉莉「すっごい人の量ですねー。」


陽奈「…。」


茉莉「はー、あっつ。」


手で仰ぎながら

すっと隣に立つ彼女。

私は小さく頷くことしかできなかった。

何か話さなければと思い

俯きながら鞄に手を伸ばす。

けれど、肩紐を握りしめるだけで

それ以上手は進まなかった。


茉莉ちゃんはスマホをいじり出してしまい

私も私で話しかけるのも億劫になって

気まずいと感じる時間が流れる。

気まずいと思っているのは

もしかして私だけなのだろうか。

茉莉ちゃんはなんとも思ってなくて、

ただ暇つぶしにスマホを

いじっているだけなのかな。


そわそわとしてしまい、

歩きゆく人々をきょろきょろと眺めては

誰か早く来てくれと願うばかり。

…あれ。

私、これまで茉莉ちゃんと一緒にいて

気まずいなんて思ってなかったはずなのに。

むしろ、雨鯨で活動していた時は

無言の時間でも

心地いいとすら思っていなかったっけ。

それが雨鯨としての時間が

積み重なっていたからだと知るには

時間を要さなかった。


「おーい!」


茉莉「あ。」


こころ「ごめーん、待った?」


茉莉「いいや、そんなにです。」


こころ「本当?良かったぁ。」


こころちゃんは可愛らしい服を

身につけていた。

こころちゃんの学校のスカート丈

くらいだろうか、

膝から幾分も上あたりまでしかない

ワンピースを着ていた。

夜だからか、はたまた元から

そのような色なのか、

ピンクを暗くしたような、

紫とえんじ色の狭間のような色をしている。

大きな真っ黒の襟に

ネクタイ調のリボンが付いていた。


運動しやすい格好で、と

連絡をくれたこころちゃんの文字が浮かぶ。

彼女はこれで運動しやすいのだろうか…?

…なんて、野暮な疑問か。

こころちゃんを見ているに、

自分の1番好きな服を着ている

自分が好きなんじゃないかと思う。

決して悪い意味で言っているのではない。

好きな服を着ると気分も上がるし

自分を好きになる感覚はわかる。

だから、機能性より見た目を

選ぶ時があるのだってわかる。

彼女にとって今日がその日だったんだと

不意に思った。


こころ「もうすぐ澪もくると思うんだよね。」


茉莉「そうなんだ。」


こころ「そ!楽しみだねぇ。」


茉莉「うん。」


茉莉ちゃんとこころちゃんは

茉莉ちゃんが記憶を忘れる云々に関わらず

あまり親しくはなかったイメージがある。

今はそれが顕著に見えることもなく、

何ならこれまで以上に

親しげなようにも感じた。


和やかな雰囲気が巡った。

私にははいかいいえで

答えられる質問を多くしてくれて

ものすごく助かったと同時に

気の回し方にすごいと、

ありがたいと感嘆する。


こころちゃんが来て以降

すぐに篠田さんが顔を見せた。


澪「うちが最後やったんや。」


こころ「遅いぞーみおみおー?」


澪「これでも5分前やけんな。それとその呼び方やめや。」


こころ「はあい。」


茉莉「2人はよく遊びに行くの?」


こころ「え?うーん全然かな。強いて言うなら、一晩一緒に明かしたってくらい?」


え、と思い篠田さんの方へと振り向く。

メガネが少しばかりずれ、

すぐに元の位置に戻した。

篠田さんはそれに気づかず、

こころちゃんを睨みつけた。


澪「言い方に悪意ありすぎやろ。」


こころ「てへっ。」


茉莉「あー、家に泊まりに来たってこと?」


こころ「そうそう。あ、もちろん部屋は別々だよ?」


茉莉「はえー。」


澪「あの後、国方の家にもお邪魔したんよ。」


こころ「あ、そうだったんだ!」


そこまで話してふとこころちゃんが

こちらを向いた。

少しだけ肩をすくめる彼女に、

どうすればいいかわからず首を傾げた。


もしかして、私は来ない方が

良かったんじゃないかと思ってしまう。

会話に入ることはできない。

私自身は聞くばかりでも

楽しいと思えるしいいのだけど、

周りのみんなはどう頑張っても

気を遣ってしまうだろう。

たとえ私が「聞いてるだけで楽しいから」と

伝えたとしても、

もしかしたら強がっているだけだと

余計思わせてしまうんじゃないだろうか。


あれこれ考えていると、

「続きは歩きながら話そっか」と

こころちゃんが言った。


どこに向かうのかみんなも

わからないのだろう。

こころちゃんを先頭に

バス停へと向かっていた。


こころ「陽奈は知らなかったよね。この前澪がお姉さんと大喧嘩して、家出したんだよ。」


陽奈「…!」


こころ「ね、びっくりするよねー。」


目を見開いたことを察知して

彼女はそう返事していた。


こころ「しかもこの子ったら頑固でぇ。」


澪「一応うちの方が年上っちゃけど。」


こころ「もうー固いこと言わない、言わない!んでね、泊まる場所も確保せず出てきたみたいで、急に連絡が来たんだよー。」


茉莉「結局何泊したの?」


澪「3やな。国方とそこにおるうるさいやつと、うるさいやつの友達さん。」


こころ「うるさいやつって失礼なー。天性の才だぞっ。」


澪「こういうところやんな。」


茉莉「っすねー。」


こころ「ええー酷い。僕の味方は陽奈だけだぁー。」


隣にいたものだから、

急にぐわりと視界が

揺らいでびっくりする。

どうやらこころちゃんに

肩を組まれたようだった。


何も反応できず、頷けばいいのかと

思案している間に、

そっと彼女は腕を離した。


こころ「でも、何とかなって良かったね。」


茉莉「ね。仲直りした?」


澪「半ばな。」


こころ「これね、仲直りしたって意味だから。」


澪「はあ?」


こころ「もー、これだからツンデレはー。」


澪「ツンデレやなか。しゃあしいわ。」


茉莉「くはは。」


こころ「そういえばみんなって兄弟いるの?澪と僕はお姉ちゃんがいるけど…。」


茉莉「にーちゃんが1人いるよ。」


こころ「そうなんだ!陽奈は?」


ふるふる、と首を振ろうとしてふとやめた。

実際兄弟はいないけど、姉妹のように

育ってきたいろはがいる。

ふとペンと紙を取り出そうとして

また手を止めた。

こう、ペース良く進む会話を

止めてしまうことに気が引けた。

そのくらいなら頷いておく方がー。


ぐるぐると回っていると、

ふ、と誰かが笑った。


茉莉「言いたいことがあったら言ってくれたら茉莉は嬉しい。陽奈さんのこと知りたいし。」


こころ「そーだよ!もしかして、書いてたら遅くなっちゃうかもとか思った?いーのいーの、気にしなくて!」


茉莉「普段はどうしてるの、筆談?スマホ?」


あまりに普通の人に

話しかけるようで驚きを隠せないまま、

ペンを持って文字を書くような

ジェスチャーをした。


茉莉ちゃんの言葉を聞いてはっとする。

そうか、スマホの手があったか、と。

これまで思いついていない

わけじゃなかったが、

対面となるとそれとなく憚られた。

相手に失礼じゃないかなって。

けれど、紙に書くにも時間が気になる。

伝えることの大切さを知りはしたが、

それを行動に移せるかと言うのは

また少し違った話だった。


こころ「紙なんだあ、アナログのほうが落ち着くの?」


うーん…そう言うわけでもない。

考えるそぶりをしていると

頃合いを見て茉莉ちゃんが言った。


茉莉「スマホの方が楽だったらそっちでもいいと思うけど。」


篠田さんはこの間何かを言うこともなく

時刻表とスマホの両方を

ちらちらと見ているのが視界に入った。

心底興味のない様子で、

寂しさを覚えると同時に

どこか有り難さもあった。


スマホを取り出して、

さっきの話の続きになるけれど

『とても仲のいい姉妹がいるの、

姉妹みたいな感じ』

と打った。

普段から使っているもののはずなのに、

いざとなってみれば

自分の文字を打つ速度は

遅いのかもしれないとふと思う。


こころ「そうだったんだ!いいなあ、従姉妹が近くのいるのって。」


茉莉「遠いの?」


こころ「うん。僕の家は転勤族でさ、両親も全然違うところから来てるんだよねー。」


茉莉「あれ、そうなの?茉莉も転勤族だった。」


こころ「えっ!?嘘ーこんなところに仲間がいるなんて!」


澪「だった…っていうのはあれけ、今別居しとるけんってこと?」


茉莉「そー。にーちゃんが大学に通ってる間はこっち確定だから、一旦転勤族は卒業。」


こころ「そっかぁ。引っ越しって大変だけど、いろんなところに友達できるから好きなんだよね。」


茉莉「前向きだねぇ。」


こころ「取り柄ですから!」


話している姿を見ていると

何故か無性に安心した。

やっぱり会話に参加するよりも

見守っている方が好きだなと思う。

話すのが嫌と言うことじゃなく、

ただ人の話を聞くのが

好きと言うだけで。


そうこうしているうちに

バスが向こうからやってきて、

みんなで乗りこんだ。

始発だったこともあり、

みんなで後ろ一列で乗る。


少しして、ゆっくりと

発信するのがわかった。


私が1番窓側に座らせてもらい、

隣に茉莉ちゃん、こころちゃん、

篠田さんの順で座っていた。

篠田さんは相変わらず

つまらなさそうにぼうっと

スマホをいじったり

外を眺めたりしていたけれど、

こころちゃんから話しかけられれば

その都度顔を上げて応えている。


こころ「あはは、だよねえ。あ、そうだ。」


茉莉「ん?」


こころ「今更なんだけどみんなのこと呼び捨てで呼んじゃってて平気?馴れ馴れしくない?」


澪「ほんと今更やな。」


篠田さんがため息混じりに言った。

刹那僅かな空白が生まれたけれど、

すぐに茉莉ちゃんが小さく笑った。


茉莉「いいってことらしい。」


澪「は?」


こころ「知ってる知ってる、嫌そうじゃないし。」


澪「偏見や、怖か。」


こころ「え、じゃあじゃあどうなの実際は?」


澪「…。」


こころ「むー……大丈夫ってことね!」


茉莉「てか茉莉こそタメ口だし。」


こころ「僕は嬉しいなあ。みんなのことはなんで呼んでたっけ?」


茉莉「苗字にさん付け。陽奈さんは陽奈さんかな。」


こころ「わあ、そんな他人行儀なー。じゃあ今ここで距離を縮めよう大作戦を開始する!もちろん澪と陽奈にも適応ね。」


澪「…。」


こころ「先輩後輩の垣根なくそ?今年1年間関わるんだしさ。」


澪「ええけど。」


こころ「やった!本当は今日来てない子たちにも仲良くなろうってしたかったんだよね。」


こころちゃんはくしゅくしゅと

スカートの端をいじっていた。

これが目的だったのかとふと思う。

そういえばみんなで集まったのは

4月の末以来じゃないだろうか。

いや、あの時は吉永さんは

こころちゃんと電話していた

だけの覚えがある。

顔を合わせて7人が揃うことは

今までになかったのだ。


その機会になればと思って

提案してくれたのだろう。

これまでのみんなを見ている限り、

全員を誘って遊ぼうと

言い出してくれそうなのは

こころちゃんと悠里さん

だけだろうと思っていた。

その悠里さんも事故に遭ってしまって、

今やこころちゃんのみ。


こころちゃんが他の6人を

繋ぎ合わせてくれているようにも見えた。

ばらばらになりかけていたら

周囲に目を配って声をかける。

元気がない人を見かけたら

元気づけてくれる。

私は関わりは薄いけれど、

そんな人だろうと思っていた。


澪「後で連絡しときゃよかろうもん。」


こころ「そうだね!じゃあ今日はよろしくね、陽奈、茉莉、澪。」


澪「んー。」


茉莉「よろしくー。そういえばどこに行くつもりなの?」


澪「国方も知らんと?」


こころ「名前で呼んであげないのー?」


澪「うちは元からこのスタンスったい。」


こころ「はいはい、強要はしませんよーだ。」


茉莉「不貞腐れちゃった。」


こころ「まあまあこの辺にしておいて。どこに行くかだって?」


澪「そう。海老名集合にして、それからバスに乗るなんてどこまで行くとね。」


確かに。

話していたしそれとなく

そのまま着いてきてしまった。

海老名駅で遊ぶんじゃないのかと

遅かれながらはっとする。

海老名駅には大型の施設もあるから

1日遊ぶにはちょうどいいくらいなのに、

どうやらそこが目的地では

なかったらしい。


こころ「ふっふー。みんな、夏が終わったなんて嘘だと思わない?」


茉莉「まあ、8月までが夏ってイメージはあるよね。」


澪「暑いけん秋かって言われたら微妙やけど。」


こころ「あっという間に過ぎ去った夏……僕はまだ夏を実感しきってないんだよ!」


茉莉「ほうー。」


こころ「だから、夏の最後の思い出作りに行こうと思ったわけ!」


澪「んで、結局どこに行くと。」


こころ「心霊スポット!」


澪「……はあ…!?」


どき、としてこころちゃんの方を見る。

みんなの視線がこころちゃん一点に

集まっているのがわかった。


澪「何…別に海とか屋台とか探せば他にもあったやろ!」


茉莉「茉莉は別にどこでもいいけど。」


澪「あんた…そんなん言っとるといつかとんでもないところ連れてかれるけんな。今回みたいに。」


こころ「いやあ、これには訳があるんだよ。」


澪「どんなね。」


こころ「ほら、吊り橋効果ってあるじゃん?ドキドキすると目の前の女性が好きかもって思うやつ。ああ言う感じで、友達と行くことでドキドキを一緒に味わって、仲良くなろうーっていう……」


澪「そんな…お化け屋敷でよかろうもん。」


こころ「何々、怖いのー?」


澪「そりゃあある程度は。」


こころ「あらら、認めるんだ。意外ー。」


澪「びっくりする系のはほんとに無理と。」


こころ「わーかったわかった、驚かさないからー。」


茉莉「驚かす前提だったんだ…。」


澪「マジでやめんね、よか?」


こころ「はいはい、わかったよぅ。」


こころちゃんは口を尖らせて、

でも面白半分にそう言った。


どくんどくんと心臓が大きな音を立てる。

怖いのが苦手なのは私もだった。

ホラー系の本ですら苦手なのに、

現実で、しかもお化け屋敷じゃなくて

心霊スポットに行くだなんて。

霊感はないけれど、

それでも怖いものは怖い。


スマホを持ってには

どんどんと力が入っていった。


そう思うと茉莉ちゃんや篠田さんは…

…澪ちゃんは、強い人だ。

私とは違って。


そう思うほどに冷や汗が背を

伝っていったのだった。


バスで揺られること数十分。

ようやくお目当ての駅に辿り着く。

降りてみれば、近くに小さなお店や人が

ぱらぱらと見えるものの、

木々が多く田舎だという印象を受けた。


こころ「これからここを進むよ!」


茉莉「げえ、ほぼ山道じゃん。」


こころ「虫多いだろうから気をつけてね。虫除けスプレー持ってきてるからしゅっしゅするよ。」


澪「長いこと歩くと?」


こころ「うーん、数十分だと思うよ。そんな1時間歩くみたいなことはしないから大丈夫!」


茉莉「帰宅部インドアには10分でもきついよー。」


こころ「あはは、それは僕もだから!」


澪「あー…だから動きやすい服装でっていっとったんか。」


こころ「そういうこと!」


茉莉「こころのそれは動きやすいの?」


こころ「もー、わかってないなぁ。ちゃんと機能性もありつつ可愛さも求める。これが僕の美学ー」


澪「はよ行こうや、道案内よろしく。」


こころ「あ、ちょっとちょっとー!」


澪ちゃんがふらりと踏み出し、

それを追うこころちゃんの姿。

生温い風が吹く中、

私は手の震えを抑えながら

見守ることしかできなかった。


ふと隣を見ると、茉莉ちゃんが

同じようにして風に吹かれながら

佇んでいる姿が見えた。


茉莉「元気だなぁ。」


陽奈「…。」


茉莉「あ、そうだ。」


陽奈「…?」


茉莉「心霊スポットさ、怖いだろうし隣歩かない?なんなら手繋いでさ。」


こちらをちらと横目で見る彼女は、

なんだかいつも以上に凛々しく見えた。

さらさらと細く癖のない髪の毛が揺れる。


無性に恥ずかしさを感じてしまって、

小さく小さく頷いた。


茉莉「よかった。…じゃ、置いてかれる前に行こっか。」


陽奈「…。」


茉莉ちゃんは茉莉ちゃんなりに

距離を縮めようとして

くれているのかもしれない。

こころちゃんの狙いとしては

みんな仲良くなることだったけれど、

もしかしたら本当の狙いは

茉莉ちゃんと吉永さんの2人が

打ち解けるような空間を

作ることなのかもしれないと思った。

それが叶うといいな。

…いや、作るのはきっと

私たちなのだろう。


2人の背を追うようにして

山道を歩いてゆくと、

人が多くて3人歩いて行ける程の道、

そして両側には天まで高く伸びる

木々たちでびっしりと満たされていた。

道中、廃墟が見えてきたものの、

あまりに朽ち果てていたもので

直視はできなかった。


ここはまだ心霊スポットではないらしく

こころちゃんはずんずんと進んでいった。

澪ちゃんも怖いと言っていた割には

何事もないかのように

こころちゃんと話しながら進んでいく。


坂が続いていていて、

みんな息を切らしながら足を進めた。

1週間ほど前よりも

少し涼しくはなったものの、

まだもわっとした熱気は存在している。


じんわりと汗をかきながら

やっとのことで坂を登り切ると、

そこにはひとつぽっかりと穴が空いていた。

僅かな時間を経て、

トンネルだと認識する。

ぞわ、と背筋が凍る感覚を覚える。

これだ、と無意識のうちに

感じていたのだろう。


こころ「じゃじゃーん、とうちゃーく!」


澪「このトンネルが例の心霊スポットと?」


こころ「そういうこと!神奈川県心霊スポットで検索して、割と上位に出てきたんだよね。」


茉莉「じゃあやばい場所ってこと?」


こころ「どうだろ、危険度順とかじゃなかったし…。」


澪「本当にやばいと思ったらすぐ戻るけんな。」


こころ「そんなビビらずともー。トンネルの先にキャンプ場があるらしいよ。少し道が続いてるみたいだし、森林浴ってことで散歩してこうよ。」


そう呑気に言うけれど、

空気が引き攣っていることが

それとなくわかってしまった。


こころちゃんを先頭に

トンネルへと1歩踏み出していく。

置いていかれるのが嫌で、

足早にみんなの方へと向かった。


遠く、遠くに光が見える。

そこに向かって歩くのだとわかっていても、

目の前の暗闇にばかり目がいってしまう。

この黒はいつか私を

襲ってくるのではないか。

みんなから引き離して

全く違うところへ、

それこそ……






°°°°°





いつからか周囲にあった

木々の影すら見当たらなくなり、

海だろうか、くるぶしまで

浸るくらいの浅瀬を歩いていた。

1歩すすむのに10秒ほど要しながら

着実に進んでいく。

もう戻ることも止まることも

できない気がしていた。





°°°°°





あの時みたいに、急に全く知らない場所に

1人で飛ばされるなんてことが

起きるんじゃないか…って。


少し歩くと、目の前の澪ちゃんや

こころちゃんたちの髪の毛が

ぐわりと風に吹かれて揺れた。

びゅう、と強めの風が吹いたのだ。

刹那、感じ取ったことがある。

この風は不吉だ、と。

怖がりな私がそう解釈しただけであって、

普段と何ひとつ変わらないものかもしれない。


けど、違う。

あの時と一緒だ。

そんな予感が足元から

迫り上がってくる。

離れなきゃと思うのに、

みんなは何事もないように

そのまま進もうとする。


手。

そうだ、手を。

隣にいる茉莉ちゃんの手を

握ろうとしたのに、

彼女はそれにただ気づいていないのだろう、

手は空を切ってしまった。


風は次第に強くなっていき、

ある地点を越えると無風になる。

全てが急に止まるものだから、

現実のものとは思えなかった。

みんなも声をひとつ発しない。


…違和感を感じとっているのではないか。

この先に行ってはいけないと

肌で、本能ではわかっているのではないか。

先頭に立つこころちゃんも

彼女の隣にいる澪ちゃんも、

私の隣にいる茉莉ちゃんだって

分かってるんじゃないの…?

この先は駄目だって。


それでもみんなは歩き続けた。

まるで導かれるみたいに。

夏夜、街頭に集まる虫のように。


光が近づいてゆく。

光の中へと。


…。

…。

…。


ふと思う。

みんな、望んで前に進んでいたわけじゃ

なかったのかもしれないって。

もしかしたら、振り返ることが

恐ろしかったんじゃないのかな。


トンネルを抜けた先。

キャンプ場があると、

道が続いていると聞いていたのに、

そんなものは一切なかった。


ブランコだ。

ぽつんと中心にブランコがあったのだ。

そしてどういうことなのか、

ブランコを囲むように

4つの扉が浮かび上がっていた。

そのうちのひとつだけ

色が違ったのだ。

3つは灰色の味気ない色をしているのに、

ひとつだけ鮮血のような赤色の扉があった。

目が痛々しくなるほど眩しくて、

自然豊かなこの空間にそぐわない。


まるでここは部屋の中であるかのよう。

しかし、確と空は見え、

周りは木々で覆われている。

トンネルの他に道が見当たらなかった。


こころ「え……?」


澪「何これ。こんなところがあったとね。」


トンネル内の空気感とは全く違った。

全てを拒絶するような内部とは異なり、

全てを受け入れるかのような

無償の愛を与えられているかのような

暖かさに塗れている。

優しい日差し、のびのびとしているが

お手入れの行き届いている草原、

幼少期の記憶をくすぐる

ビビットカラーのブランコ。

花壇がいくつかあり、

そこには朝顔が咲き誇っていた。

花壇の奥には、何かを解体した跡なのか、

大きな木材が乱雑に積まれていた。

私が一押ししたって

簡単に動かないことくらいは

容易に分かった。


こころ「わ、懐かしいー!ブランコだ。」


茉莉「懐かしいの?」


こころ「なんていうかさ、普段横目には見ることはあるけど、こうまじまじと見ることってないじゃん?」


茉莉「あーね。」


澪「…それよりもおかしいところがあると思うっちゃけど。」


陽奈「…。」


澪ちゃんのいうことはわかる。

扉が浮かび上がっていることだろう。

ただ扉が直立しているだけ。

その周囲をこころちゃんが

ぐるぐると回っていた。

どうやら四面が壁で

囲われているわけではなさそうだった。


茉莉「なんだろうね、これ。」


澪「…道が続いとるみたいな話やなかったと?」


こころ「ネットで見た感じそうだったんだけど、もしかしたら古かったのかも!ほら、最近情報はすぐにー」


澪「…なんか変な感じがするんよ。」


陽奈「…!」


澪「…こう、ざわつく感じ。」


こころ「……あ、あははー…そんな怖がってると帰りがもたないよ?…トンネルはなんともう一回通れちゃうんだから」


茉莉「…待って。」


澪ちゃんもこころちゃんも

ここの何とも言い難い

不快感を感じていることは伝わってきた。

強がっているこころちゃんだって

声が震えていた。

そんな中、無機質なほどに

冷たい茉莉ちゃんの声が響く。

ふと振り返ると、

彼女の視線の先が自然と目に入った。


トンネルは浅い部分で

土砂崩れがあったかの如く

堰き止められてあるのが見えた。

先程まで私たちは

そこを通っていたはずであり、

耳をつぶすような轟音だって

全く聞こえてこなかった。

元々そこにあったかのようで。

理解ができなかった。

まるで私たちを閉じ込めようと

しているみたいな現実がそこにあった。


澪「なっ…!?」


こころ「…え、嘘、何これ。」


陽奈「…。」


澪「三門、これあんたのドッキリやろ。いい加減にしい。」


こころ「いや、違う、違うよ!」


こころちゃんは走って

その瓦礫の元へと向かう。

穴を開けようとしているのか

手掘りしているようだった。

はら、はらと土の粉が舞うけれど、

全く微動だにしない。

無理という文字が

脳裏を満たしていくようだった。


澪「じゃあこれは一体…」


こころ「わかんない!わかんないよ!」


茉莉「一旦落ち着いて。」


陽奈「…。」


私も声を上げることができたなら

慌てふためいていただろう。

私よりも取り乱している人がいるからか、

将又声が出せないからか。

静観している私がいた。


茉莉「…電波…まず電話しようよ。幸いここがどの辺りかはわかるし。」


澪「…そうやな。」


こころ「…。」


澪ちゃんがスマホを取り出し、

電話番号を入力しているように見えた。

LINEから誰かにかけるわけではないようで

きっと警察にでもかけようと

しているのだろうことが見て取れた。


耳にスマホを当てると、

ほんの少しして耳から離した。


澪「…駄目や、繋がらん。」


茉莉「…圏外か……。」


こころ「これってさ、あれなのかな。」


陽奈「…。」


茉莉「あれ?」


こころ「茉莉はあんまり経験ないっけ。僕たち、変なことに巻き込まれてるんだ。」


茉莉「あー、あれか。茉莉が昔音楽作ってたみたいな…環境バグっていうか…それと似たような感じ?」


こころ「そう。…その一環なのかもってふと思ったの。」


こころちゃんは

項垂れるようにしてそう言った。

きゅ、とスカートを握りしめている。

小刻みに震えていることすら

わかってしまった。


こころ「…ごめ、ん…僕のせいで…。」


澪「…別に、1人のせいやないやろ。」


こころ「僕がここに来ようって計画して、みんなを連れてきたんだもん…僕が…。」


茉莉「遊びに来たいって言ったのは茉莉だよ。」


こころ「でも…。」


茉莉「ま、森林浴ってことで。」


茉莉ちゃんは側から見れば

呑気そうに両手を広げて

深呼吸をした。

トンネルは塞がれ、周囲の木々は

鬱蒼と茂っていて

道らしき道はない。

あるのはブランコと、扉が4つだけ。

異様な空間であるにも関わらず、

茉莉ちゃんのおかげで

ここは日常の一部のように

見え始めていた。


こころちゃんも少しだけ

落ち着きを取り戻したらしく、

何度も深呼吸をしていた。

澪ちゃんも見てわかるほど

焦っている様子もない。


ほっとして、スマホを手に取る。

そこに『みんなで無事に出ようね』と

一文書いてから

こころちゃんの袖を小さく引っ張った。


こころ「……あはは、そうだね。」


澪「何?」


こころ「みんなで出ようね、だって。」


澪「そうやな。」


茉莉「茉莉は全然経験ないんだけど、どうやったら出られるの?」


こころ「僕も閉じ込められるようなことは初めてで…あの時はなれ行きで…したいままに行動したかな。」


澪「うちもそんな感じやったな。」


思い返してみれば、

私はあの時どうやって出たんだっけ。

あの永遠に続くとも思える浅瀬から

どうやってー。


こころ「陽奈はどう?」


陽奈『みんなと同じ、なれ行きでだった気がする。』


こころ「そっか。じゃあまずは自分のしたいように…かな。」


澪「…。」


茉莉「となると気になるのは扉だよね。」


澪「もうちょっと周りを見てからにせん?道があるかもしれんし。」


茉莉「うーん、茉莉的には扉一択なんだよね。」


澪「そうなんやね。」


茉莉「しかも、直感でこれ。」


選んだのは、ブランコを正面に見て

右側にある扉だった。

灰色の扉を前に、茉莉ちゃんは

ドアノブを握ったのだ。

あまりの決断の速さに

慌ててこころちゃんが止めに入る。


こころ「え、待って待って、みんなで行くよね?」


茉莉「個人行動でいいと思う。」


こころ「え…なんで、みんなで出るんでしょ?」


澪「そうや。ばらばらで行動して逸れなりなんかしたら、元もこもなかろうもん。」


茉莉「…ないの?これがピンとくる、ってやつ。」


陽奈「…。」


こころ「ないのって………何を…。」


茉莉ちゃんから目を離して

ぐるりと見渡したこころちゃんの目が

刹那見開かれた。


それは、また別の灰色の扉だった。

そこではっとする。

私たちは1人ひとつ、

色のついて見える扉が

あるんじゃないだろうか。


茉莉「……また後で集まろう。」


こころ「待ってよ、置いてかないで。」


こころちゃんはそう言いつつも、

もう彼女に手を伸ばしはしなかった。

今生の別れじゃないのに、

心臓がぎゅっと

押しつぶされそうになる。


もし。

もしも、次出会った茉莉ちゃんが

また別の彼女だったら。

そもそももう会えなかったら。

この空間であれば、

それがあり得てしまう。


いつの間にか服の裾を

力いっぱい掴んでいた。


茉莉ちゃんが扉を開く。

その先は、私たちがいる空間と

全く同じ景色が広がっている。

扉の先に別の場所が

あるようには見えなかったのに、

茉莉ちゃんが扉を跨いだその瞬間

姿は一瞬で見えなくなった。


風が吹く。

ささやかな風。


陽奈「…。」


こころ「…。」


澪「…はよう出るんやろ。うちらも行かな。」


こころ「…。」


陽奈「…?」


こころ「そう、だね。」


ずり、と1歩茉莉ちゃんの消えた

扉から後退りする。

神隠しの瞬間を目の前にして

恐怖が募ったのだろう。

扉はややあってから

音を立てて勝手に閉じた。


澪ちゃんは腹を括っていたのか、

灰色の扉の前に立っては

すぐに開いて姿を消した。


自分も扉の前に立つ。

ああ。

たった1枚の板でしかないのに、

とてつもない圧力を感じる。

不吉な感じが全身を纏い、

2度と立ち上がれないかのような

不安感に襲われる。


こころ「…陽奈。」


陽奈「…?」


こころ「…本当にごめんね。」


こちらを見ずにそう言う。

見えていないだろうけど、

強く首を振った。


こころ「僕、何をしようにもこう、からまわっちゃうところがあってさ。ありがた迷惑になっちゃうって言うのかな…。」


陽奈「…。」


こころ「ああ、違う。こう言うことが言いたいんじゃなくってね…。」


陽奈「…。」


こころ「その、もし、また誰か大切な人を…大切な人の大切なことをなくしちゃったら…。」


…そこで漸く

こころちゃんがここまで

思い詰めている理由に

気づけたような気がした。

…全て彼女のせいだとは言わずとも、

吉永さんをある意味では

亡くしているのだ。

もしかしたら私の知らないところで

同じような経験を再度

しているのかもしれない。


…私にもわかる。

私も茉莉ちゃんを亡くしている。

大切な彼女の記憶を

雨と共に失くしてしまった。


こころ「……僕自身が身をもって償いをー」


陽奈『駄目。』


気づけばこころちゃんの元に駆け寄って、

力強く彼女の腕を引いていた。

そしてスマホの画面を見せる。


駄目。


ただそれだけ。

焦って書いたその文字を。


こころ「…。」


陽奈『こころちゃんがいなくなったら、私の大切な人がいなくなっちゃうことになる。』


こころ「…っ……皮肉だなぁ…。」


陽奈『もしもう無理だなって思ったら、私が助けに行くから。』


こころ「…えぇ?…あはは、そんな弱音吐かないよー。僕ってこう見えても逞しく生きてきたからね!」


陽奈『もしもの話だよ。』


こころ「…もしも…あは、そうだよねぇ。イフの話だもんね。」


陽奈「…。」


こころ「じゃあさ、ひとつだけお願いしていい?」


陽奈『いいよ。』


こころ「もしも、僕の心が折れそうになってたら…見つけだしてくれないかな。」


陽奈『うん。』


こころ「ほんと、見つけるだけでいいの。その先は僕が自分で立ち上がんなきゃいけないことな気がするから。」


陽奈「…。」


こころ「見つけてもらえるだけで、本当…ありがたいことだって思い直さなきゃだし。それに自分で諦めない癖をつけなきゃ。」


陽奈「…?」


こころ「ほら、よく言うじゃん?不幸に遭ったのは他者のせいかもしれないけど、不幸から脱しないのは自分のせいだって。」


彼女が何のことを話しているのか

僅かしか見えなかったけれど、

きっと何かしらを思い返していたんだろう。

過去はいつだってそう。

私たちの足を静かに、

しかし離さないように

これでもかと思うほど強く

引っ張ってくるのだから。


こころ「だから、向き合わなきゃ。頑張らなきゃね。」


向き合わなくてもいいよと、

頑張らなくてもいいことだって

世の中にはたくさんあるんだよって

ふと言いたくなってしまった。

けれど、たった16年しか生きていない私が

そんなことを言ったって、

それはただの怠惰への言葉になりかねない。


真剣で、笑えないほどまっすぐで、

けれど微々ながら濁ったようにすら

見えてしまった瞳を前に

何も言うことはできなかった。


こころ「…よし、決心ついた。ありがとね、陽奈。」


首を振る。

こころちゃんはくすりと

小さく笑っていた。

そして、私を置いていくように、

将又ついてこいと言っているかのように

扉へと1歩踏み出した。


風が吹き、そしてそっと閉まった。


再度自分の扉の前に立つ。

大丈夫。

絶対、絶対戻ってくる。

元の世界に戻る。

そんな決意を胸に

そっとドアノブへと触れたのだった。


刹那、風が吹く。

春のような優しい風だった。





***





何を見ているのだろうと思う。

視界がぼんやりしていて、

どこを見ているのか、

その角度も、色彩も一瞬

感じ取れなくなった。

が、次の瞬間はっとする。


陽奈「…っ!」


ぐるりと周囲を見渡して

ぎょっとする他なかった。

私は自分の家の、

自分の部屋にいたのだ。

机に伏せて眠っていたらしく、

手の甲には赤い跡がついている。

頬をずっと当てていたからだろう。


それとなく口元を拭う。

よかった、涎は垂れてなかったみたい。


徐々に痺れ出す指先をよそに、

部屋全体を改めて見回す。

けれど、何度見たって変わらない。

私の家だ。

私の部屋だ。

幾度となくこの部屋で

明日を迎えてきたのだから

見間違うことなんて絶対にない。


日付は…。

そう思って近くに転がっていた

スマホを手に取る。

すると、9月9日と

今日の日付が浮かび上がった。


9月9日…。

私は一体何をしていたんだっけ。

…確か、外に出たの。

外に。

誰かと集まって…。


陽奈「…!」


そうだ。

4人で集まって

心霊スポットに行くことになったんだ。

トンネルを潜って、

その先にブランコがぽつんとあって。

そしてみんなそれぞれ

別の扉に足を踏み入れたんだった。

その後…優しい風が吹いて…。

そして…。


そして、今ここに至る。

眠りから目覚めた私に通じるのだ。


陽奈「…。」


もしかして、今日の出来事は

全て夢だったのだろうか?

そう思い、スマホを再度開いて

連絡を確認した。

すると、こころちゃんからの連絡は

何ひとつとしてきておらず、

代わりに雨鯨からの通知が

いくつか溜まっていた。


陽奈「…。」


夢、か。

夢だったらしい。

あんなに五感の働く夢なんて

そうそうないだろうとは思う。

…夢を夢と近くできる

明晰夢とはまた違うだろうけれど、

現実味の溢れる夢だった。


…もし夢なのであれば、

私がこころちゃんに誓った

あの言葉はどうなるのだろう。

夢だから、なかったことに

なるのだろうか。

それだったら少し悲しいけど、

仕方ない、夢だから。


息を吐いて、ベッドの縁に

腰をかけたその瞬間だった。

どたどたと階段を駆け上がる音が

聞こえてきたと思ったら、

ノックをすることもなく

突如がたんと大きな音を立てて

扉が開いたのだった。


陽奈「…!?」


いろは「あ、いたいたお姉ちゃん!」


いろはは学校から帰ってきて

すぐ私の家に寄ったのだろうか。

中学校の制服のままだった。

あまりの勢いにスカートが揺れる。

階段を駆け上がってきたせいで

肩で息をしながら、

いろはは口を開いた。


いろは「今日、録音しないと間に合わないって秋ちゃん言ってたよ!」


陽奈「…?」


いろは「もー、連絡見てないだろうなーと思って直接来てよかったよー。」


いろははぷりぷりしながら

私の机の隅に仕舞われた

古いパソコンを取り出した。


録音…?

何の話だろうと思い

ぼうっと座ったままで逡巡する。


録音。

思い当たるのは…。

思い当たるのは、

歌ってみたのための歌の録音や

雨鯨のみんなでやったラジオ。

…。

それに、さっきの連絡の一覧だってそう。

もしかして。

いや、そんなことがあるはずがない。

だって、私は…私たちはあの時

話し合って声明を出した。

18月の雨鯨を解散すると決めたのだ。

なのに。


いろは「…うんうん、よし、これでセッティングおっけー。」


いろはが何やら

色々と準備をしている間に、

はっとしてTwitterを開いた。

どういうことなのかいち早く

知らなければならない気がした。

震える手でボタンを押す。

ぱっとプロフィール欄が表示されてー。


陽奈「…っ!?」


そこには、18月の雨鯨…

紅の文字が確と書かれていた。

アイコンだっていろはが描いたもの

そのまんまだった。


…懐かしい。

そんな思いでプロフィールを眺める。


そうだ。

これが普通で、

これが日常だったっけ。

私の、私だけの少しばかり

変化の訪れた日常。


いろは「…って、もしかしてお姉ちゃん、体調悪い?」


陽奈「…?」


いろは「ひと言も喋ってないんだもん。最近風邪や熱が流行ってるって言うし、やっぱり早めに録音するに限るよー。」


陽奈「…。」


え、でも。

そう頭の中で返事をしてふと気づく。

私、声を失ってから

声を出すことを忘れてしまっていた。

声を出すと言う選択肢すら

元々もっていないのだ。

あの雨と一緒に

その選択肢を洗い流してしまった。


けれど、今のいろはの言い方だと

まるで私が声を失っているなんて

思ってもみない言い方じゃないか。

まるで…声があって

当然のような言い方じゃないか。


もしかして。

もしかして、雨鯨が存在し続けている

2023年の9月9日であれば。


私の知る世界線とは

全く異なった…

…否、あの不可思議な夢とは

異なっている今なのであれば。


いろは「ねえ、お姉ちゃん。」


いろはが二つ結びにした髪を

ふらりと揺らしてこっちを向いた。

名前も知らない鳥が鳴く。

確かさっきの夢の中では台風の

通過した直後で天気はあまり

よくなかったと記憶しているのに、

今ここでは気持ちのいい日差しが

窓から差し込んでいた。


いろは「歌おう!」


陽奈「…うん。」


掠れた声を小さく出した。


それから2人で歌の録音をした。

今回は私といろはの2人で

歌ってみたを投稿する予定だったらしい。

秋ちゃんのMIXの腕が

どんどん上がっているねなんて

嬉々として話しながら録音をした。

はじめ、歌うこと自体が

あまりに久しぶりで

歌声が上手く出るか不安だった。

しかし、この体はそうでもないらしい。

それよりか、これまでに

感じたことがないほど

声がよく出ていたのだ。


雨鯨は後3、4ヶ月で

2周年となる頃に迫っていた。

2時間ほどかけて録音したデータを

Googleドライブにしまいながら

カレンダーを目で追った。


そっか。

活動を始めてから

もうそんなに経っていたんだ。


いろは「そうだ。この後6時からみんなでラジオ撮ろうって言ってあったの覚えてる?」


陽奈「あ、ごめん…。」


いろは「そっかー。私が来てちょうどよかったね。」


陽奈「うん。タイミングばっちりだった。」


いろは「このままいようかな。ラジオ撮り終わったら帰るよー。」


陽奈「わかった。下に何かお菓子あったかな…。」


いろは「ママさんがねー、おはぎあるよーって言ってた。」


陽奈「本当!行こう!」


いろは「おはぎだけには目がないんだからー。」


いろははそう言いながら、

困ったように笑っていたっけ。

そういえばいろはの

こんな表情を見るのも

随分と久しぶりな感じがする。

これまで、夢の中では

いろはに気を遣ってばっかりだったから。


…。

夢の中で。

そう思えば思うほど、

本当にあの苦しい日々が、

雨の降る日々のことが

夢のように思えてきた。

それと同時に、この現実に

微々な違和感を

感じなくなっていった。


1階で一緒におはぎを頬張っては

最近の互いの近況を話す。

私は部活でこの前褒められたらしく、

成長率が1番よかったと

褒められた話をしたらしい。

確かに歌ってみたを撮った感じからして、

発生の基本ができており

滑舌も良くしようと

努力している跡が見えた。

自然と腹式呼吸をする感覚は

こういうものなのかと感嘆する。

歌うために筋トレも

していたんじゃないだろうか。


いろははと言うと、

1度描くのは辞めたと言って

美術部も辞めてしまったけれど、

今はTwitterでイラストを

再度投稿するようになったらしい。

前よりも作品作りに時間を

取られなくて良くなった分、

自分の創作にとことん時間をかけられると

きらきらした瞳で語った。

現に、スマホで絵を見せて

もらったのだが、

書き込み量はどんどん増えており、

今や背景までびっしりと

描くようになっていて驚いた。

美術部に対して見返してやるだとか

負の感情で動いているわけではなく、

純粋に創作を

楽しんでいるように見えたのだ。


けれど、そんないろはを見ていても

何故か全く嫉妬の感情か湧かない。

何故かとふと思ってみると、

自分がこれまで努力してきた形跡が

あるからだとはっとする。

私自身少し前の記憶がなくとも、

脳が、体が覚えているのだ。

私も私なりに努力をしていて

ここまで来ることができた。

だから、今では自分を卑下することもなく、

自分が下だと思うこともほぼない。

いろはは最高のライバルだ。


創作する中での

1番身近で、1番最高のライバル。


陽奈「ふふ。」


いろは「ん、なあに?」


陽奈「いろはってしっかりしてるなーって思って。」


いろは「そう?」


陽奈「そうだよ。だって今日の私へのリマインドだってそうだし、絵の描き方もそうだし。」


いろは「そっかぁ。雨鯨で活動するようになってからかな。」


陽奈「雨鯨で?」


いろは「うん。MVなんて1人で描いているだけじゃ創ろうと思ってもいなかっただろうし、MVだからこそこの構図にしたいとか、普段考えつかないようなものも思い浮かぶの。」


陽奈「…わかるなぁ。お互いにいい刺激を与えて、もらってるんだろうね。」


いろは「そうそう、そんな感じするー。」


陽奈「雨鯨を作ってくれた2人に感謝だね。」


いろは「じゃあ私は、後から参入してくれた2人に感謝だー。」


私よりも早くに

おはぎを口の中に放り込んで

そう言ったのだった。


お母さんも仕事の合間に来ては、

おはぎを少し摘んで行った。

その時に刺さるような視線はなく、

むしろ私のことを全面的に

受け入れているようなー。

…これまで、受け入れてもらってないと

感じていたわけではないけれど、

視線の奥の冷ややかな感情が

透けて伝わるようで怖かった。

けれど、そんな冷たい色が一切ない。

むしろ、最近頑張っている私のことを

微笑ましいと思っているよう。


お母さん「今日も歌ってたの?」


陽奈「うん。今日はいろはと一緒に。」


いろは「お姉ちゃん、どんどん上手くなっちゃうからやだぁー。」


陽奈「いろはだって絵、上手くなってるじゃん。」


お母さん「あっはは。頼もしいね、2人とも。」


お母さんは軽快に笑った。

それから、残ったおはぎは

いくつか持って帰ってと

いろはに伝えてはまた店番に戻る。

あんなに楽しそうに笑うお母さん、

久しぶりに見た。

私がまた遁走して、森の中で見つかった時。

あの時以来、お母さんにはさらに

心配をかけてしまったものだから、

最近は一種見張るような

目つきで見られているようにも

感じていたんだっけ。

…どうだっけ。

もう、あまり覚えていないや。


そしてあっという間に6時が、

18時がやってくる。

普段は休日のお昼に収録することが

多いのだけど、

今回は秋ちゃんがお昼に

バイトがあったらしく、

夜に行うことになっていた。


みんながわらわらと集まり、

自然の流れで談笑し出す。


秋『今日さー、まじ可愛い話があってさぁー。』


片時『何々ー?』


秋『幼稚園くらいの子がいて、その子家族連れでよくきてくれてるんだけど、今日一緒の髪型だったの。そしたら「お揃いー!」って言ってくれてー』


みんなの話を耳にしながら

時々相槌を入れるかのように笑う。

声に出して、少し大きく笑ってみる。

「楽しい」が伝播して、

幸せだなってぼんやりと感じる。


そうか。

これが幸せなんだ。

そうはっきりとした感触が

脳の中を生優しく撫でていった。


そしてラジオが始まる。

生放送ではないので

カットができると安心して

ただただ私たちが談笑するだけのもの。

その中でコーナーをいくつか設け、

30分の中でうんと

楽しんでもらえるような内容になっている。

その中のひとつに、

お便りをもらってその質問に

答えるというものがあった。


このコーナーばかりは毎回設けており、

今日もその時間がやってきたのだ。

はじめは夏の終わりに

関するものが多かった。

夏休みの思い出や、

来年の夏にやりたいことなど。

そしてラジオの収録は終盤へと差し掛かる。

最後の質問が秋ちゃんによって

読み上げられたのだった。


秋『ラジオネームすずたろーさんからです!「こんばんは!」』


いろは「こんばんはー。」


秋『「もう秋ですね。僕は先日、スタバの新商品であるさつまいものフレーバーを飲みました!」うわ、あれいいよね、マジで美味しいよね!』


陽奈「そんなにいいんだ?」


秋『あの芋って感じがたまらんのよ。「新商品と秋そのものに触れたようで、ものすごく幸せを感じました。」秋に触れるだって、いやんっ。』


片時『くはは、違うから違うから。』


秋『あら失礼。「そこでみなさんに質問です」と!どどんっ。』


いろは「どどん。」


秋『「みなさんにとって、幸せだなって思う時はいつですか?」とのことです!お便りありがとねー!』


秋ちゃんの軽快なトークが心地いい。

やっぱり進行役には

この人がぴったりだ。


秋『どうどう、幸せを感じる時!』


片時『まずは白から。』


いろは「私はねぇ、うーん…絵を描いてて、ふっと周りが見えなくなった時かな。」


隣に座るいろはが、

相変わらず脳天から

突き出るような声でそう言った。


陽奈「そうなんだ。周りが見えなくなった時?」


いろは「そう。正確には、周りが見えてなかったんだ今…ってハッとしたとき。」


秋『それが幸せの瞬間?詳しく聞かせてもらおうじゃないかー!』


いろは「えへへ、なんて言うか、好きなことに没頭できてる環境と時間と自分と…その全てが好きなんだよね。それに、創作物の中に入っていたような、あの潜ってるにも等しいあの感じが好きなの。」


片時『だから幸せを感じる、と。』


いろは「そう!」


陽奈「そういえばこの前、声をかけても反応しなかったときあったもんね。」


…ああ。

ないはずの記憶が

どんどんと引っ張り出されてゆく。

私、本当にそんなこと

経験したんだっけ。


いろは「嘘、あったっけー?」


秋『声をかけても反応しないって、アニメや映画の世界だけかと思ってた。』


陽奈「ふふ、ね。でも実際にあったんだよ。」


いろは「自分でもびっくりだよー。…じゃーあ、次は秋ちゃん!」


秋『ほいほい、うちね!』


片時『秋はいつでもハッピーそう。』


秋『あはは、そのとーり!でも1番幸せを感じるってなると…そうだねぇ。目の前の人が笑顔になってくれたら、それが1番かな!』


いろは「よ、流石芸人魂ー!」


秋『ちょいちょい、いじってんじゃないよー!』


片時『くはは。でも納得いく答えだね。』


陽奈「わかる。しっくりくるって言うか。」


秋『ほら、うちのバイトって娯楽施設での接客じゃん?まあ遊園地って言うんですけど。』


いろは「言っちゃうんだー。」


秋『ここピー音で!んで、老若男女目の当たりにするわけですよ。その人たちがね、楽しかったねって笑顔で帰ってくれる。もうこれ以上の幸せがどこにありますか!』


片時『秋らしくていいね。茉莉もそう思えたらなぁ。』


秋『そうかい?人によって幸せポイント違うんだし、こう思えなくっても素敵だよん?ってことで次はたっとーね。』


片時『茉莉かぁ…。』


いろは「思えば茉莉ちゃんのこう言う話が聞けるのって新鮮ー。」


陽奈「うん、うん。」


片時『え、そう?』


秋『そーだよ。質問者さん!すずたろーさん、ありがとうー!』


陽奈「あはは。」


いろは「オーバーリアクションすぎるってー。ノイキャンかかってるよー。ふふ。」


片時『くははっ。あー、茉莉はねえ…意外に思われるかもしれないけど、雪景色見てる時かも。』


秋『雪景色?こりゃまた新たな一面で!』


いろは「これまで住んできた場所の中に雪国があったの?」


片時『まあそんな感じ。なんかね、落ち着くんだ。ほっこりする。』


秋『あー、ちょっとわかるかも!冬、雪、それから温泉!くぅー、たまらんのよ!はー楽しみ!』


陽奈「あはは、まだ9月だよ、気が早いよ。」


秋『ええー?でも案外あっちゅーまよ?』


いろは「確かにもう9月だもんね。」


秋『てかさ、みんなで旅行行かない?今年の年末年始でさ。』


片時『いいね。秋の顔初めて拝めるんだ。楽しみ。』


秋『いやいやいや、それ以上に楽しめるもんがあるってもんよ!』


いろは「ううー、私受験生だー…。」


陽奈「私たち年齢的に、誰か1人は受験生になっちゃうんだよね…。」


秋『ま、うちは留年したから受験は1年後なんだよなぁー。れーなも留年、どう?』


片時『こーら、不真面目な道に誘わないー。』


秋『てへぺろ。』


いろは「じゃあ最後、お姉ちゃんの幸せは?」


笑い合う中、いろはにそう言われて

思わず考え込んでしまう。


陽奈「うーん。」


それから先の言葉が出てこない。

今まで楽しくて

笑ってばかりだったのに、

急にうんと考えを巡らせていた。


幸せ。

そっか、幸せってなんだろう。

お金があればあるほど

幸せかと言われたらきっと違う。

税金がかかってくるとか

そういう夢のない話を抜きにしても、

大金持ちになりたいと言う

欲求があるわけじゃない、と思う。

暮らせる程度にあれば。

そう思い続けている節はあった。


それから次に浮かぶのは歌。

そう、歌だ。

歌っていたい。

そう何度強く思っただろう。

このまま雨鯨がどんどん有名になって

この先も一緒に活動できたら。

それは間違いなく幸せだろう。


いろはから話を聞いても、

この体に残った記憶を

ふと思い返してみてもそうだが、

信頼できる人がいるのはいいことだ。

部活では仲のいい人がいて、

時に愚痴を言い合い、

時に批評をし合い、

時に歌いあった。

音楽で心が繋がってゆく感覚が

確と刻み込まれている。

それ以上ないほど幸せだ。


クラスでも気兼ねなく話せる子がいて、

今でも一緒にお昼を食べている。

ドラマがどうとか、

ネットがどうとか話し合って、

けたけたと笑う。


家でも、起こったことをそのまま話しても

怪訝そうな顔をされない。

私自身が努力しているのを

私も家族も知っているから、

いつだって私を励ますような、

背中を押してくれるような言葉を

かけてくれる。


経済的にも人間関係にも、

不自由のないこの暮らしが

1番の幸せなんじゃないのかな。

今の自分の行動に自信があって

ある程度満足しつつも

もっと上を目指そうとしている。

この先の未来に希望がある。

こうなりたいなという未来がある。

それは実現不可能に

見えるかもしれないけれど、

自然と私たちなら

やれると言う根拠の薄い

自信だってあった。


過去にも、今にも、未来にも

満足している今がきっとー。


陽奈「……今この瞬間、雨鯨で集まれてることかな。みんなと一緒に活動できて、雨鯨で歌えてることが1番の幸せ。」


秋『なあになになに、嬉しいこと言っちゃってぇ!』


いろは「お姉ちゃん、そう思ってくれてたんだあー。これからも一緒に頑張ろうね。」


片時『くはは。これからもよろしくね。』


陽奈「うん!」


和やかな雰囲気。

ああ。

幸せだな。

何度噛み締めただろう。

何度思っただろう。

何度。

…あと何度味わえるだろう。


何度。

…何度、あったのだろう。


もうそろそろラジオも

終わると言う頃。

既に秋ちゃんを先頭に

今回の総括が行われ始めていた。


秋『ーー…ってところが面白かったよね。』


片時『わかる。で、最後の質問。幸せの瞬間。』


いろは「これよかったね。みんなの新たな一面が見れたよー。』


秋『わかる!またこういう価値観に触れる系の質問取り扱いたいねえ。』


片時『あ、そこで思ったんだけどさ。』


秋『お、なんだい?』


片時『長くなるかもだから、カットしてもらって全然いいんだけど。もしもみんなが思っている幸せの瞬間になったとするじゃん?』


いろは「うん。」


片時『んで、何故かその幸せの瞬間、幸せの最高潮がずっと続く。違和感があったとしても、ずっと幸せ。』


陽奈「…うん。」


片時『その幸せの渦中にいるそれが夢だったら、夢から抜けだそうって思う?』


陽奈「…!」


秋『うーん、現実によるなぁ。』


いろは「確かに。辛いことだらけで逃げたいーってなってたら迷わず夢で暮らすだろうな。」


片時『現実は、楽しいこともあったけど辛いことも結構浮かぶよなーってくらい。半々だとして。』


秋『うんわ、それ1番迷う。』


みんながあれこれ言う中、

私は1人押し黙ってしまった。


茉莉ちゃんの今の例え話が

たまたま口から出されたものだと

どうしても思うことができなかった。

まるで仕組まれていたかのように

その話をするじゃないか。


…。

うん、わかってる。

わかってるよ。

わかってたよ。

茉莉ちゃんからこの話が出されずとも、

理解しているつもりだったよ。


これは、夢だ。

幸せな夢。


だって、私は。

本当の私は声が出せないのだから。

声を失っているのだから。

声を出す選択肢を忘れるくらいに

声を使っていないのだから。


声は消えたのだから。

声を忘れたのだから。


もう歌えないのだから。


陽奈「…。」


いろは「ねー、難しい。…って、お姉ちゃんどしたの?」


陽奈「ううん、ちょっと考え事。」


片時『茉莉だったらどうするだろうってずっと考えてたんだ。』


秋『うちとろぴは戻らないって選択にしたけど、2人は?』


片時『…正直、茉莉も夢の中に留まると思う。』


陽奈「…。」


片時『でもね、そんなかたわら思うんだ。辛い現実に立ち向かう人ってかっこいいなって。』


まだ録音が回ったままの画面が

視界の隅でちらついた。

30分のラジオのはずが、

とうに1時間を超えていた。


片時『自分はその手段取れないのに、ずるいよね。…いや、そうできないからこそかっこいいって思うのかな。』


秋『たすかにー。』


いろは「あはは、今かにさんいたねー。」


秋『かにかにー。』


ふざけているのをよそに

私はまだ考え続けていた。


きっと、これは答えを求められている。

答えを出さなければならないんだ。

ここで言わなければ、

私はずっと夢と現実の間で

宙ぶらりんになるような気がしている。


選ばなければならない。

選ぶって、どうすれば。


だって、現実に戻ったら

もちろんのこと雨鯨はない。

茉莉ちゃんの記憶はなく、

いろはは創作意欲を失って

絵も昔ほどは描かなくなっている。

部活はやめて、

北村さんとはほぼ和解したものの

居場所かと言われると違う。

ずっと自分の能力の無さにばかり

目がいってしまって、

その割に努力できない自分が嫌だった。

学校での友達関係は薄い。

一緒にお昼を食べていた子と

前ほど一緒にいなくなった。

古夏ちゃんと過ごす時間は

心地いいなと思うけど、

これまでの場所に執着が

ないかと問われればまた違う。


戻れるのなら戻りたい。

これまでの場所に戻りたい。

普通と呼ばれる生活を送りたい。


親からの視線だって

少し冷ややかで、

けれど娘だからと表面上は

暖かくしてくれる、

あのあべこべな目が浮かぶ。

心配しているけれど畏怖している。

あの複雑に入り混じった感情が

直に流れ込んでくる。


そしてなんといっても

声を出すことができない。

歌を歌うことができない。

大好きな歌を、諦めるということだ。

もしかしたら歌手になるかもだとか、

歌で人に勇気を与えられるかもだとか

そういった淡い夢は

一切叶えられなくなる。

可能性はなくなる。

0になる。


歌えない。

1番の幸せを放棄してまで

戻ることができようか。


…。

もし、戻らなかったら。

私は消えてしまうのだろうか。

それとも別の誰かになるのかな。

茉莉ちゃんのように。

吉永さんのように。


…そしたら。





°°°°°





こころ「もしも、僕の心が折れそうになってたら…見つけだしてくれないかな。」





°°°°°





そしたら誰が

こころちゃんのことを

見つけてくれるのだろう。


私じゃなくても、

茉莉ちゃんや澪ちゃんが

見つけ出すんだろうなと思う。


でも。

いくら現実での環境が苦しくて、

自分に情けなさを感じても。





°°°°°





陽奈『もしもう無理だなって思ったら、私が助けに行くから。』





°°°°°





…自分の言ったことに

責任を持てるようにはなりたいな。


それが今の私にできる

第1歩だろうから。


…。

…。

…ああ。

…ぁ……。

幸せを自ら手放すって

こんなにも苦しいことなんだ。


幸せを手放して、

帰るのは息をするだけでも

苦しくなるような現実。


それでも。

待ってる人がいなくても、

私はなりたい私になるために。

少しだけ自信を持つために。





°°°°°





美月「自分で決めることかしら。」


陽奈「自分で…。」


美月「そう。後悔があっても成功しても、自分の選んだこと、そしてその先の道に誇りを持つの。誰が何と言おうと、自分だけでもいいから納得すること。」


陽奈「…。」


美月「そうすれば、きっと自然のうちに自信はついてくるわよ。」





°°°°°





だから。


片時『紅はどっち?』


陽奈「私はー」


だから、選ぶの。

これは私が選んだ。


…選んだ。


陽奈「帰るよ。」





***





ふと風が吹き、

何事かと思えば

目の前には自然が広がっていた。


辺りを見回すと、どうやら

ブランコに座って目を閉じていたらしい。


陽奈「…。」


ほ、と息を吐いた瞬間に確信する。

次に、声を出そうと息を吐く。


陽奈「…ー。」


…かひゅう、と空気の漏れる音が

静かな緑に浸透した。


その途端、ずしんと抱えきれないほどの

絶望感と寂寥が襲ってきた。

手が小刻みに震える。

目頭がじいんと熱を帯び、熱くなった。


…現実だ。

これが紛れもない。

現実でしかないのだ。


手を組む。

自然と祈るように背を丸めた。


陽奈「………ーーーーー…。」


幸せだったなぁ…。

そう呟いた。


誰もいない空間で、

小さく鳥の鳴く声が

響いていたような気がする。


ひとしきり涙を流した後、

眼鏡を掛け直してから

ふと顔上げた。

相変わらずブランコがあるだけで、

その間誰かがここに

戻ってくることもなかった。

みんなは今頃どこにいるのだろう。

扉の先が私の時と同じであれば、

みんなも幸せな夢を

見ているということになる。


茉莉ちゃんやこころちゃん、

澪ちゃんはあの夢から

出ることを選べたのだろうか。

それとも、まだあの夢の中に

いるのだろうか。


陽奈「…。」


ううん。

考えていたって仕方ない。

まずは動かなきゃ、何も変わらない。


気合を入れて、その場を立つ。

そして、私が夢から出る

きっかけとなった

こころちゃんの言葉を思い出す。


陽奈「…。」


もしまだ出れていないのであれば

見つけなきゃ。

そこから先はきっと

こころちゃん次第だから。


そう思い、こころちゃんの

消えていった扉の前に立つ。

そして少しばかり力を込めて、

静かにその扉を開いた。


ふと金木犀のような香りが

風に乗って満たされていく。

秋の香りだ、と

直感したのだった。





***





風を感じてから

いつの間にか目を閉じていることに気づく。

ゆっくり瞼を開くと、

長い廊下にいくつもの扉。

どうやらそこは学校のようだった。

しかし見たことのない

造りをしているあたり、

私の通う横浜東雲女学院ではなさそうだった。

辺りを見回しても

そもそも人の気配がしない。


…かと思えばそこはもう放課後で、

日も落ちる頃となっているらしい。

よくよく耳を澄ましてみれば、

遠くから運動部の声や

吹奏楽部の楽器の音が響いてくる。


さっきまで音という音を

拾うことなどできなかったのに、

段々と耳が機能を

思い出してきたかのように

音を拾うようになっていく。

耳が機能し出したのか、

音が生まれ始めたのか定かではないが、

そこには人の生きている音で

溢れかえり始めていた。


ぐるりと見回すと、

真後ろには灰色の扉が

あの空間から飛び出してきたように

廊下のど真ん中にあった。

私自身の夢の時はなかったのに、

なんて思いながら長く続く

廊下の先へと体を向けた。


たん。

1歩踏み出す。

すると、近くにあった窓に

私の姿がふと映った。


陽奈「…。」


私はいつものセーラー服ではなく、

ブレザータイプの制服を

身に纏っていた。

ブレザーは中学生の頃着ていた以来で

なんだか懐かしく感じる。

ただ、リボンからネクタイに

変化しただけだというのに

随分と大人になったように見えた。

そして、その時まで一切

目の向かなかったほうに視線が行く。


私はどうやら鞄を持っていたらしい。

肩にかかった鞄には

教科書などいろいろと入っているようで、

それなりの重量があることに気がついた。

その瞬間、急に重力が仕事を

し出したように思えて、

体力が削がれるばかり。


こころちゃんはどこにいるんだろう。

そう思い、校舎内をふらふらと

迷子のように散策する。

誰もいない教室に入ってみては

外を見下ろすと、

私の通う女子高では見られないような、

男子のみで組まれた野球チームが

必死にボールを追いかけていた。

たまたま廊下をかけ行く男子は

奇声を上げており、

女子高では見られない光景の

数々にむしろ感動を覚えた。

ついこの間まで中学生で、

その時は共学だったのだから

そんな遠い話ではないはずなのに。

不思議に思いながらも

また廊下にひとつ

足音を鳴らした。


こころちゃんの姿が見当たらず、

1度引き返した方がいいのだろうか。

放課後のようだし、

もしかしたら既に家に

帰ってしまったのかもしれない。

そう思った瞬間だった。


遠くから笑い声が聞こえた。

生徒複数人のもののようで、

これまで聞こえてきたどの音よりも

鮮明に聞こえた。

あ、これだと直感している自分がいる。


嬉しい反面恐る恐る

足を踏み出すと、

ひとつの教室が目に入る。


隠れるようにして

教室内を除くと、

そこには女子生徒が2人と

こころちゃんがいたのだ。

女子生徒はこころちゃんに似て

賑やかそうな人たちだった。

見慣れない人のうち片方は

見た目も派手で声も大きい。

もう片方は静かそうで、

けれど私みたいな人というわけではなく、

誰ともあまり関わらないような

孤高の狼のような存在感がある人だった。


こころちゃんと派手な人が嬉々として話し、

落ち着いている人が

呆れるように小さく笑う。

テレビの話や芸能人の話、

それからコスメやファッションの話など

幅広く楽しそうに話していた。


何分経ったのだろう。

そう思い時計を見ようと体を乗り出す。

すると、時間は全く

進んでいないように思えた。

じっと眺めていると、

秒針だけがぐるぐると回り続けてる

状態になっていた。

私の夢とも違い、

いよいよおかしさのあまり

恐怖を抱き始めた時だった。


「ん、あの子誰、知り合い?」


派手な人の方だろう、

そう声を上げたのだ。

ぎょっとして顔を上げる。

時計を見ようとしすぎるあまり、

体を乗り出しすぎたようだった。

…にしても、こころちゃんを

取り戻すために来たというのに

何故隠れていたのだろう。

情けない。

助けるって、見つけるって

決めたのだから。


扉に半身を隠すのをやめ、

背筋を伸ばしてそこに立った。


刹那、こちらを振り向いた

こころちゃんの瞳は

大きく見開かれていった。

あ。

覚えているんだ。

そう口にしかけて閉じる。

…声が出せたあの喜びが

まだ残っているのだろう。

声を出そうとする自分がいた。


こころ「あー…僕の友達!ちょっと待ってて。」


「おけ。ごゆっくりー。」


こころ「遅くなるかもだから、そん時は帰っててねー。」


「はーい。」


派手な人は人当たりがいいのだろう、

緩やかに大きく手を振って

そう送り出してくれた。

ぱち、と目が合ってしまい会釈をする。

こころちゃんと退室したはいいが、

遠くから「ちっちゃくて可愛かったねー」

なんて話す声がまだ聞こえてきた。


…こころちゃんはというと、

私と目を合わせることなく

「こっち」とひと言だけ言った。

何故そんな後ろめたそうにするのだろう。

何故、避けるように…

…仕方なく対応するかのように……。


…でも、理解できないわけじゃない。

わかるのだ。

わかってしまうのだ。

私も経験した身だから、

理解したくなくても

理解してしまうしかないのだ。


幸せな夢を邪魔されて

まず初めに出る感情は不快感だ。

夢に限らず、今いいところだったのにと

いうところで止められることが

これまでに何度かあった。

その時は決まってまず

不快感であったり、

何故私が、何故今、という

不条理感を感じてしまう。


校舎の隅の方の教室は

主に使われているわけではなく、

むしろ物置のようになっていた。

教室に入らず、突き当たりを曲がると

短い廊下があり、両サイドに

2、3つだけ扉があった。

その曲がった先の突き当たりには

大きな窓が設置してある。


思わず息を呑む。

そこからは夕陽がこれでもかと

思うほど照り付けていた。

床を焼くように、

その先へ進もうとする

こころちゃんを焦がすように。


こころちゃんは突き当たりまで進み、

窓の手前に設置された

手すりにもたれかかるようにして

こちらをゆっくりと見た。

少しだけ着崩した制服。

胸元に飾られたリボン。

綺麗にカールした前髪。

整って上を向くまつげ。

見た目だけで言ってしまえば

彼女は既に欲しいものを

手にしているように見える。


こころ「…えっと、何から話せばいいかな。」


陽奈「…。」


こころ「陽奈ってこの学校にいたっけ?違うよね?」


陽奈「…。」


首を振る。

すると、納得いったように

小さく息を吐いた。


こころ「だよね…陽奈はさ、もう経験したの?こういう感じのところ。」


陽奈「…。」


頷くと同時に、

こころちゃんは次の言葉を口にした。


こころ「じゃあ………っ。」


陽奈「…。」


こころ「じゃあ、捨てたの?」


陽奈「…。」


捨てたの。

何をと言わずともわかっていた。

こころちゃんはそれを

信じられないと言ったような目で

こちらを見ていた。

…。

そう、だよね。

自分でも惜しいことを

したんじゃないのかなって

今もう思ってるくらいだから。


こころ「ここってさ、夢…なんだよね。」


陽奈「…。」


こころ「…うん…それはわかるんだよ。こう、自分が1番望んでた夢なんだよね。」


陽奈「…。」


こころ「はぁー…なんで…。」


そのため息は疲れだとか

呆れだとかだけじゃなかった。

どうして。

悔恨のような言葉を残して

しばらく無音が響いた。


きっと自分で言ったことを

悔いていて、

私がきてしまったことにも

後悔しているのだろう。


全ては自分が選んだ道であることに

思わず言葉を失ってしまったのだろう。


こころ「…なんで…あんなこと言っちゃったんだろー…。」


陽奈「…。」


こころ「舞い上がってたのかな。みんなに優しいこと言われて、もしかしたらって。」


陽奈「…。」


こころ「あ、でも聞いて。みんなのことが嫌いなわけじゃなくて…本当に…。」


陽奈「…。」


こころ「…って言っても、信じてもらえないか。」


陽奈「…。」


こころ「…ごめん、ちょっと混乱してて。」


陽奈「…。」


こころ「…。」


陽奈「…。」


こころ「陽奈はさ、どんな幸せな夢だったの。」


陽奈『雨鯨のみんなと活動してた。』


こころ「…そっか。…歌った…よね。」


陽奈『歌った。幸せだった。』


こころ「…っ……じゃあなんで出てきちゃったの。」


陽奈『強くなりたかったから。』


こころ「…あはは…何それー…。」


陽奈『出る時に真っ先に浮かんだの、こころちゃんの言葉だったよ。』


こころ「…っ!じゃあ、じゃあ僕が陽奈の幸せを奪ったってことじゃんか…っ!」


陽奈『違う。』


こころ「違わないよ。だってわかるもん。この世界、本当に幸せなんだよ。友人関係もバイト先での関係も、みんなみんな全部いいの。理想通りなの。」


彼女の言葉の中に

親に対しての言及がないあたり、

その点ではあまり

悩んでいなかったのかと不意に思う。


こころ「全部……僕のことを受け入れてくれて、なんだか違う生物、みたいに扱わなくって。」


それが当たり前みたいに、と

ひと言か細く付け加えていた。


酷く心当たりがあって

心臓を摘まれたような苦しさが襲う。


そう。

当たり前のように接してくれるのだ。

私の場合、そもそも

心の病気がなくなってほしいと

願っていたからか、

親かも友人からも

ある種別だという目を

向けられなかった。

しかし、例えばの話

病気があったとしても

受け入れて欲しいと願っていたら。

心の底から受け入れて、

それでもなお普通のように

扱ってもらえるのだとしたら。

そちらの方を願っていたとしても

幸せだと感じるだろう。


こころ「あのね…変な話かもしれないんだけどさ。…知らない記憶がたくさんあるんだよ。」


陽奈「…。」


わかる。


こころ「こう、僕がどれくらいの自己肯定感を持って生きてきてるかーとか、どのくらい友達と過ごして信頼感を築いているかーだとか。」


陽奈「…。」


わかるよ。


こころ「んでね、僕がそこから抜け出すってことは…その信頼関係を全て打ち切るってことになっちゃうんだよ。」


陽奈「…。」


わかってしまうの。


こころ「僕にとってさっき一緒にいた2人って…こう、本当に大切な友達なんだ。」


陽奈「…。」


…わかるけど。

でも、駄目だよ。

…いや、駄目なんて強い言葉で

押し切れるはずもない。

けれど。

…このままじゃ、嫌だ。

その言葉だけが脳内を

右往左往しているだけ。

陽は沈むことなく、

むしろ光の強さは更に

強くなっているのではないかと思うほど

辺りは赤く輝いていた。


こころ「そんな…僕なんかのことを受け入れて仲良くしてくれた2人を…裏切りたくない。」


陽奈『…そしたら吉永さんはどうなるの。』


こころ「…っ!」


辛うじて記憶の隅にあったものを

引っ張りだしてくる。

こころちゃんは吉永さんと

仲が良かったはずだ。

吉永さんの記憶が

なくなって以来どうなったのか

全然わからないけれど、

そこに信頼関係があったのは確かだ。

だって目の前で茉莉ちゃんが

記憶を無くした時、

真っ先に電話をして

確認していたんだから。

それくらい大切な人のはずだから。


こころちゃんは目を見開いたまま

浅く浅く呼吸をしていた。

その吐息の音はとてつもなく

小さいはずなのに、

耳元で囁かれているのではと

錯覚してしまうほどに

大きく聞こえてくるのだった。


こころ「…でも……。…ほら、もう…記憶はないんだから。」


悲しそうに笑いながら、

つっかえながら呟いた。

本当にこのままでいいと

言い聞かせるような声に

思わず喉がきゅっ、と詰まる。


こころ「…だって、バイト先でも…寧々さんと会うし、これまで通り話してて…。昔ほど密な関係じゃないけど…。」


陽奈「…。」


こころ「でも、欲しいものが揃ってるんだよ。…寧々さんも、もうあっちの世界で…現実で幸せに生きていけるよ。」


陽奈「…。」


こころ「もうね、親御さんに嫌なことされてないっぽいんだ。Twitterを見てる限り、全くそんなそぶりないの…。」


陽奈「…。」


こころ「…ううん、やっぱり僕は戻るわけにはいかないよ。」


陽奈『ここが幸せだから?』


こころ「それもそうだけど…やっぱり僕、償わなくちゃ駄目な気がするんだ。…って言っても、言い訳かな…。」


陽奈「…っ。」


こころ「だって僕、寧々さんのお兄さんを消しちゃったんだもん…。」


今度は私が目を見開く番だった。

こころちゃんが、

吉永さんのお兄さんを…消した?

いや、そんなはずがない。

…あったとしても、

こころちゃんに悪意があって

行ったことじゃないに決まってる。

だってこんなに優しいんだから。

だから、違う。

こころちゃんはいらない責任まで

背負っているだけだ。


…絶対にそうだ。

そうだよ。

私たち、自分の手に

負えないことに対してまで

悲観的になりすぎたんだよ。

無理なことは無理だったって、

時間をかけてもいい、

開き直るしかないんだよ。

それが側から見たらどれだけ

滑稽なものだとしても、

それが私たちに必要なのであればするべきだ。


それがきっと前を向くって

ことなのだろうと思うから。


けれど、こころちゃんは

俯いて首を振った。


こころ「ここまで来て、見つけてもらったのにごめん。」


陽奈「…。」


こころ「いろいろしてもらったのに、迷惑を散々かけるだけかけて、逃げるようなことをしてごめん。」


陽奈「…。」


こころ「…僕は残るよ。だから、陽奈は帰って。」


陽奈『やだ。』


早く、早く書かなきゃ。

そう思うほどに指がもつれる。

スマホには拙い文字が

つぶらな瞳のように浮かんでいた。


こころ「もう構わないで。」


陽奈「…。」


こころ「お願い。」


陽奈『できない。』


こころ「僕、陽奈と喧嘩したくないよ。」


陽奈「…。」


こころ「何がそんなに…自分でも酷いこと言うなぁって思うけど…僕たち、そんなに深く関わってないじゃん。」


陽奈「…。」


こころ「あはは…やだなぁ、そんな真剣な目で見ないでよ。」


陽奈「…。」


こころ「あーあ…夢でもこんなに苦いなんて聞いてないよー…。」


陽奈『帰ろう。』


こころ「………。」


こころちゃんが再度首を横に

振ろうとした時だった。

段々と近くなる声か

ふたつあることに気づいた。

こころちゃんははっとして

声の方へと駆け寄った。

長い廊下の突き当たりの部分まで

走って向かっては

「2人とも待って!」と

大声で叫んだ。


「あ、こころじゃん。」


「こんな隅っこで何してんの?」


その声が聞こえたかと思えば、

先ほどこころちゃんと

話していた2人の姿が見えた。

こちらの方をちらと覗いている。


「あ、さっきの子だ。やっほー。」


「迷惑がってるって。」


「うそ、ごめーん。」


「教室空いてるんだから、そっちで話せば良かったのに。」


こころ「あー…もう終わったから大丈夫!」


「そうなの?」


陽奈「…。」


違う。

そう言い出せなくて

咄嗟に1歩だけ踏み出した。

このままじゃ帰ってしまう。

無意識のうちに、

鞄を開いてスマホを中にしまった。

すぐに駆けつけて

腕を引っ張れるようにと

準備している自分がいた。


こころ「うん。だからちょーど良かった。帰ろ帰ろ。」


こころちゃんは笑った。

けれど、さっき私が教室を

覗いた時とはまた違った笑みだった。

なんだか気まずそうに、

後ろ髪を引かれるような顔をしていたのだ。


こころ「…ごめんね。」


…。

本当に幸せなだけだったら

そんな顔しないよ。

何か思い残していることがあるんでしょ。

吉永さんのことが

気がかりで仕方がないんでしょ。

なら。


陽奈「…。」


戻ろうよ。

現実に。


そのまま腕を引いても

周囲の人たちの圧に

気おされてしまうような気がして

踏みとどまってしまう。


そうだ。

なら、現実に無理矢理にでも

戻らざるを得ない理由を作ればいい。


私はこころちゃんに背を向けた。

そして次の瞬間ー。


ぱりぃんっ………。


清々しいほどの音が

耳を劈いてゆく。

背中にあった大きな窓へと、

ありったけの力を込めて

鞄を放り投げたのだ。

チャックが開きっぱなしだったようで

ペンケースが飛び出した。

教科書が入れっぱなしで

重かった理由も、

もしかしたらこんなところに

あったのかもしれない。

夢だって、現実に戻る

手助けをしているようにしか見えなかった。


ガラスの破片が宙を舞う。

幸い多くは外に向かって崩れて行き、

下で騒ぐような声は聞こていない。

僅かな欠片が足元に転がったが、

顔や胴体周辺に飛んでくることはなく、

なんと都合のいいことだろう、

怪我のないまま突っ立っていた。


こころ「陽奈っ!?」


「…ちょちょ、何してんの!?」


「危ない、近づいたらー」


彼女の友達が一斉に声を上げていても

こころちゃんは迷うことなく

こちらへと走り寄ってきた。

たった数メートルのはずなのに

肩で息をしている。

あまりの衝撃に前髪を

気にする余裕もないようで。


こころ「…何…何してんの!危ないじゃん!」


陽奈「…!」


私の耳には彼女の声は届かなかった。

伝える術がないことに困惑する。

スマホはさっき投げた鞄の中だ。


刹那、はっとして光り輝く床から

ペンケースを拾い上げた。

ふとマジックペンを見つけて

ほぼ反射ながら手に取る。


こころ「ねえ、聞いて!僕は陽奈を傷つけたいわけじゃないの…!だから、だから陽奈も帰ってよ!」


陽奈「…っ。」


うるさいって、わからずやって

友達相手に初めて思ってしまった。

自分がこんなにも頑固だなんて

知らなかった。

何の意地でここまでしているのだろう。


奥では「やばい、やばい」と

2人が後退りしているのが見えた。

そしてそのまま姿を

消してしまった。

きっと先生にでも伝えに行ったのだろう。


マジックペンのキャップを取り

そこらに投げ捨てる。

そして近くの壁に

齧りつくように文字を書いた。


陽奈『これまで辛かったこと、しんどかったことたくさんあったと思う。不幸を比べたってどうにもならないけど、私にもあった。だからわかる。』


こころ「待って、やめてよ。ここ校舎だよ?陽奈、怒られちゃうよ…?」


陽奈『でもそれ以上に幸せだって思った時もあったはず。』


こころ「…そうかもしれないけど、僕のことなんて全然知らないじゃん。」


陽奈『私のこと気にかけてくれた。今日みんなで集まる時もそう、バスを待ってる時も、移動してる時も。はいかいいえで答えられることばかり聞いてくれて、嬉しかった。』


こころ「…それは話したかったし、当たり前っていうか…。」


陽奈『当たり前じゃない。遊びに行こうって誘ってくれて嬉しかった。春の時だってそう。一緒に話そって、会おうって言ってくれて嬉しかった。』


こころ「…。」


陽奈『私、こころちゃんからこんなに幸せをもらってる。』


文字を書くと書くほど

どんどん斜め右上りになり、

文字自体が走り書きになっていく。

時々読めないくらいに

絡まった文字が生まれた。

それでも書いた。

書いた、書いた、書き続けた。

左から右に、

上から下へ。

腕がちぎれそうになりながらも

必死に書き続けた。

膝を突きかけて、

床にはガラスが

散らばっていたことを思い出す。

咄嗟に反対側の壁に移動する。

また、書く書く。

先生が黒板に書く時、

こんなに大変なんだなんて

別のことを考えだしてしまう始末だった。


陽奈『私ができるかわからないけど、今度は私が返したい。』


遠くから賑やかな声が

近づいているのがわかった。

もう時間がないのだろう。


先生を引き連れて

先ほどの2人が戻ってくるだろうことが

容易に想像できた。


陽奈『帰ろうよ。みんなで帰りたい。辛くても、それ以上に楽しいことたくさんしよう。冬は雪合戦して、来年は花火大会見に行こう。それから』


こころ「もう…もういいよ。」


陽奈「…。」


一瞬手を止める。

それから思い出したかのように

最後の1行書き加えた。


『みんなこころちゃんのこと大好きだよ。』


帰ろう、と念押ししたかったけれど、

そこまで書いて手を止めた。

ペンが自然と手から溢れ落ちてゆく。

からんとガラスと衝突して

乾いた音が鳴った。


こころ「……もう…わかったよぉ…。」


陽奈「…。」


こころ「…………はぁ…なんだか、今…どんな感情なのかわかんないや…。」


陽奈「…。」


こころちゃんは俯いて

両手で顔を覆っていた。

そのまま流れるようにしゃがんで

隣で小さくうずくまってしまった。

どうすればいいかわからず、

咄嗟に背中に手を当てる。

華奢と言うべきだろうか、

骨の感触が手をなぞった。


こころ「………ありがとう…。」


陽奈「…。」


こころ「……陽奈は先に戻っててよ。」


陽奈「…。」


こころ「…さっきの2人に挨拶してから…戻るよ。」


陽奈「…。」


こころ「安心して。ちゃんと帰るから。」


陽奈「…。」


こころ「だから…また後でね。」


こころちゃんは最後、

両手を少しだけ浮かせて

こちらへと顔を向けてくれた。

鼻や頬を赤くしながら

困ったように笑う彼女には、

もう疑問を抱くことはなかった。

大丈夫。

そう安心して、けれどもう数回

背を撫でてから1歩後ずさる。


「あ、あの子です!あれです!」


この声が聞こえたと同時に

今できる限り、全力で

人をかき分けて廊下を走った。

何人もいたにも関わらず

突進するかのように走る私を

誰1人として止めなかった。

止められなかった。


無彩色の扉があるところまで

辿り着く頃には、

肩どころか全身で息をしていた。

喉の奥がこんこんと冷えており、

反して体は燃えるような

暑さをはらんでいた。


ふと、なぜだろう。

振り返った。

誰も私を追わない中、

陽の日差しの赤色だけが

足元にまで近づいていた。

そこから逃げるように

扉のドアノブを握りしめる。


大丈夫。

こころちゃんは帰ってくる。

戻ってくる。


小さな秋の風が吹くと同時に、

ブランコのあるあの空間に

戻ってきているのだった。


茉莉ちゃんも澪ちゃんの姿もない。

また1人。

1人だ。


それを噛み締めることしかできなかった。

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