3.【雨天につき徐行】
「雨」
庄司
屋根のないベランダは雨粒によって暗く塗りつぶされている。
ボリボリと頭をかき、寝ぼけまなこのままデスク上の時計に目をやった。デジタル時計は九時半を告げている。
次いでスマホを開くと、友人たちからの通知が溜まっていた。一番上に表示されていた友人とのトーク画面を開き、『寝坊?』というメッセージに『寝坊』と返す。既読のつかないトーク画面に『今日休むわ』と打ち込もうとして──、
「……」
頭をよぎったのは、とある女子生徒の顔。
ここ数日、庄司の脳内から去ることのない女子の存在だった。
彼女の名前が
高校一年生の年、クラスメイトからいじめを受け不登校となるも、雨の降る日だけは自らの足で何度も登校を試みていた、消極的で頑張り屋の同級生。それが庄司の中での花坂の印象だった。あれ以来雨が降らないので、二度目のエンカウントは叶ってはいなかった。
もしかしたら、と庄司の心が囁く。
「……三時間目始まるくらいに到着すればいいか」
『遅刻してく』と送信し、リビングへと足を向けた。
-----------------
庄司は寝坊も遅刻もそう滅多にしない人間だったので、静まり返ったと言っても過言ではない通学路に驚きを覚えた。
「遅刻、悪くないかも……」
よくない考えが口をついて出たが、それを咎めたりツッコんだりする人間もいない。雨が地面を打つ環境音に、時折車が走り去る音が混じる。
なんとはなしに嘆息を漏らした矢先、白い傘が角を曲がって現れた。庄司にとって見慣れた、そして久々に見る傘だ。
背丈のわりにゆったりと歩む背中に、そのプリーツスカートの揺れに、庄司は数秒迷って、結局声をかけることにした。
「おはよ、ハナサカ」
「!」
控え目に回転した傘の下から、あの至極大人しそうな面立ちの女子が現れる。紛れもなく花坂千歌、本人であった。
目を丸く見開き、「この間の……」と口の中で呟いている。庄司はその隙に、極めて自然に花坂の隣に滑り込んだ。
「もう降らないと思ったけど、わりとすぐに雨降ったな。やっぱりスマホの天気予報ってアテにならねえわ」
「そうですね。それより、なんで、こんな時間に?」
「寝坊した。起きたときはそのまま休もうと思ってたんだけど、遅刻も案外悪くないな」
両肩をぐ、と持ち上げてから、雨の日特有の空気を肺いっぱいに吸い込み、すとんと一気に脱力する。
「人も少ないし、時間もたいして気にしなくていいし。雨だと、更に静かな気がする」
「……そうですか」
「うん。雨って、なんか落ち着くしな」
「私も、そう思います」
日焼けを知らなそうな頬に笑みが浮かんだのを、庄司は見た。それだけで寝坊したことへの罪悪感がなくなるような気がしたのだった。心がにわかに軽くなり、今度は逃げられず、落ち着いて話ができると思った。
雨の中、傘が二つ並んでいるうちなら。
「あ、そうだ」
不思議そうに庄司を見やった花坂に、庄司はいたずらな、ある種得意げな顔を見せる。
「花坂に会えたら言おうと思ってたことがあったんだよ。前は言えなかったから」
「? はい」
「お前のこといじめてたやつらって、何人か残ってるだろ?」
花坂は案の定表情を曇らせた。その足取りが鈍る前に、庄司は言葉を続けた。
「おれ、その話聞いたとき凄く……なんて言うか、腹立ってさ。で、ちょうどそいつらが目の前通りかかったんだよ」
だから転ばせてやったんだよね。
庄司の言葉が地面に落ちて跳ね返ったのを聞き取ったらしい花坂は、一拍遅れて「え!?」と反応をした。見開いた目にはありありと驚愕の二文字が浮かんでいる。
「そ、そんな、ええ」
「別に怪我させたわけじゃない。おれが勝手に腹立って勝手にしたことだし、お前は関係ないよ。でもあの、へろっと崩れ落ちた感じ……。はは、正直見たら笑えたと思う!」
実際その瞬間は苛立ちと悲嘆に支配されていた庄司だったが、時間が経ち、自分のしたことがどれだけ些細でくだらないことだったのか、無意識に理解して笑えるようになったらしかった。
庄司の笑いを聞いていた花坂は、呆然として目を白黒させていた。頭の中に、青空を恐れるようになったきっかけのあの瞬間が蘇る。そして思った。
自分を倒して笑っていた子たちの誰かが、逆に転ばされて、笑われてるんだ。
やり返したいというような復讐願望は花坂の中にはない。笑顔でいる庄司の中にもない。ただ庄司が起こした小さな意趣返しは、愉快な気持ちにさせ、やがて花坂の腹の底から上がって口を飛び出し、笑いになった。
「ははっ。ふふ、あはは!」
傘の中でわずかに反響するだけの笑いは、隣に並ぶお互いにのみ届いた。初めて聞いた花坂の笑い声は、案外おしとやかなものではなく、至って普通に鼓膜をふるわせる、何も恐怖心など感じさせない笑い声だった。自動車の走行音にかき消されたり、ふりしきる雨にさらわれたりなど決してしなかった。
「な。聞きづらいこと聞いてもいい?」
はー。と落ち着き、再び庄司から口を開く。
「聞きづらいのに聞くんですね……どうぞ」
「ハナサカは雨が好きだから、雨の日に登校してたの?」
ぐる、と傘の柄を手の中で一周させる。その時間だけ花坂は口をつぐみ、柄のカーブが再び正面にやってきた時、首を横に振った。
「違います。晴れてる空を見るのが怖くて、あえて避けて、雨の日を選んでただけなんです」
「ああ、雨の日なら、空はくもるもんな」
「はい。……でも、最近は雨が好きです」
花坂は傘を傾け、空を見上げる。
「今日、降って良かった」
おのずと足取りが緩み、庄司は合わせて歩くペースを遅くした。花坂に
「……そうだな。……そういえば、今日は校舎の中まで入るのか?」
「行ってみようかと思ってます。今日は――、今日も、頑張れる気がするので」
傘の上に残っていた水滴が、二人の傘から一斉に滑り落ちた。同じだけ前後に揺れて軽くなった傘に庄司は笑い、「なら、一緒行こうぜ。なんなら職員室まで」と提案する。
「遅刻の時って、カード貰うんでしたよね」
「うん。おれ高校に入ってから遅刻するの今日が初めてだから、遅刻カードのことよく分からないんだよな。ハナサカ分かる?」
「うーん、私もちょっと……」
二人は少々
-----------------
職員室は冷房が稼働しっぱなしのようで、冷風が直撃する位置で遅刻カードの受け取りをした二人はすっかり体が冷えてしまった。
「ぜったい風邪ひく……」
パイプ椅子に腰かけ、庄司は遅刻カードの記入をしながら苦々しく呟いた。隣に座って、同じようにペンを走らせていた花坂も同感と頷く。
悠然と焦ることもせずに歩いて通学して来たので、時刻はとっくに三時間目の授業を開始しており、校舎内は黙りこくった静けさにあった。
ふと庄司の手元に目をやった花坂は、そこに走り書きされた文字を見て、「あ」と小さく一音を零した。庄司がそれを耳で拾い、顔を上げた二人の目線がかち合う。
「なに?」
「いや、
氏名の欄の横に書かれた『2-1,17』の表記を見て初めて知ったと話すと、庄司は黙り込み、「言ってなかったっけ」と尋ねた。花坂はうんと頷く。
「言ったつもりだった。もしかして、だからずっと敬語だった?」
「一応……。先輩だったらいけないと思って」
「なるほどな。完璧におれが悪かったわけだ」
同い年の女子に敬語で接せられることに若干の寂しさを覚えていた庄司だったが、名乗られてすらいない花坂は当然、庄司の胸中など知る由もない。
「じゃあ名前も言ってなかったよな。おれ、庄司淳宏。字はこれ」
長机の上に差し出された遅刻カードを見、「じゃあ、」と花坂も同じようにした。バランスのやや乱れた『庄司淳宏』と、一文字一文字均整のとれた『花坂千歌』の名前を互いに見合う。
「坂の方のハナサカだったんだな。咲く方かと思ってた」
「あはは、たまにそれで間違われるよ。賞状とか」
「賞状で間違われるのは最悪だな」
「でしょう?」
そこでとある教師が二人の元までやって来た。「久しぶり。学校の中で会えて嬉しい」と声をかけた彼女は花坂のクラスの担任をしている女性教師で、二人分の遅刻カードの記入を簡単に確認して、庄司に手渡し、花坂の分は自分で預かった。
「私と花坂さんはこれから話すことがあるから、庄司君は教室へ行くようにね」
「花坂は、今日は教室に行かないんですか?」
庄司の純粋な問いかけに担任は目尻にかすかなためらいを浮かべたが、代わって花坂が真っ先に返答をした。
「今日は保健室に行って、先生とか、カウンセラーの人と話すの。その予定自体は前から決めてたから、今日は教室には行かないと思う」
「そっか。まぁ、午後だけ授業出たって意味ないしな」
「コラ。意味ない授業なんてないのよ」
「お、すみません」
素早いかけ合いに笑う花坂を見て、庄司も笑い、担任は安堵の吐息を人知れず吐き出す。今年になって花坂の事情を知り、対面での会話を重ねてきた彼女だったが、ここまでリラックスした花坂千歌を見るのは初めてだったのである。
背が高い分、その細さ、か弱そうな雰囲気が際立つ彼女だったから、少なくとも両足でちゃんと校舎の廊下を踏みしめていることに、若干の感動を覚えさえした。
それをわざわざ伝えるのは重たいだろうと思い直し、担任は教師として場を切り替える。
「じゃあ、行きましょうか」
共に職員室を出、片や同階の保健室へ、片や三階の教室へと道が分かれるところで、庄司と花坂は互いに手を振る。控え目だが穏やかな笑みを浮かべた花坂は担任に連れられ、先に廊下の突き当りへと姿を消していった。
手を振り残し、庄司はぽつんと廊下に佇む。
安心感に似た、ささやかな満足感をともなった息を吐く。花坂の後ろ姿が見えていたそこを見つめ、やがて三時間目の終了を告げるチャイムがし、リュックを背負い直して階段を駆け上がって行くのだった。
窓を打つ雨はザアザアと音を立てている。
窓ガラスは白く曇り、襟ぐりの下では湿気でじとりと汗が滲む。
信号機は赤信号から青信号に変わり、誰かへ向けてぴよぴよと雨音に負けずに鳴き声を放つ。
男子生徒は階段を登り、普段通りの場所へ。
女子生徒は保健室のソファーに座り、いつもとは違う景色を見る。
雨はまだしばらく、止みそうにない。
『濡れ窓の内と外にて。』/終
濡れ窓の内と外にて。 一野 蕾 @ichino__
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます