2.【花坂千歌の葛藤】


 突き飛ばされて、ゴミ袋の山に倒れた。

 見上げた景色は校舎と敷地内の林で切り取られた空だった。よく晴れてた。青空が高くて遠かった。あの子たちの笑い声がした。


 その時。「もうむり」と思った。

 あれ以来、青空が怖い。



 いつからいじめに発展していったのか、正直よく分からない。入学して少し経った頃、苗字が花坂はなさかだから「花咲かじいさんだね」なんて風にからかわれたのは覚えてる。小学校・中学校でも言われてきたし、私自身あんまり嫌じゃなかったから気にしなかった。今思えば、言葉の端々に侮蔑がまじっていたような気はする。それに気がつくのが遅かった。私はいつも人より行動が遅れるから、もしかしたらクラスのみんなは気づいてたのかもしれない。


「わっ」


 廊下を歩いてると、突然背中を押されたりとか。

 その時落ちた筆箱を蹴られたり、だとか。

 私は下を向いたまま受け入れて、何も言わずに見つめるだけだった。

 少し後ろに聞こえてた談笑の声がやんで、床を滑った筆箱を追いかけるように、斜め後ろから細い脚が一人分追い越して行った。整えられた爪先が、なにか汚い物に触れるみたいに私の筆箱を拾い上げる。


「ごめんね! まじで、わざとじゃないからさ」

「う、うん。大丈夫」


 差し出されたそれを受け取った。その子は後ろにいた子たちを呼んで、私から離れて行く。どこからともなく笑う声が聞こえた。くすくす。本当に小さい、声にすらなってないようなかすかな笑い声。小心者の私に、その子たちがどんな顔をしてるかなんて見れない。

 窓の外は青いのに、廊下は明るいのに、立ちすくむ私に覆い被さってはいなくなる影は真っ黒な気がして、目が眩んだ。


「ハナサカちゃーん」


 帰りのホームルームが終わって、自分の机と椅子をまとめていると声をかけられた。


「あたしらって今週掃除だっけ?」

「うん。教室掃除だよ」

「そか。めんどいねー」

「あはは、そうだね」


 そこで出入り口からその子を呼ぶ人がいて、くるっと背を返してその子はいなくなった。教室から人が減って、全部の机を片側に寄せてホウキをはいていても、その子は帰ってこない。廊下の方から何人かの女の子の声がする。あの子かもしれない。でも、呼びには行けない。あの子たちの大きな目がぎょろっと私を見るあの瞬間が、最近の私には怖かったから。


「じゃんけん、──」


 グーが一つに、周りがパー。じゃんけんに負けた。

 可燃ごみとペットボトルが入った大きなゴミ袋を二つ両手に持って、同じ班の子に見送られて教室を出る。

 また後ろで、同じ声で話し声が聞こえた。


「あれ、ハナサカちゃんだ」

「本当だ。そう言えばあんた掃除当番じゃなかった?」

「やば。普通に忘れてた!」

「ちょっと手伝ってあげなよ」

「えー、それはめんどい」

「うちらも着いてくよ?」

「じゃあ、優しいとこ見せちゃおうかな〜」


 間延びした声が背中に迫って、「ハナサカちゃん!」と呼びかけられる。振り返るより先に、右手のゴミ袋がさらわれていった。「あたしも一緒にごみ捨て行くよ」と言われて、ぞろぞろと人に囲まれる。


「ありがとう」


 その子達は笑顔だったから、私も笑う。

 私は、何に感謝してるんだろう。


 外はいい陽気だった。

 ごみ捨て場は渡り廊下を横切った先の、裏庭の隅の方にある。

 トタン屋根の下が仕切られていて、ゴミの種類ごとに置き場が決まってる。カラカラ音を立たせながら、ペットボトルのゴミ袋が投げ捨てられた。周りにいた女の子たちはきゃあきゃあ騒いで、何か話してた。それは全く別の言葉を話してるみたいで、ノイズが走ったラジオのようで、私には理解できなかった。

 早く帰りたい、と思ってまばたきをした。

 その瞬間正面から肩にドンッと衝撃があって、たたらを踏もうとした足も何故だか動かなくて──私は私の世界がマイナスな方向に無理やりねじ曲げられたことを、無意識に悟った。


「う!」


 ぐるんと目が回って、視界に広がったのは青空。

 背中から全身、妙に柔らかい衝撃が打ちつけた。後ろにはどこかのクラスが置きっぱなしにしたゴミ袋の山があって、生臭い香りのするクッションが私を受け止めた。

 頭上で笑い声がした。私を笑う声が。けらけら、ゲラゲラ。「だいじょうぶ?」なんて、心配なんて一切してなさそうな声色で。目の奥がジンと熱くなる。空が眩しかった。照りつける太陽が私をさらし者にしようとしてるみたいだった。この醜態をスポットライトで照らされてるみたいな屈辱だった。

 悔しくて恥ずかしくて。

 泣きたくなくて目を閉じた。

 まぶたの裏に青空が焼き付いていた。



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 今日もうずくまっちゃった。


 誰もいないリビングで一人、ソファで膝を抱える。

 その日の授業の用意はした。制服も着た。行く準備は完璧。なのに、玄関を一歩出ると青空が広がってる。すると脚の力が抜けて、へたりこんでしまう。あの日以来私は青空を直視できなくなって、満足に登校できなくなった。

 文字通りの不登校。私をいじめてきた子達の何人かが退学して、いつしか学年が上がって、クラスメイトが変わって、それでも私は校舎にも入れてない。

 コトリ、とささやかな音がした。見るとテーブルのそばにお母さんがいて。テーブルにマグカップを置いていた。


千歌ちか。気分はどう?」


 マグカップから立ち昇る湯気は、フルーツの甘い香りがする。手に取って、あったかい紅茶にそろりと口をつける。


「へいき。ごめんね、やっぱり、今日も……」

「いいの、気にしすぎないで。あんたはやれる分やってる。凹むようなことじゃないよ」

「でも」

「学校は、辞めたくないんでしょ?」

「……うん」


 頷いて、そのままうつむいた。淡いリンゴの皮の色をした水面に反射する私の顔は鬱々としてる。それなのに、そこにいる私が何を思うのかは分からない。いつも何かに流されて、私の意思はどこかに隠されたままで、いつしか私にも見つけられなくなってしまった。学校を中退したいとは思わない。できることなら自分の足で登校して、教室で授業を受けたい。友達にも会いたい。でも私の体が、もうそれを許してくれない。

 お母さんの手が私の頭に触れて、二、三回、頭をポンポンと優しく叩く。


「じゃあ、がんばろうか」


 そう言ってお母さんは、立ち上がってカーテンを開いた。お母さんの肩越しに、青空の上にどんよりとした雲がかかり始めてるのが見える。


「雨、降るのかな」

「午後から降るんだってよ」

「そっか。……午後にまた、行ってみようかな」

「そう」


 お母さんは振り返って、私の顔を見てほほ笑む。


「大丈夫! 千歌なら大丈夫だよ」


 笑顔のお母さんを見ていると頬が自然に緩んできて、今度は紅茶をゆっくり味わうことができた。



-----------------



 浅い水溜まりの底に沈んだ白線を踏む。

 ひよこの鳴き声を真似た横断歩道の音源に急かされて、青信号を渡ると、目の前に開放されたままの学校の校門が現れた。

 傘を傾ける。空は泣いていて、どんより曇っていた。まだら模様の雲を見ていると、心がスっとして楽になる。傘の下で、湿った空気を飲んだ。


「今日こそ、がんばらなきゃ」


 傘の柄を握る手に力を込めた。

 青空が見えない雨の日は、つつがなく校門まで歩いて来ることができる。けど、いざ校舎を目にすると、しり込みしてしまって校門をまたげない。

 体の内側を叩かれてるみたいに、心臓がどきどきうるさい。それに合わせるみたいに雨粒が傘を打つから、気持ちが落ち着かない。


「いける……行く、今日こそは。せめて今日だけは」


 手汗をぬぐう。行ける、行けると自分を奮い立たせる呪文を唱えながら、硬直した脚をそろり持ち上げる。

 背後の信号機が点滅して、ぱ、と赤色に光った。


「がんばる。がんばれ、ちか。がんばれ……」


 震えるつま先が、敷地内に、数センチ侵入。雨音が大きくなった気がした。湿気のせいでじんわり汗ばんだ制服の内側がきもち悪い。不自然に片足を突き出した状態で数秒止まって、──かかる体重を移動して、次はごく自然な動きで、もう片足を敷地の地面に着けた。

 張りつめた息を精一杯吐き出した。でもここで立ち止まったら全部が終わる気がして、呼吸を止めてせかせか足を動かした。あんなに迷って、怖がって何日も校門の前で右往左往してたのに、一歩踏み出しただけでこんなに違うなんて。


(ああ、私、馬鹿みたいなことで悩んでたんだな……)


 本当に、馬鹿みたい。

 気付けばそう長くない昇降口までの道のりを真っ直ぐ突っ切って、昇降口の出入り口に立っていた。

 水気を飛ばして、折り目に沿って傘を畳む。

 もうお昼休みの時間に入っていたみたいで、廊下の奥は人の声とか足音だとかで少し騒がしい。たまに正面の廊下を通りがかる人がいたけど、ちらっと一瞬見るくらいで、誰も私を気にしない。高校は遅刻してもたいして変に思われないから、ちょっとありがたいなと思う。

 どこかの喧騒に耳を傾けていると、すぐ近くで「あ」と声がした。

 顔を上げると、ストローを差したパックのジュースを持った、見知らぬ男の子がいた。彼は間違いなく私を見て、足を止めてる。


「…………あの……?」

「あー……えっと」


 その時の気まずそうな顔を見て、私の脳みそはぐるんとひっくり返ったように慌ただしく思考しだした。この男の子は全く見覚えがないけど、もしかしたら、向こうは私の事情ことを知ってるのかも知れない。私の不登校も、私がいじめられてた事実も、私の情けない部分を。

 そう思うと凄く恥ずかしくて、私は男の子が口を開く前に踵を返した。


「あっ! ま、待て! ごめん、脅かしたつもりじゃない!」


 背後に迫る足音が聞こえて、傘の留め具を外す。こんな時に限ってうまく手指が動かないのはなんで?

 もたついてる間に、男の子は私に追いついてしまった。少し間を開けた隣に並ばれて、顔を見る。華奢な体つきだけど、背格好は男の子らしくて、私よりも背が高かった。


「……思ったより、背、デカいんだな……」

「は、はい……」


 男の子は私の頭身を眺めると、ひとり言みたいに聞いてきた。

 私は背だけはひょろひょろと伸びたから、他の女の子たちに比べると確かに背が高い。


「あ、てかごめん。いつも見る人だ、と思ったらつい」


 意思の強そうな眉毛が、きゅっと八の字に下がった。

 悪意を感じない表情に、逆に申し訳なくなる。


「いえ、私こそ、ごめんなさい」

「いや、こればっかりはおれが悪いから」

「いや……あの。って、どういう」


 疑問に思ったそれを聞くと、男の子は斜め下を指さした。


「その傘見て、ピンと来たんだ。いつも雨の日だけ、校門の所まで来る人がいてさ。あれお前だよな」

「え、あ」

「今日は学校、来れたんだな」

「あ……」


 ゆっくり頬に血が上って、そしてまたゆっくり青ざめる感覚を覚える。

 目の前の男の子はが私だと確信してる。校門で右往左往する不審者な私を気にしてたみたいなのに、話しかけてくるくらいなのに、詳しく聞いてこない。つまりそれは、やっぱり私の事情を知ってるってことだ。


「私のこと、知ってるんですね……」

「いつも窓越しで見てたから。あ、すまん。今のはキモかったかも」

「そうじゃなくて」


 そう切り出すと、男の子の方も気づいたみたいだった。

 手の中の紙パックを邪魔そうに何度も持ち替えて、意を決した顔で私の顔を見た。


「……名前、ハナサカで合ってる? ハナサカのことなら、ちょっと知ってる」

「……合ってます。花坂はなさか千歌ちかです」

「そっか。ごめん、友達から教えてもらったんだ、ハナサカのこと」

「いいえ、そんな」

「でも、まさか学校ン中で会えるとは思ってなかったわ。いつもなら、校門にいるから」

「そうですね。そうなんです。私、今日はなんだかいつもより頑張れて」


 ふと気付いた時には、私の目線は彼の胸元辺りにまで下がっていた。

 ギシギシと体のどこかが軋む音を立てている気がして、限界を悟る。きゅっ、と傘の柄を握り締めた。


「でも、やっぱり帰ります」


 なんで、と問い詰められるのを想定していたけど、案外彼はすんなり頷いた。


「そうか。まあ無理はしなくていいと思うけど、……でも今日を逃したら、ハナサカ、もうしばらく学校には来ないよな」


 彼の言わんとすることがよく分からなくて、首を傾げると、スラックスのポケットからひねり出したスマホの画面を見せられた。天気予報のアプリが開かれていて、今日は傘のマークだけど、明日以降の日付には太陽と雲のマークが並んでる。


「そろそろ台風いなくなるらしい。梅雨とかじゃない限り、雨ってそんな降んないだろ。ハナサカを見かけるのはいつも雨のときだけだったから……もしかして、雨以外のときも実は来てたりする?」

「あ、いえ。来てないです。というか、来れないっていうか」

「じゃあ、やっぱり今日登校してこれてるのは十分凄いことなんだな。おれならたぶんむりだ」


 見ず知らずの男子高校生に慰められている。

 そう肌で感じると、電気のついていない昇降口の暗さも相まって、気持ちが下を向いていく。バランスの悪い文字を修正しようと書き足して、逆にもっとひどくなるみたいに、私は変な陽気さで自分を守ろうとした。


「あはは。でも、雨の日だけですから。雨が降ってても、いつも何もせずに帰ってたし。今日だって偶然ここまで来れただけで」

「偶然って。今までがんばってきた成果だろ」

「全然、頑張ってなんか」

「雨が降ったら午後でも関係なく、わざわざ制服もちゃんと着て、校門まで歩いて来てたのはがんばりって言わないのかよ」

「でも、学校に来るなんて普通のことだし……」

「それができなくなったから、できるようにがんばってたんじゃねえの」


 彼の言葉は私の元気の仮面フリを端から叩き割っていった。

 割れたそこから溢れ出した何かが私の胸を突き上げて、目の奥が唐突に熱くなる。


「ハナサカ。おれはハナサカががんばってるの知ってるよ。去年、実際どんなことがあったとかは知らないし、胸くそ悪そうだから知りたくもないけどさ。窓からいつも見てたから。お前、いつもがんばってるよ」


 私は再び彼の顔を真正面で見て、彼が抱えてる苛立ちの存在に気が付いた。たぶんそれは、私にじゃなくて、いじめてきた子あの子たちに対する。少なくともこの男の子は私を憐れんだりしていなくて、ただ私のことを認めてくれてるだけ。

 これが嘘や、からかいじゃなかったらいいな、と本当に思った。唇がわなわなと震えだして、それでも伝えなくてはいけない気がして、「あ、りがとう」と小さく返事をした。

 体の中心があっつくなって、頭が痛くなってきた。居心地が悪くて、じりじり後ずさる。


「それじゃあ、私、帰ります」


 男の子の次の言葉を待たずに、私は傘を急いで開いて昇降口を飛び出した。

 ザアザアと降る雨は私の周りでカーテンの役割を果たして、この傘の内側を安息の場所にしてくれる。空も見えなければ、人の声も遠くて、顔も見えない。見られない。

 校門を勢いで通り過ぎて、すぐに横断歩道で立ち止まる。歩行禁止を知らせる赤信号を見て一息ついた。道のりを振り返ってみる。当然、男の子は追いかけては来ていない。うっすら白んだ景色の中に、すっかり外観だけ見慣れた校舎が佇んで、私を見下ろしてる。

 いつもここに立つたび悩んでた。怖いのもそうだけど、たとえ入ったところで、私は変わらないから。一度足を踏み入れることが叶ったら、二回目はもっと頑張って、勇気を振り絞らなきゃいけなくなるから。


「でも……今日は来れて良かった」


 私は今まで、何一つ頑張れてないと思ってた。惰性と甘えでだらだら生きて、こんなことになったのは私自身のせいだって。でも彼は全く関係のない人なのに、きっと彼女たちのことも知らないだろうに、怒ってた。


 私、頑張ってるって言ってもいいの?


 信号が青色へ切り替わる。

 白線の上に溜まった水溜まりが緑色に照らされたのを見て、私は校舎に背を向けて歩き出した。





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