濡れ窓の内と外にて。
一野 蕾
1.【雨が降るなり現れる】
それを見つけたのは偶然だったけど、どっちみち窓側の席だったんだから、必然だったんだと思う。
雨の酷い日だった。八月の終盤に入っても当然まだ夏は終わらなくて、さらに何個か台風が本州に近づいてきてるとかで、朝からずっと降りっぱなしだった。
放っていると湿気でむしむししてくるから、教室ではエアコンが稼働していた。湿った空気に冷風が混ざって、教室の中は冷えてるのに、妙に眠くなる空気感だった。授業中でも構わず机に突っ伏して寝てるやつもいた。
おれも、例に漏れず眠たかった。
「……ん、」
まどろみに身を任せながら、覚醒とうたた寝の境界線でぷかぷかしながら窓の外に目線を送っていたときのことだ。
学校の校門前にある歩行者用の信号が赤く光った。その下に、信号の光とは別の白い物が浮かんでいる。目を凝らすと、それが白い傘であることが分かった。
信号が赤から青に切り替わる。
だって言うのに、その傘影は動き出さない。ぽつねんと校門の前に佇んで、雨に打たれている。歩き出す気なんてそもそもないかのようだ。そう考えると、その足は
いまだ降り続く雨が傘を叩きつける音と、急かすようなヒヨコの鳴く音源がおれの耳を幻聴で支配する。
「──おーい、庄司?」
おれを呼ぶ声に、ビクリと肩が跳ねた。
「っはい!」
クラスメイトはちらちらとおれに目をやっていて、先生は教壇に立って「音読、頼むぞ」と教科書でおれを指した。どうやら指名に気付けなかったらしい。
「あぁ、はい」
椅子を引いて立ち上がりながら窓の外を盗み見る。
傘が少し上向きになっていた。
見慣れた色合いの服を身にまとった体が見えた。距離のせいで輪郭がぼやけるが、その目が見えて──、
ザア、と一際強い雨粒が窓を打ち付け、景色を真っ白にした。
「ああ!」
ランダムに叩きつけるような雨音に教室内から湧き上がるような悲鳴が上がる。先生も一瞬にしてぬり変えられた窓を見て感嘆の声を上げていて、授業は軟化した。
白く曇ったガラスをすこし
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「それから、雨の日はその人を見かけるようになったんだ。いつも傘が同じだから、たぶん同一人物だと思う」
話し終えると、俺を囲むように座っていた連中から消え入るような悲鳴が上がった。
「……そんな怖いか?」
「いや、怖いだろ! その一回で終わりじゃないのが尚更」
「それってホントに人間かな。幽霊じゃない?」
「こわ。目ぇ付けられたんじゃねーの、庄司」
「そんな……! 庄司、安らかにな……」
「お前は良い奴だった」
「勝手に殺すなよ」
ちょっと黙っていれば口々に勝手なことを言うやつらだ。昼ごはんを食べ終わって持て余した時間に、ふと思い出して話してみればこれだ。
一口飲んだフルーツティーのキャップを閉じ、念仏を唱えている友達の肩を叩く。
「幽霊なわけないだろ。うちに自殺した生徒とかいないし、そんな噂も聞いたことないんだから」
その白い傘を差した人は、いつもうちの学校の女子の制服を着ている。見る度格好が変わらないから、正直地縛霊とかかも、とはおれも思った。けど、足が透けて見えるような典型的な幽霊っぽさはいつ見てもないし、この高校に七不思議と呼べるような立派な怪談もない。
「でもなんで雨の日だけに現れるんだよ。しかも急に現れて、急にいなくなるんだろ。んなの幽霊決定じゃん」
正面の席を陣取った友達が不満そうに言った。おれが言い淀むと、周りのやつらもうんうんと乗っかって頷く。
「その通り。絶対に地縛霊」
「条件付きなのがまさにそれっぽいしな」
「いや、だから人間だよあれは」
「なんでそんな
「地縛霊相手にか!? やばいなお前」
「ちげーよ! 去り際だよ、去り際」
揃って首を傾げる様を見て後頭部をかきむしる。
おれにはあの女子が、人間であると言い切れる根拠がある。
「いつも信号のとこで立ち止まって、学校をしばらく見てからいなくなるんだよ。急に消えたりするわけじゃなく、走り去る感じ」
忽然と煙のようになったりはしない。初めて目撃したときにものの数秒で姿を見失ったのは、大雨に驚いて走ったからなんだろう。
「それになんか、じっと立ってるだけでもないんだよ」
「どういうこと?」
「なんつーか、迷ってる感じ? 帰る時も逃げてるみたいで、見てる間ずっとビクビクしてる印象」
幽霊にしては人間味がありすぎる。
一通り聞いて、こいつらもなんとなく納得したようだった。
「じゃあ、単なるうちの生徒ってことか」
「たぶんな」
「でも結局、なんで雨の日だけに来るのかは分からないわけだな。あと帰る理由」
頷きを返す。そこだけがずっと疑問だ。
その女子生徒(の疑い)が現れるようになってから、もう一週間が経つ。いまだに停滞したり新しく生まれたりする台風の影響で、たまに雨が降る。
「雨の日って言っても見かける時間帯はまちまちだし、校舎内でそれっぽい人を見たことはないんだよな」
「はっ! それなら白い傘の人に絞って探せばいいんじゃない?」
「一理はあるけど、白い傘って何人いるんだよ……」
「一理はあるじゃん。その傘って柄とかあんの」
うーんと首を捻る。
「なんか青っぽい……花、柄?」
「うろ覚えか」
これに関してはしょうがないと言わせてほしい。なんせ姿を見れる時は必ず雨が降ってるし、おれは教室から見下ろしてるだけだ。なんとなく同じ人だな、と背格好と佇まいで分かるくらいの認識なのだ。
ここで詰みになったことを悟る。
白地に青色の柄、というデザインの傘は、ビニール傘の次くらいに似たような物を使ってる生徒が多いからだ。
お手上げといった様子で、友達はみんな思い思いに椅子や机に脱力する。
「学年も顔も理由も分からないんじゃあ、……もう不審者か幽霊しか選択肢ないな」
まだ言うか。ついには不審者とまできた。
呆れてものも言えないでいると、ぽんと肩に手が乗せられた。振り向くと、気遣わしげな表情──わざとらしい──をした友達が列をなしている。
「ごめんな庄司。おれも幽霊だと思う」
「ごめんな庄司。おれは制服着た成人女性だと思う」
「ごめんな庄司。おれは実はオッサンなんじゃないかと思ってる」
「大喜利大会じゃないんだよ。不審者だったらって考えちゃうからやめろ」
「でもさあー、正直それとしか思えないじゃん」
腕をぶんぶん回して肩の手を退かす。
おれは首を振った。
「おれは何回もこの目で見てんだよ。それが何よりの証拠。あれは生きてる人間だし、女子だし、たぶん生徒!」
そこで、キーンコーン……と
無理やり結論を出したのはおれだけど、なんだかうやむやに終わらさせられたような気がして、腑に落ちない。ペットボトルに口をつけると、──なんだか教室がさっきより暗い気がした。
ぽつ、と、どこかから音が。窓ガラスに目の焦点を合わせると、雫が一つ、二つと増えて、下に流れていった。やがて数秒の間もなく、雨が降り始める。グラウンドを濡らし、校舎を頭から打ち付けて、空気をがらりと
「あめ、」
聞こえた呟きに振り返ると、さっきまで話をしていたメンツが揃って動きを止めて、窓の外に視線を注いでいた。おれは信号機を見る。青信号。誰もいない。けど、きっともう時期来るだろう。
「気になるなら、暇なとき見てみろよ。お前らもきっと、見りゃ分かるからさ」
口をついて出たセリフはさも煽るように、口角をいびつに釣り上げさせた。
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やっぱりいる。
窓の外にそろりと目をやると、いつものように白い傘が信号機の下に佇んでいる。授業が始まって二十分。雨はまだサアサアと降っている。
五時間目の授業はプリント学習になって、誰しもが友達とペアを作ったり、近くの席のメンツとグループになったりしながらプリントに取り組んでいた。おれはこの時間を利用して、いつ来たのか分からない窓の外のその人を見つめていた。
白は一瞬前後に揺れて、また元の位置に戻る。それを何度か繰り返す。たまに校門をくぐろうとする時もあるけど、それが達成された瞬間は見たことがない。
本当に、何がしたいんだろう。
「ほんとにいるな」
「田鍋」
昼休みに固まっていたメンツの一人、あの中でも比較的はしゃぎすぎないタイプの田鍋が、おれの前の席(いつの間にかいなくなってた)の椅子に座った。
「ほら、だから言っただろ」
「おー。確かに幽霊じゃなさそうだな。悪かったよ」
田鍋にもあの傘は見えてるらしい。幽霊説は否定された。
おれは落ちてなかった腑が落ちて満足したので、ようやく課題のプリントに手を付け始めた。
「……あれ、晴れの時には一切見かけないのか」
しばらくそうしていて、おもむろに田鍋が口を開く。
「ああ。晴れの日なら顔も見えるのにな」
「見落としてる可能性はないのか? 晴れてる時は普通に登校してるのかも知れない」
「だから、ご覧の通り顔もよく見えないんだって。それで晴れの日は普通にしてますなんて言われても、分かんねえよ」
「……それもそうか」
それきり黙り込むと、シャーペンをカリカリ動かし出す。何か言いたげな雰囲気が、気になる。
「……晴れは大丈夫で、雨がだめなんて変だろ」
「そうだな」
「それに晴れが平気だったら、今日はなんでわざわざ雨が降る時間に来るんだ? 行動が意味不明すぎる」
「そうだな」
「…………なあ。もしかしてなんか知ってる?」
二、三文字書き続け、手がぴたりと止まった。
顔を上げた田鍋はいつもの通り無表情で、何を考えているんだかいまいちピンと来ない。
「……知ってる、て程じゃない。心当たりっつうか、見たことある気がするだけ」
ただこいつは、声によく出る。
普段よりハリがない声で喋ると、ちらっと窓の外を見やる。窓は雨粒で模様をつくっている。おれは二人分のプリントの上に両腕を置いて、田鍋にだけ声が届くように声のボリュームを落とした。
「それって街中とかでってことか?」
「いや、普通に学校ん中。あんな感じの女子に見覚えが──、と言っても名前とかは分かんねえけど」
「いや、分かる。とくに仲良くもないのにしょっちゅう見かける女子っているよな。目につくって言うか」
「おう。伝わって良かったわ」
存在感があるんだよな、謎に……。
俺の呟きに田鍋は「な」と頷いて、また口を開いた。
「たぶん同じ学年だった。廊下でたまにすれ違ったり、……集団の中にいたのを見たと思う」
「グループでいたタイプか」
「いや、違う」
「ちがう?」
「あれはたぶん──」
徐々に強さを増していく雨音に相槌を打つように、プリントがくしゃりと歪んで音を立てた。田鍋が恐る恐る話したそれの可能性は、おれには全く想像がつかなかったもので、聞いた時のおれの顔はきっと、すごく滑稽だったと思う。
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放課後。
教室からぞろぞろと途切れることなく出てくる生徒を眺めながら、おれは廊下の片側に寄って呆然と空を眺める。
六時間目に入る頃には、雨は弱まってほとんどやんでいた。雲の切れ間に青空が覗いて、白い傘を弱々しく日光が照らすようになると、例によって傘の持ち主は去って行った。角度的に見えないはずの背中が──いつもは無感情に眺めるのに──あの後のおれには、すごくか弱くて痛そうに見えた。
十中八九、田鍋から聞いた話に影響されている。
(……いじめか)
壁に背中を預けると、ずる、とワイシャツが滑る。
田鍋は去年、とあるクラスでいじめがあったと話した。正直おれには皆目見当もつかない。が、田鍋は「あった」……「あったと思う」と弱々しい語尾で言った。
いわゆる一軍の女子が集まったグループに、妙に絡まれている大人しめの女子がいたとか。仲良さげ、という様子でもなかったらしい。もっともおれたち男には女社会のことは分からない。一見親友の顔をしてても裏じゃ罵り合いなんてこともあるそうだから、実際仲は良かったのかもしれない。
(でも、今その女子は学校にいないんだろ。じゃあ、決定じゃん)
廊下を一望して、目を伏せた。薄い青色の空が窓の向こうに広がっていた。雨雲はとっくのとうにいなかった。まぶたの裏によみがえる景色に、ぽつんと立ちすくむ傘。なんで雨の日だけなのかなんて、もはやどうだって良かった。
その女子はきっと。
(がんばろうと、してんだな……)
後頭部が壁にぶつかってごつんと音を立てた。
なんだろう、無性に悲しくて、苦しい。
「いた。庄司」
「……田鍋?」
片手を上げて近寄ってきた田鍋に首を傾げる。
「お前部活は?」
「今日自主練だから急がなくてもへーき。それより先に教えとこうと思って」
「なんだよ」
「さっきの話。の続き。同じ部活のやつに聞いてみた」
田鍋は喋りながら肩を並べて壁によりかかり、おれは目を見開いた。
「やっぱりその女子、学校来てねえの」
「ああ。去年のあれは俺の勘違いじゃなかった。百パーいじめだったってさ。いじめてた内の何人かは自主退学までさせられてるらしい。ガチだな」
「まじで」
「マジ。あの傘が本当にハナサカなら、今んとこ登校できてないみたいだな」
「ハナサカ?」
「ああ、名前。ハナサカっていうらしいぞ」
無意識に口を開いた。
「ハナサカ、学校怖くなったのかな」
廊下を行き交う生徒の波を見る。田鍋も同じように廊下を一目見て、「たぶんな」とおれの顔に目線を移した。
「二年になって、いじめてたやつらとは同じクラスにはなってない。まあ当然だけど……それで来れてないってことは、そういうことだろ」
「でも、その退学したのって、全員じゃないんだろ?」
「聞くところによれば。……ああ、ほら見ろ」
田鍋は小さくそう言うと、目線だけをちらりとおれの向こうにやった。振り向くと、制服を着崩した二人組の女子が肩を寄せ合いながら歩いている。田鍋が「退学せずに残ったやつらだよ」とおれに耳打ちした。胸の奥が冷えた感覚になって、おれも目線が合わないようにしながら二人組の会話にこっそり耳を傾けた。
「あ。てか聞いた? ハナサカちゃんの話」
女子たちは今日の授業がどうだったとかを話していたところ、タイムリーにハナサカの名前を出した。
切り出された方の女子が首を傾ける。
「ハナサカって去年の?」
「そう。あの子、いま不登校らしいよ。学校来てないんだって」
「まじ。なんでなんで?」
「さあ。え、もしかしてウチらのせいかな?」
「えーだる。私らのせいだとしたらやばくない?」
「ウチら普通に仲良かったよね」
「ね。てか不登校とかやばー」
どの口が。
目の奥の脳みそと繋がった部分が、熱を帯びて痛んだ。今まさに目の前を横切ろうとしている会話が気持ち悪くて、腹立たしくて、視界が狭まっていくような感覚に襲われる。
視界に映り込む上履き。つま先で空気を蹴るような歩き方。本当なら関わりたくないタイプだ。
本当なら。いつもだったら。
「もしかしてリカ達が退学したのってハナサカちゃんのせいかな?」
「いやリカは普通に学校辞めるーとか、ずっと言ってたし関係ないでしょ」
「あーそっかぁ」
前を通り過ぎると同時に二人組の笑い声が重なった。無造作に振り出された片足の前に、進行を妨げるようにつま先を置いた。
「アッ!」
「うわ、だいじょうぶ?!」
勢い良く、なんてことはなく、一人はぺそりと床に這いつくばるように転げた。当然怪我なんてするわけもなく、「イタ〜」と恥ずかしそうに笑いながら立ち上がっていた。隣にいるもう一人も、周りにいる生徒も誰も──横にいた田鍋以外はおれが足をかけたことには気付いていない。
壁から背中を離して、おれはその場に背を向ける。部活仲間と一緒に帰ろうと思ってたけど、今日はもういい。
「あ、おい庄司」と田鍋が呼ぶ。おれは「また明日な」とだけ振り向きざまに言い捨て、そのまま階段のある突き当たりを曲がった。
意趣返し、なんかじゃない。ただあいつらにイライラして、我慢ならなかっただけだ。この気持ちを投げつける的が欲しかった。……おれが何したってハナサカの為にはならないのに。おれは何も関係ないのに、どうしてこんなに全身がむずつくんだろう。頭が痛いんだろう。
見上げた窓の外に広がる空は、ただ青かった。
続
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