終章 古鳥
ビルに遮られることのない薄水色の空は、抜けるように高い。
焼け付くようだった暑さは落ち着き、時折吹く風はすっかり秋模様だ。私は閉じていた瞼をゆっくりと開き、立ち上がった。
ここは、山の斜面に段をつけるようにして作られた墓地。目の前には祖父母の墓がある。先ほどあげた線香の煙が、風に乗って流れていく。視線を向ければ、ここからはダムがよく見えた。その底に故郷が沈んでいるという事実を考えなければ、緑の中に広がる水面は美しい。
ぼうっと景色を眺めていると、背後から足音が聞こえた。振り返ると、そこには高橋さんがいた。彼女は眉根を寄せ、不安げな表情を浮かべている。
「どうかしたのですか。今はまだ学校に子供たちがいる時間では?」
「学校に警察官が来ました。なにか話を聞きたいと」
彼女の言葉に、私は目を細める。実際に警察がどういった要件でやってきたのかはわからないが、なんとなく察しはつく。あの潜暗夜のことは極力外部に漏らさないようにしてきたが、すべてを隠し通せるものではないだろう。しかし、実際になにが起こったのかまで掴んではいないはずだ。
「警察の方はいまも学校に?」
「いえ。子供たちを不安にさせないようにと、話は放課後にしていただくことにして、ひとまず町役場に案内しました。いまは安倍さんが留めております」
安倍さんとは、私とホゥロが加藤家に潜んでいたとき、雄大さんの元を訪ねてきた、役場勤務の女性だ。
「わかりました、私も行きましょう。高橋さんは学校に戻ってください。あと……念のため、ホゥロに『あの家』に来ておいてくれと電話をしていただけますか」
「かしこまりました」
高橋さんの返事を聞いてから踵を返して石段を上り、墓地を出た。アスファルト舗装された道に出ると、そこには白い軽トラックが停まっている。助手席に乗り込むと、運転席に座って待っていた真澄に声をかけられる。
「墓参り、もういいのか。いま誰か来てたようだが」
「ああ。高橋さんが知らせに来てくれたんだが、外から警察が来たそうだ。市内の警察で、倉田先生がなにかを訴えたのかもしれない。ありのままを話していたんだとしたら、とても常識的に考えて信じられるものではないだろうから、警察も本気にしてはいないだろうが。あくまで確認にきた……とかかな」
「倉田先生だって、警察に訴えられるような立場じゃねぇだろ」
潜暗夜の後、私は、真澄に穂地村での悲惨な過去を話していた。倉田先生が、そして古鳥の人間が私の祖父母になにをしたのか、幼かった私がなにを見たのか。真澄は祖父母と私の境遇を憐れみ、知らなかったことを悔いながら、私が無意識に古鳥への復讐を願ったことを許してくれた。
「それはそうだが、祖父母のことは事故としてすでに処理が済んでしまっているしな。まあ、他の情報源からやってきたのかもしれないが」
「どうするんだ?」
「町内会長として私が対応する。すまないが、役場まで送ってくれないか?」
「了解」
エンジンがかかり、軽トラックは滑らかに走り出した。木々の間を走り、目的地へと向かう。助手席の窓から外を眺めると、潜暗夜の前となにも変わらない古鳥の様子が窺える。
倉田先生を殺すかどうかを迫られたとき、私は結局、高橋さんを止める言葉を放った。役場に移動し、町内放送に乗せて私が命令を下し、それで潜暗夜は終わった。すでに殺されてしまった者も多くいたが、生き残った者たちもいる。
阿弥トンネルを復旧させた後、私は真澄と共に、倉田先生を古鳥の外に追放した。そして、彼の代わりに町内会長として、後処理を進めてきたのだ。
真澄を含めて生き残った古鳥の者たちとは、ことを荒立てず、すべてを古鳥の中で収めることで合意した。古鳥の人間に成り代わった陰の民を内包し、共存するような形で、古鳥は元あった姿に戻ったのだ。
あくまで表面上は、という注釈付きではあるが。
軽トラックが役場の前に到着し、私は車を降りた。真澄には先に家に帰ってもらうように伝える。結局、私はいまも杉原の家で真澄と妙子さんと共に暮らしている。オーストラリアに戻る気はまったく無くなっていた。
役場の中に入ると、受付の奥に設けられた応接スペースに、警察の制服を着た男性が一人座っていた。その姿を見て、私は僅かに目を細める。警察は、事件の捜査であれば二人以上で行動するはずだ。一人でやってきたということは、なにか通報があったのだとしても、ただの確認に過ぎない。
役場に入ってきた私の姿に、警察官の前に座っていた安倍さんが、ほっとしたような表情を浮かべて立ち上がる。
「ご足労いただきまして申し訳ございません。こちらは土間警察署からいらっしゃった
「こんにちは、町内会長をさせていただいている一条です。本日は古鳥にどんなご用でしょうか」
安倍さんに紹介されるまま、同じく立ち上がった木場という警察官を眺める。年齢は四十代ほどだろう。態度は落ち着いていて、職務にはもうすっかり慣れきっている様子が窺える。
「どうも、土間警察署の木場です。町内会長さんがこんなにお若い方とは思わなかった」
「町内会長と言っても、雑用係のようなものですよ。なにかと体力がある方が重宝されますので。それで、本日はどのようなご用件で?」
「いやね、実は古鳥にお住まいの
「なるほど、そうでしたか。余計なお時間を取らせてしまってすみません。本馬さんのご自宅までご案内いたしますね。ここから近いので、歩いて行きましょう」
そう説明をして、安倍さんに見送られながら、木場さんを連れて外へと出る。
本馬という名前には覚えがある。潜暗夜で家ごと燃やされて亡くなった一家だったはずだ。つまり、彼らはすでにこの世にはいない。肉体も燃えてしまっているため、陰の民が成り代わっているわけでもない。安否確認などできようはずもなかった。
「一条さんは、本馬さんご一家の最近の様子などもご存知ですか?」
「ええ、古鳥は狭い集落ですから、全員が顔見知りですよ。いつもとまったく変わった様子もなく、お元気です。しかし、わざわざこんな山奥まで来てくださって、ご足労をおかけしましたね。電話でご連絡いただけたら、お答えしたんですが」
「そうですか。いや、駐在の東寺に連絡して、本馬さんご一家は問題ないという返事はもらっていて、お嫁さんのご実家にもそう連絡はしたんですが。後日、ちゃんと様子を見てきて欲しいと、また通報が入ったような次第で」
「なるほど、そうでしたか。本馬さんのお嫁さんも、ご実家と連絡をとりたくない事情でもあるのかもしれませんね。家庭のいざこざに巻き込まれてしまったような形でしょうか。ご苦労様です」
「ははは、そうかもしれませんな」
当たり障りのない会話をしながら、木場さんを連れて数分歩き、立派な一軒家の前に到着した。母屋の右手にある車庫には、国産車ではあるものの、高級車に分類されるシルバーのセダンがとまっている。
玄関前までやってきて、チャイムなど鳴らすこともなく私が引き戸を開けると、木場さんは驚いた表情を浮かべた。
「声をかけなくていいんですか」
「ああ、大丈夫ですよ。家族ぐるみの付き合いがありますから、親戚みたいなもので。どうぞ、上がってください」
木場さんに声をかけながら、靴を脱いで家の中に上がる。家の中には電気が付いておらず、雨戸もしまっている。明るい外との明暗差もあり、家の中が妙に暗いことは一見してわかる。
「お留守ではないのですか?」
「いえ、車庫に車がありましたし、ご在宅のはずですよ」
木場さんからの問いかけに答えてから、私は家の中へと声をかけた。鈍い頭痛が走る。
「本馬さーん、土間警察署から警察の方がいらっしゃって。本馬さんとお話があるそうです。ちょっと失礼しますね」
——ホゥロ、古鳥の外から警察官が来た。火事で焼死した家族の安否確認にきたそうだ。予定していた手を使う。
確信を持って、二声を発する。すると、家の中の暗がりから男の声で返事があった。
「どうぞお上がりください。リビングにおります」
その声はもちろん、私の後ろにいる木場さんにも届いている。私は振り向き、再度声をかける。
「リビングだそうです。行きましょう」
「はあ。しかし、やけに暗いですね。どうして電気をつけていないのでしょう」
私が廊下を歩いていくと、木場さんは不審そうな声をあげつつも、後をついてきた。その言葉には応えず、リビングのドアを開いて中へと入る。
「一条さん?」
木場さんが続いて暗い部屋の中へと入り、私に向かって呼びかけてきた、そのとき。彼の背後でドアが閉まった。
「なんだ?」
振り向いた木場さんが目にしたのは、この世のものではない気配を纏う、長い白髪の男。ホゥロは逃げ道を塞ぐようにして、ただドアの前に佇む。
「誰だ、君は」
木場さんが問いかけるが、ホゥロが見ているのは私だけだ。
そして、ホゥロがいるドアとは反対側の、部屋の奥から人が姿を現す。七十歳はすぎていると思われる小柄な老人。頭頂部が綺麗に禿げていて、白髪混りの髪は左右の側頭部に残るのみ。彼は……いや、彼の皮は、倉田先生のものだ。
「その皮はもう捨てていい。この警察官に成り変わり、土間警察署で何事もなかったと報告をしてきてくれ。そのまま土間市で生活し、可能な限り、今後古鳥に捜査が来ないように手を回してもらえるか」
私が倉田先生に声をかけると、木場さんが凄まじい形相でこちらを見る。
「なんだ、いまの言葉。お前、なんて言ったんだ」
「かしこまりました」
木場さんを蚊帳の外に置いたまま、倉田先生が私に返事をする。私は頷き、木場さんから距離を置くように一歩下がった。
倉田先生が木場さんに向けて両手を伸ばす。そして、そのまま静かに近づいていった。
「おい、来るな。止まれ!」
木場さんが彼自身の腰へと手をかけた瞬間、彼の背後からホゥロがその体を羽交締めにした。倉田先生の両手が木場さんの顔を掴む。
倉田先生の口が、ゆっくりと開いていく。正しく描写しようとすれば、顎が溶けるように落ちていっているのだ。口の開き方は顎が外れるほどに大きく、もはや人体の限界を超えている。
口の奥に、本来は人の体内にあるはずもない黒い塊が覗いた。暗闇の中で塊はぬらぬらと怪しく光り、ゆっくりと出てくる。そして、人の皮を脱ぎ去るように、歯列の下から黒い異形の頭が現れた。ビー玉のような真っ黒の瞳が二つ、視線を定めるようにぐるりと動く。
「ぎゃあああああああっ」
至近距離でその姿を目撃し、木場さんが耳を劈くほどの悲鳴をあげた。同時に開いた口の中へと、倉田先生の口から出てきた異形が細長いものを伸ばす。黒い物体が差し込まれ、彼の口の中が塞がれると、悲鳴はくぐもり、苦しそうな呻き声が漏れるのみになった。ホゥロの拘束が緩むと、倉田先生もろとも二人の体がベシャリと床に倒れ伏す。
「……すみません」
見るに堪えなくなり、私は、ついにその光景から目をそらした。
それからしばらく、形容し難く、聞き苦しい音が響く。それはどこか、獣が獲物を喰らう咀嚼音のようでもあった。
長く続いた物音がしなくなった。人が立ち上がる気配がして私が視線を戻すと、目の前に先ほどとなに一つ変わった様子のない木場さんが、こちらを向いて立っている。
「主様。お任せいただいた勤めを果たして参ります」
彼は木場さんそのものの声で、私を呼ぶ。
「頼んだぞ」
声をかけると、木場さんはゆるりと目を細めた。その顔に浮かぶのは、自信と自負に満ちた晴れやかな表情だ。ほんの僅かな顔の筋肉の変化だが、私からの言葉を受けて、彼が深く満足していることが私には読み取れる。陰の民は、私に仕えることを心からの喜びとしている。
木場さんは警察帽を深く被り直すと、私の横を歩いてドアを開き、外へと出ていった。視線を元の位置に戻せば、足元にはブヨブヨとした人間の皮が落ちている。
「倉田の皮を捨ててよろしかったのですか」
隣から、ホゥロが控えめな声で問いかけてくる。
「すでに、皮を持たない陰の民はいなくなってしまったからな。誰かに体を乗り換えてもらう必要があった。真澄も、他の者も、倉田先生はすでに外に出ていったと思っている。二度と姿を現すことはなくとも、おかしくはないさ」
私は一度そこで言葉を切ると、ホゥロを見返す。外からの光を遮っている暗い室内でも、ホゥロの白い髪と肌は、彼の存在を浮かび上がらせるように輝いて見える。
潜暗夜を経て古鳥はいま一つにまとまっているが、陰の者を受け入れようとしない者が存在しなかったわけではない。むしろ、一般的な感覚であればあるほど、近隣住民を殺した、地上の人とは異なる者たちを素直に受け入れることは難しい。
では、そんな相手を、私がどう対処したか。
その真実を知るのは、ホゥロだけだ。
「人目に付かぬように片付けておいてくれ」
「かしこまりました。主様の、御心のままに」
ホゥロの言葉に頷き、踵を返す。
人の道を外れている自覚はある。しかし私は、意識的にも無意識的にも、復讐を諦めることはできなかった。そして、陰の民の主であるという自らの立場を受け入れたのだ。
もし。
もし……いつか裁きが下るのならば。
バベルの塔の上で待っていよう。
バベルの塔の上で 三石 成 @MituisiSei
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