四 ねがい

「主様、主様っ!」

 強く体を揺さぶられ、ようやく私は正気付いた。ここは古鳥にある小学校の図書室。窓の外は暗く、潜暗夜の最中である。

 目の前に心配そうなホゥロの顔が迫っている。どうやら突然立ち尽くした私を心配して、私の顔を覗き込んでいたようだ。

「ホゥロ……私、は」

 そう言葉を漏らしてまばたきした瞬間、瞳から大粒の涙がこぼれ落ちて頬を伝う。私はハッとして、その雫を手の甲で拭った。

「ああ、よかった。気がつかれましたか。どうかなさったのですか?」

 ようやく反応した私を見て、ホゥロが安堵したように深く息を漏らす。

 溢れ出てくる涙を拭い終えてから、私はゆっくりと頭を抱えた。先ほどよりも治ってきているが、相変わらず頭痛がひどい。

「頭が痛むのですか?」

「私はあの日、見ていたのだ。私の祖父母は、ここの……古鳥の、者たちにっ」

 ホゥロから向けられた質問には答えず、思い出したことを話そうとして言葉に詰まった。改めて言葉にするのが憚られたのだ。なんとか話そうと幾度か口を開き直したが、結局は続きを口にすることができなかった。

 いま近くにいるのはホゥロだけだが、本棚をいくつか挟んだ向こう側には、真澄と妙子さんに加え、高橋さんもいる。直接的な言葉を使って、彼らの注意を引きたくはなかった。しかし、ホゥロはなにか合点がいったように微笑む。

「ようやく、準備が整ったのですね」

 予想外の反応に、私はギョッとしてホゥロを見返す。

「準備、とは?」

「事実を。主様のお祖父様、お祖母様が、いま古鳥にいる者たちによって無惨に殺されたことを、受け止めるための心の準備です」

 声が皆のところに聞こえていなかっただろうかと私は慌てて振り返りかけたが、ホゥロは相変わらず穏やかに微笑んでいる。

「ご安心ください。我はいま、神語で主様に申し上げております。我らの話し声が聞こえたところで、彼らには意味がわかりません」

 その言葉はまるで、私が『神語を話せる訳ではなく、すべての言語が日本語に聞こえている』ということを理解しているかのようであった。

「どうして、私自身たったいま思い出したことを、ホゥロが知っているのだ」

 戸惑いながら問いかけると、ホゥロは一瞬ためらうように私を見つめてから、私の肩に置いていた手を動かし、私の両手を包み込んだ。

「ホゥロ?」

「主様ご自身から、お聞きしておりました」

「……は?」

 信じられない返答に、目を瞬く。一瞬、聞き間違いをしたのかと思った。しかし、ホゥロはたしかに『主様ご自身から』と言った。

 ホゥロが主様と呼ぶのは、世界で私だけだ。つまりホゥロは、私の祖父母が古鳥の者に殺されたということを、私の口から聞いたのだと言っていることになる。

「それはいったい、いつの話だ」

「我がはじめて主様にお会いすることができた翌日の夜。主様と真澄と共に、水底に沈んだ穂地村を見に行った夜のことでございます」

 もしや私が記憶をなくしていた幼少期にホゥロに会っていたのかと思いかけたが、ホゥロの返答は、間違いなく記憶にある最近のことだった。

「嘘だ。私はあの夜、そのようなことは話していない」

「主様はたしかに、我に真実を語ってくださったのです。思い返してみてください」

 強く手を握られたまま促されて、私はあの夜のことを改めて振り返る。


 ダムを見て、真澄に手を引かれて帰ってきた私は、原因不明の頭痛に襲われ、疲労困憊のまま寝入ってしまった。

 それから夜に目が覚めた私は、なぜだか無性にホゥロのことが気になったのだ。だから、広縁から襖越しにホゥロの部屋へ向かって声をかけた。

「ホゥロ、起きているだろうか」

 部屋の中からはホゥロが動いた気配がした。返事がないままに、私は言葉を続ける。

「地下への出入り口がダムの水底に沈んでしまったこと、約束の食糧を長年渡すことができていなかったことについて、本当に申し訳なく思っている」

 ——真実を話す。ダムの建設に反対していた祖父母を殺し、かの地をダムの底に沈め、毎年欠かさず送っていた約束の品を陰の民から奪ったのは、古鳥の人間だ。

 そのとき私の口から出ていたのは、二声だった。通常の私の声と、醜く嗄れた声が同時に発されていた。しかし当時の私は、自分が二声を話している自覚などなかった。自分で自分がしていた行動を改めて認識し、衝撃を受けた私は、前にホゥロが話していたことを思い出す。

 二声を話すときは、自分が普段使っている言語に意識を乗せるため、話している本人には声が重なって聞こえることはない。つまり、あのときの私は、日本語で話している声しか認識していなかったということなのか。

「ホゥロからしたら、裏切られたように感じるだろう。しかし、私が陰の民のことについて知らなかったように、陰の民や地下の存在は、地上では知られていなかったのだ」

 ——私が十一歳のときに、彼らは祖父母を取り囲み、私の目の前で無惨に撲殺した。しかし、私は己を守るためそのことを忘れていた。この真実は、私には重すぎたからだ。

 日本語と神語の二声による独白は続く。まるで、私の中に神語を話す別の人格がいるようだ。複数言語を操る者の性格が、使用言語によって変化する感覚と近しいとでも言うのか。

「いまになってはダムをなくすことはできないし、陰の民の受けた苦しみを思うと、私には謝ることしかできないが、許して欲しい」

 ——だが、祖父母を残し逃げた夜を、迫害された日々の苦しみを消し去ることはできない。私は彼らに。古鳥の人間に復讐を、望む。

 そこまで話したときだ。頭痛があまりにも酷くなり、私はこめかみに指を押し当てて呻いた。あの頭痛は、無理に二声を話し、閉ざしていた記憶をこじ開けていたときに生じていた痛みだったのだ。

 小さな物音がして、襖が開くとホゥロが出てくる。

「ホゥロ……」

「すべて、わかりました。主様」

 ホゥロは静かに告げると、私の前に膝をついた。ひどく優しく呼びかけると、私の手をとって、手の甲に自身の額を押し当てる。

「どうした?」

「我は、主様の御心を守り、必ずやその無念を晴らします」

 当時の私は、彼の手を払いのけることはしなかったものの、ホゥロの言葉に、なにか齟齬が生じているような気がしていた。

 しかし、すべてを理解したいまとなっては、ホゥロの行動と、言葉の理由がわかる。彼は、私の祖父母の死を、そして傷つけられた私の心を悼んでくれたのだ。そして、辛い過去の記憶を封じていた私の精神をも、守ろうとしてくれていた。


「思い出されましたか?」

 ハッとして顔を上げると、私の表情を注意深く見守っていたホゥロに問いかけられる。

「ホゥロは、私が無意識のうちに二声を使って話していたことや、過去を覚えていないことに、気がついていたのか?」

「はい。主様の様子を見て、察しておりました」

「どうして、教えてくれなかったのだ」

「主様がなさるすべてのことには意味があります。主様が過去を忘れたということは、その必要があったということ。我は主様に従います。主様が自然と思い出されるまで、主様ご自身にも気づかれぬよう、我は待っておりました」

 淡々と会話を続けたあと、ホゥロはあの夜と同じように、私の目の前に膝をつき、握った手を自身の額に押し当てる。

「受け入れる器がないままに水を流し込めば、水は溢れ、周囲のものを押し流し、壊す。それは心も同じです。準備がないままに直視すれば、心が壊れてしまうほどの過去。幼き主様が感じた苦しみは、どれほどのものだったでしょう。なんと、お労しい」

 思い出した凄惨な過去。古鳥の人間への複雑な感情。自分が無意識下で放っていた言葉。すべてを理解し、ホゥロに握られた手から伝わってくる熱を感じながら、私はしばし呆然とする。

 と、そのとき。窓の外から叫び声が聞こえてきた。

「誰か。誰か、助けてくれぇっ」

 高く裏返った声は、切羽詰まった状況を感じさせる。しかし、聞きようによっては酷く間抜けだ。

 様子をたしかめるために窓辺に寄ると、校庭を突っ切り、こちらへ向かって直走ってくる一人の男性の姿が見えた。遠い上に暗くてよく見えないが、私はすぐに、彼が倉田先生であることを勘づく。彼の姿に、その声に、心臓がドクンと跳ねる。

「誰かきたのか?」

 隣にやってきた真澄が、同じように校庭を見下ろしながら問いかけてくる。

「そうらしい。おそらく、倉田先生だ」

 私の呟きに、真澄は目を見開く。

「あ、言われてみればそうだ。でも、倉田先生は町内会長だぞ。重要な立場にいる人間が、こぞって陰の民に成り代わられているいま、倉田先生が無事だったなんてことがあるか?」

「わからない」

 真澄の程する疑問に素直に答えながら窓の外を観察し続けていると、校庭に新たな人影が現れた。体格が大きい彼は、雄大さんだ。手にした大きなスコップを引きずるようにして持ちながら、余裕を感じさせる歩き方で倉田先生を追いかけている。

 雄大さんは、陰の民に成り代わられていることが確定している人物だ。彼の登場によって、倉田先生が陰の民から逃げてきたのだという事情は一瞬で読み取れた。

 その光景を目撃した途端、真澄が踵を返した。

「真澄、待て!」

「俺が戻ってくるまで戸は閉めて、ばあちゃんと高橋さんはここにいてください」

 真澄は私の静止の声を聞かず、妙子さんと高橋さんに指示を残すと、そのまま廊下へと飛び出していった。私は心に引っかかるものを感じながらも、仕方なく真澄の後を追う。確認はしなかったが、後から響いてくる足音からして、ホゥロもついてきたようだ。

 私が廊下に出たときには、真澄はすでに階段を下っていて、一階へと姿が消えるところだった。後を追って昇降口へ出ると、真澄は内側から施錠を外し、昇降口のドアを開いていた。

「倉田先生、こっちです!」

 真澄の声に誘導されて倉田先生が走ってくるが、すんでのところで足を縺れさせて転んだ。

 と、こちらへ向かって歩いてきていた雄大さんの様子が変わった。スコップを肩に担ぎ上げ、猛烈な勢いで走ってくる。その速度は、陸上のトップ選手をも超えているように感じられた。人間業ではない。

 危機感を覚え、私はすぐさま真澄の元へと走り寄った。真澄が倉田先生を校舎の中へ引きずり込んだ瞬間に昇降口のドアを閉めて鍵をかけると、一拍も置かずに大きな衝撃音が響き渡る。

 こちらへと走ってきていた雄大さんが、昇降口のドアに激突したのだ。ドアは軋みをあげたが、持ち堪えた。ドアに嵌め込まれたガラス越しに、こちらを観察している雄大さんと目が合う。

「助かった。ありがとう、大和」

「いや、真澄の対応が早かったからだ」

 こめかみから冷や汗を垂らしている真澄に礼を言われ、雄大さんの感情のない眼差しにゾッとしながらも、私は軽く首を振る。

「ああ。もうこれで入ってはこれ……」

 タイルにへたり込んだ倉田先生が私たちに続くように安堵の声を上げかけると、外の雄大さんは、担いだスコップを振りかぶった。そのまま盛大な音を立てながら、スコップの先端をガラスに打ち付けはじめる。

「ヒッ、ヒィッ!」

 倉田先生の声は、すぐさま悲鳴へと変わる。

 幸いなことに、ドアに嵌め込まれているのは防犯ガラスのようだ。すぐさま割れてしまうことはなかったが、一度の殴打でヒビが入る。

「ここを破られるのも時間の問題だ。予定どおり図書室に立て篭もるぞ。倉田先生、二階に行きましょう」

 真澄がそう声をかけながら倉田先生の体を引き上げ、彼に肩を貸して歩きだす。

 だが、私はその場に立ち尽くした。倉田先生の姿を見ると、自分の体の中に正体のわからない黒い靄のようなものが立ち込めてくるような感覚がして。

 静まり返っていた校舎の中に、雄大さんがスコップをガラスに打ち付ける音だけが断続的に響いている。

「大和、しっかりしろ! はやく戻るぞ」

「あ、ああ……」

 振り返った真澄に声をかけられ、私はやたらと重く感じる足を動かして階段を上る。ホゥロも、相変わらず黙って私のあとに続く。

 図書室に戻ると、迎え入れてくれた妙子さんが倉田先生の姿を見て、目を見開いた。

「倉田先生、怪我をされたのですか。ああ、どうしましょう、真澄」

 口元を両手で抑え、おろおろしはじめた妙子さんの言葉に、私もそこでようやく倉田先生の姿の異変に気がつく。図書室の明かりの下で見た倉田先生の服には、背中側を中心にして派手に血飛沫が飛んでいた。

 しかし、当の倉田先生は慌てた様子で首を振った。

「あ、いや。僕は、怪我はしていないよ。大丈夫だ、心配をかけてすまないね」

「そうなのですか? では、その血はどうされたのです」

 妙子さんが問いかけると、倉田先生は表情を暗くする。背後で、真澄が図書室の引き戸を閉め、鍵をかけた。そのまま図書室の電気を消す。

「話は奥でしましょう。隠れていれば、まだしばらく時間が稼げると思いますから」

 真澄に促され、全員で図書室の奥へと移動する。倉庫から出した段ボールは、俺とホゥロが積み重ねて放置したままになっている。窓のない倉庫の電気はつけっぱなしにしていたので、そこから光が漏れてきていた。

 本棚の影に隠れるようにして、全員で身を寄せ合うようにして床に座り込む。倉田先生は、低めた声で話しはじめた。

「いったいなにが起こったのか、僕にもよくわからないんだ。しかし、外はひどい有様だよ。言葉にすると馬鹿らしいが、ゾンビ映画のよう……とでも言えばいいのか」

「ゾンビ映画って、どういうことなんです?」

 眉を寄せて不安げにしている妙子さんが問いかける。

「あの正体不明のサイレンが鳴ってから、多くの住民がおかしくなってしまったんだ。包丁だのスコップだの、凶器を持って襲いかかってきた。真澄くんと大和くんは、雄大さんの様子を見ただろう? なにかに怒っているとか、誰かに恨みがあるとかいう話じゃない。化け物にでも憑かれたようで、まともじゃないんだ」

 問いかけられ、実際に雄大さんの姿を間近で見た私と真澄は頷く。『化け物に憑かれたよう』という言葉は、ある意味では正しいが、ある意味では間違っている。陰の民が体に入っているが、すでに本人は死んでいるのだ。

「家に篭っている者もいたのかもしれないが、まともな多くの者が外に出て逃げ惑っていたよ。逃げると言っても、どこに逃げればいいのかもわからない様子だったが。僕はとにかく、避難と言えば学校だろうという感覚でここに来た。おかげで助かったよ」

「しかし、怪我をしたわけではないのなら、その血はどうしたのです?」

 真澄にされた説明によって覚悟ができていたのか、妙に冷静な様子で黙って話を聞いていた高橋さんが問いかける。倉田先生は一瞬言葉に詰まってから、また一段と小さな声で話しはじめた。

「僕は妻と共に家にいて、ちょうど夕飯を食べていたんだ。サイレンが鳴って何事かと思っていると、家にスコップを担いだ雄大さんが土足のまま入ってきた。最初はなにかがあって、慌てて僕のことを呼びに来たのかと思ったんだよ。でも、彼の異変にはすぐ気がついた。言葉もなく襲いかかってきた彼から、妻と一緒に家から逃げ出したんだ」

 妻と一緒に逃げた、と言っているが、実際問題ここに倉田先生の妻はいない。その事実自体が、これから倉田先生が言わんとしていることの結論な気がした。彼の話は続く。

「家の外は、さっきも言ったような有様だったよ。そこで、おかしくなったのは雄大さんだけではないことを知ったんだ。はじめから学校に来るつもりで、妻と共に必死に逃げたんだが……妻は元々足が悪い。雄大さんにすぐ追い付かれてしまってね」

 語尾に近づくほどに声はくぐもり、倉田先生はついに黙り込んだ。つまり、彼の服についている血は彼の妻のものだということなのだろう。

「奥さんを、見捨てたんですね」

 重苦しい沈黙を破り、冷淡な声音で言い放ったのは高橋さんだった。彼女の強い言葉に、この場にいる全員が驚いた。

「な、何てことを言うんだ。たしかに、結果として僕は妻を助けられなかったかもしれない。しかし、僕は彼女を庇おうとしたんだ。ただ、間に合わなかった。僕はそのことを悔やんで……」

 倉田先生が眉を吊り上げ反論の声を上げる。その言葉の途中で、まるで表情が凍りついてしまったかのように、無感情のままの高橋さんが言葉を挟む。

「では、なぜ血が付着しているのがあなたの背中側なのですか?」

「なぜって、そんなことを言われてもだね」

「足の悪い奥さんがあなたのすぐ後ろを追いかけてくる。その奥さんめがけて雄大さんがスコップを振り下ろす。あなたは振り返ることもなく、奥さんを標的にした雄大さんが足止めされたのをいいことに逃げたのでしょう。そうでなければ、他人の血はそんな風にはつかないんですよ」

 淡々と言葉を連ねる高橋さんの様子に、この場にいる全員が本格的な違和感を覚え出したときだった。

 高橋さんは倉田先生の背後に回り込むと、彼の首元に腕を回して無理やり立たせて体を拘束した。そのまま、どこかから取り出したナイフを握りしめ、倉田先生の胸にナイフの切っ先を突きつける。

 あまりにも急なことで、倉田先生はなにが起こったかわからなかったようだ。悲鳴を上げることもなく、高橋さんに体を掴まれたまま身を竦ませている。

「高橋さん!」

「動かないで」

 すぐさま反応したのは真澄だ。彼が立ち上がり身構えた瞬間、高橋さんは間髪入れずに告げた。大声ではなく、語気が強いわけでもない。それでも、彼女の声には妙な迫力があり、真澄の行動をすぐさま制止させる。

「どうしたんですか。やめてください、高橋さん」

 落ち着かせようと私が声をかけると、彼女はゆっくりと首を回した。そして、真澄と共に立ち上がっていた私をまっすぐに見つめる。

「それは真の命令ですか、主様」

 ——それは真の命令ですか、主様。

 彼女の口から出てきたのは、二声だった。しかし、元の高橋さんの声も、嗄れた声も、両方で同じ内容を話している。

「主様って……」

 真澄が不思議そうに呟きを漏らし、そして黙り込んだ。すでに高橋さんが陰の民に成り代わられていたことを悟ったのだ。

「命令って、どういう意味ですか。はじめから、あなたは私が陰の民の主だと思っていたのですか?」

 真澄の様子を横目に見ながら、私は彼女に問いかける。私が柏商店で襲われかけたことからもわかるとおり、ホゥロ以外の陰の民は、私のことを主だとは認識していなかったからだ。

 しかし、高橋さんは倉田先生の胸にナイフの切先を突きつけたまましっかりと頷いた。

「はい。十日前のあの日、私は森の中で主様からのご命令を聞きました。主様は、古鳥の人間への復讐を願われた。だから私たちは、潜暗夜を開始したのです」

 ——はい。十日前のあの日、私は森の中で主様からのご命令を聞きました。主様は、古鳥の人間への復讐を願われた。だから我らは、潜暗夜を開始したのです。

 二声で続けられる高橋さんの言葉をトリガーにして、私の中に、また過去の記憶が蘇ってくる。


 古鳥に来てから、私はたびたび原因不明の頭痛を感じていた。しかし、頭痛は意味もなく発生しているものではなかった。私が頭痛を感じていたのは、すべて私が無意識に二声を発していたときだったのだ。

 はじめは、真澄とホゥロと共にダムの底に沈んだ穂地村を見たときだ。猫のような鳴き声に重なり、あのとき初めて私は二声を聞いた。

 そして、応えるように二声で答えたのだ。

「あれはきっと、猫じゃない」

 ——古鳥の人間へ、復讐を果たせ。

 と。

 潜暗夜を望み、いま外で古鳥の人々を死においやっているのは、はじめから、私自身だった。


「二日前の夜に、私共は長より主様が置かれている状況を聞いておりました。だからこそ、主様にお会いしてからも今まで様子を見ていたのです」

 ——二日前の夜に、私共は長より主様が置かれている状況を聞いておりました。だからこそ、主様にお会いしてからも今まで様子を見ていたのです。

 陰の民が言う長というのは、ホゥロのことだ。そして、二日前の夜とは、ホゥロを加藤家に残してきた日。ホゥロはあの晩、陰の民に私が記憶を失っていることを伝えていたのか。

「しかし……」

「頼む、助けてくれ!」

 高橋さんの言葉はなおも続こうとしていたが、唐突に倉田先生が叫ぶ。その声に反応するように、高橋さんの握ったナイフが彼の胸元に僅かに沈んだ。彼のポロシャツにジワリと血が滲む。

「ぎゃああっ。痛い、痛い!」

 倉田先生の叫び声。老齢とはいえ男である彼がもがいても、高橋さんの拘束が揺らぐことはない。彼女は二声で淡々と言葉を紡ぐ。

「主様、ご命令を。この男は殺すべき敵ですね?」

 ——主様、ご命令を。この男は殺すべき敵ですね? 

「早く止めてくれ、大和」

 隣から声をかけてくるのは真澄だ。彼の眼差しは、私が高橋さんを制止する言葉をかけるに違いないと、信じきっている。

 遠く、ガラスの割れる音がする。おそらく、雄大さんが校舎内に入ってきたのだ。

「やめてくれ、頼む。やめてくれ!」

 倉田先生の訴えは続く。その痛切な声に、猿の面をつけた者達に囲まれ、石で殴られ続け、赤黒い物体と成り果てていた祖父があげていた痛切な声が重なった。

『やめ、てくれ。頼む……雪は、や、めてくれ』

 たった今、本当に耳で聞いているかのように、頭の中に響く声。しかし祖父の身の切るような訴えも虚しく、祖母の頭は叩き割られた。その石を振り下ろしていたのは、誰だ。

「おじいちゃん……」

 漏れたのは、私の声だったのだろうか。

 ふと、妙子さんが堰を切ったように泣きはじめる。元より小さな体をいっそう縮めるように丸め、啜り泣きの声を上げる。

「すまない、すまない、大和。本当に、すまなかった……」

 泣き声に混じり、妙子さんが繰り返し漏らすのは、謝罪の言葉。つまり彼女は、なぜ私が高橋さんを制止することを躊躇っているのかを、理解している。

 そうか、と。深く息が漏れた。

「大和、どうしたんだよ! よくわかんねぇけど、お前が命令したら高橋さんは、潜暗夜は、止まるんだろ? 潜暗夜を止めようって、いままでいろいろやってきたんじゃねぇか」

 真澄が痺れを切らしたように俺に詰め寄ろうとこちらへ体を向けたが、その前にホゥロが立ち塞がった。

「主様に強要するな」

「強要って何だ。大和は潜暗夜なんて望んでねぇよ。なあ、そうだろう?」

 真澄の声は確信に満ちているが、私はひどく揺らいでいた。

 目の前にいる倉田先生への憎しみ、祖父母を死に追いやった者たちへの復讐心は薄れることなく私の中にある。しかし真澄の信頼を裏切りたくはない。古鳥の人間とはいえ、真澄にはなにも罪はない。

「私は……」

「どうか主様の、御心のままに」

 言葉に詰まる私に、ホゥロが背を向けたまま、低く告げる。

 人の痛切な叫び声、なにかの破壊音、異様に長く響くクラクション。窓の外の騒ぎは続いている。騒動が学校に近づいているのか、純粋に広がっているのか、物音は先ほどよりも大きくなっているようだ。しかしそれらの現実が、ひどく遠くに感じられる。

 それは、一瞬のことだったのかもしれない。しかし、私にはとても長く感じる時間が経った。

 発すべき言葉を決め、私はついに口を開く。頭の奥で、鈍い痛みが疼いていた。

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