三 よまつり

 太陽が山の向こうに落ちきり、夜がやってきた。奉納行に参加していた者の一部は、一条家——私と祖父母が暮らす家に集まっている。皆で穂実祭の締めくくりとして宴会を行うことになったのだ。

 平屋の家は、すべての部屋を仕切っている襖を取り払ってしまうとかなり大きな空間になる。それでも家の広さの限界の関係で全員が残ることはできなかったのだが、帰って行った者たちも、全員が穂地村から離れることを名残惜しそうにしていた程、今回の奉納行は穂地村としての一体感が高まる良いものだった。

「やはり、穂地村をダムにする工事は今からでも止めさせるべきなのではないかと、改めて思わされたよ」

 帰っていく者の何人かにそのような言葉をかけられると、祖父は嬉しそうに笑い、時折感極まった様子で涙ぐんでいた。

 もともと祖母が夕飯用にと用意していた食事は三人分しかなかったため、集まった女性たちが率先して多くの料理を作ってくれた。食材と酒も、今回集まってくれた者達が持ち込んできてくれたものだ。食材の量は多く、また質も特上だった。

 私たちに数々の度が過ぎた嫌がらせをしてきた者の犯人は、二人や三人どころではない集団であり、かつ、穂地村か古鳥の人間で間違いない。つまり、今日集まった者の中にいると考えてまず間違いない。しかし、今日の祭りへの献身ぶりを見ていると、嫌がらせの数々が夢幻だったのではないかとさえ思えた。

 そんな複雑な心境を抱えながら、私もまた集まった村人たちに混じり、宴会場の端で豪華な料理を味わっていた。隣には久しぶりに会った親友の真澄がいて、いつものように気の置けない会話をする。多くの人が集まって食事と酒を楽しんでいる様子は実に賑やかだ。

 楽しい、と。私は久しぶりに心の底からそう感じていた。


 宴会がはじまって一時間ほどが経った頃、多くの人に囲まれていた祖父が私の元へとやってきた。

「大和、夜に花火をやろうと約束していただろう? でも、じいちゃんはこれから大切な話し合いをしなくてはならなくなってしまってな。一緒にできないんだ。ばあちゃんも、いろいろと忙しくなってしまったし、真澄とやっておいで。用意していた花火は離れの倉庫に置いてあるから、よければ取りに行きなさい」

 飲酒の習慣がない祖父は、久しぶりに飲んだ酒気にあてられて、顔がすっかり赤くなっている。しかし、口調はいつもと変わらずしっかりとしたもので、歩く様子にもおかしなところはない。

「わーい! 大和、花火やろうぜ」

 私の横で祖父の話を聞いていた真澄が、元気に声をあげて立ち上がる。つられたように私も笑って頷いたが、気になることがあり、一度祖父へと視線を戻す。

「おじいちゃん。喧嘩は、しないでね」

 普段そういった意見めいたことを言わない私にしては、珍しい発言だった。この場の雰囲気が壊れることを危惧するほど、賑やかな宴会が楽しかったのだ。

 祖父は目尻に皺を刻みながら微笑んで頷く。

「ああ、わかっているさ。大丈夫、話し合いは外でやるよ。それに、今日はいい方向に話が進みそうなんだ。大和、今日こそじいちゃんが穂地村を守ってやるからな」

 祖父の自信に満ちた言葉に、私は心底安堵した。今日こそ、嫌がらせに苦しみ抜いた、鬱屈した日々が終わるのだ。

「ありがとう、おじいちゃん」

 祖父もまた嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。くしゃくしゃと、私の髪を混ぜるように頭を撫でてくれる手が力強く、優しい。

 それから祖父は私から手を離すと、倉田先生を含む数人と共に家から出て行く。大して体格が良いわけではない祖父の背中が、頼もしいものに見えた。

 そのとき。

 私は、宴会に参加している人数が、先ほどよりも減っていることに気がついた。いましがた出て行った祖父と、その数人だけではない。粗方の料理が終わり、台所に詰めていた女性たちも戻ってきているのに、それでも宴会場にいる全体の人数が減っているのだ。

 なにか胸の奥で燻るような不安感があり、ついぼうっとあたりを見ていると、横から真澄に揺さぶられる。

「やーまーと、はやく花火しようぜ、花火」

「あ。うん、そうだね。花火とってくるから、ちょっと待ってて」

「やったー!」

 真澄はまた嬉しそうに腕を上げる。私と同じまだ十一歳の真澄は当然ながら酒など飲んでいないが、いつもよりもさらにテンションが高い。どうも、宴会の雰囲気に影響を受けているようだ。

 私は小さく笑いながら立ち上がり、宴会場を離れる。すると、喧騒と共に灯りも遠くなり、夜の静けさが急に身に迫ってきた。

 離れにつながる渡り廊下を歩いていたとき。ふと、庭から声が聞こえてくることに気がついた。私のいる渡り廊下も、話し声がする庭も、暗闇に沈んでいる。庭にいるのが誰かはわからないが、宴会場から一時的に抜け出て、夜風に当たって酔いを覚ましている者がいてもおかしくはない。

 庭にいる人物について深く気にすることなく離れに入ろうとしたそのとき、不穏な単語が耳に飛び込んでくる。

「本当に殺しちまうのか」

 暗闇の中。その声は後めたいものを感じさせるように低められているが、私の耳には不思議とよく聞こえた。

「説得をはじめてから、もう何年経ったと思ってる。あいつはどんなことをしても根を上げない。物理的にいなくなってもらう以外に道はないんだ。ダムの工事は進んでるってのに、ダムとして完成しなけりゃ補償金は出ない。みんな迷惑してんだよ」

「しかし、いくらなんでもやりすぎじゃないか」

「どうせ、あともう何年生きるかもわからない老いぼれさ。これ以上計画が長引いたら、先に越した俺たちに補償金が出なくなるかもしれない。ここで皆の役に立ってもらった方が本人も幸せだろう」

「そうだろうか」

「周りのことを考えずに強情を貫き通した自業自得ってやつさ。それに、お前さんのところだって、借金があって大変だと、言っていたじゃないか。補償金が出なかったら困るだろ」

 押し殺した囁きのような会話の末、異議を唱えていた方の男性が、痛いところを突かれたように黙り込む。

「村長も駐在さんも、全員が俺たちの仲間だ。なにがあっても事故ってことになる。それに、なにも一家皆殺しにしようってわけじゃない。じいさんさえ事故で死んじまえば、あとの二人はきっとすぐに引っ越すに決まってるんだ」

「ああ、そうだよな。これは不幸な事故なんだよな」

「そうさ。守神がどうだとか、時代錯誤なことばっかり言って、みんなに迷惑をかけたバチが当たったのさ。頭のおかしい老人が一人いなくなったところで、なんの影響がある? そもそも住民の承諾が取れてないのに早々と工事が始まってる段階で、お上だってこうするつもりだったのよ」

「そうだそうだ。そのとおりだ」

 はじめは懐疑的だった態度の男性も、ついにはすっかり同調の声を上げる。その様は、まるで己をも騙し込んでいるようである。

 会話の途中から、盗み聞きをしている私の足はガクガクと震え出していた。彼らがなにを話しているのか、その内容がわからないようで、わかってしまう。この者たちは、いつまでもダム建設に反対し続け、穂地村に残る祖父を殺そうとしているのだ。

 ふと脳裏をよぎったのは、さきほど宴会場を出ていった祖父の後ろ姿だ。心臓が早鐘を打ち、震えるほどの悪寒を覚えた。

 私は息を殺しながら、渡り廊下からそっと外に出た。気配を消しながら声が聞こえていた方とは逆の方向へと歩き、家の周辺を見て回るが、あたりに祖父の姿はない。一刻も早く祖父を見つけなければならなかった。祖父に、身に迫る危険を教えなくてはならない。

 私は身に張り詰めた恐怖と緊張から息を切らし、渡り廊下専用の大きなサンダルを引きずり歩いた。祖父を探し、次第に山の中へと入っていく。

 外に出る気もないまま出てきてしまったので、私は灯りになるような物をなにも持っていない。夜の森は完全なる闇に沈み、重苦しい気配が漂っている。それでも、深い山の中へと入っていく足を止める気にはならなかった。祖父はこちらの方向にいると、なぜだか根拠のない確信があった。

 祖父を探し回って、かなりの時間が経っただろう。秋の夜は寒いほどなのに、服の下にびっしょりと汗をかいている。方向感覚がわからなくなるほどの暗闇の中、息が上がり、意識が朦朧としてきた。

 そのとき、耳に人の声が届く。

「こっちだよ」

 そう、暗い山の中で私を呼んだのは誰だったのか。当時の私は声の主を気にすることもなく、呼ばれた方向へと足を進めた。

 不意に、進行方向から奇妙な物音が聞こえ、本能で茂みに身を隠す。息を殺し、枝葉の隙間からそうっと覗き込む。茂みの向こうに、たくさんの猿がいた。


 皺の深い猿のお面が張り付いた布を頭から被った大人たちが、なにかを取り囲んでいる。猿たちは一言も発することなく、手にした石で順々になにかを叩き続けていた。殴打する鈍い音と共に、どこか水気を含んだ粘着性のある音が微かに続く。それは、何か目的があってしている行為というよりは、猿たちの鬱憤を晴らす行動であるように見えた。

 目の前でなにが起こっているのかわからずに私が体を硬直させていると、猿たちの足元から、今にも消え入りそうな声がする。

「やめて……くれ」

 私は総毛立つ。声は祖父のものだった。猿たちに叩かれているあの赤黒いものは、祖父の体なのだ。そのあまりの衝撃に眩暈がした瞬間、喉が物理的に塞がれたような感覚がした。ストレスから発した喘息だ。呼吸ができなくなり、息苦しさに咳き込んでしまう。と、いままで続いていた殴打音が途絶える。あたりに走る一瞬の静寂。

「そこにいるのは誰だ」

 猿の一人があげた声に、心臓が跳ね上がる。

 その瞬間、背後から口元を手で塞がれた。反射的に振り返ると、そこには祖母がいた。目の前の光景に見入るあまり触れられるまでまったく気がついていなかったが、私がいなくなったことに気がつき、探しにきていたのだろう。彼女は目にいっぱいの涙を溜め、首を振って私になにかを訴えている。

 至近距離から足音がした。誰何すいかの声をあげた猿が、こちらに向かって様子を確認しにきたのだ。

 と、そのとき。祖母が立ち上がり、茂みから出ていった。

 祖母はそのまま猿の前に走り寄り、頭を地面に擦り付けて土下座する。

「どうか、どうか主人を助けてください。すべて忘れます。私たちはここであったことのすべてを忘れて、どこか別の場所に行きますから。どこか別の場所で、生きていきますから。私たちはなにも見ませんでした、聞きませんでした、ただ森で迷ってしまっただけです。お願いだから、すべてを、忘れて、幸せに、暮らして!」

 祖母の、異様なほどに大きな声。私は、その決死の言葉が他でもない自分へ向けられたものであることに気づいていた。

 こちらに近づいてきていた猿が、握った石を振り上げ、下ろす。

 低く鈍い殴打音。

「おぐっぇ……」

 短く上がった祖母の声は、嗚咽とも悲鳴とも言えないものだった。

「やめ、てくれ。頼む……雪は、や、めてくれ」

 まるで溺れているかのように、息も絶え絶えに、ゴポゴポと時折不思議な音を漏らしながら、それでも僅かに残った力を振り絞って祖父が訴える。

 二人を取り囲んだ猿が、次々と彼らに石を振り下ろす。

 鈍い音、硬質ななにかにぶつかる音の次に響くのは、粘着質な水音。それらの音と共に上がる、聞くに耐えない声を耳にしながら……私は、踵を返した。

 辛うじてその場から動くことができたのは、祖母が最期に告げた、切なる訴えがあったからだ。私をこの場から生かして逃すために、祖母はあの言葉に全身全霊を注いでいた。

 私は、彼女の声に応えなければならない。

 祖父母の声が背後で途絶える。物音を立てないように息を殺して、私はその場から立ち去った。止めることのできない大粒の涙がいくつも頬を伝って落ちていく。闇は私の涙を隠してくれるが、泣き声を上げることはできない。

 私は、この暗い森のあちこちに猿が潜んでいることを気づいていた。もし、祖父母が殺された場面を目撃したのだということを知られてしまったら、猿たちは祖父母と共に私も殺すだろう。

 祖母の残した切なる願いを、私は一人、背負わねばならなかった。

 ここに来るまでは、祖父を探してうろうろとしながら山を登っていたが、帰りは下へ向かう道を選んで歩いていくだけだ。

 周囲から注がれる、絡みつくような視線を感じながらしばらく進むと、前方から眩い懐中電灯の光を当てられた。

「あーっ、大和いた! こんなとこで、なにしてたんだよ。皆で探してたんだぞ」

 突然感じた光に思わず体を竦ませたが、私の元に走り寄ってきたのは、真澄ただ一人だった。真澄は懐中電灯で私の顔を照らし、私が泣いていたことに気がついたはずだ。しかし、彼はそのことについていっさい触れなかった。

「歩けるか? 帰るぞ。ほら、手繋いでやるから」

 真澄は私の手をしっかりと握ると、来た道を引き返して山を下っていく。繋いだ手から伝わってくるのは、私よりも高い真澄の体温だ。

「雪さんも大和のこと探しに行ったんだぜ。戻る途中で会えるといいんだけど」

 私の手を引いて歩きながら、真澄が言う。その言葉に、私は漏れそうになる嗚咽をグッと堪えた。血が滲むほど強く下唇を噛み、涙さえも堪える。先ほど目撃した光景を、私は忘れなければならない。自然と、繋いだ手が小刻みに震える。

 真澄は前方を懐中電灯の光で照らしながら、チラリと私を振り返って、また前を向いた。真澄がなにを察し、考えていたのかはわからない。ただそれからは、お互いに無言のまま。頬を濡らしていた涙を、私は浴衣の袖でグイと拭った。

 しばらく森の中を行き、村で唯一、煌々と灯りがついている家にたどり着くと、私のことを心配していたという大人たちに手厚く迎え入れられた。

 私がいなくなったことに真澄が気がつき、宴会はそのまま、私を捜索する会へと変わっていたらしい。放置された座卓の上には、あまりにも豪華すぎる料理の数々が並んでいる。まるで、生贄にする家畜へ最後の晩餐を与えるように。

「見つかってよかった」

「夜の森は怖かっただろう」

「どこも怪我はしていないな」

「無事でよかった」

 大人たちから口々に優しい言葉をかけられるたび、心と思考が体から離れていく。森の中とは比較にならないほどの光に包まれながら、夢を見ているような心地になってぼうっとしていたとき、背後から声をかけられた。

「おお、大和くん見つかったか。よかったよかった」

 それは、あのとき茂みの向こうから『そこにいるのは誰だ』と問うた猿と同じ声だった。体を大きく震わせ、ゆっくりと振り向くと、声の主を見る。

 玄関口に、懐中電灯を片手に家に戻ってきた倉田先生の姿があった。まさしく、行方不明になった私をいままで探していたという雰囲気だ。

「いったい、なにをしに行っていたんだい?」

 目の前まで近づいてきた倉田先生に問いかけられたが、私はその質問に答えることができなかった。大人たちの視線が集まる中、私に代わって質問に答えたのは真澄だ。

「おれと花火できそうな穴場探しに行ったら、うっかり山に入って迷子になっちまったんだってさ」

「なんだ、そうだったのかい。危ないから、草木の多いところで花火をしてはいけないよ。火事になってしまうからね」

 倉田先生は柔和に微笑むと、手を伸ばして私の頭をクシャリと軽く撫でる。その手の感触に、思いだす。同じ行為を、家を出ていく前の祖父がしてくれた。

「無事でよかった」

 頭上からかけられる倉田先生の声。

 猿と同じ声だ。

 瞬間、私の精神は臨界点を超えた。

 全身の力が抜け、その場に崩れ落ちるようにして意識を失う。


 それから二日後。

 あの夜から行方不明とされていた祖父母は、村人たちによる捜索の末に、崖の下から共に遺体となって見つかった。二人は穂実祭の夜に山の中で迷子になった私を探しに出て、そのまま道を誤り転落したと結論づけられた。

 高所からの落下のせいで、遺体の損傷は激しかったという。また、彼らの死に繋がる原因が私の迷子であるとされたことにより、私が負い目を感じることがないようにという謎の配慮が為され、葬儀も行われることはなく、発見されたその日のうちに古鳥の火葬場で火葬された。

 これらの“事実”はすべて、私のそばで、倉田先生を含む村人たちが話していたことを聞いていたものである。

 “迷子”になった恐怖で気絶したとされた私は、穂実祭から後、三日間にわたって目を覚まさなかったからだ。しかし、私は完全に気を失っていたわけではない。ただ、夢現が入り混じる状態で意識の狭間を揺蕩っていたのだ。その空白の期間によって、私の中で記憶の整理が行われた。


 東京から父親が迎えにきたことにより、私は周囲から見れば意識がないままに穂地村を後にする。そして、東京についた翌日に目を覚ましたとき、私は真にすべてを忘れ去っていた。

 それは、祖母の願いどおりに。

 或いは、願い以上に。

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