臨月

高黄森哉

臨月


 雨が降っていた。水にぬれた黒い砂利は、高級車の黄ばんだヘッドライトに照らされて、てらてらと光っていた。がしゃりがしゃりと、固い靴が小石を踏む。黒服の人間達が、和風の葬儀場の前に蠢いていた。

 ある老婆が一昨日、死んだ。死因は心臓発作だった。この女の葬儀に駆け付けた人間の数は、普通のそれと同程度だった。しかし、彼女が身寄りのない孤独の老婆であったことを考えると、その数は多いくらいである。


「伊藤さん、本当に死んじゃったんだね」


 若い女はそういって、配偶者と思わしき男の肩に身を寄せた。黒い傘は、端から雨粒を絶え間なく、落下させていた。黒い生地の裏側から雨水の流れが透けていて、墨汁が雨として落下してきたかのように思われた。


「ああ。死んだ。でも、最後に俺達を助けてくれたんだ」


 老婆は霊媒師だった。彼女は、見えてはいけないものが見えるという、特殊体質の持ち主であった。それに気が付いたのは幼い頃で、戦後は沢山の兵隊の霊が、そこらへんに浮遊していたようだ。それはまるで軍服色の風船が、空に無数に飛んでいるような、光景だったという。


 彼らが老婆の元を訪れたのは、数日前だった。


 この傘を共有する男と女は、幸福な日々を送っていたのだが、ある日、事件が起きた。それは娘の死産だ。その日から女は精神を病んでしまう。しかし彼女はもう一度、妊娠する。新たな命の芽生えに、女は、平常を取り戻していった。

 不思議なのは、男はあれ以来、性交渉をしていないということだ。かといって、家に引きこもっていた彼女が、他の男と出会っていたとは、まったく考えにくい。また、配偶者はキリスト教徒ではないので処女懐胎ということもない。最後に男が思い至ったのは、想像妊娠だった。

 想像妊娠。それは実際に妊娠しているわけではないのに、妊娠しているかのような症状が出ること。実際に臨月になることもある。実際に、臨月になるのが二か月と早すぎたし、お腹に耳を当てど、命の胎動を感じることはなかった。やはりこれは想像妊娠だ。

 ここで問題なのは、配偶者が病院で科学的な説明を聞かされれば、納得するタイプでないということだ。それに、病院に行ったからと言って、想像妊娠では、クスリが処方されるわけでもない。なので男は知恵を巡らして、霊媒師の下に訪れて除霊してもらう、という方法を選択したのだった。作戦はこうだ。なんとか、お腹の子を死んだ娘だと霊媒師に信じさせて、供養してもらうことで、症状を改善させる。そしてその日がやってきた。


「ふむ、確かにお腹に子供がいるようじゃな。まあ、お前さんの娘ではないようだが。しかし、世の中には生まれたくない子供もいてな。単なる本人の選択じゃよ。そういった子供は決して親を恨まない。だから、お前さんの娘ではないな」


 男は期待していた言葉と違うかったものの、生まれたくない子供、その解釈には、心がすっと軽くなるような気がした。と同時に、誰、という疑問もわいた。勿論、オカルトを肯定しているわけではないが、ただお金を払って相談している以上、元は取っておきたいのである。だから、男は子供の身元を尋ねた。


「誰かまでは分からない。その土地のいわくを調べなければ。ただ、これは相当な悪霊じゃ。流すなら、相当な荒治療となる。徹夜で取り組まねばならん」

「泊まりですか」


 彼の妻は心配そうに尋ねた。この和風の部屋には、優しい線香の香りが漂っているが、不気味な天井のシミや、いわくの有りそうなきんちゃく袋、のうめんなどがあり、なんとなく落ち着かない。


「遠くからでも出来る。この際、距離は関係ない。むしろ離れていた方が好都合じゃ」


 男の心配は別にあった。


「いくらになりますか」

「ざっと三つというところじゃ」


 三万円。少し考えてから男は了承した。ここで金を払わなければ、ここまでの苦労が水の泡になるかもしれない。安心料、安心料。男はまるで心の借金を背負ったかのように感じた。


「必ず除霊できるとは限らんぞ。なにせ、現世に干渉できるほどの実力じゃ。おそらく生前は儂のような霊能力者、もしくは超能力者だったのじゃろう。しかも、儂よりもずっと力の強い。死んでること、子供であることが救いじゃな。しかし、必ずしも除霊できるとは、」

「お願いします」


 踏ん切りがつかない妻の代わりに、夫が同意した。彼女の子供であるし、二回も天国に送ってしまうのは、苦しいだろうが、いつまでもこんな具合ではいけない。


「よかろう。ただ一つ守って欲しいのは」


 彼女は妻をかっと見つめた。茶色の虹彩は鮮やかで、光の加減か鬼灯ほおずき色をしていた。いや、それどころじゃない。トウゴマみたいだ。


「子供を産もうとは決して思わない事じゃ。いいな」

「はい。誓います」


 妻は言った。

 その次の日だった。老婆が死んだのは。


 彼は葬儀場の前で、ここまでの回想を終えた。雨音がまるでホワイトノイズかのようによみがえる。雨は降り続いていた。空は排気ガスの綿飴のような、陰鬱な姿で堆積している。雨雲の薄い部分は、ほの光りしていた。


「あの人はちゃんと除霊してくれた。だから、もう心配することはない」


 彼は妻に言った。妻は涙を流していた。その彼女のお腹はすっかり元通りである。今日の朝、起きたら、このようになっていたのだ。つまり除霊は成功したのである。老婆は戦いに勝ったのだ。


「うん」


 肩に熱い涙の液体が浸透するのを感じる。雨の冷たい飛沫が、足に絡みついた。彼女は、夫の顔を上目遣いで確認する。どうも様子がおかしい。じっと目を凝らしているようだ。


「なあ。本当に産みたいと、思わなかったんだな」


 彼女は答えなかった。この世の中に産みたくない母親なんて、いるんだろうか。老婆は簡単に言ったが、それは彼女が独身だったが故の軽視ではなかったか。

 アジサイの茂みの向こうに、白黒写真で取ったかのような血色の悪い子供が此方を向き、口を限界まで開けて佇んでいる。目は瞼まで塗りつぶされたかのように黒い。そして、周りはその子供に気づかない。母親以外は誰も。除霊は失敗した。彼女のお腹の子供は退治されたのではない、ただ単に産まれたのだ。

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臨月 高黄森哉 @kamikawa2001

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