雪解けの季節 〜心の和解〜 完結編
向井慶太
第1話
雪解けの季節 〜心の和解〜 完結編
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まえがき
国内最大手証券の敏腕為替ディーラーの大澤は常連になっていたラウンジで大学の後輩でもあるさとみと出会う。
2人は惹かれ合うが幸せな時間は短く大澤は理由も告げず一方的に連絡を断ってしまう。
さとみは大澤と同じフィールドで活躍することで彼への思いを断ち切ろうと考え同じ会社の入社試験に挑み見事に合格を果たす。
さとみは才能を発揮しその活躍は誰もが知るところになっていく。
そして、それは大澤との再会に繋がっていくのだった。
********************
やっとここまで来た、、、
さとみはそう思いながら口元を緩めた。
愛情深いのか、さとみの唇は平均的な女子と比べると、やや厚めで、その上唇のところにはホクロが二つならんでいる。
大学卒業間際のわりに、大人の雰囲気が表情に感じられるのはそのせいかもしれない。
「大原さん、大原さとみさん。」
国内最大手投資銀行の新卒採用最終面接が始まろうとしている。
大学受験を契機に、雪深い東北の地方都市から東京へ生活エリアを移してから三年半、さとみはどうしても、今から挑む最終面接を通過しこの野沢証券に入社したかった。
野沢証券で働くこと、それが自分を取り戻す為にどうしても必要だと考えていた。
控え室のさとみは両膝をしっかり合わせ、背筋は反るほどに、まるで頭を天井から引っ張られているかのように伸ばし、両手は合わせた両膝とおへそを結んだ真ん中に、右手の甲を上に重ね誰よりも美しい姿勢を保っていた。
待ち時間が一時間以上に及んでいるにも関わらずずっと。
さとみはそんな自分に気付くと、これもエレガントでのバイトで培われたものだと少し複雑な笑みを浮かべた。
「大原さん、大原さとみさん。」
「はい。」
人事担当の女性に三回呼ばれ、ようやく返事をした。
聞こえていなかったわけではない。自分でも何故すぐに返事をしなかったのか、、、、、はっきり分からずにいた。
あまりにこの刹那に辿りつくまでが長く、最終面接の為自分を呼ぶ声を楽しんでいたのかも知れない。
そして、今、最終面接会場の重い扉が目の前にある。
重厚な扉が開けられ導かれたその中には、それぞれに違う威圧感を纏った役員級の重鎮が五人、品定めをするかのような目付きで座っていた。
しかし、
実質的な面接は既に終わっていた。
肩下まであるストレートの艶やかな髪を揺らしながら、ポツンと一つある椅子に座ろうとするさとみに五人の面接官は目を奪われてしまっていた。
そう、さとみは容姿端麗でありそのボディラインは理想的なものだった。
表情は、愛らしくもどこか憂いを含み大人の雰囲気を感じさせるには十分なものであった。
また身のこなしは滑らかであり、しかも無駄にキビキビしたものではない。
さとみは、、、
そう、面接室に入って僅か数秒で合格を手にしていた。
面接を終え帰途についたさとみは淡い期待を抱いていた。
面接は野沢証券の本社で行われていたからだ。
大澤に会えるかもしれない。
突然さとみの前から姿を消し音信不通になった大澤。
投資銀行である野沢証券の業務は大きく分けて、ブローカー業務とアンダーライティング業務の2つ。
大澤はブローカー業務の中、対顧客の為ディーラーだった。
大学で経済学部に籍を置いているさとみにとって、憧れであり、尊敬の対象だった。
そう、大澤が突然音信不通になるまでは。
そのディーリングルームはこの本社の中にある。
偶然あったらどうしよう。
さとみは期待と相反する不安が混在した複雑な気持ちのままエレベーターに乗り込んだ。
18階でエレベーターが止まった。野沢証券の社員が乗り込んできたのだ。
手にはドル円のチャートを持っていた。その肩越しに、廊下を歩く後ろ姿、、、
思わずエレベーターを降りたくなる衝動にかられた。
間違いなく大澤だ。
でも、、、
何も言うことがない。。。
突然消えたあの日からさとみの中で大澤との時間は止まったまま。
いいえ、寧ろ、切なさの中に憎しみに似た感情が芽生え始めていた。
翌日、高田馬場のキャンパスにいたさとみの携帯が鳴った。
「はい、大原です。」
「野沢証券採用担当の鈴木です。昨日の面接の結果、採用を内定とさせて頂きます。」
「ありがとうございます。」
「入社まで何度か連絡させて頂くと思いますがこちらの連絡先でよろしいですか、、、、、」
・・・・・
特に気分的な高揚は感じなかった。昨日の面接の感触から、内定は既に折り込み済みの事実だった。
さとみのカバンの中には数カ月前から証券アナリスト一次試験の参考書が入っていた。
特に目先の試験を受ける意識はなく目的は知識の習得だった。
忘れていたが内定の連絡をきっかけに、昨日の後ろ姿が脳裏に蘇ってきた。
突然消えた人。
恨んでいるわけではない???
憎悪、、、
自分の前から突然消えたからじゃない。
あんな無機質なことをする人に憧れや尊敬の念を抱き一時心を奪われた自分に腹が立っていた。
自己に対する嫌悪、、、
淡い期待、憎悪、嫌悪、複雑に変化する気持ちの中、唯一はっきりしているのは、自分を確かめたいという思い。
そして、それらをはっきりさせながら、そんな自分を踏み台にしたかった。
きっかけは別にして興味を持った世界で自己実現を果たすこと。
それが実感できるのはあの大澤を超えた時だと漠然と考えるようになっていた。
野沢証券の内定を得たことで、さとみはこれまでにない複雑な心境に陥っていた。
私は未だに大澤に拘ったままなのか?
突然音信不通になり姿を消した人。その後、一切連絡はない。
あまりに無機質なそのやり方が、かえって心の整理をしやすくしたはず。
もう一年近く前のことだった。
自分は精神的に自立していて、女としての感情は横に置ける大人。
辛くなかったと言えば嘘になるけれど、時間効果でそれらは風化し、経済人、敏腕為替トレーダーとしての尊敬だけを切り取ることが出来る、割り切った思考をもったクレバーな女性。
そうでなければいくら国内最大手であっても、大澤がいる野沢証券を自分の成長の舞台に選ぶわけがない、さとみは自分をそう捉えていた。
淡い期待、、、
会えるかもしれない、、、
敏腕為替トレーダーとして、男子ではなく、経済人としての彼に対する感情のはず。
そう、さとみが活躍の場を投資銀行に求めるきっかけをつくってくれた大学のOB。
ただ、それだけ。
それなのに、、、
何故か、最近、、、辛い
何故か、涙が不意に溢れて、、、
そんな複雑な気持ちを抱えたまま、さとみは、大澤と知り合うきっかけになったもう一人の自分に今日さよならをする。
さとみは学費の補填と社会勉強を兼ねて二年生の頃から銀座の外れにあるエレガントというクラブで週に二回ほどアルバイトをしていた。
バイトを始めた時は週三回だったが、三ヶ月目からは週に二回にした。
直ぐに時給が当初の1.5倍になったからだ。
週二回で丁度当初の週三回と同じ経済効果を得ることが出来る。
エレガントは俗に言うキャバクラとは全く違い落ち着いた雰囲気の店で、一般のサラリーマンが出入りできるような雰囲気ではなかった。
所謂上流階級、サラリーマンであっても俗に言う上級サラリーマンが集う高級店であり、その為、お客様の要求水準は非常に高いものがあった。
この店で働く女性たちは朝から新聞や雑誌に目を通し、経済やスポーツ、芸能などお客様のあらゆる会話についていけるように情報をチェックしなければならなかった。
オーナーはお客様が何を求めて足を運んでくれるのか、よく分かっていたのだ。
決して女を前面に出すのではなく、心地良い相槌をお客様に提供することを第一としていた。
心地良い相槌を打ってくれる、その相手の女性がエレガントな女性だったら、、、
それが、さとみのバイト先のコンセプトだった。
そういう意味では、実践的な社会見学の絶好の機会でもあった。
野沢証券の最終面接の待合室、背筋を伸ばしたまま、殆んど動くこともなく美しい姿勢でその時を待てたのは、このバイトのおかげでもあった。
「オーナー、私、ママの許しが得られるタイミングで辞めようと考えています。」
さとみは何故かいつもより明るくテンションを上げてオーナーでもあるママに申し入れをした。
「仕方ないわ、そろそろかな?って思ってたから、常連のお客様にある程度ご挨拶できればその時点でいいわよ。」
さとみは、オーナーのことを慕っていた。大学こそ行ってないが、とても頭が良く繊細で、何よりも頼れる人だった。
「随分あっさりですね。」
もう少し、引き止めるとかないのかなあ、と思いながら軽口を叩いた。
「止めても無駄でしょ?」そう、誰に対してもオーナーは少し先を察しながら話をする。
この店が繁盛する理由はそこにあった。
「お世話になりました。本当に、本当にありがとうございました。」
さとみは少し感情的になり涙ぐんだ。
「こちらこそ。やりたいこと、見えてるんでしょ?頑張ってね。挫折しそうになったらいつでも顔出しなさい。アドバイスしてあげるわよ。」
流石、極めて冷静に対応するオーナーを眩しく思いながらさとみは頭を下げた。
その後、4回ほど出勤し常連のお客様に礼を尽くして、ある意味想い出深いこのエレガントに別れを告げた。
気配は秋から冬そして春へ、、、季節の移り変わりは早い。
さとみは残り少ない学生生活を楽しむことはなかった。
スタートから即戦力を意識していたからだ。国内最大手の投資銀行に内定はしたものの、新卒50名の特別枠に選ばれなかったことを悔しく思っていた。
実はそれは仕方のないことだった。現代社会において、女性登用はその会社のイメージを高めるのに必須条件になっていたが、野沢証券の社風はそれに対するアレルギーのようなものさえあったからだ。
実際、投資銀行第二位の陽和証券は、女性登用などのイメージ戦略が奏功し、就職人気ランキングでは野沢証券を凌ぐ位置にいた。
特別枠に入れなかったことで、さとみの目指すスタート台は一層高くなっていた。
卒業旅行さえ見送ったさとみの投資銀行関連知識は既にアナリスト二次試験をパス出来るレベルに到達していた。
実際、入社を迎える時には一次試験をパス、当然、証券外務員一種にも合格していた。
必要ないと思いながら受けたファイナンシャルプランナー資格は二級まで取得していた。
それでも、さとみは乾いていた。ある意味焦燥感さえ伴っていた。
時々、私って何なの???と思いながら誰かに勝ちたかったのだ。
4月、さとみは国内最大手投資銀行である野沢証券本社前にいた。見上げてみた。高いわ、このビル。。。笑みを浮かべながらエントランスに吸い込まれていく。
この本社に出社している新入社員は特別選抜枠の50名と一般入社2名の52人。その他の新入社員は練馬にある研修センターでの入社式に臨んでいた。野沢証券では新入社員としてスタートを切るその日から実力主義の評価が既に始まっていた。
一般入社の新卒者は入社前に
『現代社会への理解』という題目のもと試験を受けていたのだ。
本社での入社式に出席することは即ち、この時点においてさとみが特別選抜枠入社の新卒者と評価的に肩を並べていることを意味していた。
この時のさとみは内定の連絡を受けた時と同じで特に高揚感に浸ることはなく、唯々、道場へ足を踏み入れる時のような凛とした程よい緊張感の中にいた。
野沢証券本社での入社式は出席する者に対して、誉れと同時に、翌日から指定された部署で即戦力として扱われることを自覚させる為のものでもあった。
この入社式には、経営陣の他、著名エコノミスト、ストラテジストの面々が多数並んでおり、出席者への期待が大きなものであることは誰の目にも明らかだった。
新入社員の多くは式典が進むにつれ緊張が大きくなっていた。式典終了後に所属部署が発表されるからだ。貼り出しを一刻も早く確認する為に走り出す者さえいる。所属部署は言い渡されるわけではなく、エントランス横の待合室の中に貼り出されるのだ。
緊張を隠すためか、さとみは腕組みをしながらいつもよりゆっくりと歩を進めた。
自分が女子であることを嫌でも自覚させられるほど鼓動が強く早く打たれる中、所属部署の確認の為待合室へ入った。
安堵と落胆、この矛盾した感情がさとみを覆った。
外国為替部ではない、、、、、
どきどきしながら見上げた所属部署はプロダクト統部。
さとみの頭の中は???だった。
外国為替部ではなかったことより、その業務内容が気になっていた。
プロダクト統括部は、実は昨年社長が交代したのに合わせて新設された部であり、伝統ある野沢証券の中にあって新人のようなセクションだった。
野沢証券は国内における確固たる地位を築く過程において、悲しいかなセクショナリズムが際立った組織になっていたのだ。
さとみが配属されたプロダクト統括部はその状況に危惧を抱いていた新社長が肝いりで新設した部署だった。
しかし、新設されて一年が過ぎた時点においてもその役割は曖昧なままであり成果は皆無に等しい状態だったのだ。
おはようございます。証券会社の朝は早い。
いつものように朝7時前に、元気よく出社するさとみに、プロダクト統括部長の青柳は新聞を読みながら眼鏡越しに、早いねー、と何の面白味もない返事を繰り返す。
さとみは、入社してまだ何も出来ていない。このままでは、錆びる、、、錆ちゃう、はあ~、とその返事に心の中で返事をしていた。
しかし、そんなそとみを取り巻く環境は一変することになる。
社長の相沢は、機能しないプロダクト統括部の緩慢な動きに業を煮やしながらそれでも年単位で我慢を重ねていた。そして、ついに部長の青柳が社長室に呼ばれた。
青柳は秘書からの電話を置くと、スッと立ち上がり機敏な動きで椅子に掛けてあったスーツを纏った。
何かしら?
いつものだらしない雰囲気から一瞬にして、目的を持つシャープな目付きに変わった部長を、さとみは不思議な感覚で見送ろうとしていた。
鳴っているデスクの電話に目線を落とそうとしたさとみの耳に、部長の呼ぶ声が入ってきたのだ。
「 大原、行くぞ。」
はぁ! 私??? 何処へ?考える暇も無くさとみもスーツを纏った。最上階の一つ下の階にエレベーターが止まった。
移動中の青柳はいつもと違い拳を握り締め、この時をずっと待っていたかのような、まるでエネルギーが全身から溢れ出ているかのごとく、力強い足取りで歩を進めた。
なんだ、デキる人なんだ、、、さとみは初めて部長を見上げた。
社長室に入る直前、青柳は
『大原、緊張することはない。途中、話題を君に振るから、自分の考えていることを普通に話してくれ。それでいいから。 」
さとみは、いきなりの言葉はあ~???冗談でしょ???
と、思いながらも口から出た返事は、滑舌のいい「 はい 」の二文字だった。
青柳は、日頃の何気ない会話の中から、さとみが金融関連知識のみならず、組織論についても見識が深く、更に自分の考え方をしっかり確立していることを知っていた。
そう、経験こそ浅いが資質は十分との認識を持っていたのだ。
日頃のさとみは、営業店や各プロダクトから上がってくる関連部署へのリクエストに対し、調整を行うことを主な業務としていた。業務を遂行しながらさとみは常に問題意識を持っていた。
青柳はそんな彼女を眼鏡越しに細かくチェックしていたのだ。
「 行くぞ。」
発声と同時に青柳の手によって社長室の扉は既に開こうとしていた。扉が開かれると、眼下に丸の内をパノラマで見ることが出来た。
日本の最大手、業界のガリバー野沢証券の社長室はその立ち位置を表すのに十分なものだった。
さとみは、その風景に目を奪われながらも、何故、自分が今ここにいるのか、その方が気になっていた。
社長の相沢は、先に入った青柳に視線を飛ばした時は険しい表情だったが、続けて入ったさとみに気付くと、若干口元が緩んだ様子だった。
重厚感のある会議用の席に着くと、
「青柳くん、プロダクト統括部のミッションを理解しているか。」
前振りなど一切なくいきなり本題に入った。
さとみは、少し不安な面持ちで青柳の表情を探した。薄っすら笑みを浮かべている、、、
「承知しております。当社の本部プロダクトは長きに亘り、スタンドアローン的な立場で業務を遂行してきました。現在では完全に制度疲労の状態です。本来であれば、創部と同時に横断的な業務遂行パターンへの移行が理想でした。
しかしながら、当社の強味は、そのまま各プロダクトの相対的な実力の高さにあります。また、各プロダクトの職員は専門性を有し高いモチベーションの中、プライドをもって日々の業務に邁進しています。
私ども発足間もないプロダクト統括部が通達や号令を出したところでその効果の期待値は小さいと思料しました。」
当初、青柳への苛立ちを隠さなかった相沢の様子は、しっかり報告を聞く態勢に変わっていた。
「、、、で?」
「はい、この一年半各プロダクトからの要請、要望を受け関係するセクションと調整を図りながら、データを収集してきました。投資理論通りのソリューションを提供し採用されるケース、また、提案内容に一定のバイアスをかけたパターンが採用されるパターン。プレゼンはどのメンバーがどの、、、、、」
余りに熱のこもった青柳の語りに相沢は納得した様子で、話を途中で遮り
「まだ、データ蓄積中なのか?」と。
「数百のデータからのデータ分析、パターン分析は終わりました。実践に移行したいと考えています。」
相沢の表情が綻んだ。
間髪入れず青柳は
「僭越ではありますが、横断的な組織、会議等の招集につきましては、プロダクト統括部長である私に全権を頂き、取締役会を経て各プロダクトの長に社長名で通達を出して下さい。」
更に
「同席している大原を本来のプロダクト統括専門スタッフに任命して下さい。」
さとみは、、、
社長の相沢は、大原がプロダクト統括部の部員であるにも関わらず、青柳が重ねて専門スタッフへの任命を依頼する本意がどこにあるのか、視線をさとみに向けながら一瞬考え
「大原君は入社して確か4年目だったな。青柳部長、いいだろう、範囲は任せるが大原君に一定の権限を与えることを許可する。大抜擢だぞ。」
大人の会話についていけないさとみは???の中にいたが、
青柳は「ありがとうございます。」
と一言。
「ところで大原君、青柳部長からかなり期待されているようだが、当社の課題はどこにあると考えてるかな?」
相沢からの問い掛けに大原は、、、
「評価体系とコンプライアンスです。」
涼しく端的に答えてみせた。
これには部長の青柳も唸った。
「ほぅ、、、」そういう表現を使うか、、青柳はさとみを促すように言った。
「もう少し、報告らしく説明しなさい。」
「当社は岐路に立っていると思料しています。もっと言えば、更に発展をするのか、今後他社に差を詰められるか、分水嶺に位置していると言っても過言ではないと考えています。
各プロダクトは各々高いレベルで業務を遂行していますが、乗数が足りていません。
システムを改めることは当然ですが、それだけでは効果は限定的です。
どんなに志が高い職員であっても、仕事は生活の糧であることに違いはありません、、、」
社長の相沢は最後まで聞いて、青柳に一言、
「君たちに任せた。定期的な報告はチームリーダーになる大原君からでも構わない。」
僅か30分足らずの時間に大原は社長からの興味と青柳からの更なる信頼とチームリーダーのポストを手にした。
そして、その抜擢は社内報を通じマーケット部門の職員全員が知るところになる。
社長室を出たさとみは青柳と、今までとは違う雰囲気になるであろうプロダクト統括部へ戻った。
さとみが入社してから新人の配属、異動での転入者等でいつの間にかプロダクト統括部は総勢30名程度の陣容になっていた。部長の青柳は静かに地味に体制を整えていたのだ。
クライアントが好む投資パターンについても分析はほぼ終わっており、業種別の平均や傾向、顧客毎の決算書、およそ、最適な投資提案を行う為の材料は整っていた。
部に帰ると、「全員集合!」青柳は珍しく声を張った。
「これまでプロダクト統括部は各プロダクトからの要請を受け、プロダクト間の調整役を受動的に務めてきた。
機は熟した。
本日、この瞬間から当部は、各プロダクトへの司令塔になる。
各クライアントに対する提案を行うに当たり、能動的に案件を作成し、必要なプロダクトを選択、協働していく。
勿論、必要なプロダクトの人選にも一定の影響力を保持したまま案件作成、プロモーションの中心的な役割を果たしていくことになる。
10名の推進チームを発足させ、チーフには大原を任命する。これは、相沢社長も了承済みだ。以上。」
大原は、えっ、えっ、、、ええ~少し?動揺していた。
分かってたけど、30分前は何もなかったじゃん、、、
分かってたけど、スピード感あり過ぎない???
分かってたけど、、、、まっ、いいか。
うぅんん???
次の瞬間、急に、、、大澤の顔が浮かんだ
・・・・・
大澤はさとみが入社した秋にロンドンの支社に異動になっていて、さとみの中でも風化の対象だった。
忘れていたと言えば嘘になるけど、なんで?今更、思い出すの。。。?
さとみはチーフに任命され、挨拶しなければならない。その僅かな瞬間に脳裏に蘇る大澤をうらめしく感じていた。
さとみがプロジェクトチームのチーフに任命された日、大澤はロンドンのセントラル病院にいた。
大澤のロンドン赴任は、そのスキルへの評価と会社の大澤への配慮があった。セントラル病院は世界でも有数の脳神経内科の先端医療機関なのだ。
東京にいる頃、大澤はお客様との懇親の為、銀座のエレガントに顔をだしていた。そこには生意気盛りのさとみがいて、、、大澤は、大学の後輩でもあるさとみを可愛がっていた。
負けん気の強さ、それに反する女性のしなやかさを持つさとみに次第に惹かれていく自分を自覚せずにはいられなかった。
その頃はまだ、目眩も頻繁に起きるわけではなかった。
大澤にとって、さとみと過ごす時間は表現し難いほどの至極の癒しの時間だった。
惹かれ合う2人にきっかけは必要なかった。何度も時間を共有しながら2人は意識下で将来を感じていた。
楽しかった。
半年ほどの柔らかな頂きの時間帯のあと大澤の目眩が自覚をせざるを得ないレベルになってしまったのだ。
苦悩の日々が続いた、、、
苦悩。
悩み抜いた大澤は、何も告げずさとみの前から姿を消す決意を固めた。
頻繁に起きるようになった目眩、、、フィッシャー症候群の診断がくだったのだ。
さとみから離れる決意を大澤に迫ったフィッシャー症候群、、、
澤はその症状の一つ、目眩に苦しんでいた。
さとみの心根の優しさを誰よりも知っている大澤は、病気のことを打ち明けることは、さとみを自分に縛り付けることになる、と考えた。
きっと、さとみは選択肢を完全に持たなくなる、、、しばしば、さとみと経済について議論、講義をしてきた大澤は、さとみの興味の方向性や考え方の構築過程について、将来性を感じずにはいられなかった。
卒業してどんな道に進んでも、その分野で活躍することは間違いないだろうと大澤のさとみへの評価は期待値を別にして、素直に高いものだった。
可能性を潰すわけにはいかない。かといって、適当な理由は見当たらない。
別れの理由、、、
心ごとお互いに偽りのない時間の共有をしてきたさとみに、つくり話など通用するはずもないことを大澤は分かっていた。
苦悩
苦渋の決断、、、、連絡を、、、断つ
耐えることなど出来るはずもなかった。
新卒の内定が決まる頃、大澤は海外赴任希望を提出する為、マーケットが開いている時間帯であるにも関わらず、人事部に書類を提出するため、トレーディングルームを後にした。
入社前にさとみがエレベーターの中から見た後姿、それはマーケットが活発な動きを見せる東京時間の中、大澤が人事部に異動願いを提出しに行った時のものだった。
見間違えるわけがない。
さとみは、大澤に突然姿を消され一時的に脳死状態に陥ったこともあった。
再会を期待しながら入社した野沢証券だったが、彼女が入社する頃、大澤は準備期間という名目で既にロンドンに赴任し病院で検査を受けていたのだ。
完全にすれ違い、、、
さとみは積極的に調べたりはしなかったが、ロンドンで大澤が活躍していることは社内ネットワークによって認識していた。
しかし、けっして連絡することはなかった。
社会人として忙しく働くさとみは大澤との出会いを、澄んだ湖の水面に映える光のように、静かに柔らかく、そして温かい人生の出会いだったと感じるようになっていた。
現実のものにならなくてもいい。
今はただ静かに人生の出会いだったと心の隅で思っていたい。
静寂の極みの中でさとみは素直に自分の心と向き合っていた。
一方、大澤はロンドンでの生活に満足していた。
日本にいる時はいつも何処にいてもさとみを探してしまう自分をどうすることも出来なかった。
そして鬱ぎ込む気持ちを自覚せざるを得なかった。しかしロンドンではさとみを探すことがなくなったからだ。
会いたい。。。恋しい。。。
静かにそう思いながら時を刻むことができた。遠くにいるから諦められる。
しかし、さとみの抜擢が社内報でロンドンにいる大澤まで届いてしまった。
さとみ、、、お前、俺がいる野沢証券で働いてたのか。。。
鈍器で頭を殴られたようだった。
人間は忘れる動物、だから辛いことがあっても時がその束縛から心を解放してくれる。
しかし、若手女性社員の抜擢をトップページで伝える社内報は、大澤の心をさとみと一緒に過ごした頃に引き戻すには十分過ぎるものだった。
社内報を手にする前とは明らかに違うリアルな感情の中、激しく苦悩の渦へと大澤を誘う。
会いたい、、、
会いたい、、、
会ってどうする?悩み抜いて別れを選択したはず。
でも、、、どうしようもなく会いたい。
大澤が手にした社内報には、さとみが社長の相沢、直属の上司である部長の青柳に挟まれ、3人が腕組みをしてフレームに収まっている写真が掲載されていた。
実は、この写真は2つの意味で社内で話題になっていた。
3人が腕組みしながらフレームに収まっているこれは、副社長を筆頭に会社の重鎮である役員達の嫉妬と危機感を呼び起こすには十分なインパクトがあった。
なぜなら、堅物の代表のような人物である社長の相沢が、向けられたカメラの前で3人同じ、しかも、真ん中を誰かに譲った状態で、更に、少し笑みを浮かべながら腕組みポーズをしている姿が社員の皆が目にする媒体にあったからだ。
誰もが青柳の立ち位置が急浮上していることを感じずにはいられなかった。
そして、もう一つの話題。
相沢社長が笑顔でフレームの中央を譲った女性だ。そう、さとみのなんとも言えない美しさとなんとも言えない愛くるしさだ。
社内報が配られた日の夜の居酒屋では野沢の男性社員がさとみ談議をあちらこちらで繰り広げていた。
それは、海を渡ったロンドンでも同じだった。仕事を終え、チームのメンバーとバーにいた大澤は、社内報片手に告白宣言をして盛り上がってる若手社員を無表情で眺めながら、もう自分を抑えることは出来ないと、周囲には密かに覚悟を決めたのだった。
大澤は、悩んでいた。さとみに連絡するべきか否か。日本に一時帰国することは大澤が決めたというより大澤の魂が固く決めていた。そう、抗うことはもはや出来ない。
電話すべきかどうか、そして、もう一つの悩み?不安?
さとみのことを思い、熟慮の上とはいえ突然連絡を断ち姿を消した自分を許してくれるのだろうか。
あれから何年だ?
大澤はあることに気付いた。なぜか、違う誰かと一緒にいる姿は想像できない。ふっ、と力無く笑う自分がいた。俺だけ、完全に時間が止まってるんだな。
懐かしさが脱力感を伴い、切なさとなり切なさが理性を保つ限界を超えようとしていた。
大澤は不意に立ち上がり部下の一人に用事を思い出した、と言いながら300ポンドを手渡し、一直線に出口へ。危ないところだった。まだ、少し理性が残っていた。
店を出ると同時に大澤は走り出した。溢れ出る涙を誰にも見られたくなかった。
走って
走って
そうしてるうちに理性が戻るはずだったが、不覚にも、大澤の心の中はさとみに会いたいが故の自分の病気に対する再認識だった。
会いたい、会いたい、会っていいのか?
フィッシャー症候群の診断を受け二度と会わないつもりで 連絡を断ったはず。
大澤の涙は頬を濡らし続けていたが、いつの間にか大澤はトボトボと歩いていた。
不思議なことにいつもは気になる、すれ違う人の視線が、今はどうでもよく全ての思考回路が、会ってもいいのか?このことだけに集まっている様だった。
再会していいのか、連絡していいのか、社内報を見てしまってからずっともがき苦しんだ大澤は、何も結論を出せないまま成田に降り立った。
野沢証券では年に2回一時帰国の機会が与えられているが、帰国すればさとみを探してしまう自分を容易に想像出来てしまう大澤は、3年半の間一度もチケットを用意することは無かった。
フィッシャー症候群による眩暈は薬は欠かせないが治療の効果でかなり少なくなっていた。
これならさとみに会える。
と思った瞬間に、もう一人の自分が、何を勝手なこと考えてるんだ。俺は何も言わず突然連絡を絶ったんだと心臓を切り裂く。
「うぅうー、あぁーぅ、、、」
なんて酷いことしたんだ。彼女に会う資格なんてあるわけないだろ。
そう思いながら胸のネックレスを強く握りしめた。
「さとみ、、、」
普段はワイシャツに隠れて見えないが彼の首にはさとみとお揃いで買った安物のネックレスが一時も離れることなく寄り添っていた。
さとみと付き合ってしばらくした頃、何かプレゼントするよ、と言った大澤に
「だったら、ペアのネックレスがいい」
「どのブランドが好きなの?」
「高くなくていいの、ただ長持ちするのが欲しいの」
その時は気にすることも無かったが、言葉を大事にするさとみのことを考えると、ちゃんとそこにはメッセージがあったのだ。
ずっと一緒にいる。
「ながもちするのがほしい、、、」
大澤はその時のことを思い出しながら、走り出していた。
さとみに会いたい。
大澤はついにさとみに連絡する決意を固めた。
一度決意を固めた大澤は後戻りすることは考えなかったが、さとみが会ってくれるのかどうか。
そうだよな、、、
都合が良すぎるよな、、、
大澤は何度も何度も堂々巡りを繰り返した。
3年半だぞ。
自分が魅了された素敵な女性が一人でいるはずがない。
時間が止まっているのは俺だけに決まってる。社内報に載っただけでロンドンの奴等も大騒ぎだったじゃないか。
しかも、残酷な別れ方をしたまま。
世の中の男子が放置する筈がないし、そもそも寂しがりやの彼女が一人でいる可能性はあるのか?答えはノーだろう。
会うべきか否かでもがき苦しんでいた大澤は、今のさとみの状況を初めて想像したのだった。
タクシーに乗り込んだ大澤は少し冷静になり一人苦笑しながら、俺は馬鹿だ。何を期待しているんだ。彼女が一人でいる筈がない。
不覚にも涙が溢れ落ちた。
大澤は、自分が取った余りにも独り善がりな別れ方を今更ながら後悔し、彼女の心情を想像して、更に涙した。
連絡だけ、連絡だけはしてみよう。
会うことは考えない。
会えるわけがない。
帰国したその日、大澤は野沢証券本社から少し離れた品川プリンスに部屋を取った。
あまり近くだと自分を知る誰かと会うかもしれないと、ほぼ杞憂に終わる煩わしさを避ける為だ。
ほんの僅かな可能性も排除したかったのだ。
そう、さとみのことだけを考えたかった。
マーケットでは米国がインフレ懸念から量的緩和を修正、金融政策の正常化プロセスに入り為替が大きく円安に振れ始めた頃だった。
だが、大澤の頭の中は為替の動向など一切無く、さとみ一色になっていた。
さとみ、、、
携帯の番号変わってないだろうな。
昔は何も考えず連絡してた。
自らその立ち位置を放棄した自分を恨めしく思いながら、自分の携帯を見つめた。
電話しちゃおうかな?
こわい。
3年半前に自ら勝手に終止符を打ったはずなのに、さとみを完全に失うことになるかもしれない。
矛盾だらけの思考の中、俺の中では全然終わってないんだな。
そんな自分を強く感じてしまう。
「はぁー」
携帯との睨み合いは終わりがない。
一方、プロダクト統括部のチーフに任命されたさとみは、社長、部長とともに社内報の表紙に掲載されたことで、社内の注目の的になっていた。
各プロダクトを案件ごとに横断的に組織し最適なソリューションを提供する司令塔の役割であるプロダクト統括部のチーフ。
入社4年目でありながら、プロダクト部門の中枢での活躍を期待されているポジションだ。
普通ならその重圧を感じやや神経質になりがちだが、さとみはある意味鈍感力に優れた一面を持っていた。
相手がプロダクトの長であっても、力むことなく自らの考えを述べ、プロジェクトを推進してみせた。
大澤が味わっている苦悩とはまるで違う別の次元にいるようだった。
忙しくしている方が大澤のことを考えずに済む。仕事は彼女の精神安定剤なのだ。
そんなさとみの内線は業務中か否か関係なく、一日平均4、5本はお誘いの連絡が来る。
「ありがとうございます。ただ、今は仕事に集中したいので、そのような余裕がありません。申し訳ありません。」
一日平均4、5回受話器に向かって同じセリフを吐いていた。
そんなさとみだが、自宅のワンルームマンションの部屋に帰ると、ふと考え込むことがある。
「まだぁ?忘れられないの?未練がましい女ね。分かってるの?あなたはボロ雑巾のように捨てられたのよ、、、」
笑笑笑
「急にいなくなったぁ、、、」
彼女もまた大澤が未だに心を占領してることを時々感じざるを得ないのだ。
「捨てられたぁー。泣きたぁーい。」
周期的にやってくる孤独感を味わう夜、彼女は躊躇うことなく涙を流す。
そして、人は忘れる動物?風化?
早く風化してよ。
いやだ。
忘れたくない。
今日は泣きたいだけ泣く。
明日からまた頑張ればいい。
さとみもまた大澤のことを忘れることは無かった。
3年半経っているにもかかわらず、さとみもまた大澤を、大澤と共に過ごした日々を忘れられずにいた。
あまりにも眩しく、あまりにも満たされていた時間帯。
家族以外の人と一緒にいて、初めて幸せを感じながら過ごした日々。
会社と家との往復のなか、ふと気付くとその思い出の住人になっていた。
さとみはその呪縛から逃れ、社内での立ち位置を確かなものにして、精神的に自立したい、いや、その辛い経験を寧ろ仕事に対する発奮材料にして飛躍すべきだ、と考えられるようになってきていた。
大澤が活躍している経済というフィールドで、カテゴリーは違っていても、彼を上回ることができれば、違う誰かに目を向けることも出来るかもしれない、と必死な想いが芽生えてきているのも事実だった。
そう、さとみも女性として十分な年頃であることは間違いなかった。
自分で悪戯に時を止めてしまっていることへの恐怖観念、自己防衛本能とも言うべき感情が芽生えていることを感じることが時々あるのだ。
それはまた3年半という時の流れの中で漸く、捨てられた、という事実と向き合う瞬間でもあったのだ。
「私、、、捨てられたんだよね。そんなことずっと前から知ってる。仕事しかないね、私には。」
生きてる、という実感を味合わせてくれるのは、仕事だけ。
無機質な捨て方する男にいつまでも囚われているわけにはいかない。
超えることができたら新しい恋を見つけよう、そう思うように強制的に意識を仕向ける努力をずっとしてきたことで、少しずつではあるが人生の交差点を探る意思を持つことができつつあった。
同じ会社にいるのだから、この先偶然すれ違うことも可能性としてはあるはず。
だが、そんな時私は決して狼狽したりしない。毅然とした態度でそのすれ違いをやり過ごす、そう心に決めていた。
もう二度とあんな辛い思いはしたくない。
「よし、今日も頑張って仕事しよ。」
そこには若年でありながら国内最大手証券のプロダクト統括部のチーフとして相応しい人物を目指すさとみの姿があった。
プリンスホテルで携帯と睨めっこをしていた大澤はというと、とうとう一睡もすることなく帰国後の初出社の朝を迎えた。
いつの間にか薄笑いになっている自分に気付いた大澤は、イカレてしまったのかな俺は。
無意識に力無く笑ってる意味をぼんやり考えてみた。
きっと幸せな再会はないと本能が感じているに違いない、そう結論付けた。
「そうだよな、3年半は長過ぎるよな。」
項垂れながら呟いた。
眠れないまま朝を迎えた大澤は6時過ぎにタクシーに乗り込み本社へ向かった。
現実が目の前に現れた。野沢証券本社ビルだ。
大澤が感じる現実とは会社とか経済とか金融、為替ではなく、さとみという現実だ。
彼女に会う為に日本に一時帰国したのだ。
しかし、今は彼女に一回は連絡する。その為に一時帰国したのだ。に変化してしまった。
早朝の為か品川プリンスからほんの10分ほどで現実に到着してしまった。
散々悩んだはずだ。
散々嗚咽したはずだ。
散々覚悟したはずだ。
「運転手さん、申し訳ないのだが、このまま中野まで行ってください」
回避してしまった。
大澤は困難を好んで克服していくタイプであり、困難から逃げたことなどなかった。
しかし、失うかもしれない。いや、正確には失ったことを確認することになるかもしれない、この現実に向かう覚悟が未だ出来ていなかった。
ヘタレだな、俺は。
一方、さとみは混み混みのJRに乗り、今日も逞しく出社する途中だった。
「もう、なんなのよ」
いつも朝はエネルギー満タン状態のさとみだが、何か今日はおかしい。
「噛み合わない」
「何が?」
「はぁ?」
「分からない」
中央線の中、ぶつぶつ独り言をいう少し変は女性になっていた。
「おはようございます」
さとみがチーフを務めるプロダクト統括部はディーリングルームの一つ上のフロアに陣取っていた。
「大原、今日も早いねー」
出社するさとみをこの3年半の間、ずっと同じセリフで迎える部長の青柳を、何故か?今日に限って不思議な気持ちで見つめてしまった。
「どうしたんだ?大原。何か問題か?」
「あ、、、いいえ、纏めた上で後ほどご相談に伺います。」
私どうかしてる。何をまとめるの?相談なんてないよ。
「重役、本日出社予定でしたが、明日からの出社にしてください。」
「何を言ってるんだ、最初から明日でいいと言ったはずだ。昨日だろ日本に着いたのは。」
現実から逃避した大澤は、タクシーの中で未だに深い霧の中から抜け出せずにいたのだった。
大澤はタクシーの中で自分自身にがっかりしていた。
俺は3年半前に覚悟してさとみの前から姿を消したはずだ。しかし、また恋人として再会することを期待している。
可能性はゼロに近いことくらい分かってる。分かっているのにその確認をすることが怖くて出来ない。
日本と同じく量的緩和を行っていた米国がインフレを警戒し先んじて金融政策の転換を始めたのがこの頃だった。
為替ディーラーであれば何があってもその影響について考えをまとめ複数のシナリオのもとシミュレーションを行うタイミングだが、大澤はこの一大局面でさえ、そんなことどうでもよくなっていた。
あたまの中はさとみだけ
ほかのことはかんがえられない
笑、、、こんな俺の姿をさとみが知ったらそれこそ軽蔑されるな。
あいつ、相沢社長と社内報の表紙を飾ってたな。
・・・・・
男として終わっていたとしても、せめて金融、経済の世界では尊敬される先輩であり続けたい。
中野に着く頃になって大澤は漸く正常に思考回路が働きだした。
既に結論は出ている。抗っても仕方がない。
今日はこのまま自宅に戻ってシナリオ分析をしよう。
そして、一時帰国したことをさとみに伝えよう。
時間は、、、16時前後。
東京マーケットがクローズになり、しばらく時間が経過したこの時間帯が、証券会社で働く者たちにとって少し気持ちに余裕が出来ることを大澤は身をもって知っていた。
よし、決めた。
16時、俺はさとみに連絡する。
「はい、伺います」
16時過ぎにさとみのデスクの電話が鳴り、受話器を取ったさとみはいつもと違うフレーズを口にした。
「少し遅れるかもしれませんが、必ずお伺いします」
電話を静かに置き、さとみは席を立った。そして少し早く歩いた。
誰もいない会議室を見つけると中に入り、鍵を閉めた。
そして、少し呆然としながら、もう一度電話の言葉を頭の中で繰り返してみた。
「大澤です。昨日、帰国しました。今日時間があったらお台場に来てくれませんか」
ふいに涙が溢れ、唇が震え、脚がガクガクと嗤った。
さとみは素直な反応しか出来なかった。
少し前までは毅然とした態度でやり過ごすことを決意していたが、声を聞いた瞬間に3年半前に戻っていた。
溢れる涙を拭くことも忘れ、天井を見上げながら
「元気だったの?心配してたよ。仕事終わったら行くからね」
ひとりで呟き、そして笑顔で会議室を出た。
大澤は携帯を持つ手が汗で濡れているのに気付くまで部屋の中で放心状態になっていた。
まさかすんなり会うことになるなんて。
全く期待していなかった大澤は、会うことを想定していなかった。
咄嗟に出た待ち合わせ場所は二人がよく時間を共にしたヒルトンホテルのラウンジだった。
さとみ、何も言わなかったな。俺に。文句の一つも言ってくれたら良かったよ。
大澤はまだ疑心暗鬼だった。ひょっとしたらさとみはケジメをつけにくるのかも知れない。
電話の声では分からなかった。でも会えるだけで嬉しい。
3年半前まで二人はいつも一緒にいた。大学の講義と大澤の仕事の時以外は常に一緒だった。
エレガントで出会い、自然に、そう信じられないくらいに自然に2人の距離は急速になくなっていった。
何かをするわけでもない。同じ空間にいるだけで満たされた。互いにそれぞれ違うコンテンツを見ていたりもした。時々視線が合うと微笑みあいキスをした。
腕を絡めて街を歩いた。芸能ニュースの話題で口喧嘩、口喧嘩の後はどちらからとも無く手を差し伸べて「ね、お腹空いたね」仲直りの合図だった。
経済については夜通し熱く語り合うこともあった。
二人は心よりそばにいた。
そんな満たされた空間にいたさとみの前から大澤は突然消えた。完全に音信不通。
だが、さとみは探し回ることはしなかった。大澤のことを愛していたからだ。
ただ一度だけ大澤の会社に電話したことがあった。どうしても無事を確認したかったから。
そして、これが最後と決めて大澤の携帯に連絡したのだった。
お願い、繋がって。。。
怒ったり拗ねたりしないから。
お願い、いつもと同じ。。。
泣き崩れるさとみ。
何日か動けなかった。
薄れ行く意識の中でいつも普通にあった折り返しの連絡を待ち続けた。
あれから3年半。
大澤から不意に連絡来たのだ。
大澤は落ち着かない様子でずっと待っていた。
ヒルトンと言っただけでわかるかな?いつもラウンジで待ち合わせしてたから大丈夫だよな。
そろそろ一時間になろうとしていた。大澤は甘目のカクテルが好みで、この日もラムバックを注文してずっとそのグラスを見つめていた。
いつもはグラスが汗をかくことはないが、今日は飲むために注文したというより落ち着く為に目の前に置いているだけだった。
8時前、見覚えのあるシルエット。
さとみ。
思わず立ち上がり右手をあげた。
「ごめん、待たせちゃったね」
そこには何も変わらないさとみの笑顔があった。
大澤も涙をこらえ笑顔のまま人目も憚らずさとみを抱き寄せた。
さとみは自然に大澤の腕の中へ
「ごめん、つい」
「いいの、嬉しいから」
少し沈黙が流れ、テーブルを挟んで向かい合いお互いをぼんやり眺めた。
おそらくほんの一瞬のことだった。
「さとみ、、、ネックレスしてるんだな」
大澤は感極まっていたがなんとかこらえながら思い出のネックレスに視線を向けた。
うん、うんと頷きながら、さとみも大澤の胸元を確認した。
見覚えのあるチェーンが少し覗いているのが見えた。
「あなたもしているの?」
うん、うん、と頷きながら
「ずっとしてる」
「長持ちするのにしてよかった。。。」
涙を溜めたまま笑顔のさとみは、真っすぐに大澤をみつめていた。
「何も聞かないんだな」
「一言だけ言っていい?」
「うん」
「折り返しの電話、、、三年半はちょっと長過ぎだよ」
「それだけ?」
「うん、それだけ」
大澤は自分の愚かさを噛み締めた。独りよがりもいいとこだったと自分を責めた。
あの時さとみに病気のことを正直に話すべきだった。自分の間違った思いで大切な時間を別々に過ごしてしまったと後悔していると、、、
さとみが
「ね、お腹空いたね」
と、微笑んだ。
大澤は今まで我慢していた感情の防波堤が一気に崩壊するのを止められず、周囲を気にすることなく大粒の涙を流した。
雪解けの季節 〜心の和解〜 完結編 向井慶太 @TrySmartLife
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