Headache

千明律

変貌

 紅葉は枯れて散り散り 妻鹿を撃ち皮を剥ぐ

 雨が降れば蛙が鳴き 燕は低く飛ぶ

 傘を挿すと 柳が雨に濡れている


 鬼が来る 


 霜月に黒い夜が泣いている……それは月も星もない、余命幾ばくもない完全な夜だった。ツバの厚い帽子を深く被り、風に揺蕩いながら考えを巡らせる。首を垂れた柳の群れは立錐の余地もなく、影を変えて形を変えて、腹を空かせて泣き喚いている。

 水分を吸い取った夜風は濡れた身体を抱擁しているかのようだった。鼻を掠める素っ気ない冷たさと、腐った果物に似たじとじととする生温さを孕んでいた。

 数日前から食事が途絶えつつある。空腹感が訪れなくなったのだ。雨が降れば傘を挿すように、ルーチン化した至極当たり前の行動を取れない。大昔からDNAに刻まれた、根源的な食の精神に突き動かされなければ配膳さえままならない。平衡が崩れて栄養食を拠所とすれば、食という行為自体がばかばかしくなった。

 すっかり身をやつした。腹を擦れば、直に腸に触れているかのようなグロテスクな感覚が襲う。

 腹が減った――身体が嘘を吐くはずがない。

 生きる意味を無くしていた。というより現状維持に精一杯な余裕のなさと、どうしようもなく狭量で蛸壺化した自分の矮小さが何度も頭を傷ませる。

 現実は非情だ。キーボードは埃を被り、ゲーム機の充電は切れたまま。ゲーム実況やレビュー動画をフードファイトのように情報を脳に貯めるばかりで、能動性が欠落していた。『楽しそう』が『やってみたい』にどうしても結びつかない。重い腰は椅子に根を張り巡らせていて、上手く立ち上がれない。頭をかきむしっても抜け毛が増えるばかりで、掻けば掻くほど痒みが気になる。

 こうして夜中に散歩へ出掛けたのも冒険心が溢流したからで、動機は単純だ。夜風に曝されたいだとか、疲弊した心身のリフレッシュだとか、ネットの記事で聞き齧った利点を霧の如く有耶無耶にしてしまう――情けない。


 頭の中には理想と現実がある。

 常に心を安堵で満たしていたい。

 それは常軌を逸した願いだろうか。

 身分不相応な思いだろうか。


 就職氷河期の時代に、中堅国立大の新卒だった俺を拾ってくれた会社があったのはもっけの幸いだった。その反面で腹を空かせたフリーターが蛆のように湧いた。大海原に飛び込んだ未完成のボートが、荒波に呑まれていく。

 笑顔で媚びへつらう裏腹に相手を罵倒して、悪意の吐瀉を辛抱して、堪えている。紙の裏を日光で透かすように、一挙手一投足を見つめていれば自然と相手の本音に触れられるのでないかと、嫌な妄想をするようになった。

 悲観的な世の流れに、せせこましい反駁に、俺も気を病んでいたのだろう。


「お前、はよ入金せぇや。何回言わせんねん」

 そんな俺に追い討ちをかけるように、実の親から深夜帯の電話が来る。颯爽とトイレに逃げ込んだ。

「子供二人が阿呆にクズやと親にツケが回ってくんねん。だんまりの兄貴はええご身分で、その弟は今まで育ててやった恩を仇で返すわ」

 兄貴は睡眠障害を抱えて産まれてきた。日常を死人のように過ごし、暫くすると墓から蘇生する。既に他界した母親とこの父親はこのことを案じて二人目、つまりは俺を作ったらしい。言い換えれば、俺は二人目の兄貴として産まれてきた。一人目の兄貴が真面なら俺は要らなかった。

 俺の存在意義は、少なくともあの牢獄には無かった。

「感謝せぇよ。お前を殺してもうても……今まで何度もな! 今までに散々、迷惑ばっかかけて自分はのうのうと良え暮らしできると思っとんか、おい」

 酒焼けして語調の荒いこの怒鳴り声を聞くと、ギャンブルから負けて帰ってきた父を懸命に宥めていた母を思い出す。母は青痣を作って、引き攣った笑いを浮かべてそれっきり、父の部屋へ向かう。耳を塞いで寝る日も多かった。

「お前みたいなクズはな、誰の役にも立たん。蛙の子は蛙。無理。終わり。やからせめて人としての義務を果たせ、言うてるだけや」

 父が言うに、人生最大の失敗は子供を作ったことらしい。

 俺も兄貴と同じで、発達障害を抱えていた。親は健常者たる子供を選んだのに、どうしてか産まれてしまった。子供が自分の醜さを認識するのにそう時間はかからない。

 鏡を見れば、蜘蛛のような眼と鷲鼻のキメラ。身体は縦に長く横に短い。存在感だけを浮き彫りにさせたような造形だ。当然、俺は俺を許せなかったし、同じ屋根の下で共に暮らす兄貴が憎くて堪らなかった。

 兄貴への教育虐待と俺へのネグレクトは特に苛烈だった。代わる代わる家庭教師が家に来る度に隅の部屋に引きこもって、蹲った。本来なら二人に平等に分け与えられたはずの愛情が、壊れた天秤で量ったために注いだ先から溢れていく。

 そうするといよいよ自分の存在意義が分からなくなった。

 だからこそ――人生には関所のように、成長に必要な数十個の難関があって、そのうちの全部が十代の自分に押し寄せているだけだと、何度も自分に言い聞かせた。幼少期の虫歯のように、一生ついて回るものだと知らずに。

 あぁ、もう、どうでもいい。これは俺だけの問題じゃない。いくら俺の身体が異常をきたしても、俺一人の犠牲ではどうにもならない。

 とある家族に委託された義務とは、各々への罰のことだ。

 障害を抱えた子供を二人も抱えた、父への。

 粗暴な父と契りを交わした、母への。

 異常をきたして産まれてきた、兄貴への。

 父から、母から、兄貴から、窮屈な世界から逃げた、俺への。

 四人家族は丁寧な形で崩壊を迎えている。母は早逝し、父は堕ちる所まで堕ちて、兄貴は依然として大海を知らない。平等に与えられたものがあるとするなら、苦しみに喘ぐ権利だけだ。

「ええか? まぁ、どうなるかはお前がいちばん分かってることや。お前がその気ならこっちも私腹を肥やした人でなしの面を拝みに行ったろうやないか」

 電話はそれっきり、途切れた。喉に指を突っ込み、食べたものを戻す。水で流し込んだ塩ラーメンが、生臭い胃液と混じって便器に戻ってきた。嘔吐は胃が圧されるばかりでなく、喪失感と自己嫌悪で虚しくなる。すぐに腹が減る。

 夕方からずっと窓を叩く雨は既に止んでいた。いつにも増してこめかみから額が殴る天気頭痛が酷い。血は出ない。涙も出ない。苦しみを心裡に押し留めるばかりで、カタルシスは起こり得ない。身体の異常はいつも内側で完結する。

 鬼の子。

 吐き気を催すそんな蔑称が似合っていると感じて、何かが挫けた。


 俺には、兄貴を嫌う機会が多かったのだと思う。

 兄貴は外向的で、虚空に喋りかけてはいないかと思うほどに会話の抵抗がなく、ユニークな感性と適切なペースでいつも相手を説き伏せていた。

 兄弟間でそこだけを取っ替えてほしいと、会話が滞る度に考えた。俺は頭の中で情報が完結していて、アウトプットが上手くできない。例えるなら、こんがらがった毛玉を解して一本の糸にする作業。それが億劫で、情報をあらかた噛み砕くと後は他人に理解を丸投げしてしまう。

 感情表現に乏しく心を開けない。たどたどしい口振りで理解を促そうとしても、すぐに首を傾げて分かったふりをされる。「分かった?」の発言とは裏腹に「どうせ分からないよね」が口癖になっていた。

 示すべき結論と論拠は軒並み揃っているのにプロセスが星雲状態。与えられたレシピ通りに調理ができないのだ。カゴいっぱいの食材を取り敢えず鍋に放り込んで、後から下拵えをしようともう遅い。

「兄ちゃん、今日おれ、あの……えっと、友達と」

「サッカー?」

「あ、それだ。それで友達が怪我して、で算数の授業があって、テストが」

「そっかそっか、友達は大丈夫だったか?」

「うん、俺が100点で、あいつ90点だったんだ。この前負けたから悔しくて、めちゃくちゃ勉強したから自信があったんだ」

 兄貴は舌足らずな俺の語彙を補ってくれる。部屋の窓から僅かに見える世界を、俺との会話を通じて開拓していく。どんな話でも聞いて頷く人形は利口で、徐々に俺の無駄な力みが取れていった。日記形式の壁打ちだったとしても、人前で真面に喋れた経験は兄貴の前をおいて他にない。

 でも俺は、そんな兄貴の目が嫌いだった。想像力豊かな兄貴には、俺の喜怒哀楽など取るに足らないものだったんだろう。そんなのは兄貴の体系化された当たり前の情報の一部、本の一頁の数行に過ぎない知識で、予想外の展開は決して起こらない。

 事実は小説より奇なり。恐らく兄貴は過度に期待していたのかもしれない。

 早く俺を裏切って、俺の中の固定観念を壊して、早く。つまらない展開から脱却して、次を教えて。

 俺の拙い言語化能力でも、外の世界の素晴らしさを語り尽くせたつもりでいた。友達と喋ったら楽しいし、喧嘩したら腹が立つし、陰口を言われたら悲しくなる。全身全霊で外の世界を生きた俺自身をぶつけた。

 学校に行けない兄貴を本当に可哀想だと思っていたから。

 それが、兄貴の理想を遥かに下回るものだった。兄貴は俺を見くびっていたのだ。それでなお、俺の話を聞き続けた。慌てふためく俺を猫撫で声で安心させ、心の底では裸足で俺を踏み躙る。彼が考えうる限り最も姑息で、陰湿な愚弄をしてみせた。当然、当時の俺がそれに気付けるはずがない。

 兄貴がベッドに根を張ったあのときから、後悔している。二度とあの男に敵う機会は訪れない。あの男は現実のありとあらゆる全てを究明した気になって、妄想の世界に引きこもった。狡い。百聞が一見に相当するのだと、致命的な勘違いをしている。当然だ、当然の報いだ。

「お前は利口だからさ。兄ちゃんの代わりに勉強して、もっと賢くなるんだぞ」

 拭いきれなかった違和感が棘を持つ。あの頃から、睡眠障害を抱えていると自覚した頃から、あの男は俺を小馬鹿にしていたんだ。自分にとって当たり前の事実を心待ちにし、さも鬼の首を取ったが如く燥ぐ俺が面白おかしかったんだ。手の平の上で踊る俺を指先で弾いて転ばせて、必死に立ち上がる俺を見て嘲笑していたんだ、きっと。

「もっと賢くなって、生き抜く力を身につけて、早くここを出て行くんだ」

 馬鹿にする人間も馬鹿にされる人間も、第三者から見れば滑稽なことこの上ないだろう。俺はそれだけが悔しい。あぁ、そうさせてもらうよ。兄貴は一生、殻に閉じこもってれば良い。

 そう考えると自分が少しだけあの男の想像を上回ったように思える。

 ざまあみろ。

 スカッとして――虚しさだけが残る。


 殺してしまおう。そんな恐ろしい発想が脳裏をよぎった。時刻は午前3時。

 旅行の行き先を決めるように、「あ、殺そう」と思い当たっただけだ。現実には計画や道具も何も用意していないが、それを為すだけの度胸と執念はある。根拠はない。でも前々から俺は分かっていたのではないか。最終手段としてこの発想を残しておいて、最後に自然とその気になるトリガーが必要だったんだろう。引き金は容易く引かれた。後は銃弾の着弾地点を定めるだけだ。

 吹っ切れると無限に選択肢が浮かび上がる。実家への移動手段、侵入方法、殺害方法、凶器。後に降り掛かる罪などどうでも良かった。今はこの、罰だ。目の前の火の粉を払わなければならないのだから――殺人を自衛の一つの手段と捉えた時点で、俺はもう壊れていたのかもしれない。

 実家までは近い。今から出れば明け方までには絶対に間に合う。父は朝日に弱いし、兄貴はあの有り体だ。俺が終わらせる。一家に与えられた罰を、俺が壊して丸く収める。どうせ生き地獄だ。彼らも心のどこかでそう思っているに違いない。だからこそ真人間の路を堂々と歩く俺が妬ましい。そうだ、そうに違いない。俺が地の底の地獄に叩き落としてあげるから。

 途端に、全能感が俺を包む。父が苦痛に歪む顔に、どんな罵声を吐きつけてやろうか。妄想との戯れに耽る兄貴に、どうして後悔させてやろうか。既に殺人を為した気になった自分が味方だ。何も怖くない。唯一の怖いものは、未だに殺人を躊躇う俺の良心、その呵責に苛まれるほんの僅かな可能性だけ。

「俺ならできる」

 状況を整理すると、殺人という悍ましい行為がいとも容易く行える気がする。

 ナイフを片手に家を飛び出す。久し振りに履いた革製以外の靴は、履き心地が良い。どうにも愉快だった。飲食店の勘定のように、今までの人生に精算をつけるだけ。「食い逃げ」の選択はナシだ。

 俺はこの短刀一本で、命を脅かしにいく。思想をばら撒いて布教活動を行うより、実際に行動を起こす。痛快な社会批判だ。不純な動機で、俺からすれば正当な動機で、社会に無害な男の魂を二つも葬るんだ。

 これほどオーガズムに酷似した胸騒ぎがあるか。

 ずっと苦だったことが、これで、これで報われる。やっとだ。

 深夜の国道はトラックがちらほらと見受けられるだけで、通行人の姿は見えない。生温い雨が頰を打つ。もう十二月になろうと言うのに空は星々を浮かべていた。人工の明かりに邪魔されない自然光が、くっきりと世界を照らしている。

 殺人の不浄さなど、都会の空の前には無力だ。樽一杯のワインにスプーン一杯の泥水を垂らしたところでそれは確かに粗悪なワインだ。それが貴婦人の顔色を悪くする程度なら、俺が今からこのナイフで、致死量の毒薬を注いでやる。

 俺の殺意は本物だ。他ならない俺自身が、善良な俺がこれを看過しているのだから、そうだ、抑え込む必要なんて何もない。吐き出してしまえ。感情なんて形而上なものは、具現化して初めて形になる。人を殺す時に初めて、ナイフは凶器へと変貌する。

「見せてやるよ」

 俺の殺意は加速して、加速度的に膨れ上がる。もう止められないし、止める気もない。これが罰だ。俺を抑圧し続けた家族への報仇劇だ。

 やると決めた自分をひたすら肯定する。もう腹は括った。

 死に顔を想像するだけで、股間が熱を帯びるのを感じる。


 十数分の惨劇は終わった。とにかく、終わったのだ。これ以上もこれ以下もない。この殺人を美談にする弁明は無いし、涙を誘うにはあまりに肉薄で同情を誘えない。

 父に二つ穴を空けて殺した。その事実だけ。

 俺が殺すもっと前から事切れていたんじゃないかと思うほどに反応が無かった。彼は呆気なく命を手放したのだ。シーツの半分に赤い染みを残し、魂は煙のように寝室を漂っている。

 そんなもので俺の殺意が収まるはずがない。

 一人じゃないから、寂しくないよ。今、連れて行くよ。

 ああそうだ、今の俺は赤鬼だ。返り血を浴びて何もかもが真っ赤に染まった。醜悪な男達を罰しに、地獄から馳せ参じた悪鬼なんだ。

 不名誉な死を遂げた父。そして、もう一人。

 俺に殺されるまで、彼がどう生きたのかなど知る由もない。

 俺の知ったところじゃない。ざまあみろ。

 兄貴、この展開が予想できたか? お前は実の弟に殺される。

 憎しみ深くて堪らないお前に、俺が不条理な死を押し付ける。

 父にナイフを突き立てた時点で、お前は既に死んだも同然だ。

 引導を渡してやる。


「兄貴、死ねよ」


 逆手に握ったナイフは兄貴の胸に突き刺さる。

 肋骨の隙間に尖端が潜り込んで、刃先が心臓を貫いていく感触があった。

 皮膚はゴムのように柔らかい。ぷつりと繊維を切って胸骨にぶつかる感覚を味わいながら更に体重をかけると血管を引き裂く不気味な感触が両手に伝わった。


 刹那に、耐えがたい頭痛が俺を襲う。それが責務を全うした合図だった。

 一度殺した良心が息を吹き返し、叫ぶ。俺は再び人間に戻った。

 

「なん、で……親父?」


 兄貴と視線がぶつかり合う。すると眼球がさっと青白くなって、瞳孔が震え始めた。絶望の色と言えば伝わるだろうか。夜明けの空の色だ。


「なんでお前が……兄ちゃんを、殺すんだよ」


 兄貴の手には、俺のナイフが握られていた。刃先は胸部に深く突き刺さり、致死量を超えた血液が柄から滴っている。兄貴は呆然とした表情で、力なくナイフを抜き取る。血に染まる刀身が月光を受けて煌めいていた。それはまるで神々しいまでの輝きではあったが、殺人という大罪は隠しきれない。


「嘘だ、こんなの……お前が、俺を殺すなんて」


 兄貴がかろうじて息を吹く。窓から漏れた光が、彼の手元を照らした。ナイフの刃には鮮血が付着していた。紛れもない兄貴の血だ。俺が殺したんだ、間違いない。人殺しで、犯罪者で、血塗れの殺人鬼の俺が。


「なんでだよ……家族だろ?」

「そうだよ」


 震える声で兄貴は嘆く。俺は、冷たく言い放った。

 まだ、頭が痛い。頭痛に呼応するように俺の胸も鋭く痛む。

 兄貴の目から涙が伝うのが見えたが、それは血液だったかもしれない。どっちでも構わないのだけれど。


「お前は……違うって、信じてたのに……」


 兄貴は両手で顔を覆う。指と指の間から血が漏れていた。

 それは俺の胸を刺すが、罪悪感など微塵も感じない。

 良心を抑圧し、衰弱しきった俺には鬼が宿ったのだ。


 やがて兄貴は息を引き取った。


 同時に、頭痛が止んだ。

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Headache 千明律 @rituauthor

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