『スプリング・イズ・ヒア―春はやってきてしまう―』

小田舵木

『スプリング・イズ・ヒア―春はやってきてしまう―』

 春が来たってのに僕は喜べない。木々の芽吹きを目にしながら思う。

 僕は冬の寒さに沈む生活すっかり慣れきっていて。未だにコートを羽織って外を出歩いている。

 桜のつぼみは今にも咲きそうなほど。その花が咲いたら、人々はその下で酒をみ騒ぐだろう。

 僕の耳にはイヤホン。曲はビル・エヴァンスの『スプリング・イズ・ヒア』。ゆったりとしっとりとしたピアノ。僕の心境にはあっている。


 僕は春が来なければ良いと思っていた。このエヴァンスの曲のリズム同様にゆっくりとくれば良いと思っていた。

 だって。春が来たら。のだから。


 彼女。僕の彼女であった娘。名を春奈はるなという。

 彼女は先天的な病で。脳にアミロイドβベータが蓄積しやすい体質だった。即ちアルツハイマーの典型的な症状を持っていて。その病は彼女の人格を食い尽くした。

 僕は段々と記憶というアイデンティティを喪失していく彼女を見守る事しか出来なかった。


 幸運だったのは。人類がアルツハイマーへの攻略法を発明していた事。

 だが。その方法は。アミロイドβを排除する方法ではなく。

 脳を置換する方法だった。脳移植ではない。治療。

 春奈は。この冬にこの治療を始め。もうそろそろ、代替された機械の脳が彼女の頭で回りだす。


 僕は憂鬱だ。機械の脳を身につけた彼女と出会う事が。

 何故か?人の人格は脳に保管されているからだ。

 いくら彼女の記憶をコピーした代替機械脳をつけていたって。アイデンティティの同一性は担保されていないと思うのだ。

 ニューロンは脳の一単位だが。僕はその一単位の膨大な連なりの中に人格が宿ると考えている。そのネットワークの中に人格が宿ると考えている。

 

                   ◆



 僕は彼女と出会わなくてはいけない。それは彼女の両親に頼まれているからだ。


 僕は病院の廊下を歩いていく。彼女の病室へと向かって。だがその足取りは重い。

 憂鬱だ。彼女の姿をしたと出会うのは。

 僕がロボット、と彼女を形容するのは行き過ぎた話ではない。今の春奈は彼女の身体を持ったロボットと同義だ。脳が置換されてしまった春奈は春奈の身体というタンパク質の塊のパーツを持つロボットなのだ。


 こんな事を言うと。君は僕を薄情だと言うだろう。

 だが。考えてもみて欲しい。人間の人格は脳という生まれ持っての器官でしか産み出せないはずなのだ。


 僕は病室の入口の引き戸を開けあぐねる。その場で固まってしまう。

 病室からはハミングが聞こえてきて。それはビル・エヴァンスの『スプリング・イズ・ヒア』。僕がエヴァンスを好きなのは彼女の影響だ。


 僕は意を決して引き戸を開けて。病室に入る。

 そこにはベットから起き上がった春奈がいる。彼女は僕を認めると。

来島くるしまくん!」と言った。ああ。久しぶりに彼女に認識される喜びよ。

「春奈…久しぶり」

「そうだね。久しぶりだね…」彼女はうつむき加減でそう言う。

 

                   ◆


 僕らはしばらく近況報告をし合う。


「来島くん、大学生になったんだね。私が入院した時には高校生だったのに」

「月日が流れるのは早いんだよ。春奈」ちなみに彼女は僕を名で呼ばない。それは僕が頼んでいるからだ。来島みさき、こんな女性っぽい名前で呼ばれたくはないのだ。

「私は―あの病気以来。時を刻んでなかったから」アルツハイマーに侵された彼女は時間の見当識けんとうしきを失っていたのだ。

「だが。君は時間を取り戻したんだよ。春奈」

「だね。ちょっと変な気分…」彼女は天を仰ぐ。


 僕は不思議な気持ちで満たされている。

 彼女の人格は脳と一緒にこの世から消えたはずなのに。今は再現された脳がそれを再生している。だがそれはだ。高度なAIを相手にしているようなものだ。


「頭は痛む?春奈?」

「手術が終わったの大分前だよ?来島くん」

「でもさ。大工事をした訳じゃんか?」

「私にはその記憶はないよ。来島くん。私の記憶はそこら辺が抜け落ちているの」

「それもそうか」


「来島くんは」彼女は言う。

「何か?」

「私がこの世からいない間、他の女の子にうつつを抜かしてなかった?」彼女は僕の目を見ながら言う。

「そんな事。している暇もなかった。勉強で必死だった」

「…それなら良いけど」彼女を再現した人格は僕にやきもちを焼いているらしい。これに僕は感心する。記憶だけを基にして創り出された人格にしては再現度が高い。

「あのね。僕は君しか―目に見えてないから」なんてクサイ台詞。

「…」彼女は顔を赤くしているが。僕はまだ違和感が拭えない。彼女の代替脳は驚くべ精度で過去の彼女を再現しているが、それはタンパク質から成るニューロンではなく、ケイ素で出来たシリコンチップの回路が為している業だ。


「…春奈。退院したら。桜を見に行こうよ」僕は提案してみる。

「それまでに退院できるかな?」

「見た感じ。健康そうだよ?」実際。彼女は長期入院をしていた割には身体が弱ってない。

「まあね。身体はお陰様で元気だよ。問題は頭」

「なにか心配事でも?」

「今、私は人格の再生プログラムの真っ最中なの」

「ああ…まあ、そりゃそうだよな」

「今日だって。そのプログラムの一部なんだよ。ねえ。来島くん。?」彼女は核心を突いてくる。

「…正直。今のところは違和感がない。僕の事をキチンと覚えているのに感心したものさ」

「なら良いんだけどさ。まだ、私も整理はついてないんだ」

「…あんな離れ業をしたんだ。ちょっとの期間で適応出来るはずがない」

「そう適応出来ていない。私はかなり戸惑っているの」

「…戸惑う必要なんか」と僕は嘘を言う。

「私の記憶はありがたい事に十全な状態でこの機械の脳にコピーされはした…だけど。私の人格…いや魂は…」

「そいつはハードプロブレムってヤツだ」

「魂って何処に宿るんだろうね?来島くん」

「…心臓って答えておきたいかな」ここで脳と言いたい気持ちはあるが。彼女を傷つけたくない気持ちもある。

「…私は身体の隅々だって思ってる。そういう意味では脳を無くした事は魂の一部を切り取ったって解釈も出来るけど…うん。実際やってみると違和感が凄くて」

「現代科学では脳を偏重し過ぎる」僕は言う。これは実感だ。

「ありがと…」

「とりあえずは。あまり脳の事は考えるなよ。後からで良いだろ?」

「そうだね…」

 

                   ◆



 春奈は葉桜の季節に退院した。僕は退院する彼女に付き添う。家まで送っていく。

「あーあ。桜は散っちゃったかあ」春奈は木々を眺めながら言う。

「ま、これからがあるじゃんか。来年花見をすればいいんだよ」

「私は今年の桜を来島くんと見たかったんだよ」

「贅沢言うな。こんだけ早く退院できたのも奇跡だ」春奈は人格再生プログラムを他と比べて早く終わらせている。地が優秀なのだ。

「ま。頑張ったから」なんて言いながら頭をく彼女。


 僕らは懐かしい道を歩いている。ここら辺は僕たちの通学路だったのだ。

「懐かしい…のかな」と彼女はつぶやく。

「懐かしいんじゃないか?僕と春奈はよくココを歩いたもんだ」

「2人肩を並べてね…うん。覚えてはいるんだよ?」

「覚えてるなら。良いじゃないか」

「でも。その頃の私はタンパク質でモノを考えていた。今はケイ素が代わりをしてくれている…」

「んな事。考え出したら行き着くのはドツボだ。止めとけ止めとけ」実際。僕も春奈と再会してから、人格の継続性問題については考えていない。それが残酷な事だと感じたからだ。春奈は今、再生されて僕の目の前に居る。その事実を受け止め、のだ。

「とは言ってもなあ」春奈は空を眺めながら言う。

「現実を受け入れよ。神ならそういうだろうさ」

「来島くんは無神論者じゃん」

「こういう時は神の手を借りたくなる」

ずるいなあ。相変わらず」

「俺は昔から屁理屈こねだっての」

「まったくだね」

 

                   ◆

 

 春奈が戻ってきた世界はあっという間に回りだした。

 僕は大学で研究者を目指して勉強中。春奈は大学受験に向けて勉強中。


 僕らはカフェで向かいあっている。お互いの勉強を見張りあっているのだ。家に居てはどうしてもサボりがちになるから。


 僕は彼女の受験勉強の様子を見て感心していた。過去の彼女が詰まっていた問題と同じ所で詰まるのだ。これは記憶のコピーを考えると当たり前の事だが、の当たりにすると感心してしまう。人類の技術はここまで到達したのかと思う。


「あーあ。分かんない」彼女はカフェオレを飲みながら言う。

「はいはい…んと?」僕は彼女が詰まっている問題を見る。ここは僕の得意分野だ。適当に解説を考えながら教えてやる。

「来島くんは凄いねえ」なんて感心する彼女。

「そりゃ。大学に入ってるからね。これくらいは出来るさ」

「私が私を無くしている間に優秀になっちゃって」

「…割と努力したからなあ」僕は昔は彼女より頭が悪かった。だが。彼女が彼女を手放している間に猛勉強をした。脳科学を研究する為だ。

「来島くんはやれば出来る子だと思ってた」

「…やる気を出させてくれたのは。春奈、君の病気だ」

「私のアルツハイマー?」

「そう。僕は君が記憶を失うのを見て。脳への感心を高めて。今や脳科学を勉強しようとしている」

「私の為に頑張ってくれたんだね?」

「そりゃあ。僕は君に惚れている。出来れば自分の手でどうにかしてやりたかったんだ」

「…時間ってのは残酷だね。来島くんが知恵をつける前に解決してしまった」

「ま。結果として君は助かってる。だが。これからも障害はあるだろ?その為に今も頑張っている」

「…ありがとうね、来島くん」

「なんの。君にしてきて貰った事を考えれば」

 

                  ◆


 昔の僕。それはもう悲惨な暮らしをしていた。

 僕の家庭は崩壊しており。家に帰れば父と母の喧嘩を見せられて。

 僕はそのころ荒れていた。それを救ったのが春奈だ。やさぐれている僕に優しく声をかけ、僕を家に招いたりしてくれていた。僕はそこで初めて家庭の暖かさを知ったものだ。


 僕が中学生になると不和に満ちた家庭は分裂した。僕は母方の祖父母の家に預けられた。母が養育を放棄したのだ。

 僕はその頃になると、両親に呆れ果てており。祖父母に預けられたのは幸運だった。

 祖父母は幸いにもまともな人々で。僕は安定した暮らしをそこで初めて手にいれた。

 春奈は中学生になっても僕の世話を焼いてくれていた。小学生の頃のやさぐれを引きずる僕は後一歩で非行少年になるところだったが。彼女が無理くりに押し留めてくれたお陰でまともな思春期に軌道修正し。


 高校生になると。僕と春奈は自然に付き合いだした。いわく。

「世話を焼いていたのも好きだったから」

 だが。高2の秋に彼女の病気は顕在化した。時間をかけて脳に蓄積したアミロイドβが記憶野を破壊したのだ。彼女の海馬周辺は変性してしまっており。

 記憶を失っていく春奈を僕は近くで見ていた。それは痛ましい変化だった。

 段々と見当識けんとうしきを失って。彼女は時間と場所を認識できなくなって。

 入院した。僕はそれを見ながら…考えていた。彼女をどうにか救えないかと。

 考えた結果が大学進学。脳科学関連の学科を持つ大学に進学すること。幸運にもアルツハイマーを軸に研究する教授がいたのも大きい。


 僕は今、研究者になる為の基礎教育を受けている。当初の目的は果たされてしまったが、脳が機械化された春奈には今後も困難が待ち受けているはずなのだ。


 だが。脳科学を研究して何になるのか?という思いもないではない。

 今や彼女の思考は機械でなされている。電子工学…半導体系の理論も学んだ方が良いのではないか?

 ま、時はすでに遅しというヤツだし。機械的に再現された脳も結局は生体の脳を参考に設計されている。


 僕は考える。これからの春奈は―どう変化していくのだろうと。

 再生された人格の通りに動いてはいる。高校生の頃をやり直しているようなものだから。

 だが。彼女は機械の脳で考え、経験を蓄積している。これがどんな変化をもたらすか?考えると恐ろしくなる。


 彼女は今、大学受験を視野に頑張っている。季節は冬。後少ししたら一般受験は始まる。そこで彼女は―まあ、合格するだろう。そして大学生になるのだが。

 そこからが本番なのである。彼女の機械脳にとって。

 新しい環境。新しい経験。新しい出会い…それが機械脳にどんな変化をもたらすか?

 

                   ◆


 スプリング・イズ・ヒア。春が来た。

 僕は大学のキャンパスで桜のつぼみを見ながら思う。後少ししたら。春奈もこの大学にやってくる。この大学の文学部に滑りこみで合格したのだ。


 去年よりは僕は明るい気分で桜を見ている。

 だって希望はあるのだから。春奈はしっかりと大学に合格できた…

 僕は思う。春奈にとってはここからが人生への復帰戦の始まりなのだと。

 

 春奈は。大学の入学に浮かれていて。僕はそれを微笑ましく見守る。

 総合大のこの大学はオールインワンキャンパスを売りにしていて。僕と春奈は同じキャンパスで学ぶ事になるのだ。

「講義の終わりが被ったら、一緒に行動しようね」なんて言う春奈。

「僕はもう4回生。一般講義とはあんま被んないかもね。研究室に籠もる日々が続きそうだよ」

「それでも。時間を見つけて会いに行くから」笑顔でそういう春奈。

「へいへい…」

 

                   ◆


 桜が咲き誇る頃に大学の入学式はあった。大学の記念ホールで行われる式に僕は参加している。

 慣れないスーツを着た春奈は本当に楽しそうで。

 僕はそれを微笑ましく見守った…

 

                   ◆


 僕は研究を続けている。アルツハイマーを軸に卒論を書こうかと悩んだが、結局は人格論に落ち着いた。

 人の人格はどの脳部位で生み出されるか?僕の論文の基礎テーマはそこで。

 だが。脳の機能は局在などしていない。脳全体に張り巡らせれたシナプスネットワークの総和が意識という人格を産み出す。

 僕はそれを解体する事を目標に立ててみたが。うまく行くはずもない。


「学部生の手に余るテーマをぶち上げちまったな」と僕は呟く。自室のPCの前で。


 脳は現在、系統図けいとうずは分かっている。個人のシナプスの接続を模した機械脳が作れるくらいに。だが、系統図が出来てもそこを流れている電気信号の総和が産み出している意識という現象についてはまったく分かっていない。


 脳のイメージング技術は発展はしているが。脳の中で生み出される意識にまではメスが入っていない。視覚情報をイメージングする技術は最近完成を見た。だが、それはあくまで個人の脳が何を見ているのか、を外部に出力する技術でしかなく。


「春奈はどうやって意識を産み出しているのだろう?」僕は呟く。

 彼女の機械脳を分解してみたい欲が浮かぶ。だが。そんなマッドな真似はもう僕には出来なくなっていた。


 彼女は。

 これは驚くべき話ではある。だって。生体の脳というアイデンティティの源を失った彼女でも―機械がそれを代替すれば意識は再現され。問題なく動き回っているのだ。


 …シナプスの電気活動かあ。これは骨が折れるテーマであるのは間違いない。

 一応、シナプスの電気活動をモニタリングする技術は発達してはいる。

 だが。それもまた。あくまで電気活動がどうなっているか?を解明するものでしかない。


 …この卒論。どう結論を出せば良いのか分からなくなってきたぞ。

 

                   ◆


 季節は過ぎていく。僕は秋を迎えようとしている。

 僕は卒論に取り組んでいる。最近は研究室にこもり、実験を繰り返している。だから最近は春奈に会えていない。


 僕は卒論のテーマを変えはしなかったが、ある程度縮小した。

 脳の産み出す意識全体から、シナプスの活動が産み出す感情へとシフトさせていた。


 僕はある感情が起こっている時のシナプスの活動をモニタリングしている。相手はラット。彼らにも単純な感情はあり、脳は小さい。人を相手にするよりは難易度が下がる。


 感情を制御する脳の部位はある程度明らかになっているが。

 問題はその脳部位のシナプスネットワークがどのように繋がり、どのように活動しているか…


 感情が明らかになれば。少しは意識に踏み込める。

 それが今の僕の目標である。


                   ◆


「ご飯食べながら論文読まないでよ」昼間。空き時間に昼飯を食いに学食に来たら春奈がいて。今僕らは食卓を挟んで向き合っている。


 僕はチキン南蛮を食べながら、先行研究の論文に目を通している。卒論の材料。感情関連の脳部位のシナプスに関する論文。

「そうは言ってもね。時間がない訳さ」僕は卒業してからもこの大学に残るが、卒論は2月くらいまでに終わらせなければいけない。

「感情だっけ?でかいテーマをぶち上げたよね」春奈はサバの塩焼き定食を突きながら言う。

「いや。最初は人格に踏み込もうとしていた…それを思えばかなり楽になったほうだよ」

「それでも。院試勉強しながら、よく取り組んだよねえ」

「お陰で睡眠時間を大分削る羽目になった。最近は院試勉強がなくなったお陰で卒論に集中できる」

「私には構ってくれないよねえ」彼女は言う。今年に入って入学式を終えた後は彼女に構っている暇もなかった。

「…済まん」僕は謝る。一応は彼氏なのだ。僕は。

「ま。来島くんが頑張っているのは分かってるんだけどさ…やっぱ寂しいよ」

「…卒論終わったらどっか出かけよう」

「それは―遠い未来だなあ…」なんて彼女は嘆息たんそくする。

「そうでもないだろ?僕は卒論やってりゃ、あっという間に過ぎて行くと思ってる」

「私は…案外暇なんだよ。来島くん。ま、遊ぶ相手が居るから良いものを」彼女は大学でしっかりと根を張っている。

「…うまくやっているんだな」僕は思う。彼女は新しいアイデンティティの中でも必死に生きているのだな、と。

「せっかく、人格を取り戻したからね」

「ああ。かなり苦労はしただろうが」

 

                    ◆


 僕は論文をなんとか完成の域に近づけた。感情のシナプスの電気活動を記述し。そこに解釈を持ち込んだ。

 恐怖感情。扁桃体へんとうたいで生み出されるそれのシナプスネットワークの記述をした。

 そして。僕はそれをマップにし。脳の活動と関連づけ。


 …学部生にしてはやる事をやった、と今は思っているが。

 ううん。思っていた規模の論文にはならなかった。だが。提出期限は迫っており。

 僕は今やスライドの作成に追われている。今は正月だと言うのに。


 家のインターフォンが鳴る。僕はPCから目をあげてインターフォンにこたえる

「はいはい?」

「あ。来島くん?私、私」春奈の声だ。

「おー。あけましておめでとさん。どうした?今日は親戚付き合いしてるんじゃなかったか?」

「…そうだったんだけどね。暇だったから。抜け出してきた」

「なんつう事を」

「だって。来島くんが家に居るのは分かっていたし」

「アテにするんじゃない。今は卒論発表のスライド作りに追われているんだよ」

「…いいじゃん。初詣に行こうよ」彼女がインターフォンの向こうでむくれているのが分かる。

「…とりあえず上がんなさい」僕は白旗を上げる。多分説得しても無駄だから。

 

 祖父母は春奈を迎えている。僕はその側でノートPCで作業。

「…相変わらず、熱心だねえ」

「そら。院に受かっときながら、卒論ポシャったら笑いもんだ」

「お陰で私は放置プレイですよ」

「勘弁してくれ。爺ちゃんと婆ちゃんが聞いてる」

「酷いもんですよねえ」なんて一緒にこたつに入る祖父母に言う春奈。

「まあまあ」2人は春奈をいなす。

 

 僕はスライド作成をちょうど良いところまで終わらせて。

「さ。初詣行くぞ?」こたつの向こう側でみかんを食べながら溶けている春奈に言う。

「やっとかよお」なんて春奈はむくれつつ立ち上がる。


 僕らは家の近所にある神社に向かう。そこは地元民行きつけの神社だ。毎年同様人が多い。僕は春奈の手を引きながら不思議な気分になる。まるで子どもを連れて歩いているような気分なのだ。

 それはある意味では正解かも知れない。春奈の人格の継続性を抜きにして考えるなら、彼女は生まれて数年で。幼い精神を引きずっているはずなのだ。記憶のバックアップがなければ。


「人が多すぎて笑えてくる」彼女はケタケタ笑う。

「…明日でも良くなかった?」僕はここ一年研究けだったので、久しぶりの人の多さに圧倒され、精神がすり減っている。

「いーや。今日じゃなきゃ駄目なの」彼女は言うが。僕はそこに変化を読み取った。彼女の人格の。

 春奈は昔…

「さいですかい…」僕はなんとはなしに返事をするが。春奈の変化…ある意味では成長に困惑していた。ああ。彼女の旧人格は塗り替えられようとしているのだ。

 

                  ◆


 僕は卒論を提出して。発表も終わらせた。無事に大学院に進学できそうである。

 時間に空きが出来て。やっとこ春奈に向き合えそうである。


「トゥルルルル…」僕は自宅から春奈に電話をかける。いつだかの約束を果たそうと思ったのだ。

「はいはい」春奈は応える。

「僕だ。卒論終わったからさ。今度どっかに出かけようよ」

「…ちょっと待って。手帳でスケジュール見てみる」

「そんなにお忙しい?」

「私だって大学生だからね。来島くんが卒論で忙殺されている間にバイトしたり、サークル入ったりで中々忙しくなったのさ」

「そらあ。大学生活を満喫していらっしゃる」

「まあね…ええと。来週の土曜なら行けそう」

「ん。じゃあ、車借りとくから。ドライブにでも行こう」

「了解」これで電話は切れた。


 僕は電話を切った後、不思議な気持ちに襲われていた。

 僕が卒論に追われている内に彼女は大学で成長していたのだな、と。

 これを思うと親のような気分になってくる。

 

                  ◆


 僕と彼女は海に来ていた。

 寄せては返す波。砂浜で見守るそれは人生を思わせる。

「春の海…中々悪くないわね」かたわらに居る春奈は言う。

「僕もあんま期待はしてなかったんだけど。意外と風情があるよなあ」

「期待してなかったの?」

「うん。せっかく連れてきといて何だけど」

「…来島くんはそういうところが雑よねえ」彼女は嘆息をしている。


 僕と彼女は砂浜をそぞろ歩く。砂浜の端の方には夏に営業するであろう海の家の残骸が。


「今年も忙しくなりそうだ」僕は呟く。

「去年も大概だったと思うけど?」

「院に入って。博士まで進もうと考えいるからね…一年目からやるべき事は多い。卒論のテーマを深追いしなくちゃならないし、場合によっては留学も考えなくちゃならない」

「…」傍を歩く春奈は黙り込んでしまう。

「ゴメン。君を寂しくさせる生活は続きそうだ…」僕は謝る。一応は彼氏なのに。彼氏らしい事を全然出来ていない。

「…あのさあ」彼女は言いにくそうに言い出す。

「どうかした?」僕は嫌な予感がしていた。

 

「私、最近、告白されてさ」彼女は言う。

 

「そいつは―おめでとう」僕は他人事のような返事をしてしまう。

「…悔しくないの?嫌じゃないの?」

「嫌ではあるけど。僕は君を放置し過ぎてる…」

「そうやって後悔するなら。構ってくれれば良かったのに!」彼女は声を荒げる。

「そうは言っても―僕は将来の為に色々と学んでいるんだよ?」僕は冷静に応えるが。

「将来って何?私の脳にしか感心がなくなってきている癖に」

「君の脳は―機械だ。そのうち不整合が起きる可能性だって…」

「でも。今はうまく動いているじゃない。今を見てよ?」

「…」僕は言い返せない。僕は最近、春奈と向き合えてない。ここ一年は特にそうだ。

「そうやって。貴方あなたが機械の私を軽視している内に。私はどんどん変化している。それと比べて。貴方は過去の私を追い求める事に夢中で…」

「そいつを言い出したら。キリがない」

「私は生きているの。私として。だから今の私を見てよ?」

「…努力しようと思うけど。やっぱり僕は。

「勘弁してよ。私は…私のオリジナルの脳は…もう焼かれて灰になってる。今あるのは機械の私…過去の記録をよすがに産み出された新しい私…」

「僕は…」言い淀む。これを言ってしまったら。僕たちの関係は終わってしまうのかも知れない。

「僕は?今の私を受け入れられないとでも?」

「…最初。君が目覚めた時から。違和感が拭えなかった。だけど。それを我慢して君に付き合ってきた…だけど。君はどんどんと成長していき。

「その言葉は。私との決別の言葉って事で良いかしら?」彼女は立ち止まりながら言う。

「…かもね」僕はそう応えてしまい。

「もういい」彼女はきびすを返して去っていく。

「帰りはどうするんだよ?」僕はその背中に言葉をかけるが。

「近くに駅あるから。気にしないで」

 

 こうやって。

 僕と春奈の関係は春の海で崩壊した。

 僕はこの結果を…意外だとは思っていない。

 彼女が目覚めた時から、予感としてあった事なのだ…

 

                 ◆



 僕は春奈と別れた後。留学の準備を整えた。

 彼女と同じ大学にいる事に耐えられなかったのだ。

 僕の留学先はアメリカ。脳科学の最先端に僕は踏み込んで行った。

 

 僕はそこで感情の研究を続けたが―細部に踏み込んで行くのに夢中になってしまい。人格の問題を忘れた。

 

 そして一年が経つ。僕は留学先の大学の院に正式に籍をおくことを勧められ。

 いよいよ。日本に帰る理由が無くなりつつある。

 僕は日本に置いてきた家族と…春奈の事を考える。最近は連絡もあまりとっていない。

 

 僕は彼女の為に研究を始めたはずなのに。

 今や自分の感心のゆくままに研究を進めていて。

 そこに空虚さを感じるのだが。

 今さらこんな事を言ってもしょうがないのだ。


 新しい人格の彼女は今、何をしているのだろう?

 僕の事を忘れて。新しい男とねんごろにやっているのだろうか。

 僕はスマホのメッセンジャーアプリの彼女の連絡先を見ながら考え込んでしまう。


 今、連絡したら―どうなるだろうか?

 もう。僕の事など記憶の果にあるのだろうか?


 僕は空を仰ぐ。季節は春で。ロサンゼルスの春は異様に温かい。

 スプリング・イズ・ヒア。

 僕は一人の春をカルフォルニアの大地で迎える。

 

                ◆

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『スプリング・イズ・ヒア―春はやってきてしまう―』 小田舵木 @odakajiki

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