第14話交差し合わさる転生軌道

 自分でも想定外に取り乱した私だったけど、ムンムから宥められ一緒にヴィクトルをベッドまで運んだ。

 ヴィクトルはシーツを本来の使い方に戻して眠っている。毛布を上に掛けたから全裸でも寒くはないと思う。


「ムンムどうなの? 彼はどうしちゃったの?」

「どうかご安心下さい。――風邪ですね」

「風邪? ホントに? 助かるの?」


 この上なくハラハラして見守っていると、注意深く皇帝陛下の診察を終えたムンムがゆっくりとした動作で脇に立つ私を見る。


「しかしお嬢様、単なる風邪と見くびってはなりませんぞ」

「ええっ!? し、深刻なの?」


 余程ショッキングな顔でもしてたのか、ムンムはヴィクトルよりもむしろ私を心配そうにした。


「何の病であれ油断は禁物と言いたかっただけです。安静にしていれば陛下の若さと体力ならばすぐ快復なさるでしょう」

「な、何だ脅かさないでよ」


 ややホッとしつつも、私はベッド脇から彼の様子を眺め下ろしながら罪悪感に苛まれていた。


「私のせいかも。この前夜の雨に濡れさせちゃったし、さっきはさっきで私の代わりに猫で攻撃受けたから、やっぱりそのショックが体に出てきたのかもっ」


 そのままベッドに両手を突いて後悔と共に項垂れる。


「ごめんなさいヴィクトル」

「お嬢様、そのように落ち込まないで下さい。陛下はきっとお目覚めになりますから」


 ムンムは優しい目で慰めてくれる。その優しさに涙だわ。


「ところで、逃げるなら今のうちですぞ」

「ムンム……」


 嗚呼、感動台無し。でもその通りかもしれなかった。私もムンムも少なくとも彼が寝込んでいるうちは命はある。この機に二人で国外逃亡するのも選択肢としてはありよね……なんてここに入る前だったら疑問の余地なくすぐにもそうしてたわ。


 ――今の私はしないけど。


 命は惜しいわよ。でも優先すべきはヴィクトルの看病だって、何の躊躇もなく決めていた。ムンムは左右に首を振る私の様子から心境の変化を感じたみたい。それ以上は何も言わなかった。


「レディ、あなたのせいじゃないですよ。それにしても陛下のお子を身籠っていたとは驚きました」


 満を持して……はないけどその声は!


「――エド!」


 ダンゴムシ、ついに覚醒!

 女装シスター青年騎士が床から起き上がった。


「少し雨に濡れた程度じゃ陛下は風邪なんて引きませんよ。次の日に某を無情にも林檎に変えた時だって健康そのものでピンピンしてましたしね」


 その時の悲運を思い出したのかどこか遠くを見るエドはぶるりと小さく震えた。


「原因は、長時間猫だったからだと思います」

「何で猫だったからって熱が出るの? 魔法の副作用?」

「いえ。陛下は昨日外から来てからこっち、ずっと猫姿ですよね?」

「うん」


 エドはこの機にリベンジの下剋上……なんて思ってはないだろうけどじっと彼の主君を見つめ下ろす。


「想像してみて下さい。見た目は猫でも、魔法で姿を変えているだけなので実情は全裸と一緒です。この地は年中泳げるような熱い地方でもないですし、夜間は気温が幾分低めです。衣服を着ていれば別ですが、そんな環境でずっと裸で居たら普通は風邪引きますよ。


 あー、なるへそ。大いに納得した。

 エドのおかげで自責の気持ちは薄れたけど、それでも私を心配して無謀にも猫にまでなってくれたって思えば、そのせいで風邪を引かせて申し訳ない気持ちは残る。彼が勝手にした事って言っちゃえばそうなんだけど、何かね。

 罪滅ぼしってわけじゃないけど、せめてと私は毛布の中のヴィクトルの手を励ますようにぎゅっと握り締めた。


「一秒でも早く良くなって」


 こうやって看病しても、元気になったら私を殺そうとするかもしれない。

 だけどこっちだって死にたくないからそう易々とは諦めないわ。そこにだってきっと彼なりの理由があるはずよね。


「私は絶対に産むんだから。でもお腹の子の父親のあなたも元気じゃないと嫌よ」


 正々堂々親同士腹を割って話し合いたい。あ、帝王切開って意味じゃない。如何にこの子が尊いかを訴えて理解してほしいのよ。


「私、あなたならきっとわかってくれるって思うから」


 アデライドじゃなくその中身の私そのものを好きだって言ってくれた人だからこそ、向き合いたい。

 そんな決意とか懇願の言葉の刹那。

 体の芯からほかほかしてきて、その優しい熱が腕から掌へと伝わってヴィクトルの手までがじんわりと温まる。


「うん? 何これハンドパワー? 気功術?」


 大いに戸惑っていると、私と彼の体が更に淡く柔らかな黄金の光に包まれる。ここまでなってようやくエドとムンム、ジャンヌにも異変がわかったようで、二人は驚いた顔付きで私を見つめた。


「何ともはや……。何度かこの目で見た記憶がございますが、司教たちの使うような祈りの魔法ですなこれは」


 ムンムが感心したように瞬きを繰り返す。

 え、どうしてそんな魔法が私の手から出てるの?


 まさかこれもお腹の子だったり……?


 でもヴィクトルを攻撃したり回復させたりと一貫してないから違うのかも。もしかしたらアデライドにも隠された才能があるのかもしれないわね。


 手は握ったままに私自身も唖然として見つめる前で、やや苦しそうだったヴィクトルの表情が落ち着いていく。


 同時進行で奇跡の光が彼に吸収されるようにして消えていく。

 魔法発動の疑問はとりあえず棚上げにして、私たちは厳かな緊張にも似た空気の中、声もなくその様を見守った。私はヴィクトルが回復するなら藁にも縋りたかったの。

 そうしてすっかり光がなくなった頃、ヴィクトルがゆっくりと瞼を持ち上げた。

 印象深い赤ルビーの瞳が少し彷徨ってから周囲へと巡らされる。


「ヴィクトル、気分はどう? どうせなら祈り魔法のプロたるフロイス司教が居たら良かったんだけど……」


 安堵に掠れた声で顔を覗き込めば、ぼんやりした様で「黙れ」って小さく呟いたヴィクトルから引っ張られた。


 え?


 疑問さえ浮かばないうちの出来事だった。


 チュッと軽くキスされた。


「お前の口から、他の男の名なんぞ、聞きたく、ない。私だけ、見ていろ……」


 無防備にとても幸せそうに微笑んだヴィクトルは少し浮かせていた頭をぽすんとまた枕に戻して目を閉じる。

 何か無性に可愛いスマイルだった。

 そう、不覚にも可愛いって思っちゃった。


「なななな?」

「「「…………」」」


 エド、ムンム、ジャンヌの沈黙する事暫し。

 誰これっ!? ホントのホントに彼はヴィクトル・ダルシアクなの!?


 何より、私のファーストキスが……っ。


 呆然となりながら、だけど不思議と悲しくはなかった。初キスはイチゴミルクみたいに甘くはなかった。一瞬過ぎてよくわからなかった。恋愛なんてこんなものなのかもしれない。


「お嬢様、大丈夫ですか? お顔がとても赤いようですが」

「かっ風邪がうつったのかもね!」

「何ですと!?」

「あー、某も青春したい」


 ヴィクトル・ダルシアク……!

 本っ当に何て事してくれたのよ。人の気も知らないで。

 彼は完全に夢心地だったに違いない。きっと起きたら覚えてないパターンよね。でも私はしっかり覚醒中だったから忘れようもないじゃない。あ~~もうホントにどうしてくれるのよ!

 大丈夫だって思ってたのに。大丈夫タイプじゃないから好きにはならないって思ってたのに……っ。


 なのにキュンキュンしてる。


 心配のなくなったヴィクトルが自然に目覚めるまで、私たちは静かにしていた。

 主に私の殺気が皆を黙らせていて、先刻の件には触れるな危険オーラを出していたせいね。

 睨むように顔を凝視していた私の圧を感じたのかは知らないけど、ヴィクトルはハッと目を見開いた。その目は何度目かの瞬きの後にいつもの理知的な光を取り戻す。敏感に魔法の気配を察知したのかもね。彼は私がさっき握っていた方の手を顔の前に翳してじっと見つめてから、ゆっくりと上半身を起こす。


「きゃーちょっと待って! 起きないでそのままでいて!」


 しかし俺様ヴィクトル様な彼は上だけなら別にいいだろうとでも思っているのか、こっちの気も知らないで身を起こす。破廉恥皇帝めえ。

 そんな皇帝様は私の目を真っ直ぐ見つめた。


「私の身に残る祈り魔法はノアが?」

「え、えーと、それがよくわからないの。ほら、私は魔法を使えないでしょ」

「そうだったな……」


 ヴィクトルは乱れた前髪ごと額を押さえて真面目にも彼の疑問を黙考するようにした。


 ……案の定キスは覚えてないみたいね。良かったような良くないような。ま、まあいいけどね。


 ところで、話を棚から戻すと、祈り魔法は冷静になった私の感覚的なものを言えば私の体の中から湧き出たように思う。


「やっぱりお腹の子、なのかしら」


 もしかしてこの子魔法の超天才、スーパーベイビーなんじゃないの? だとすれば祈り魔法行使が負担になってないといいけどね。


「子供……私たち二人の」

「そうそう、城とかここの門でもバチッてなったでしょ、あれもたぶんこの子よ。お腹の子はあなたの才能を受け継いでどうやら魔法使いらしいのよね」


 …………って普通に喋ってから頬が引き攣った。

 やばい、何平然と子供の話しちゃってんのよ私ッ。しかも魔法使えるって余計な秘密まで教えてどうするの!

 話し合いもしないうちから災いの芽は早いうちに摘んでおこうなんて思われたらどうしよう!


「そうか、合点がいった。これまでお前から感じていた魔法の気配はそういうわけだったのか」


 ヴィクトルは私のお腹を見据えて両目を細める。あの時はよくも攻撃してくれたなって責められてるようでヒヤリとして、咄嗟に両手でお腹を庇って身構えた。この子を護るって意思表示よ。


「この子に危害を加えないでよ。あなたの子だけど、私の子でもあるんだから。あなただけの意思で好き勝手はさせない」

「そうか。だからお前はここに来たのか? 私が魔法を禁止されているこの場所に」

「その通りよ。子供を産むまで帰らないわ」

「何故……?」

「何故ってあなたが言う? あなたの子を妊娠したら子供を望まないあなたに殺されるって聞いたからよ」

「……」


 少し待ってもヴィクトルは反論しなかった。

 そうなのね、噂の通りなんだ。私はやるせない気分と腹立たしい気分でしかと彼を睨み付けてやる。もう裸恥ずかしいなんて動じてる場合じゃなかった。

 本音を言えば、彼には否定して欲しかった。

 いくら子供が要らないからって、デキた途端に母子共に葬るなんて非道過ぎる。

 私は私の身にも降り掛かるかもしれない最悪に、ぐっと拳を握った。


「さすがは残酷皇帝だわ、あなたって。あなたの酷い噂は噂でしかないのかもって思っちゃった私が馬鹿だった」

「え、ええとレディ、それに関しては少々誤解が……」


 エドが取りなすようにして間に入ってきたけど私は気を緩めずにヴィクトルを睨み続ける。一瞬でも気を抜いたら禁止事項を破って魔法を使ってでもここで私と子供を殺そうとするかもしれないもの。


「ヴィクトル・ダルシアク皇帝。あなたが私を好きなら、この子を認知しろとは言わないから見逃してほしい。遠くでひっそり庶民として生きても構わないから、どうかこの子を生きさせて。今は無理でもいつかあなたにもこの子の可愛さがわかる日がくるといいとも思うから」


 互いににこりともしない対峙。ここで目を逸らしたら負けだって思って懸命に瞬きさえ惜しんだ。耐えろ私、ドライアイ……っ。


「私がお前を逃がすわけがないだろう」

「……ッ」


 低く言って、彼はまた器用にシーツを巻き付けベッドから降りるや私へと手を伸ばしてきた。

 私は僅かに身を引いてその手を回避した……と思ったら、後退を予想していたのか相手の方が一枚上手で見事に腕を掴まれる。

 これで詰み?

 冗談じゃないっっ!


「あのねヴィクトル!」

「帝都に帰るぞ」

「放して、一緒に戻って公開処刑でもする気?」


 ヴィクトルは物言いたげにしているくせに無言でこっちを見つめる。


「放してよ」


 一度目よりも強く言った。でも放してもらえずもっと更に声を荒げる。


「放してってば!」


 刹那、バチリと、通算三度目の雷撃みたいな攻撃魔法が放たれて彼の手の力が僅かに弱まった。けど彼は即座に私の腕を掴み直す。そのせいか攻撃魔法がバリバリバリと音を立てて彼を襲った。

 手を放さない彼の手や頬に傷が増えていく。


「なっ何してるのよ! また怪我してるのにどうしてそう頑ななのッ!」


 頑固なヴィクトルはそれでも聞かず、どころか私をぐいと引き寄せて抱き締めてきた。


「なっ何なのッ!」

「私はお前とただ共に居たいだけだ! 子供は殺さない!」

「嘘よッ。噂はともかく、さっき殺すしかないって言ったのを聞いたんだから! 私は殺されてあげるつもりはないわ」


 予想に反して腕の力が弱まって、その隙にと彼を突き飛ばした。

 小さな無数の傷に血を滲ませる彼はどこかばつが悪そうにしている。


「あれは子供やお前に言ったんじゃない」


 訝りを浮かべる私の沈黙が言葉の続きを促したとでも思ったのか彼は咳払いを一つした。何か言い辛い台詞でも言うみたいに。


「お前が妊娠しているのなら、私は私の気持ちを抑えなければならないという意味だ」

「はい?」

「妊婦のお前への性的欲求を殺すしかないと、そういう意図だ」

「ストレートに言い過ぎよッ」

「……説明を求めたのはそっちだろう」

「ああはいはいそうですね。わかり易いご説明どうも!」


 エドとムンムとジャンヌがポカンとしてる。

 まさか皇帝陛下の高貴なお口から性的欲求なんて言葉が出てくるとは思ってなかったろうからね。まあでも、そうなの?


「じゃああなたの子を妊娠した女性が処刑されるって話は?」

「それ以前に、私が好きでもない相手を妊娠させるようなヘマをするとでも? 単に女たちが虚言を弄しただけだ」

「え? でも子供は天からの授かりものって言うし、万一ってことも……」

「万に一つもない」


 んな馬鹿なって困惑しきりな私に、おずおずとしてエドが「ええと、それはですねー」と補足をくれようとする。さすがにこれ以上自らの主君たる者の口から下ネタを聞くのが忍びないのかもしれない。


「陛下は避妊の魔法にも通じておられるのでレディ方の妊娠は不可能だったんですよ。その上で嘘偽りの類でなく本当に妊娠したのなら、それ即ち陛下の血を引いてはおられない、と」

「うっそ大胆~。別の男の子供を皇帝の子だって言ったの? 分別のない怖いもの知らずな女性たちもいたものね」


 ええ、と頷くエドが辟易とした声で続ける。


「そもそも陛下の暗殺目的で近付いたり、横暴にも使用人を虐げ殺したりと問題のある女性たちばかりでしたし、そのように黒い裏があり、尚且つ分別がなく怖いもの知らずだったからこそ、もうこの世にいないんですけどね」

「あー……」


 要は皆さん悪女でしたってやつかー。

 爽やかなロマンスなんて微塵も感じられない殺伐とした王宮劇に恐ろしくて指先が冷えるッ。


「あ、でもそうならアデライドにはその避妊魔法を使わなかったのね」


 ヴィクトルはうんともすんとも言わずに目を逸らした。

 私はようやく張っていた気が半分くらい緩んで長い溜息と共にその場にしゃがみ込んだ。


「はあ~~~~、何よも~~~~」


 彼はただの残酷皇帝じゃなかった。理由があっての沙汰だった。

 私はヴィクトル・ダルシアクを信じてもいいんだ。


「勝手に誤解して悪かったわ。でもね、本気で怖かったんだから」

「怖がらせて済まなかった。だがこれからは安心していい。私は決してお前を害さない。生憎と愛する者を害するような奇特な趣味は持ち合わせていないのでな」


 この人ってば大真面目過ぎる顔と声で言うから、ちょっと笑ってしまった。


「とりあえず手当てしないと。ここじゃ魔法を使っちゃ駄目なんでしょう? 治癒魔法も使ったら駄目よね」

「それは攻撃的な魔法は禁止という決まりであって、治癒魔法は原則別だ」

「そうなの? それなら良かった」


 なんてこっちがホッと安心している間に行動が早い陛下は外傷をフロイス司教に劣らないスムーズ治癒魔法でさっさと治しちゃった。

 帝都から逃げるまでした一番の心配事がなくなったらまた妙に半裸姿が気恥ずかしくなってくる。


「はっ早くシスターに服を頼まなきゃよね」

「あ、お嬢様それなら私がシスターを捜して頼んできます」


 そんなわけでジャンヌに任せて届けてもらった。勿論袖の下も忘れずにね。

 シスター服を着てやっと文明的な格好になったヴィクトルが、先のデジャブのように私の正面の席に腰掛けている。わかってはいたけどこの男ってば何着ても似合うわよね。……それがたとえ女装でも。


 エドは「二人で話し合ってきちんと今後の方針を出して下さい」って気を利かせて、心配顔のムンムとジャンヌを連れて部屋を出てくれていた。

 ほとんど屍だったくせにエドはちゃんと私たちの会話を聞いていて事情を把握していたけど、実は甲冑着てない方が無駄に気が散らなくて有能なんじゃないのかしらね。


「ノア、まずはお前の希望を聞かせてくれ」


 ヴィクトルの良く通るのに静かな美声が二人きりの部屋に響く。


「わかったわ」


 私は改めて姿勢を正すと、一番お腹の子にとって良い環境になるようにって願いつつ今後の方針を話し合った。


 正式にアデライド・ロジェはヴィクトル・ダルシアクと婚約をする事。

 そして妊娠の件はまだ周囲には伏せる事。


 前者のはそれが周囲への牽制にもなる。少なくとも表面だけの幼稚な嫌がらせはだいぶ減るわね。

 後者は念のため。


「ノアはそれでいいのか?」

「うん。それがいいわ。だから全力で安産祈願してね」


 ああ、と頷く彼はテーブルの上から手を差し出してくる。


「では共に帰ってくれるな、ノア」

「ええ」


 その手を取って交渉成立とばかりにしっかりと握りしめる。


 私はヴィクトルと帰ると決めた。


 彼もこの子を望んでくれているって信じられるから。


 ただ、結婚は別。

 そこはいつ戻るとも知れない本物のアデライドが戻った時に、最良の選択をしてもらいたいと思う。

 本物が戻ったら別れるって言ってたけど、子供のためにもそれはしてほしくない。そう言ったら黙っちゃったけど。


「ノア、婚約後は共に暮らしてくれるな?」

「え? 何で? 婚約なだけなんだし実家のロジェ家にいたら駄目なの?」

「身の安全を保証できない」

「えっ!? 刺客がわんさか送られてくるとか言わないわよね……?」

「言う。自己の利益のために邪魔な婚約者を排除しようとする輩は確実に出てくる。だからこそ、厳重な魔法で護られた私の城に居れば安全だ。私が指先一本たりとも触れさせない」

「ヴィクトル……頼もしい言葉をありがとう」


 感謝の笑みを向けたら彼も微笑んで満足そうに頷いた。


「――それなら、やっぱりこの子を産むまではここにいるわ」

「何故そういう結論に至る」


 ひいっ怖い顔! おおお怒ったの?


「こっこの子の安全が最優先だからでしょ。ヴィクトルはこの子が単なる世継ぎってだけで、この子の父親としては大切には思わないのかもしれないけど」

「大事だ。正直まだ知ったばかりで親の実感はあまりないがな。お前共々大切にすると誓う」

「本当に?」

「本当に」

「一緒に胎教とかもしてくれる?」

「無論だ」

「じゃあ一緒に住んでもいい」


 ふふっ、言質は取った。これでヴィクトルにも責任を持って子育てしてもらうんだから。

 ま、帝都に帰るにしてもまずはシスターに頼んでヴィクトルとエドの不法侵入者二人をこっそりと敷地の外に出してもらわないとね。私の方は単に滞在予定を取り消せばいいだけ。

 方針は決まった。

 黙って去るのも悪いかなって思って明日バイバイねって旨をアドリアンに伝えてもらったら、あの子ってば大泣きして部屋に駆け込んできて何と離れようとしなかった。母親が部屋まで迎えにきてくれて、暫くはそれでもいやいやをしていたけど結局は連れられていったわ。必ずまた会いに来るからって指切りげんまんって約束してようやくだった。

 

 そんなわけで諸々を手配した翌日、私はヴィクトルと帝都に帰還した。





 当初ロジェ伯爵夫妻は、未婚の娘をどうして皇帝の宮城に住まわせねばならんのだといい顔をしなかった。

 娘はきっと脅されているんだろうって思い込んで渋る両親を何度も無理強いじゃないって説得しないといけなかったわ。


 本当はまだ言うつもりはなかったけど、どうにも承諾をくれそうもないのに業を煮やして「彼の子を妊娠したから警護の十全な場所に居る必要があるの」って言ったら、伯爵は白目を剥いて卒倒したっけ。


 見た目はこっちの方が倒れそうって思える繊細そうなロジェ伯爵夫人はあらまあ孫ができたのねって嬉しそうにしていたわ。

 まあ伯爵も以前はヴィクトルとアデライドの関係を貴族の利益的な面からしめしめって思ってたんだし、そこにヴィクトルと居る方が愛娘が殺される心配はないってわかってやっと折れてくれた。

 ジャンヌは妊娠を内緒にして言わなかったのに拗ねてはいたものの、侍女としてきちんと仕事をこなしていた。彼女を巻き込まないようにって配慮だったのはわかってくれていたみたい。

 加えて、実はアデライドの雰囲気が変わったのを彼女も気付いてたけど、何だ妊娠した衝撃のせいだったからかっていいように解釈してくれたのは助かった。


 エドたち騎士も日常任務に戻っていて、エドは相変わらず銀甲冑で徘徊はいかい……じゃない巡回している。


 もうエドの物はオレの物~ってヴィクトルが強奪したりはしないだろうから安心して甲冑道を驀進ばくしんしてほしい。

 彼は面倒を見てる街の少年ジョンに護身のためか剣を教え始めたとも聞いたっけ。若いお父さんと息子ってほのぼのとした図が頭に浮かんだ。

 お調子者のロベールはその独特の愛嬌から帝都の淑女たちに結構人気だし、優しいフィリップは何だかジャンヌと怪しいわ。

 お城の廊下でばったり会ったりするとジャンヌもフィリップも揃って頬を赤くしてそわそわし出すんだものー。これは絶対修道院からの帰路で何かあったんだわ。

 私はヴィクトルとテレポートで、ジャンヌはエドと馬車を回してきたフィリップと三人で帝都までだったのよ。

 そのうち私が一肌脱いで差し上げないといけませんわねーホホホホホ!


 もう一人、忘れちゃいけない人がいる。フロイス司教よ。


 彼とは何と愚痴友達になった。


 若くして出世した彼も彼で色々とムカつく日々を送っているんだとか。聖職者も聖職者で必ずしも常に真っ白な心でいられるばかりじゃないってわけよね。人間だもの。

 私がフロイス司教と仲良くするのをヴィクトルは猛反対。教会側とある部分では対立もしている皇帝陛下としては警戒してるんだと思う。


 とにかく、帝都に戻って一月でスピーディーにもヴィクトルと正式に婚約した。お城に引っ越すのだってそれからすぐだった。


 まだ婚約者なのに専用の宮殿を丸々一つ与えられ、私は日々の大半をそこで過ごした。少しずつ大きくなるお腹を不思議な感覚で以て見下ろしながら、そうやって、この世界での私の時間は少しずつ増えていった。





 アデライドになってから何カ月と経ったけど、未だに彼女の魂は見つからないのか天使からの音沙汰はない。


 果たして「いつか見つかる」の「いつか」はいつになるのやら。50年後だったりしたら笑えない。

 皇帝陛下のお城で暮らす私は貴族令嬢どころか一国のプリンセスかってくらいに丁重な扱いを受けている。

 当初周囲には隠していた妊娠も、お腹が出てきてからはもう潮時だわとカミングアウトした。だから婚約者って言うよりもう后って思われてるみたいね。


 だけど、ヴィクトルと甘い事は何もない。


 お腹の子のために婚約しただけだもの。


 私は私の中に歯止めがあって、いつか元の私に戻るならこれ以上は踏み込んじゃいけないって思ってる。彼も私のそんな心を察しているのか何もしてこない。

 それでも二人で帝都のパークを歩いたりはする。食事も大抵一緒だしヴィクトルのブレイクタイムにお茶だってする。


「ノア、先程からボーっとして何を考えている?」


 ヴィクトルの声に私はドキリとして我に返って顔を上げる。


 現在は夕食後、照明の柔らかな書斎で互いに思い思いの書物を手に取って寛いでいる時間だった。


 クッションの効いた長椅子に隣り合わせに腰かけていて、それぞれ楽な姿勢でいる。使用人も下がらせているし純粋に二人きりだ。

 余計な目がない。だからこそノア呼びなんだけど。

 そして、こんな風にゆったりした雰囲気の中で過ごせるくらいに私はヴィクトルに心を許していた。親友といるのにも似たまったり感だわ。ああだけど、愚痴友達のフロイス司教に感じるよりも友情は深いみたいで傍にいて心から安心できる。

 ただ不意打ちも同然だったせいか、真っ直ぐに見つめられてちょっとドキリとした。

 ……そんな自分が意外じゃない。

 私は読んでいるようで読んでいなかった書物をパタンと閉じると片手で目元を覆った。


「こんなつもりじゃなかったのに……」

「ノア?」


 告白されてだいぶ経つけど、私も自分の気持ちには気付いている。友情なんて言って自分自身を欺瞞しているだけで。

 ゆっくりと手を外し横のヴィクトルを見つめた。


 恋人にできるかできないかって、よくキスできるかできないかだって言うわよね。


 不意打ちとは言え既に私はこの男とキスをした。


 今思い返しても赤面しそうなくらいにありだった。

 だけど、この男は覚えていない。

 それでいいと思う反面、それが妙に腹立たしい。私ばっかり思い出して混乱して動揺して、そんな私を彼に悟られないように努めて落ち着かせてってのを結構やってて、こんなの不公平って思ったら悔しくて…………ああ、そうか、私は気付かせたいのか。


 元の世界で後悔するから動かない選択をして、どうしようもなく後悔するところだったのにやっと気付いた。


 いつか離れたっていいじゃない。

 それこそ後悔も吹き飛ぶくらいに一生分の好きをぶつけて燃え尽きるくらいに愛しちゃったら。


「ヴィクトル」

「うん?」


 愛してる。


「……」

「……」


 ちゅっと不意打ちしてやった。手からポロリと本を取り落としたヴィクトルが、鳩が豆鉄砲を食らったような初めて見る顔をして固まっている。

 この男が病み上がりに寝ぼけてやった軽いやつを再現してやった。


「これね、あなたとのセカンドキス。……最初のは覚えてないでしょうけど」


 薄らざまみろーって復讐心を覗かせて、私は彼の綺麗な綺麗な赤い瞳を見つめてにんまりとした。

 ここで照れないぞー、照れたら負けだぞ私って何度も内心で強く言い聞かせて平静を装う。

 止まっていたヴィクトルが、ようやく動き出した。

 彼は何故かふっと笑うように息を吐き出す。


「……やっとだな」

「え?」

「やっと食いついた」

「はい?」

 

 何? 今の台詞はどういう意味? ……食いつく?

 釣り宜しく餌を撒いた……と?

 まさか。


「この私がお前とのキスを覚えてないわけがないだろう? あれはそっちから私を捕まえにくるように仕掛けた罠だ」


 あああ何て事っ。時間差ハニートラップね。


「もう、ノアの気持ちは決まったのだろう? ずっと待っていた。こちらから強引にしてもお前は決して私のものにはならないだろうからな」

「な、な、な……狡くないっ!?」

「策士と言ってくれないか」


 どうしよう、とんでもない蜘蛛の巣に引っ掛かっちゃった気分。もがけばもがくだけ深く絡み付いてくるその銀の糸に。


「煽ったのはそっちだからな」


 纏う空気を変えたヴィクトルに汗がたらーり。今は一旦逃げたくなった私が身を離そうと動く前に向こうは私を抱き寄せていて見る間に顔が近付いた。ドクンと胸を打つ鼓動が強くなって息さえ詰まる。まっ、唇を塞がれたからだけど。


 最高にドキドキしかしなかった。


 甘くて熱くて、のぼせて死にそうよ。


「愛してる、ノア」


 優しい吐息の合間の睦言に泣きたくなるくらいに胸が愛しさで痛くなる。


「ヴィクトル、私も――」


 人生で初めて愛を囁くのにひと際心音が大きくなった刹那、突然フッと全ての音が消え、空白になった聴覚に目覚まし時計のベルが大音量で鳴らされるような煩わしさをねじ込まれた。


「はーーーーい! お~待ったせ~~~~!」


 いつぞや聞いた天使の元気な声だった。

 大音量のスピーカーの真ん前に立ったみたいにガンガン頭が痛くなって続く言葉を口に出来ないまま、気付けばいつぞやの何もない不思議な白の空間にいるのを認識する。まさに空白って言葉が相応しいような場所だ。


「え……またここ……?」

「そうだよ。アデライドの魂を本体に戻したんだ。だからノア、君の魂はもう元の世界に返してあげられるよ。嬉しいでしょ~?」

「は?」


 頭が真っ白になった。

 よりにもよってどうしてこのタイミングで……。


「ああそれと、アデライドからの伝言。体を護ってくれてありがとう、子供が無事に産まれるように大事にするから安心してだって」

「そ、そう……」


 我ながら抜け殻みたいな声が出た。


「前に言ったように昼寝の続きからだからね~。今まで御苦労様、本当に助かったよ。それじゃあノアライフをエンジョイするんだよ~………………また時が満ちるまで」


 最後の声は薄れ過ぎてて聞き取れなかったけど、どうせ労いの一つでしょ。


 でもそっか、ヴィクトルとはもう会えないんだ。

 後悔しないって決めた途端にこれね。ふうん。人生簡単じゃないってわけか、ふうーん。ふうーーーーん。

 喪失感に心が潰れそう。

 こんな風に奪われるように唐突に別れを迎えるなんて思わなかった。


「……せめて、バイバイくらいは、言いたかったな」


 胸が苦しい。

 まるで急転直下で奈落の底に落とされたみたい。

 心が痛くて、鼻の奥もツンとして、涙が……。


 魂だけの存在で涙なんておかしいかもね。だけど、諸々の感情が集約されたような涙がぽろりと目から零れ落ちた所で、私の意識は瞬間的にポイントが切り変わったように現実世界を認知した。


 体感時間的には結構久しぶりの良く知る実家のベッドの上。天使が昼寝の続きからって言ってた通りだった。


 昼寝しながら泣いていたのか、目尻から耳の方へと涙が一筋滑り落ちて行った。





 あれから、こっちの季節は夏から秋に流れた。


 大学生の日常に戻った私は何の事はない、ごく普通に講義を受けてサークルに参加してバイトして友人と遊んだりしながら、それなりに楽しく生活していた。


 付き合いで合コンに行ったりもしたけど、そもそもモテないし、彼氏を作る気にはなれなかった。


 ねえヴィクトル、こっちはマイペースにやってるよ。そっちの世界はどう?

 本当のアデライドとは、そこは恋愛感情じゃなくても穏やかに家族として暮らしてって欲しいなって思う。


「……もう産まれたのかな」


 放課後の大学構内を一人歩きながら、見事に黄色く染まった鮮やかな銀杏の木を見上げてポツリと呟いた。見上げれば首が疲れるくらいに背の高い銀杏並木。


 あ、れ……?


 無理したつもりはなかったけど、ちょっと長く見上げていたせいで立ちくらみしたのか、視界がブレて後ろに傾ぐ。


 あ、転ぶ。


 強く後頭部を打ったりしたら運が悪いと死ぬ事だってある。でも思うように体が動かない。防御も取れずに意識が遠ざかる。


 だけど地面に倒れ込む寸での所で私の体を誰かの腕が支えた。


 背中に感じるのは相手の力強い腕だ。


「ふう、危なかったな。走ってきて良かった」


 薄ら開けている私の目には、同じ学生なのか同年代の若い男の顔が映っている。


 誰……?


 黒髪に色素の薄い灰色の瞳。

 ああどこか外国の血が入ってるのかも。


「やっと見つけたぞ。大丈夫かアデル、いや――ノア」


 へ?


 どうして。


 向こうでは、ヴィクトルは私をアデライドからアデル呼びにしていた。私たちの会話の中で本物のアデライドと区別するためでもあったけど、皆の前でより親密度が増してるんですーって示すためでもあった。

 って、何でこんな事今思い出すんだろ。


「まさかこの世界に転生して二十歳を過ぎるまで会えないとは思わなかった。……ん? ああ、そうかお前はまだ向こうに飛ぶ時間軸上なのか。だからこんな風な倒れ方を。……あの天使も危険な真似をしてくれる」


 ええと? 向こうに飛ぶ時間軸……って飛行機か何かの話?

 異世界の誰かさんみたいな形の良い唇はよくわからない台詞を紡ぐ。


「ならそうだな。戻ってきたら、また――」


 綺麗に笑んだその顔は造りが全く違うのに、どうしてだかヴィクトルを思い起こさせた。


 問いたい気持ちはあったけど、もう限界で意識を手放した。


 ――ホントにもう天使使いが荒いよねアデライドはー。だから代わりにヴィクトルにちょっと意地悪したから少し溜飲は下がったけど。


 奇跡の風が届けたのか、例の天使の不満たらったらな声が聞こえた気がした。






「――早くもっとお湯を運んできなっ!」


 なに、


「お嬢様っ頑張って下さい。いきんで!」


 ごと?


「気を抜かないで下さいアデライド様!」


 え、なっ、何よいきなりのこの急かす声は。それにいきむって?


 誰か出産でもするの?


「――っっ」


 私は覚醒直後に猛烈なお腹の痛みに襲われた。

 くっ……ッ……ッ、何よこの痛さは!? 尋常じゃない!

 それにアデライド?

 ってあのアデライド?


「ちょっとまたなの天使! 今度は全然暇じゃなかったのに!?」

「お嬢様お気を確かに!」


 さっきからジャンヌの声がする。あともう一人知ってる人の声も。周囲を認識すればどこかの貴族の寝室っぽい。えっと何これ。豪華なベッドで出産とか。分娩室は? この国の貴族たちってこんななの? それか急な事態だったのかも。


 まあどっちでもいいけど、どうしてよりにもよって出産時にチェンジしたわけ?


 アデライドの魂はこんな大事な時にまたどこに行ったのよ?

 お腹の子を大事にするって言ってなかったっけ?

 ……ん? でも待って。産むとは言ってなかった。大事にするって言ってただけで。

 そうよ、彼女は端から産むつもりはなかった?

 何故って?


 ――私が産むからよおおおーーーーッッ!


 それにしても痛いっ!

 こんな激痛に耐えてママや世のお母さんたちは子供を産んでくれたのね。

 ありがと、本当にありがとうーっ!

 そして私も何とその一員に加わるのよいぇーーーーい!!

 痛過ぎてテンションが崩壊してる~う。

 ともかく、日本に帰る前は私が無事に産んでやるわって意気込んでたから、正直ノアに戻った時は後ろめたさを感じなくもなかったけど、だけど……ッ、今この通り望み通りになって、正直ッ、


「アデライド様っ、ハイッ、いきんでーっ、もういっちょおーっ」


 このぶっ込みはないでしょヒッヒッフーーーーッッ!!


 あ、意識飛びそ……。


「アデライド様駄目ですよここで気を失っては! 母子共に危険です! あと少しですからどうか頑張っていきんで下さいませ!」


 ううう、そんな事言われても……、だってもう痛くて痛くて痛すぎて無理だっつーのよ!

 もう嫌、もう限界……――こんな場面を時代劇のドラマか何かで見た事がある。

 難産で母体が意識を失って、終いにはどっちも死んじゃうってやつ。


 そうよ……駄目じゃない、死んじゃ駄目じゃないの。


 出産時のリスクを乗り越えてきっと無事に産むって決めたでしょ。

 そう思ったらもりもり意欲が湧いてくる。

 よーし待ってなさいよ、今ノア母さんがすぽーんと産んだるからねーーーーッ!!


 そんな無上の決意の片隅で、聴覚なのかもっと深いところでなのかは判別できないけど、よく知る声が聞こえたように思う。この体になって親しんだソプラノボイスが。


 ――良かったです。一時はハラハラしましたけれど、もう心配はなさそうですね。子供たちと陛下を宜しくお願いしますね、ノアさん。


 いきんでたせいもあってか、私は声じゃない声で「勿論、任せて!」って叫んだっけ。


 ――おぎゃあああああーっ! おぎゃあああああーっ!


 意識が何度も飛びかけ助産師の呼び掛けに従いながらも、あまつさえ痛みで何が起きてるのかわけわかんなくなりながらも、私は何とか無事産んだ。


「アデライド様おめでとうございます! 元気な皇子様と皇女様ですよ!」


 ……ええ、はい、そう、元気な二人で良かっ……――え?


 ふたり?


 二人いいいーーーーっっ!?


 ええはい、アデライドの子は何と双子だったようです。


 それ前以て言っといて!? 心構えが違うじゃない!?

 ムンムめ、よくも黙ってたわね。後でとっちめてやる。

 でも全くホントによくやったわよね私……。

 ほとほと疲れ果てた私の枕元に見えるようにして寝かせられている子供たちを潤んだ目で眺めながら、だけどなるほどねーと納得してもいた。


 電気みたいな魔法でヴィクトルに攻撃的だった方と、祈り魔法で風邪を治してやった方。


 どっちがどっちだかはわからないけど、二人がそれぞれ使った魔法なんだって思う。


 何となく、この子たちは性格も正反対に育ちそうだとも思った。


 その時だ。


「アデライド……!」


 赤ん坊の声を聞いて居ても立ってもいられなくなったのか、バーンと魔法か何かで扉を吹き飛ばして部屋に踏み込んできた奴がいた。


 やけに焦った顔のその男は。


「ヴィクトル……?」


 ああ、ヴィクトルだ、ヴィクトル・ダルシアクだわ。


 私は私の時間軸的に何カ月ぶりかで見た彼に感動もひとしおだった。ずっとどうしてるかって心配してたんだから。部屋を破壊するくらいに元気そうで何よりだけど。


「よくやったなアデライド。……これが赤ん坊なのか。小さいな」


 状況を即座に把握したんだろうヴィクトルは助産師から双子の片方を抱かせてもらって目元を和ませる。その眼差しを私にも向けてくれた。


「きっとノアも向こうで喜んでいるはずだ」

「ええと、その言い方だと私まるでもう死んでるテイストじゃない。ここに生きてるのに」


 ヴィクトルは目をパチパチと瞬いた。何か感じたのか怪訝にしながらも子供を一旦助産師に戻した。で、こっちをじっと見つめてくる。私はにこりとした。


「久しぶり、ヴィクトル」

「ま、さか……その笑い方、は……」


 彼はしばし呆然と立ち尽くしてまだその目でしかと私を見つめる。本当に中身が私なのかって彼なりに見極めようとしたのかもしれない。


「ああ、確かにお前だ……ノア!」


 感極まったように抱き締められた。


「陛下ッ、アデライド様はご出産されたばかりなんですよ。乱暴に動かしたら駄目ですって!」

「……す、すまん」


 そんなに乱暴でもなかったけど、猛烈に不服そうに顔をしかめつつヴィクトルが助産師に謝った。

 ……謝った。あの俺様皇帝陛下が。

 どういう心境の変化なの? 家族ができて丸くなったとか? まあ何であれ助産師さん強い……って、あれあれあれ?

 あの助産師、――ニコラ!?

 さっきからジャンヌの他にも知り合いの声が聞こえると思ったわけよ。ちゃんと確かめたかったけどヴィクトルがそれを許さなかった。私の視界一杯に彼の顔。仕方がないなあ後でにしよう。


「本当の本当にお前なんだなノア」

「え、あ、うん」


 彼は注意されて少しだけ腕から力を抜いたけど、それでも私から離れないで私の肩に顔を埋めるようにする。周囲の皆は産後のケアがあるからと部屋にはいたけど、気を遣ってかそっと私たちのいるベッドからは距離を取った。


「アデライドはお前にまた会えると言っていたが、本当は半信半疑だった。どこかでもう会えないのではないかと思っていた。ノア、頑張って産んでくれて、ありがとうな。お疲れ様だ」

「うん」


 気のせい? 声が震えてるような……ううん、そこは気付かなかったふりをしてあげよう。


「……お前に、とても、すごく、会いたかった」


 パタパタと背中に回した手であやすように叩いてやりながらふうと疲労と安堵の息をつく。

 この状況に混乱がないと言えば嘘だけど、とりあえず今はこれでいいかな。


「私も、あなたの顔すっごく見たかった。――ただいま、ヴィクトル」





 出産して一月経った。


 だけど結婚はしてない。


 そうなのよ、私が帰った後、二人は結婚してなかったのよね。私が妊娠中結婚しなかったのは、元の世界に帰る云々の葛藤の他に、やっぱり本物のアデライドの意見が重要だって思ってたからなのに。てっきり二人できちんと話し合ってデキ婚ですってとっくに式を挙げちゃってると思ってた。

 産後の体調回復を経て、有能な皇帝として普段はシュッとしてキリッとしてるくせに、私や子供たちにだけは蕩けるような優しい顔をしてくれるそのギャップには驚いたし照れ臭かった。


 そんな気持ちもまだ結婚してないって聞いて霧散したけどね。


 知ったのはほんの一週間前よ。


 勝手に結婚済みって思い込んでて確かめなかった私も私だけどね。


 だって子供は大事にしてくれるって言ってたのに。

 養育できる財力だってあるんだし、身分とか肩書きが違うだけで使用人の態度にまで影響が出ちゃうようなこの世界の階級意識の中で、双子たちがナメられたらどうしてくれるのよって話よね。

 だから無責任なヴィクトルに怒ってて、今現在は喧嘩みたいにしちゃってる。

 彼はだけど言い訳もしないのよ。


 とはいえ子供たちは正式な直系として恭しく世話をされてるようだけども。


 ああ話は逸れるけど、女盗賊ニコラは一度は教会騎士に捕まったけど、彼女の入団事情と女子修道院でシスターたちを男たちから遠ざけていたって功績なんかを考慮されて恩赦の形で釈放されたのち、村医者をしていた腕を買われて助産師になったんだって。

 だけどそんな経歴の女性が皇帝の子の出産に関われるなんて栄誉、普通は得られない。

 私が彼女をずっと気に掛けていたのを知っていたヴィクトルが色々と手を回したんだって、そうニコラ本人から聞いた。人生大逆転だって喜んでたわね。その際にはヴィクトルから細かく諸々を誓約させられたらしいけど「ま、まあそのうちにね」と青くなった彼女はお茶を濁した。……あー、はは、一瞬残酷皇帝たる彼の所以が垣間見えたわー。とは言えニコラが何か邪心を抱かない限りは心配はないんだろうけどね。

 更に彼女は現在では双子の乳母の一人になってもらっている。


 話を戻すと、じゃあどうして結婚しなかったのよねって思うでしょ?


 ヴィクトルがわからないわ。


 私はパタンと読んでいた書物を閉じる。


 ここはお城の書斎。正確には、私に与えられた宮殿内の書斎。

 この場には子供たちと乳母二人と、そしてヴィクトルがいる。

 ここのところは私が怒ってて口を利かないでいるから、文字通りただ居るだけなんだけど。彼は公務が終わると毎日こっちに来るのよね。今日なんて早い方だし。まだ外は明るくて夕食前よ。

 ニコラじゃない方の乳母は白髪の混じる年齢で、ヴィクトルの乳母でもあった女性なんだとか。物腰柔らかで、早くに母親を亡くした彼は母親とか祖母とかそんなように思っている人らしい。見てたらわかる。私も彼女をすぐに好きになった。辛い幼少期誰も信用できないでいた彼も、実は彼女だけは例外だったみたい。そういう存在が居てくれたからこそ、彼は本当に残酷皇帝にならずに済んだのかもしれない。


 で、乳母二人はさっきからチラッチラッと私とヴィクトルを見てくる。


 仲直りしてないのを心配しているのは明白だわ。


 うーん、もう一週間だもんね。


 どうしようかなって彼を盗み見たらバッチリ目が合った。ずっとこっちを見てたの? 確か猫になってた時も妙に引っ付いてきてこっちを気にしてばかりだった。……イメージないけどそういう気質なのかもしれない。

 慌ててまた顔を逸らしちゃったけど、今度こそ盗み見た。

 天下の皇帝陛下ともあろう者が俯いてどこか寂しげで、チクリと胸が痛んだ。

 私も頑な過ぎたかもしれない。


「えと、えー、ねえ、ヴィクトル」


 ハッと息を呑むような顔で彼は目を見開いて顔を跳ね上げた。


「何だ、アデル」

「ごめんなさい、あなたの話も聞かないうちから怒って。だから聞かせて、どうして結婚してなかったの? 彼女ともその話はしなかったわけ?」


 彼もようやく私が聞く耳を持ったんだってわかったんだろう、硬い表情だったのが和らいだ。暗さも抜けたみたい。彼女と、なんて言い方に乳母たちは私が妙に他人行儀なのを不思議そうにしていた。


「話したさ。その上で結婚しなかった」

「は、何で? 子供たちの事は考えなかったわけ?」

「考えている。だからこそだ」

「どういう意味?」

「彼女は、結婚はお前の役目であり、するしないもお前の自由、気持ち次第と言っていた。するのなら祝福されるべきなのも、花嫁衣装を着るべきなのも、私の隣で華やかな式に臨むのもお前でないと駄目だとな」

「私のため!?」

「そうだ。だから、待っていたんだ。お前がいつか私の元に戻ってくるのを信じていたからな」

「博打が過ぎるわよ。ずっと戻らなかったらどうするつもりだったのよ、もうっ」


 ヴィクトルってやり手で頭のキレる男なくせに時々すごく馬鹿。

 泣きそうよ。私のためだったなんて……。それに、アデライドは思いやりのある本当にいい子なのね。


「私、その……酷い態度取ってごめんなさいっ」


 長椅子の上で彼の方を向いて頭を下げた。乳母たちはさすがにハラハラとしたように息を呑む。子供たちも不穏なものを感じてか二人同時にぐずり出す。

 殺されるひい~っなんて風にはもう思わないけど、さあさあさあ怒るならバシッと怒って!と覚悟する。

 書物に置いた両の手にギュッと力が入って指が白くなる。竦めた肩も首も硬くなる。

 その時、そっと頬に指先が触れた。

 勿論、ヴィクトルの。


「悪かった、泣くな」


 すぐ横に座り直した彼から頭を上げさせられて見つめ合う。


「な……んで、どうしてあなたが謝るのよ」

「私の選択がお前をこうやって泣く程追い詰めていたからだ」

「これは、……っ、嬉し涙だからいいのっ」

「嬉し涙……」


 安堵に弱るみたいに眉尻を下げる彼がとても愛しい。


「彼女は、いい人ね。あなたの気持ちを一番に考えてくれて、そんな風に言ってくれるなんて。きっと私にはできない」


 だから私で本当にいいのかなって躊躇いがないとは言えない。ヴィクトルも黙り込んじゃった。彼の中にも罪悪感があって然るべきだもの。


「悪い事は言わない、彼女を美化するな」

「……んん? 美化?」


 全く埓外の言葉がきた。


「そうだ、美化」

「???」


 本気でわけがわからない。ヴィクトルは悩んだように眉を寄せながらも私の涙を拭ってくれる。

 気掛かりそうにしていた乳母たちは空気が違うのを察してか、二人で顔を見合わせ安心の笑みを浮かべると静かに子供たちを連れて出て行った。


「結局のところ彼女とは似た者同士、お互い様だった。だからその点は気兼ねしなくていい。余計なものを取っ払ってそこに残ったノアの純粋な気持ちだけで考えてほしい」


 隣に座るヴィクトルは二人だけになった途端にノア呼びにして、彼にしては非常に珍しくも頬を赤らめている。いつもとのギャップに何かキた。

 俯いて小刻みに肩を震わせると、ヴィクトルが「ノア?」って心配そうな声を掛けてくる……掛けてくれる。


「ふふ、ふふふっあははっ何よう、何だか気が抜けたわよー。私って結構単純なんだからね」


 優しく涙を拭ってくれたその手に頬を擦り寄せる。ヴィクトルにゃんこが私にそうしたみたいに。


 大事にされていつしかその優しさを享受するのが当然って思ってて、心地いいって感じていた。

 彼の傍が最も安心できる場所になっていた。たとえ喧嘩をしていても。


「私、あなたしか旦那様にはなりえないって思ってる」


 ヴィクトルが大きく両目を見開いた。


「嘘ではないな?」

「嘘ついてどうするのよ。帝国の事とかまだまだほとんど素人だけど、私は私なりにあなたを支えていきたい」

「それは、つまり」

「うん。――結婚しましょ、ヴィクトル」


 プロポーズなんてした事がないから、微かに睫の先が震えた。

 彼はくはって感じで鮮やかに破顔する。


「先に言われたな。ああ、結婚しよう」


 ヴィクトルは私の膝の上の書物を何故かぽいっと床に放り投げた。えっ結構高そうな本なのに。

 呆気となる私を嬉しそうに見据える彼は、いとも簡単に私を彼の膝の上に乗せる。

 え、この体勢は……。私から僅かな緊張を感じたのか彼は顔を覗き込むようにしてくる。


「ノア、何を考えている?」

「ええと、いつぞやの甲冑椅子での食事を思い出すなー……っと」

「…………あれは忘れてくれ」


 彼もやっぱり常識的な感覚を持ち合わせていて思うところがあったのか、少し目を伏せて言いにくそうにする。


「……だがしかし、またやってもいいぞ」


 はい、激しく間違っておりました、常識なかった!


「ううん、あれはもう二度としなくていいかなー」


 声を引き攣らせると、何故かヴィクトルは「そうか」って明らかにガッカリした。表面的にはピカピカのハンサムフェイスのままに。


「何、そんなに甲冑椅子やりたかったの? あ、実はまさかのエドと同じく甲冑好き?」

「違う。そっちじゃない」


 甲冑以外に何かあったっけ? 疑問符を浮かべていると、彼は少しばかり頬を赤らめる。


「あーん、だ」


 は、い? 益々わからない。ヴィクトルはハッキリ言おうと決意を固めたような顔付きになった。


「だから、巷のカップルがやるやつだ。互いに食べさせ合うという、あれだ」

「あ、あ~~……あれね! ふふっあははっ本気で何の話かと思っちゃったわよ」


 あーんだって。ヴィクトルの口からあーんだって。ヤバい、可愛いじゃないのこの男ってば。もうどうしてくれようか。


「いいわよ、またしよっ。でもあれ恥ずかしいから二人きりの時限定だからね?」

「わかった。もう無理というくらい餌付けしてやる。ノアはもう少しくらい肉を付けてもいいからな」

「はっ! ちょっとヴィクトルどさくさ紛れにお腹の肉つままないでよーっ」

「そんなにないじゃないか」

「乙女心のわからない男なんだからもうっ」


 パシリと軽く叩いてお腹に回された不埒な手を撃退する。

 そんなヴィクトルは吐息で笑った。


「世の乙女心はわからなくても、ノアの心だけはわかるようになりたいと思う。だから、好きな事嫌いな事をもっともっと知っていきたい」


 あっそれ同じ、と気持ちが爽快にクリアになるみたいに思った。何だか無性にこそばゆい。


「ノア」


 彼はとても穏やかな声で私を呼ぶ。


「その魂ごと愛してるよ」


 少し言葉に詰まった。ストレートな告白が心に刺さって。嬉し過ぎて。


「あ、はは。それはまた、言葉だけ聞くと愛が重いわよね」

「嫌か?」

「……さあ?」


 我ながら素直じゃない。ヴィクトルはそこをわかっているのかいないのか、いや、わかってるよねこれは。にやりとした。


「曖昧にしたのを後悔するなよ?」


 この一月、大事を取って長く休まされたのと喧嘩のせいで一切何もしてこなかったと言うか、できなかったヴィクトルさんは、その反動なのか待てを解かれたわんこみたいにいきなり頬にキスしてきた。

 ちゅっちゅって吃音が上がって頬だけで怒涛のキスの嵐を食らってさすがにこっちも恥ずかしさに狼狽する。


「あっあのねヴィクトル擽ったいわって、ちょっと待って急過ぎるわよ」

「何故だ?」

「何故って、こっ心の準備がねっ。自慢じゃないけど私恋愛初心者なのよっ。急に甘過ぎる展開は慣れてないし、それにほら、私たちってまだ結婚してないし!」

「ふっ、別にここで服を脱がせるわけでもない」

「あああ当たり前でしょーっ、何事にも順序ってものが、ふぐっ!?」


 声ごとその唇に押さえ込まれたよー。嗚呼色気駄々漏れ~。

 嬉しいけど恥ずかしい私としては真っ赤になるしかない。そんな再び涙目な私を眺めてヴィクトルは「悪いな、舞い上がって少しがっつき過ぎた」って反省したけど、耳元に口を寄せると擽るような声で、


「とは言え、三人目もすぐかもな」


 なんて際どい事を囁いた。





 半年経った。

 私はまだアデライド・ロジェとしてこの異世界に生きていて、今じゃもうヴィクトルと家族をやっているのが板についてきた感じ。結構上手くやっていけてるって思う。


 だけど、結婚はしてない。


 何故って?


 ――今日これからが私たちの結婚式だからよ!


 色々あった……ホントに色々。子供たちと乳母たちやエドたち騎士、ロジェ家の面々が見守る中、何とフロイス司教が式の進行役。ヴィクトルは何故かそれが不満そうで、だけど私を見ると優しく蕩ける笑みを浮かべたわ。彼の見た事のないその笑顔に招待客の大半は目を剥いている。

 うん、理解はできる。最初は私もそうだったからね。


「……生涯愛する事を誓いますか?」


 フロイス司教の進行の言葉に私もヴィクトルも迷いなく宣言する。


「誓います」

「誓う」


 フロイス司教はいつでもヴィクトルの愚痴を聞くよなんて、私たち以外の周りには聞こえない声でこっそり囁いてきて、ヴィクトルが殺気立ったから冗談抜きに焦ったわ。彼ってばヴィクトルをわざと怒らせるのホントやめてほしい。絶対に面白がってるし。帝都に戻ってきてからこの二人には何度かそんな冷や汗しか出ない展開があったのよねー、あはは。不運にもその場にいた私は寿命が百年は縮んだと思う。

 司教は私に何かとても神聖なものを感じるんだとかで、職業柄私が気になるんだって。

 実は女子修道院に急遽来たのも、上がってきた情報以外に天啓みたいなのが降ってきたからってのもあったみたい。

 私のによく似た可愛いソプラノボイスですぐに行ってと言われたんだとか。

 ……うーん、本物のアデライドの仕業だったのかしらね?

 今度個人的に教皇様にも会ってよってまで誘われたわよ。ハッキリ返答はしないでお茶を濁しておいたけど。

 そう言えば彼とは仲良くなってから、例の初対面時は噂の皇帝の恋人は愚痴スゲー娘だなって思ったって正直に歯に衣着せずに言われたわねー、はは。

 ギクッとしたわ。常人には感じられない天使の気配を彼は敏感にも感じているんだから。天使とかの話は私とヴィクトルだけの秘密だから教えないけど。

 まあそんな学問を究めるみたいな彼の興味がヴィクトルには超絶気に食わないみたい。彼を目の敵にしてるもの。

 今だって危うく血みどろ結婚式になるところよ。


「それではお二人、誓いのキスを」


 機嫌を直したヴィクトルの唇が待ってましたとばかりに近付いた。私は目を閉じる。


 どこまで彼と居られるんだろうって先なんてわからないから、だからこそ悔いのないようにこの臨時代行人生を過ごそうと思う。


 確実なのは、この世界にいる限り、私はこのヴィクトル・ダルシアクって唯一無二の男の隣で愛を育むって事かな。


 ……ってねえ、キスが長くない? 長いし深いってこの破廉恥皇帝!


 こうして皆の前で食べられるかと本気で焦ったこの日、私と彼は晴れて結婚した。






 とある大学の構内。

 背に流した長い黒髪を靡かせ、腰の位置の高い長く細い脚を交差させ、倒れ込んだノアを支える青年へと近付く影がある。


光耀こうよう兄さん、ノアさんは大丈夫ですか?」

「ああ、間一髪だったが大事はない」


 慈愛の目で気を失ったノアを見下ろす青年は、この上なく嬉しそうな微笑を浮かべた。


「彼女にようやく会えたよ、アデライド」

「もう、またその名で呼ぶんですから。兄さんがそんなだからお父さんもお母さんも時々変な顔をするのですよ? コスプレ予定のアニメのキャラだっていつも誤魔化す私の身にもなって下さいね?」


 途中から窘める声になったのは十六、七歳程の白皙の美少女だ。


「悪い。ついな。しかしそっちだって未だに俺への言葉が慇懃丁寧過ぎないか? 時々不自然だしな」

「兄さんに言われるのだけは心外です」

「……」

「それにしてもノアさんってば中性的で綺麗な顔をしていますね。……カッコイイですけど可愛いです」


 青年は同意を胸に微苦笑を浮かべる。


「色々と便宜を図ってもらってこの世界に転生したのも、ノアにこうして会えたのも、お前が天使の所であれこれ手を回したおかげだな」

「うふふふ、私自身の真実の愛を探すためなら、時にどんなものだって利用しますよ。兄さんだってそうでしょう?」

「まあな。ただ、お前と転生時期がこうも重なるとは正直思わなかったが。あの天使め……」

「そこは同感です。私もまさか冗談でしょうって呆れましたもの。……よもや前世で寝た相手と兄妹などと」


 青年は頬が引き攣りそうになった。周りに誰も居なくて良かったと彼は心底思った。

 前世から色々と突き抜けてマイペースな少女が兄と同じ灰色の瞳を少し曇らせる。


「ですが、転生前の世界で起きた出来事の記憶はもうほとんどないので、ノアさんに予言も然りと私たちの前世を教えて差し上げたりできないのが少し残念です」

「そうだな。でもそれでいいんじゃないか? 俺は彼女を覚えているだけで十分満足だし、前世を考えると幸福感が大きいよ。それに今の自分が中々結構気に入っている」


 妹は兄を、かつての人生では一時イイ仲だった相手をジッと見つめる。そうしてふっと眼差しから力を抜いた。


「まあそうですね。ところで兄さん、私の前でそんな風に呑気に構えていても宜しいんですか? 今度は私も肉体がありますし、あの美形司教以上に最大のライバルになり得るってわかってます? 兄妹で好みが似るなんてよくありますし、それでなくてもノアさんの見た目なんて凄くタイプです」


 実の妹から挑戦的な目を向けられて、青年はムッとしながらもしっかりと視線を返す。


「……彼女は渡さない」

「ふふっ冗談ですよ~。そう怖い顔しないで下さい、折角のハンサムフェイスが台無しです。そんな仏頂面をしてノアさんに無駄に怖がられて逃げられても知りませんよ~? 前の時みたいに」

「ふっ、何だかんだで結構言うよなお前は」

「それ程でも~?」


 青年は褒めてないと溜息を落とした。

 少女は上機嫌に品良く笑うと兄に先んじるようにして軽やかな一歩を弾ませる。


「さてと兄さん、早いところ寝かせられる場所に運んであげましょう。このお姫様が短くも長い夢から醒める前に」

「そうだな」

「ふふっ、彼女が目覚めたら、兄さんは初めに何て言いたいですか?」

「そりゃあ――」


 青年は軽々とノアを抱き上げるとゆっくりと歩き出す。

 この世界での彼らの新たな未来へと。

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目覚めたら妊婦だった私のお相手が残酷皇帝で吐きそう まるめぐ @marumeguro

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