第13話バレちゃった妊娠

 現在、私の居室には私と侍女を含めた四人の人間が沈黙していた。


 テーブルを挟んでヴィクトルの真向かいの席に腰掛ける私の中じゃネズミ算式に疑問符が量産されていたけど、絶対的に何かを訊ける空気じゃなかった。

 だってヴィクトル・ダルシアク皇帝陛下は美しくも怖い顔で腕組みしてるんだもの。

 私の渡したシーツを巻き付けただけなのに、弥生時代とか古代人の服ですらそれと比べたら服よねって思うのに、何故なのっ、不思議と最先端の神ファッションにすら見えてくる!

 だけどこの国が皆半裸シーツを着だしたら色んな意味で終わるわね。

 一方、エドは女装シスターとは言えヴィクトルより文明的な格好をしているくせに、部屋の端の床でダンゴムシみたいになって激しく退化している。今ならアンモナイトとも交信できそうね。万一物理的に卵が割れちゃってたら治癒魔法でも施してもらってね……。心の中で私はそっと両手を合わせた。あとジャンヌは私たちに遠慮して壁際に控えている。

 神話の神と見間違えそうだから早いとこヴィクトル様に服をぉぉぉ~とは思うけど、唯一エドの潜入を知るシスターは残党のせいで生じた混乱を落ち着かせるために院内の皆への説明に忙しい。少し経ってから頼もうと思う。

 ヴィクトルはもしかしたらエドの服を無理に引っぺがすかもって少し危惧したけど、何故かシーツで満足しているようだった。


 それにしてもどうしようこの状況。


 何か会話をしないとって思えば思う程息が詰まる。


 顔は向けないようにしながらも、ちらちらと目だけを動かして様子を盗み見ていた私の視線に気付いたのか、ダルシアク氏とバッチリ目が合った。


 スパイしてるのがバレたっ。どうしよ睨まれたらーって背中に冷や汗で無難に愛想笑いを浮かべたら、ふいっと視線を逸らされた。よ、良かったくびり殺されなくて。

 いや、全然良くもなかったかも。だってあの人何かを堪えるように眉間のしわを深くしたわ。ぐんぐん忍耐の限界値に近付いてて臨界点を突破したら殺意が爆発するのかも。真昼のサスペンスの開幕かも。

 でも立場上この敷地内で魔法を使ったら駄目だろうし、いきなり殺人魔法を飛ばされるなんて羽目にはならないとは思う。殺られるなら首ポキッとかの物理だわ。


 魔法って言えばそうよ、あの状況から判断するとヴィクトルはエドと同じく魔法で猫に姿が変わっていたのよね。


 魔法解除条件が猫吸いならぬ口吸いで、だからエドは強引に猫皇帝をこっちに押し付けてきたってわけね。被害者っぽいエドはともかく、彼が他者からそんな魔法を不意打ちで食らうとは思えないから大方自分で掛けたんだろうけど、どうしてそんな面倒な真似をしたのかしら。アデライドが心配なら他にやりようはあったでしょう。圧力かけるとか脅すとか。

 だけど猫の時の様子と今現在の様子とがホント違い過ぎる。

 だって可愛くスリスリゴロゴロにゃあーんって懐いてくれてたのに……。今は怒ってるからか表情が硬い。


 ……ってそうだった、私ってば猫だと思ってたからとんでもない秘密を暴露しちゃったじゃない~~~~っ!


 中身は別人ですって!


 彼が信じるか否かは別として、しっかりと覚えてはいるわよね。若い娘の戯言だと思ってくれてればいいんだけど。そっとヴィクトルの様子を盗み見る。

 問うべきか、問わざるべきか。

 でもずっとこのままってわけにもいかないしー……。





 また、アデライドから見られている。


 ヴィクトルはその軟体動物並に鋭敏な皮膚感覚によって向けられる視線を感じ取っていた。望まずも立場上巻き込まれざるを得なかった政争で培われたものだ。視線だけではない、他者からの敵意に疎い者から命を落としていった玉座を巡る争いでは、彼にもその敏感さが必須だった。そうでなければきっとここにはいなかった。


 まあそれはともかく、好きな相手から見られている。


 彼にとっては実に至福の時だ。組んでいる腕にぐっと力が入って僅かに盛り上がった筋肉が痙攣する。

 視線を逸らしてしまったのは、つい、反射的にそうなった。見つめ合ってしまえば、真実の愛に気付いてしまった自分をたぶん、おそらく、持て余す。自分がどんな行動に出るかわからないからこそ、もっと頭を冷やす時間が必要だった。

 これも全ては……。

 ヴィクトルは思い出していた。


 その身に起きた本物のアデライドとの邂逅を。


 あの時、襲われたアデライドを助けようと男との間に飛び込んで攻撃を一身に受けた。猫という弱い存在で成人男性の手加減なしの力を受け止めたが、その衝撃はヴィクトルの意識を確実に飛ばした。

 防御魔法が有効なので命の危険はないが、アデライドに大事はないだろうか。それだけを不安に思いながらも望まずも意識を手放さざるを得なかったのだ。

 その結果が本物との再会に至るなどとは誰が想像できようか。


『ここはどこだ?』


 気付けばどことも知れない空の彼方のような世界に彼は浮かんでいた。奇妙な空間に居るが見下ろせば手も足もあるし声だって出せる。

 だがしかし、これが現実の肉体ではないのは何となく悟っていた。


『お久しぶりです、ヴィクトル様』


 急に背後から声がして、それはよく知る声だった。彼は鋭く振り返る。


『お前は……アデライドか』

『はい、私です』


 大きく驚くヴィクトルの目の前にはどこか気まずそうな面持ちのアデライド・ロジェがいた。


 ――紛れもなく、本物の。


 先程まで猫の自分と居た方ではない、より以前から知っている方だと彼は一目で悟った。


『どういう状況だこれは。ここは現実世界ではないのだろう? ともすれば意識の世界なのか?』

『さすがですねあなたは。概ねその通りで、精神世界とも魂世界とも言える場所です。今が好機だと思い、天使様に頼んでここで会わせて頂いたのです』

『天使だと?』


 それは教会が定義している天の使徒たる存在を指しているのだろうか。まあ何にせよこんな人知を超えた不可解な状況を作り出せるのはそういう存在には違いないと彼は思って勝手に納得する。

 アデライドは少し俯き加減の控えめな令嬢らしい様子で眉尻を下げた。


『このような事態になり、陛下には本当に申し訳なく思っています』


 彼女の言うこのような事態とはこの奇妙な場に対してなのか、それともカミングアウトされた中身別人の件なのか。どちらもかもしれない。

 後者に関しては途中から確信していたので今更それ程驚かないが、ここに来て懸念が表出した。

 眼前の魂が本物のアデライドだとすると、彼女は元の体に戻るつもりなのだろうか。

 もしそうであれば代行も然りで入っている方はどうなるのか。


 本当の名前さえも把握していないどこの誰とも知れない相手なのだ。このまま消えられてしまえば、全く追いかける手掛かりがなくなると言っていい。あのアデライドとは二度と会えなくなるかもしれない。


 唐突に焦燥が込み上げた。


 どういうつもりなのかと目の前の方を即座に問い詰めたいと思った。しかしぐっと堪えて彼女の用件を優先し言葉を促すように黙する。自分の不安をぶつけるだけ時間の無駄だからだ。

 アデライドはヴィクトルの配慮を的確に察してか、彼の良く知るように控えめに微笑んだ。


『陛下。私の正直な気持ちをお話ししますね』


 ――そうして告げられた彼女らしい率直な言葉たちに、ヴィクトルは唸るようにした。恋愛相手ではなかったと言う告白に傷付いたわけではない。彼女の紡いだ内容が自分の身にもよくよく覚えのある感情の気付きだったからだ。

 今なら似て非なるものだとわかる。


『陛下へ申し訳ないという気持ちはありますが、後悔はしていません』


 彼女は一見おっとりとしているようで、芯は強い。ヴィクトルは彼女のその強さを時々羨ましくも感じていた。


『ふふ、私たちは似た者同士なのかもしれませんね。ですから陛下も気に病む必要はありませんよ?』

『……』


 小首を傾げ小さく笑う本物はヴィクトルの心を読んだかのような台詞を口にする。


『……そうか、私の気持ちにも気付いているのか』


 アデライドは口元を緩めただけで明確な返事は寄越さなかったが、十分だった。参ったな、との称賛の言葉が自然と心に溢れ出た。

 しかし、と彼は急に深刻な面持ちで額を押さえる。


『心を動かされたのは間違いだったかもしれない。何しろ代行者は所詮代行者なのだろう。属する世界に戻ると言うような事を言っていた』


 ああ、と彼女は既にそれも知っていたらしく驚きもせず相槌を打つ。


『それが何か問題なのですか?』


 しかも彼女の天然か、キョトンとしてそう問いかけてきた。


『いや問題だろう、あのアデライドとは共に居られないんだ。元より彼女はアデライドではない別の人間だしな』

『あなたは悪党をスパッと処断なさる割に意外にも小難しく考えるのですね。アデライドかそうでないかとそのような括りであの方を捉えているのですか?』

『……どういう意味だ?』

『もしもあの方が私の姿ではなく、別の女性の姿で現れたならどうですか? 好きにはなりませんか?』

『いや、惹かれるだろうな』


 良くできましたと、アデライドはあたかも教師が難問に正解した生徒へ向けるような優しい目を向ける。


『要はそう言う事ですよ』

『いや、すまないが言っている意味がよくわからない』


 アデライドは期待通りにはいかなかったと見て少し残念そうにした。


『では、例えばエドゥアール・ギュイ隊長さんを好きにはなれますか?』

『微塵も』

『でしたら、もしも万が一その中身があの代行者の彼女になったとしたらどうです?』


 ヴィクトルはしばし想像した。

 赤毛の騎士の笑顔が浮かぶ。……正直殴りたい。

 そこに代行アデライドの笑みが重なる。好きだ抱き締めたい。

 アデライドとエドゥアール、アデライドエドゥアール、アデライドエド、――アデラエド!


『誰だそれはっ! くっ……!』


 ヴィクトルは苦悩に思わず額を覆った。

 エドゥアールがの太陽のようなアデライドのように無邪気に喋って笑い、表情を作り、自分に親しげにしてくる。

たとえ体は男だとしても、更には普段実は甲冑道が暑苦しいのて絡むのを避けていたエドゥアールだとしても、その中身はあの者なのだ。ヴィクトルはフッとニヒルに笑った。


『…………――アリだな』


 彼は荒療治でようやく思考が晴れた気がした。

 その後、二人が今後において必要な会話を交わし終えた所で、どこからか失礼にも少年の失笑したような声がした。


『あははホ~ント君たちはどっちもどっちだよね~。まあいいけどさ~。ヴィクトル・ダルシアク、もうそろそろ君は戻った方が良いみたいだから戻すね~』

『では陛下、他にも男女、ああいえ男男、うーん女女、ああやっぱり男女(仮)でしょうか? として無視できない重大な秘密はありますが、概ねそういう感じですので』

『……は?』


 正体不明の声は彼女の言っていた天使の声だろうか……とか何とか考えていたら、アデライドがのほほんとして思い切り引っ掛かる発言をかました。しかし秘密とは何だと問い返そうとした矢先、彼はもう生身の自分へと帰還を果たしていた。


 で、何故か目の前にエドゥアールの顔があったという次第だった。


 即座に状況を悟ったヴィクトルはやはりこの赤毛男がこの赤毛男である限りは無理だと、この上なく自分を理解もした。

 彼の手で、というか足で先のクリティカルヒットが繰り出されたのは必然とも言えよう。






「あのー、ヴィクトル陛下」


 私はとうとう意を決して話しかけた。念のために敬語で。このまま無言を貫いて事態を悪化させるかもしれないより、誠実な態度を示して少しでも怒りを静めてもらいたいと思ったからよ。

 ヴィクトルは視線だけをこっちに向けてきた。よかったわ話を聞いてくれる気はあるみたい。


「その~……以前は雨の中で追い返してごめんなさい。帝都に帰る気がなかったとは言え怪我までさせてしまいすみませんでした」

「もう無理に敬語を使わなくていい」


 ヴィクトルの眼差しにお前白々しいんだよって言われてる気がして、私は「わ、わかったわ」と頷いた。下手に反駁して機嫌を損ねるのは得策じゃない。


「別にあの時の事は気にしていない。こちらも少し強引だったからな」


 あ、何だ怒ってないの? それは僥倖だわ。じゃあ不機嫌そうなのは何で?

 それにしても、強引だった……ね。


「でも本当は、あの時あなたはテレポートの魔法をゆっくり発動させてくれたんでしょ。問答無用で連れて帰ろうと思えば、魔法陣なんて目に見える物を出さずともそうできたんじゃないの? だからそこは感謝してるわ」


 エドだって初めて会った時に音もなくテレポートしてたし、エドができるならヴィクトルだって然りよ。あれはどこまで私に無理を通していいのかって、彼の中で最終的な意思確認の意味合いがあったんじゃないのかな。まー見事にこの私に拒否られたけど。


「……まさかそこまで観察されていたとはな」


 一瞬間があったのは言い当てられて驚いたからだろう。

 彼がアデライドの気持ちを完全に無視していたわけじゃないってあの日私はそれまでの色んな出来事から気付いてしまった。この人ってただの無神経俺様残酷暴君皇帝じゃないのよね。公園でだってアドリアンを躊躇なく抱き上げたし、決して地位や権力にふんぞり返って弱者を見下す横柄な人間じゃないってのもわかった。そういう思いやりも持てる男ってわかって何か嬉しくて胸の中があったかくなったっけ。

 とは言え、現在進行形で私の肝は冷えまくってる!


「と、ところで夜に私が言った事は覚えてる……のよね?」


 示唆する内容を的確に察したヴィクトルは、少し目を伏せ静かに息を吐く。


「別人、というやつか?」

「あ、ああうん、そう……なんだけど、信じるの?」


 ヴィクトルは口元だけでフッと薄く笑む。


「お前自身が証拠だろうに。それに私が少しも違和に気付かなかったとでも?」

「う……ですよねーハハハ」


 皇帝の前では懸命に令嬢演技をしてみたりしたけど、銀甲冑はエドオンリーだと思ってたからめちゃ素で接してたもの、疑いを持たれて当然ね。


「で、でも安心して。本物の魂が見つかれば天使が戻してくれるって言ってたし!」


 だから私を殺さないでっ。

 滲み出る必死さにヴィクトルは何かを見定めるように両目を細くする。


「ならそれまでの間、お前がアデライドのままでいるのだろう?」

「それは勿論。ロジェ伯爵たちだってこの秘密は知らないもの」


 そこで話が理解できずに戸惑いを浮かべるジャンヌも。うんうんとまだ床で悶えるエドはたぶん聞いてないから安心の放置で。


「なら問題ない」

「はい?」


 問題ない? 周囲に気付かれないようきちんとアデライドとして過ごせば確かにこの先彼女が戻ったとしても別に弊害はないって意味?

 うん、そうよね問題はないない…………――って、んなわけあるかい大問題はあなたよヴィクトル!


「でもあなたは知ってるじゃない」

「それが何か問題になるのか?」

「なるでしょーっ、好きな子の中身が別人なのよ!? 怒ってないの? 騙してたんだし」


 ヴィクトルはじっとこっちを見つめたかと思えば、徐に腰を上げテーブルを回ってくる。


「な、何よやっぱり猛烈に怒ってるって? 一発殴らせろって? さっきは大事なこの本体を危険にだって晒したし、堪忍袋の緒が切れた?」

「危険だったのは確かに堪えたがお前に怒りは向けていない。むしろ……いやいい。とにかく私は、お前というアデライドだから何も問題にならないんだ」


 その声音は予想外にも落ち着いていて柔らかい。


「まあ、もしも中身がお前でなかったのなら、その首はなかっただろうがな」


 故意になのか表情を変えず、ヴィクトルは立てた親指を首の前で横に引いてみせた。ひいいいッ!

 だけど同時に私は一体何を言わんとされているのかよくわからずに戸惑って彼を見上げる。

 すぐ傍から見下ろしてきたギリシャ神話なヴィクトル様は、片腕を伸ばして頬に触れてきた。


「ヴィ、ヴィクトルさん!?」

「私はお前が好きだ」

「まあ私はアデライドだものね。さすがに知ってますよーだそんな事は。猫の時に自分の身を擲ってまで助けようとしたくらいに惚れてるのはね」


 だけどどこか困惑させられる真摯な紅の眼差しは、根気強く諦めずに何かを訴えかけてくる。


「アデライドだからではない。アデライドという器だからでもない。私は、中身がお前だから好きで、お前の善良な魂こそに惚れたんだ」


 ようやく、言われている意味がわかった。


 びっくりして目が丸くなる。

 そうやって見れば見る程ヴィクトル・ダルシアクって男の容姿端麗さを実感する。ホントこの男って神懸かったレベルで綺麗よね。まつげなんかも長いし、紅い目なんて宝石も然り。この男の他にこんな美形なんて知らない……ってあの美形司教はまた違うタイプだから除外してだけども。

 我知らず感心して見惚れてからハッとして、私は内心じゃまだ半信半疑だった。


「ええとでも、あなたは甲冑に入ってまで追いかけるくらいにアデライドが好きなんでしょう?」

「お前版のアデライドだったからだ。お前に出会って、私は本当の自分の気持ちを知る事ができた。もしもその身に本物の魂が戻った時は、彼女とは決別するつもりだ」

「なっ!? 酷いわよそれ! 関係持っておいて男の風上にも置けないわねあなたって!」

「それでも、もう後戻りはできない。私はお前がいい。お前でなければ駄目なんだ」

「……っ」


 強い目だ。

 自らに大きな決定を下した一人の男がそこにはいて、私はこれ以上非難しようにもできなかった。

 だけど、この人をここまで駆り立てたのは本当の本当に私なの?


「……嘘じゃなく、私なの?」

「そうだ」


 きっぱりハッキリ返された。

 私のこの目で初めて見る冷笑じゃない微笑と共に。

 えっ、何これ反則でしょ、アデライドの記憶ですら見た事のないとびきり魅力的な笑みなんだけどっ。


 そんなカッコ良くも柔らかな表情を浮かべる相手からの直球過ぎる告白に呆然となった私は……思いっ切り赤面した。


 ぬわぁ~んでこんなに恥ずかしいの!?


 残酷皇帝相手なのにっ!


 嘘でしょ私。今まで一度だって俺様キャラ推しになった事なんてないのに。優しい王子様キャラにしかときめいた事ないのにーっ。なのにドキドキしちゃってヴィクトルの顔をまともに見てられないっ。

 とにかく落ち着こうとそう思ってちらりと床の屍エドを見やる。

 彼も優しい方だし結構なイケメンだけど何故だかこれっぽっちもドキドキしない。


 何でどうしてヴィクトル・ダルシアクに心拍数上がってるの……?


 ふと、直近の魂に惚れたって言葉が甦る。


 私も、――ヴィクトルだから、とか?


「ふあああああああああっ! そんなわけないから落ち着けえええええ!」

「いや落ち着くのはお前だ。気長にやって行こうと思っているから安心しろ」


 そっ! 気長にね! それはどうもありがとござんした!

 思考が破綻し病的な奇声を上げて頭を抱える私に冷静に対応してくれるこの包容力ッ! 悔しいけどこれもこの男の魅力だわ。


 ああもう、ヴィクトル・ダルシアク。


 あなたは間違いなく危険人物よ。


 ヴィクトルは私を好きだと言うけど、私の中で彼に殺されたくない~って恐怖はやっぱり消えてない。

 だけど同時に良いところもあるし、とても不器用な人でもあるんだって思ったらもっとこの人を見つめてみたいって気持ちになった。自分でもびっくりね。


「お前の本当の名を聞かせてもらっても?」


 依然ヴィクトルは真摯に私を見下ろして、私は面食らった心地で彼を見上げる位置関係でいる。横の椅子に座ったらいいのに。

 他方、エドも変わらず部屋の端っこで屍のようだって感じだわ。ジャンヌはあたかも映画のエンドロールまでをもしかと見届けようとする観客みたい静かに見守ってくれている。


「――ノア、よ」

「ノアか。良い響きだな。呼び易くもある。お前の世界でもこちらと似たような文化なのか?」


 お前の世界って……。


「ううん、かなり違うけど、本当にすんなり私が他の世界の住人って信じるの? もしかして、あなたも何か奇跡体験をしたとか?」

「さてな」


 彼は意味深に微笑するだけでハッキリとは明言しなかった。こんな風に謎めいて言うのも何か反則よ。知りたくなるじゃないの。ある種のハニートラップみたいだから訊かないけどっ。


「ノア」

「な、何?」

「呼んでみただけだ」

「……ああそ」


 やーーーーもーーーーっ! 呼んでみただけ!? 何が呼んでみただけよ凄く良い声出してさっ、この無自覚チャームイケメンはあああーーーーっ!!


「一つ訊くが、向こうの世界に恋人はいるのか?」

「いきなりの話題転換ねっ。いないわよっ」

「そうか」


 ヴィクトルは嬉しそうにした。何か複雑。


「まあ、お前に特定の相手がいなかったのは、言い方は悪いが私にとっては好都合だと思っていいな」


 歯に衣着せぬ物言いどうもっ。


「しかし不思議な感じだな。言い慣れない名のせいか、恋人を呼ぶのに照れ臭さを感じるのは初めてだ」

「こっ恋人おおお!? ええとちょっとまだ私承諾してないけど!」

「その体、つまりアデライド・ロジェは私の恋人と認識されているようだが?」

「そ、うだけどっ』


 彼がふっと笑ったような息を吐く。


「遠慮なく私を本当の恋人と思って接してくれていい。そうやっていればいつかは真になる」

「あ、はは……」


 もしあなたを好きになれないって言ったら殺されるのかしら。試す勇気はないけど。

 それに何だか変に甘やかされてるような空気に落ち着かない。とりあえずはこの近い距離をどうにかしなくちゃ。


「えっとあのね、もう残党はいないだろうし安心して皇帝業に戻って大丈夫だから。シスターに頼んでこっそり出してもらえるように手配もするし」


 だから帰れって明るくからりとして臭わせてやれば、ヴィクトルは身を屈めた。目論見に反してぐっと距離が近くなる。


「なら、共に帰ろう」

「え」


 彼の真面目な面持ちが既に出ている私の答えを鈍らせる。まだ帰るわけにはいかないのに、ひたと見据えてくる双眸が落胆の色に染まるのを見たくないと思ってしまう。


「わ、悪いけど、まだ帰れない」


 絞り出した声には苦渋が滲んだ。


「何故だ?」

「元々しばらく滞在しようって思ってたからよ。ほ、ほらあなたの安産ごほごほっ安全を祈りたいなって思ってて!」

「ここでなくともいいだろう?」

「いいえ、ここじゃないと駄目なの」


 頑固な口ぶりに向こうは不服そうに口元を引き結ぶ。そして何を思ったか私の腰に腕を回して立たせると自分の方に引き寄せた。必然的に密着する。抱き寄せられているから顔と顔の距離がキスできる程に近い。


 ナンナノコノジョウキョウハ!


 掛かる吐息が思ったよりも熱いし布越しの彼の体も熱いから無駄に意識しちゃって羞恥心が込み上げる。


「お前がここに居ては、教会との取り決めがあるから自由に魔法を使えず、好きな時にお前の顔を見れない」


 ヒャッハ~だからこそのチョイスなのよ~ヴィクトル君、とは口が裂けても言えないわ。

 こっちの動揺と慄きを知ってか知らずか、彼は困ったような弱ったような表情を浮かべた。


「お前は、私と会えなくて少しも寂しいと思ってはくれないのか?」


 ……ええっと、この人はヴィクトルなのよね? ホントにあの冷酷皇帝なのよね? くっ、こんな切ない顔するとは思わなかった。

 怖いから会わない方が精神衛生に良いのにって自分と、それと相反する彼の傍に居て理解したいって自分がいる。

 いつの間にか心に芽生えていた後者の感情を切り捨てたらいけないって何でだかそう思う。


「えーっと、一年! 一年待ってくれたら必ず帰るから!」

「一年? どうして一年なんだ?」


 怪訝にするヴィクトルは明らかに不機嫌そうに片眉を持ち上げた。


「駄目だ、さっきは気長にと言ったが、そんなに待てない」


 急に抱き上げられて柔らかな動作でベッドに下ろされたってか寝かされた。

 え……めっちゃ天井が見えるんですけどー。


「今だって、このままお前を抱きたいのを必死で堪えているんだ」

「何ですってえっ!?」


 きゃーっこの節操なし!

 エドとジャンヌの存在は最早綺麗さっぱり部屋の埃扱いだわ。ちょっとこらお宅の皇帝陛下がこれ以上ラブッちゃう前にさっさと起きて止めてダンゴムシエド~ッ。

 しかし私の心の叫びも虚しくエドは黙したまま動かない。くしゃみで場を凌げるかもしれない埃の方が余程役に立つ!


「アデライド、いや、ノア」


 ザ・半裸ファッションのヴィクトルが耳元に唇を寄せてくる。


「今後のためにも試しに一度、私のものになってみるか?」

「は!?」


 はあああああ!?

 それはあれよね、そういう意味よね。そういう意味よね!!

 おおーい皇帝様、ここは厳格な女子修道院ってわかってるのかしら~あ? 場所を考えて物を言って!

 唖然となってしまって動けない私の上で、色気駄々漏れなヴィクトルがゆっくりと口の端を上げて笑む。

 冗談じゃないわ。


 だって私は妊婦なのよ。


 子供に悪い影響が出たらどうしてくれるのよ。まあそれなりのやり方はある……っていやいやいや、彼は妊娠を知らないし、それ以前に気持ち的に駄目だ。

 だけど、心拍数MAXで耳まで赤くなってるだろう私はどうしてか強い拒絶ができないでいる。

 だって、私って、案外押しに弱かったみたいなんだもの~~ッ。

 頼むわよエド、絶望の暗闇から早く現実世界に戻って来て。ダンゴムシから人間に進化してよ。だって正気の部下がいる所ではまさか致さないだろうし。


「抵抗しないのは、承諾の意と思っていいのか? ……ノア」


 良くないっ!

 その腰砕けな甘い囁き声勘弁してえっ。女心わからない男ですって思わせておいて実はわざとやってるんでしょそれっ。私はせめて動揺の元を見ないようにとぎゅっと目を瞑った……ってキスしてどうぞでしょこれじゃあああ。

 失策を悟り焦って両目をくわっと見開いた。

 しかしもう唇が触れそうな距離にいる。


 誰でもいいから邪魔してよ~~~~っ!


「――ななな何をなさっておいでですかあああ!」


 その時、天の助けか不意の大声に我に返った私は反射的に両腕を突っ張った。


 ヴィクトルを押しやる格好で出所を見やれば、扉口でムンムが赤なのか青なのか忙しい顔色で私以上にくわっと大きく目を見開いている。


「ム、ムンム!」


 救世主……っ!


「残党に襲われたと聞いて急いで来てみればっ、暴漢に襲われていたとは何という不運……! いくら若気の至り(再)で想いが余りに余って抑え切れなかったとしても今は駄目です! アデライドお嬢様にそのようなご無理はいけませんっ!」


 私がベッドに押し倒されてる光景が思った以上に年配者には衝撃的だったのか、ムンムは皇帝への暴言すら吐き捨てながら急いで私とヴィクトルを引き離さんとする。

 後から聞いたら、一応は修道院に駆け付けてシスターに案内されてこの部屋の前にやってきたムンムだったけど、漏れ聞こえた会話から私が迫られてるって気付いて慌てて入ったんだって。

 とにもかくにも助かったあ~。


「ヴィクトル陛下、これからは特に忍耐を学んで下さいませ!」


 ホッとする私の耳にムンムの鋭い訴えが聞こえる。うんうんもっと言ってやって。


「貴様に止められる筋合いはない」


 しれっとしているように見えるヴィクトルだったけど、彼は必要ならムンムを排除しようと考えてそうな目の色をしていた。ムンムの方も殺気に気付いたのかごくりと唾を呑む。

 しかし勇ましくもムンムは引き下がらなかった。


「す、筋合いならありますとも。お嬢様の主治医なのですから。見過ごすわけには参りません」

「ほう? 人の恋路の邪魔をして命を投げ出すつもりか?」

「この老骨、必要ならば相手が皇帝陛下でしょうとも……!」


 ム、ムンムーーーーッ! ムンムムンムムンムーーーーッッ!

 惚れていいかーって感激している私の傍で、ヴィクトルがどこか嗜虐的な色を宿す。


「高々屋敷医が、どうしてそこまでする?」

「どうしてですと? そんなもの決まっております。お嬢様は、お嬢様はッ――妊娠中なのですから!」


 なのですから、なのですから、なのですから……とムンムの声がリフレインした。


 ちょっ……ちょおおおーーーーっ!!


「――あっ!」


 綺麗なあの形で口を開け蒼白になったムンムとバッチリ目が合う。


 そしてうっかり口が滑ったムンムはムンムじゃなくて、一瞬でムンクになった。あの叫ぶ絵の。


 ムンムッ、この馬鹿ちんがーーーーーーーーーーーーッッ!!!!


「……今、何と言った? 妊娠中、だと? アデライドが?」


 ヴィクトルが妙に潔くもゆるりと私とムンムから離れベッドの前に佇んで低く気色ばんだ声を放つ。耳朶を打つその低音に私とムンムはひいいっとベッドの上で竦み上がって身を寄せる。

 バレた。もろバレしたっ。ああもうこんなの死亡フラグ確定じゃないいい!

 ジャンヌは手を口に当て絶句してるわ。


「答えろ。アデライドは、現在妊娠しているのか?」


 私もムンムもすぐにはヴィクトルの問い掛けに答えられない精神状態だった。

 だって誰しも首をギロチンに固定された状態で冷静でいられないでしょ。いつ断罪の刃が落とされるとも知れないのに。

 子供ができたら命はないって言うし、ここは冗談だったって誤魔化すのが唯一の生存への道だわ……なーんて手が通じる相手じゃない。詰んだー。めっちゃ詰んだ……っ。


 どうして何でここまで来て口が滑るのよムンム!


 嘆いてみても、私たちの命運は今やヴィクトルの手の中だ。

 こっちの死後硬直ううん極度の硬直を見て取ったのか、ヴィクトル様は小さく溜息を落とし何と何と何と「一旦座って、少し落ち着いてから話を聞かせてもらおうか」って提案してきた。無論誰も否やを言えない。


 テーブルを囲んで着席したのは私とムンムと向かいにヴィクトルの三人。


 エドは未だに床でダンゴムシ。ジャンヌもまだ壁に控えて侍女の鑑。

 一分経って二分経って五分経った。テーブルの上には変わらずに美味しくもない大きな沈黙が横たわっている。私もムンムも俯いたまま微動だにできない。

 ヴィクトルも眉間にしわを寄せて両目を閉じて怒りを堪えているのか唇はへの字。

 いつまでこの時間は続くの。気圧が標準の二倍はあるように感じるわ。

 ムンムに何か言ってよって意味で横肘を突いて促せば、居心地の悪そうな眼差しが返ってくる。私にこそ何か言ってくれって目ね。

 こそこそしていたからか、向かいの席のヴィクトルが小声で何かを言った。

 私もムンムも肩をビクッとさせて飛び上がりそうになる。

 だけど彼は目を閉じこっちに注意を向けている様子はない。たぶん独り言だったのね。


 でも何だろう?


 彼はまた独り言を呟いた。


 その眉間には峻厳な奈落の谷を思わせる溝が深く刻まれ、実に苦悩に満ちている。


 ちょうど興味本位で耳を欹てていた私は、その一部をたまたま聞き取れてしまった。ムンムもじっと耳を澄ませていたっぽいけど、お年なのかちょっと聞こえてないみたい。


 スッと血の気が引いた。


 だってヴィクトルってば……ッ。


 ――やはり殺すしかないのか。


 ってそう呟いてた。

 その文の目的語、つまりは殺されちゃう相手ってのはこの限られた状況から言ってエド……なわけはない、私だよ私ッアデライドだよッ! もしかしたらムンムもその随伴に加えられるかもね。


「ム、ムムムム~……ッ」

「ど、どうされましたお嬢様!? 陣痛ですか!?」


 まだなるかいっ! 急な恐怖で一時的に呂律も回らなくなって涙目で言葉にならない危機を訴える。


「落ち着いて下さいね、はい、いきんでー!」

「いやそっちこそ落ち着いて! まだまだ先でしょ。それより今の聞こえた? 陛下の台詞聞こえたっ!?」


 言語能力を回復し器用に小声で叫ぶとムンムは困惑して首を振る。


「殺すしかないって、殺すしかないって言ってたのよ……!」

「な、何ですと!?」


 さすがにムンムもこればかりはチビりそうに顔色を失くした。


「きっと私とムンムは一蓮托生の運命だったのよ」

「お嬢様あ……っ」

「――ノアと誰が一蓮托生だって?」


 ひいッ!

 急に割り込んだ声に私もムンムも竦み上がった。

 エドでも他の誰でもない、ヴィクトルだ。


「どういう意味だ、お前とそこの老人が一蓮托生とは」

「だ、だってあなた、わわわ私を殺す気なんでしょ。妊娠を一緒に隠してたムンムも連座だろうから、だから一蓮托生なのよ」

「……」


 何もしないよりはマシと私は両手を合わせて頭を下げる。


「お願い見逃してッ! あなたに迷惑はかけないからッ。どこか遠くの外国に行ってもいい! だからお腹の子も私も、ついでにムンムの命も助けて!」


 憤慨のためか彼は喋らない。

 私は背中が石膏になるんじゃないのってくらいに硬直して処断を待つしかない。さっきとは全然別のドキドキで心臓がはち切れそうよ。ゴクリと何度唾を飲み込んだだろう。隣のムンムも同様だ。

 ヴィクトルは険しい顔のまま再び両目を閉じている。

 私たちの処断を迷ってるの? 仮にも告白してきたばっかりだし、好きな相手を冥府送りにするのは忍びないと思って?

 だとしたら生き延びる道はある?


 彼は考え過ぎているのか、どこか顔色も悪い。


「ヴィクトル?」


 返事はない。


「ええと、怒ってるのよね?」


 この問いにも反応はなかった。

 しばらく経っても何も言わないからさすがに不審に思ってテーブルを回り込む。


「ねえ、きちんと話をしたいんだけど」


 そっと肩を揺すってみた。


 ぐらりと彼の頭が傾いで私に寄り掛かってくる。


「え、どうかし……熱っ!」


 たまたま彼の額に触れてわかって良かったかもしれない。


「何でこんなに熱いの?」


 意識もない。


 よくよく見れば具合の悪い人が見せるような冷や汗が滲んでいて呼吸も浅かった。


 もしかしてずっと苦い顔をしていたのは体調が悪かったから?


「ヴィクトル、ねえヴィクトル! しっかりして!」


 彼を助けてって私は縋るような目でムンムを見やった。

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