第12話やらかしていた皇帝

「只今皇帝陛下は危急の案件で遠出なされていて不在です。しばらくお帰りにはなりません」


 皇帝の執務室の扉前でそう告げるのは、数日見ない間に随分やつれたけどどうしたっと周囲に心配されもした大雑把騎士ロベールだ。彼の扉を挟んで反対横には優面の騎士フィリップが姿勢良く立っている。彼の方は至っていつも通りだ。少なくとも表面上は。

 彼らは報告や奏上で他の者が訪ねてきたらそう言って追い返すよう、ヴィクトルから命を受けていた。

 皇帝の用件としては思い切り私的な色合いが強いが、もし外部に漏れても緊急案件での現地視察をしていたという名分は立つ。

 対策を講じ準備や手配を完了させて出掛けたので不手際はないが、向こうで彼の身に齎される結果の善し悪しでこの先の自分たちの命運も決まるかもしれないと思えば、ロベールもフィリップも「どうか陛下にとびきりの恋愛運を」と内心で天に願い続けていた。

 自分たちの上官たるエドゥアールのように、必要とあれば人ではない物に変えられてしまうかもという底知れない恐怖を抱きつつ……。扉一枚隔てた向こうにはエドゥアールの銀甲冑が主人不在で沈黙している。果たして持ち主はいつ、いやそれ以前に無事に帰還できるのかがとても懸念されていた。


「いつ帰ってくるのかわからないのか?」

「はい、ただ信じて待つしか……。申し訳ありません宰相閣下!」


 見るからに人当たりの良さそうな騎士フィリップの極めて深刻な様子に、ヴィクトルが有能過ぎてお飾りと言われるただ年齢だけは食っている宰相は、ちょっとたじろいだ。下手に邪魔をしたり首を突っ込めば老い先短い命を不用意に散らす羽目になると感じたのかもしれない。


「こほん、まっ全く、教会側との折衝案の相談をせねばならんのに、陛下はどこをほっつき歩いているのやら。仕方がない日を改めよう」


 しかし虚勢なのか不機嫌顔で踵を返して廊下を戻って行く。本人に自覚があるのかは不明だが、口が悪いのは毎度の事で時々ヴィクトルとも口論になりかける怖い物知らずのジジイとも陰で言われていたりする宰相だ。

 矍鑠かくしゃくとした足取りで老人が去ると、ロベールとフィリップは偉い宰相の次は誰が来るだろう、副大臣辺りだろうかと、精神的疲労の滲む目で互いを見やるのだった。






 エドは何故か余程猫と会いたくないのか部屋には来なかった……というか近寄ってすら来なかった。

 シスターから感心にも早朝から一人で礼拝堂に籠るようにしているって聞いた。勿論格好は女装シスターのまんまだけど。帝都に戻るまであの怖い銀猫とはもう会わないようにって一心に念じていたみたいね。

 エドったら大丈夫かしら? そこまで猫嫌いだとは知らなかったわ。


 今日はその代わりに母親と涙の再会を果たしたんだろうアドリアン少年がシスターに連れられてやってきた。


「こんにちはっ! アデライドお嬢様っ!」


 アドリアンは部屋に招き入れられるなり私に無邪気に抱き付いてきた。嬉しそうに頬を紅潮させる小さな体を受け止めてあげながら私も自然と笑顔がこぼれる。彼の母親は昨日一度挨拶に来てくれていて、その時もアドリアンは一緒だったけどきちんとしなさいとでも注意されていたのか終始お行儀良くしていたっけ。今日はシスターに連れられてはいたけど一人で来たみたいね。この子を遊びに来させていいですかって母親から訊かれたから快く応じたんだけど、その母親の目がないからか子供らしくはしゃいでいる。

 う~ふふ、私と遊びたいだなんて可~愛いっ。そんなわけで最初は敷地内をお散歩する事になった。シスターとジャンヌも一緒。


 あと、どうしてなのか銀猫も付いてきた。


 猫はアドリアンが私にベタベタするのが気に食わないのか彼に威嚇ばかりしてたわね。アドリアンは泣いちゃうかもってヒヤヒヤしたけど案外強い子みたいでふんと睨み返していたから良かったわ。


「アデライドお嬢様、お散歩はどこに行くんですか?」


 部屋を出た時から手を繋いでいるアドリアンが嬉しそうに見上げてくる。お散歩でも何でも私とお出掛けしているってだけで楽しいみたいなのよね。理由はよくわからないけど頗る懐かれてる。


「うーんそうねえ……あ、シスター、まだ花壇や畑の方は見てなかったのでそっちを見せてもらってもいいですか?」

「ええ構いませんよ。そちらには菜園に薬草園、果樹園などがありますので、見て何か欲しい物があれば採ってもいいですよ。今は時間的に休憩中でしょうから」


 それは果物とかの内緒のつまみ食いOKって意味だ。うっしっしっ賄賂が効いてるのねー、なんて黒い腹の内側はひた隠す私はアドリアンと顔を見合わせて喜んだ。

 畑関係は寄宿舎からはそこそこ遠い。私たちはシスターの案内で敷地内を進んだ。


 農具の収納庫らしい納屋の横を通って垣根に囲まれた畑界隈に出ようって頃合いだった。


 果実を間引いたり雑草を抜いたりと栽培の世話をしているシスターやここに滞在している女性たちは休憩しているって話だからいないんだと思ってた。


 だからちょうど畑の入口から背の高い、言うなれば体格のゴツいシスターが出てきたのは意外に感じたし目立った。


 ん? あれはエド?


 まだやや遠目だから私はてっきり彼だと思い込んだ。


 だってここで女装シスターなんて言ったらもうエドしか思い当たらないもの。同じく女装してた盗賊団たちはとっくにお縄でしょ。


 私は呑気にも警戒なんてこれっぼっちもしなかった。

 向こうも私たち一行に気付いて動きを止める。

 顔を上げたエドは何故か目元だけを見せていた。他は覆面の下。

 まるで盗賊団のならず者たちみたいに。


「あら、先程までは礼拝堂に居らしたのですよ。若いと移動するのも速いのですねえ」


 シスターが不思議そうに呟く。ジャンヌは小首を傾げた。


「隊長さんってもう少し細かったですよね……? 着込んだのでしょうか」

「エドまさか中に甲冑を……なーんてそこまで膨れてるわけでもないわね。単なる着膨れかしらね」


 でも冬でもない時期にあそこまで着込む必要ってある?

 あたかも全然別の人間の体形みたいよね。

 そう小さな疑問を抱きつつも気にせず畑へと近付いていく。覆面シスターはその場を動かない。


「あの、あのっ、アデライドお嬢様っ」


 立ち止まったアドリアンが私の手をギュッと握り締めて私の足を止めさせる。しかも何かに怯えたように前方をじっと見つめた。

 私のすぐ近くを並んで歩いていた銀猫もフシャーッて威嚇の音を上げて毛を逆立てる。


「ど、どうしたの?」


 二人というか一人と一匹に釣られて私も前方を見やった。ジャンヌとシスターも。

 そこには言うまでもない、女装シスターが佇んでいる。


 何となく注意深く見ていたら、相手の手にギラリと光る何かが見えた。


 農具、じゃないわねあれは……刃物だ。


「エ、ド……?」


 ジャンヌもシスターも悟ったらしくハッと息を呑んだのがわかった。こっちの様子から相手も警戒に気付いたんだろう。

 急にこっちに突進してきた。

 刃物を突き出すようにして。


「きゃーっどどどうしたのよエド!? 私よっアデライドよっ、私がわからないの!?」


 何かの映画の緊迫シーンみたいな状況に私も混乱してよくわからない台詞を口にしちゃったわ。


「くそっ、騒ぐなってんだよ!」

「こっ声が違うっっ! あなたエドじゃないわね!!」


 エドよりも野太い男のだみ声が苛立った。


「誰だそいつは! とにかく騒がず大人しくしろ、オレが逃げるまで周りに知らせたら殺す!」

「きゃーっもしやあなた盗賊団の残党ね!」


 仲間が捕まっても保身のために隠れて見ていたに違いないわ。そして今日までシスター姿でどうにか怪しまれないように過ごしていたんだわ。塀は高いし門は厳重だからどうやって誰にも見つからないように敷地外に出るか方策を練って機会を窺っていたのね。遠目じゃ誰も疑わないもの。油断した自分を小突きたいーっ。


「皆っ、散って逃げて! そしてできるだけ多くに知らせて!」


 まだ少し距離があるから逃げられそうよ。相手は一人だし分散すれば全員を追っては来られない。

 私はアドリアンの手を引いて駆け出した。他の二人も皆で纏まっているよりは助かる可能性の高い私の意図を理解してほぼ同時に走り出す。それでも特にジャンヌは心配そうにしたけどね。時間がないから四の五の言えなかったのかも。


「あっくそっ逃がすかあああっ!」


 男はいきりつつもどれか一つを選ばざるを得ない。

 案の定老シスターか、子連れの私かでちょっと迷ったようだけど、こっちに来た。

 うっわやっぱりーっ。だけどどうにかエドの居る礼拝堂まで行けたら勝算はあるんじゃない? それか二人が彼を呼んでくれるまで逃げ切る。


「アデライド様こっちだよ!」


 私よりも余程修道院の土地勘のあるアドリアンが抜け道を示してくれて二人でひた走る。

 男は依然悪態をつきながらも私たちの後を追ってくる。しぶとい。けど寄宿舎が見えてきて安堵よ。あそこに駆け込んで入口を閉めちゃえば時間稼ぎができるし、何よりアドリアンを避難させられる。人を呼べるしエドだってその頃には駆け付けてくれるわよね。頼りにしてわよ騎士様。

 なんて希望を胸にアドリアンと共に駆けていた。


「あっ――……っつう!」


 まだ小さなアドリアンには焦りと恐怖は心身に大きな負担を掛けていたんだと思う。私の引っ張り方も強かったのかもしれない。足を縺れさせて転倒した。


「アドリアン大丈夫!? 立てる!?」


 手と手が離れ、私はすぐさま戻ってアドリアンを引っ張り起こした……までは良かった。


「はあっ、へっへっ、はあっ、はあっ、追い付いたぜ。ああくそてめえらのせいで騒がれてバレるのも時間の問題じゃねえかよっ」


 ならず者に追い付かれたの。


「二人が皆に知らせてくれるはずよ。どうせ捕まるんだから観念したらどう?」

「何だと? へっ、威勢のいい女だぜ」


 私は敢えて挑発的な態度を取った。そうしながらもアドリアンを背に隠して逃げるようにって後ろ手で押してやる。

 彼は聡明にも私の促しに気付いて男からは私に遮られて死角になる私の真後ろを真っ直ぐに駆け出した。

 男は刃物をちらつかせてにじり寄ってくる。


「だがあんたを人質にすれば逃げられる」

「ほほほ、ふふ、私がそう簡単に捕まると思う?」


 アドリアンはそこそこ離れた。この時点では男の方もあの子が一人で逃げたのはわかっただろう。追いかけなかったのは目の前に非力そうな格好の人質役がいるからね。


「逃げようってのか? 無駄な足掻きだな。あんたみてえなのを殴って黙らせるなんざ朝飯前だ。痛えのは嫌だろ、大人しくしてな。無事逃げられたら悪いようにはしねえからよ」


 そこにはいやに下卑た臭いがした。この男に連れ去られたらろくな目には遭わないわね。

 手を伸ばして腕を掴もうとする男を私は逃げたいのをぐっと堪えて待つ。

 指先が触れるか触れないかの刹那。


「お生憎様よ!」


 握りしめていた砂を男の顔に投げ付けてやった。近距離から目に入った男はぎゃっと悲鳴すら上げて逆上した。


「このアマよくもっ」


 見えにくいながらも私が近くにいるのはわかっているからかめちゃくちゃに刃物を振り回し始めたの。

 げえええーっ、何なのよこいつ!

 私は逃げようとした。


 だけど、運がない。


 男の乱雑な刃物の軌道に入ってたみたい。


 あ、やばっ、――刺されるっ!


 走馬灯は見なかったけど、相手の動きがやけにスローに見えた。

 嫌だ、死にたくない、お腹の子だって護りたいのに。


 ――アデライド!


 雨の夜の彼の必死な顔が浮かんでズキンと胸が痛む。

 今更だけどごめんね、酷く突っぱねて。

 ごめん、この体を護れなくて。

 ごめん……。

 一瞬の思考に過ぎていく大きな罪悪感。

 それと同じくらいに願っていた。


 助けて、――ヴィクトル。


 私の中で一番怖くて強い男、ヴィクトル・ダルシアク!


 銀色が翻った。

 刃物の銀じゃない。

 ふんぎゃあああーって怪獣みたいな物凄い威嚇の声と共に、一匹の猫が間に飛び込んできたの。


「なっ!?」


 私の真ん前で、銀の毛並みが空中で衝撃に痙攣してそのまま地面にどさりと落ちると動かなくなった。


 刃物もカランと音を立ててどこかへ滑っていった。


「ちっ、猫風情が邪魔しやがって!」


 目を擦りながら男が吐き捨てる。

 だけど直後そいつは顔面に分厚い聖書が命中して「ふぐうっ!」と呆気なく昏倒した。


「ご無事ですかレディーーーー!」


 エドだ。

 エドだわ。

 エッドーーーーッ!

 やまびこさえ聞こえた私の脳内。ホッとして涙が滲んだ。

 だけど、えっ、すごっ、広辞苑レベルの書物を結構な距離から投げて大の男を気絶させる強さで命中させるとか、こわっ、やばっ! 伊達に騎士隊長やってないわー。

 ってそれよりもっ。


「にゃんこ! ねえにゃんこ!? 何で起き上がらないの……っ!」


 わけがわからない。主人を護ろうと敵に立ち向かう犬猫ならともかく、私はこの子の飼い主でも何でもない。それなのに危ないって理解して助けてくれたって言うの? 命を賭してまで?

 どういう原理か、考えられるのは角度の問題か、刃は幸い刺さらなかったようで血は見えない。

 だけど猫にしたら相当危ない力が掛かったはずよ。骨が砕けてもおかしくない。


「遅くなってすみませんっ、レディどこもお怪我は!?」


 傍に膝を突くエドは真っ先に私の心配をしてくれた。彼の後ろからはジャンヌが駆けてきている。ああ彼女が呼んでくれたのね。感謝。


「ああ、のね、エド! うぅ、ああぁ猫が……っ、私を庇って死んじゃったのっ……どうしようっ何でこんな酷い事に……っ」


 半ば涙目で訴えると、彼はようやく銀猫に気付いたようでそちらを見やった。

 ハッとした面持ちで腕に抱き上げると何だか私以上に慌てたようにして様子を確かめる。けどすぐに安堵したように深い息をついた。


「レディ、心配ないですよ」


 エドらしい朗らかな声に不安が薄れた。


「ホントに?」

「はい。このお猫様には魔法的な防御が掛かっていたためにあそこのナイフを弾いたようですし、それ以前にこのお猫様のフィジカルの強さは某以上でしょうから、あの男の腕力程度では掠り傷すら負わせられませんよ」

「よくわからないけど、この子はスーパー猫なの?」

「まあそんなところですかね」

「そうなのね、良かった」


 エドがそう言うなら猫に大事はないんだろう。ジャンヌも駆け付けてきてわんわんと泣いた。途中で引き返して来たアドリアンもジャンヌと一緒に私に抱き付いた。


「ぼく、ぼく、早く大きくなってアデライド様をまもれるくらいに強くなります! だからアデライド様、そっそれまで待ってて下さい!」


 この子だって怖かっただろうに健気にも彼は顔を赤くしてそんな決意表明をくれた。


「うん、ま、初恋は実らないのが定番だよな……」

「お嬢様は罪作りですねえ……」


 エドとジャンヌが何か言ったけど、アドリアンに気を向けていたからよく聞こえなかった。


 その後、残党はぐるぐる巻きに縛られて、別の場所に逃げて無事だった老シスターから通報を受けてやってきた教会騎士引き摺られるようにして連行されていった。

 帝国騎士たるエドは潜入がバレないようにささっと教会騎士からは隠れてやり過ごしたみたいね。

 アドリアンは嫌っているかと思いきや猫を心配していたけど、一度母親の所に帰された。ホント思いやりのある子よね。


 勇敢な銀猫は今は私のベッドの片隅に寝かせてあげている。


 未だに目覚めない。


 エドは大丈夫だって言ってたけど、やっぱり心配よ。

 部屋には私とジャンヌと、女装シスターエドがいる。


「ねえエド、にゃんこ全然目を覚まさないけど、一度ムンムに診てもらった方がいいんじゃないかしら。彼は動物にも詳しいから」

「うーん、心配は要らないと思うんですがねえ。どうしてまだ意識を戻さないのかは某にも疑問です。すぐに気が付くと思ったんですが。……猫の体だから普段と魔力循環に差が生じるのかもなあ」


 私にはよくわからない独り言を零すエドは考える時の癖なのか顎を摩っていたけど「ならいっそ正常状態に戻してみるか」と、何かを思い切るように顎からその手を離して私にやけに真面目な目を向けてくる。


「レディ、一つ頼み事をしても?」

「頼み事? 実家じゃないから私に出来る事は少ないと思うけど」

「ああいえ、それほど難しいものではないですよ。単刀直入に言いますと、――この猫を吸ってやって下さい」

「…………えーっと、ごめんもう一回言って?」

「この猫を吸ってやって下さい」

「…………」


 これは俗に言う猫好きのやる猫吸いってやつを言ってるの?


「顔を埋めてにおいを嗅げって?」

「まあ、そんな感じです」

「えっと私、猫アレルギーなんだけど」

「えっ……うーん、では息を止めて、ちょんっと少し顔を埋めるだけでも結構です」

「はい?」


 エドの言いように猜疑心が湧く。だって明らかに怪しいじゃない。それじゃ猫吸いって言わないし。


「ええと、それは何で必要なの?」


 エドは溌剌とした輝くイケメンの笑みで言った。


「それで万事解決です! 甲冑に誓って!」

「すごい言い切るね!」


 余計に不審で警戒心も露わに一歩退がると、エドは何を思ったのかベッドの猫を持ち上げて両手で脇を持ってぶら下げた。猫はやっぱりこれと言った反応も見せず、暴れもしないでぶら下げられている。


「とにかくお願いします、レディ」


 エドは明確な理由を告げてはくれずに今度は逆に押し出すようにして近付けてくる。猫を。何で無理やりな感じでこっちに寄せてくるの?

 不可解に過ぎてまた退がれば、その分エドも詰めてくる。

 退がって詰めて退がって詰めて退がって詰めて…………。


「ちょっとエド! どうして付いてくるのよ!」

「あなたが逃げるからじゃないですか!」


 いつしか私とエド+猫は、テーブルを中心にぐるぐると追いかけっこをしていた。


「はあっ、はあっ、はあっ、良い運動になったわ――って違う、ホンット何なのエド! 私にその子とちゅーでもしろっての!?」

「そうですっ!」

「何でッ!? そんッなに好きならあなたがしてあげればいいでしょ。猫吸いでも何でも!」

「……某、まだ死にたくはないので」

「死!? それってつまりエドは私に死ねって言うのね!?」

「は!? いえいえいえっそれは誤解ですっ。レディは絶対的に大丈夫です、甲冑に誓って!!」

「また甲冑だし! 根拠は!?」


 エドの後生大事な甲冑もこう連発されると信用が担保できないわ。私たちはまだテーブルの回りをぐるぐるしてたけど、卑怯にもエドが騎士たる身体能力でテーブルを飛び越えて来た。だからとうとう壁際に追い詰められちゃったわよ。壁ドンみたいな距離感なのに微塵もドキドキしないのはやっぱりイケメンでも相手が女装シスターだしエドだからよね。

 それにこの猫もこの猫よ。さっきから荷物よろしく結構酷い扱いなのに覚醒もしないってやっぱどう見てもおかしいでしょ。早くムンムに診てもらわないと!


「さあレディ、後生ですから!」

「嫌っ! その猫はもしかしなくても普通の猫じゃないんでしょ! 魔のにゃんこなんでしょ!」

「ぎくっ!」


 口で言った、ぎくって口で言った!

 その動揺っぷり、冗談抜きに化け猫だったりするわけ!?

 それで以てエドはエドで実は私への怒りの治まらないヴィクトルから私の暗殺の密命を受けてやって来た刺客だったとしたら?


「その化け猫にガブリと私を食べさせる気なんでしょ!」

「化け猫? いきなり何の話ですか。とにかくいきますよレディ!」

「ま、待って早まらないで!」


 最早背中は壁にピッタリくっ付いてこれ以上は下がれない。

 エドによってぶら下げられた猫の顔が徐々に近付いてくる。魂が抜けて死んだみたいな白目をした猫の不細工な顔が。ひいぃ~~ッ。


「ブサカワにだって限度があるんだからーーーーっっ!」


 無我夢中だった。

 己の唇を死守せんと、決死の覚悟で猫を掴んでエドに突き返すように前に出した……のは辛うじて覚えている。


「んぐふッ!?」


 エドの変なくぐもった声が上がっての次の一時、私が見たものは、猫とエドとの奇跡のキスショット。


 稀に見る奇跡の光景が創造された。


 嗚呼猫を愛でるイケメン、映えるわねーなんて白け半分に思った刹那、何と猫が人に変わった。


 エド林檎に倣ったように、一糸纏わぬ青年の姿に。


 私の位置からだとさらりと揺れる銀髪の後頭部しか見えないから、どんな顔をしているのかはわからない。

 だけどその人はタイミング良く覚醒したのか猛烈に憤ったようにして、信じられない事に、何とまあ、容赦なくエドの股間を膝蹴りした。


 きゃあああエドオオオオオーーーーッッ!


 私が齧った時の比じゃない絶叫を上げてエドは身を丸めて床の上をのた打ち回る。

 あれは相当痛いって聞いた事あるわっ。男同士で喧嘩してもそこは勘弁って慈悲深さで避ける場所だとも。


 凶手は間違いなく、ヴィクトル・ダルシアク皇帝陛下。


 何って鬼畜ッ。女の私まで心で悲鳴を上げちゃったわよ。

 ごくりと息を呑んで恐る恐る覗き込んだ横顔は、どこまでも冷たく配下を見下ろしている。

 伸びた首筋から至る綺麗な鎖骨に堂々たる胸筋にその下の腹筋、そしてスッと伸びた背。その姿にはどんな女の子だって惚れ惚れしちゃうんじゃないかしら…………きちんと下を穿いてれば、だけど。

 うーんまあ人によってはむしろ穿いてない方が嬉しいのかもしれないけど、私は穿いてますよで安心したい。

 って言うかそれよりもね、あのね、そのね、――お前もかヴィクトル……ッ。

 ブルータスだってきっとびっくりよ。ホント主従揃って全裸晒すとか何の悪い冗談なのーっ。

 エドの時はなかった急な羞恥心のせいか薄ら浮いた眼尻の涙を拭った私は腹立たしくも呆れてしまった。そしてひしひしと湧き上がる思いがある。こんなのシスターに見られたら私にはイケメンなのに変態……こほん、頗る開放的な知り合いが多いって思われる。

 隠そうにも、彼女に賄賂を渡して服を調達する必要があるから知られるのは避けられない。ジャンヌはジャンヌで恥じらって目を隠して……いないわね、うん。指の隙間からばっちり見てる。

 私はもう猫がどうしてヴィクトルに変わったのかとか彼の怒りがどうとか彼への恐怖がどうとか、エドの不運がどうとかを考えるのも面倒になって、二人に背を向けるとベッドに寄った。


「……とにかく、早くそれ隠して」


 深い嘆息と共にヴィクトルにある物を差し出してやる。


 ハイ、今日も私のシーツは貸し出し中になりましたー。





 そもそもどうして皇帝陛下が女子修道院におわすのか。

 それは猫から人間に進化した男として後世に語り継がれる事にな……らない元々人間の男たるヴィクトルが、実は密かにここに出向いていたからだ。

 いや、出向くと言うとあたかも公式訪問のような印象を与えるが、実際は全然違う。正確には丈のある雑草で隠れるようにして開いていた外壁の小さな穴から無断で侵入した。アドリアン少年の這い出た穴だ。露見すれば不法侵入の謗りは免れないだろう。


 つまりは、やらかしていた。


 加えて言えば、彼は誰か人に見られても即座に見咎められないよう魔法で事前に姿を変えていた。


 エド林檎のケースと一緒だ。


 ――銀毛赤眼の猫、それがヴィクトルの仮の姿だった。


 容姿変化魔法で特に動物に変化している間は感情の制御が難しくなる。


 変化先の生態というか本能に引っ張られてしまうのだ。実際使ってみてわかったようだが彼の予想を遥かに超えていたという。

 だから彼は猫姿で敵地も同然の地に侵入した目的を忘れないよう再三苦労していたし、関係のない人間に捕まらないように細心の注意を払って敷地内を女子修道院の寄宿舎まで移動した。しかし猫では外観からして厳重な建物には入れずうろうろするしかなく、そこをシスターに見つかって捕まえられてしまったのだ。最終的には奇しくもアデライドとの対面が叶ったが、何とも幸運な巡り合わせか。

 アデライドの部屋の住人になったのも全くの想定外で、彼自身そこまで状況に期待していたわけではないが、そうなった自分たちはやはり一緒になる星の下にあるのだろうと妙な自信を得たりもした。

 皇帝たる者、感情の赴くままに動いてはならないと自分に何度も言い聞かせてはみたものの、自然体のアデライドと同じ部屋で過ごしていると思えばテンションが上がってされるがままに撫で撫でをしてもらったり、自分からすりすりまでしてしまう始末だった。嗚呼愛玩動物の性よ。くしゃみが出るからと悲しくも遠ざけられたりしながらも、彼はとても幸せだった。

 更には至福の時、一夜のベッドタイムも味わった。

 破廉恥エドゥアールには殺気立ったりもしたが、大人しく、猫らしく過ごしたのだ。

 しかし、アデライドの真夜中の告白が彼をフリーズさせた。


 ――本物のアデライドではない。そして、彼女には彼女の属する世界がある。


 薄々元のアデライドではないと感じていたものの、実際彼女の口から飛び出したとんでもない真実に、驚き過ぎて凍り付きうっかり文字通り魂消たが割とすぐに我に返った。その間どこか空の上で元のアデライドの顔を見た気がしたが、気のせいだろう。

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