第4話 夏のいなずま

灼けつくような太陽の下、入場門に立つ私達は合図を待っていた。

微動だにしない紫組。その中でも目立つのはやはり応援団。

大きな白い襷が、誇り高く風に揺れている。

私達は、これから紫雷になる。




ダンダンダンと和太鼓が鳴り響き、東くんが団旗を持ってグラウンドの中心に躍り出た。空の青を紫色で染め上げるように、旗を解き放って大きく振る。


『俺達が勝つ。』


そう言うように、高く高く。




ずっと鳴り響いていた和太鼓の音が鳴り止む。張り詰められた空気を切るように、誰かが一人で前に歩み出た。


白石くんだ。


他の色の生徒をはじめグラウンド中の注目を浴びて、彼は堂々と歩く。他の団員よりさらに長い襷の下で、銀色の『紫』が強い光を放った。




朝礼台の真ん前で立ち止まった白石くんは、周りの声が聞こえなくなるまで、下を向いて時を待った。次第に、紫が、グラウンドの空気を支配していく。

完璧な静寂が訪れて、白石くんは顔を上げた。そして、空に向けて広げた掌を突き上げながら、大きな声で叫ぶ。






「さぁ、時は来たっっっ!!!!!

眠りの時から目覚めっ、今こそ立ち上がれぇっ!!!!!

 

紫組、いざ尋常に、勝負っっっっっ!!!!!!!!!!!!!」






掌が、強く強く握りしめられる。それが合図だった。

大きく声を上げながら、紫組全員が入場門から駆け出してゆく。その様は、まるで紫色の風が高く吹き上げるようだった。私もその波に乗って走る。いつもならうざったく思う太陽光に、今だけは熱く熱くここを燃え上がらせて、と願った。




白石くんの手が降りると同時に、左足を立てて右足の膝をつき、最初の演目の態勢になった。

そして聞こえる。どれだけ離れていても心に直接響く、我が団長の声が。




「紫ーーーーっっっ!!!!!!!!!!!!!

轟け、紫電一閃っっ!!!!!!!!!!!!!」

 











木陰でさえ暑いくらい、今日はからっとした快晴だった。


私はグラウンドの後ろにある大きな木の根元に腰を下ろした。水筒のお茶はまだ冷たくて、のぼせ上った体に流し込んでいくと、それが通ったあとがよくわかる。


今は午後の全体休憩の時間。楽しかった体育祭も、もう終盤に差し掛かっている。


紫組は皆の健闘もあって、午前の通常競技でなかなかの好成績を叩き出して、現在は赤組に次ぐ2位。

ただし、応援合戦はどこにも負けていないと思う。いや、絶対負けていない。

一般生徒の声は最高に響いたし、難しい演技構成だったけど、どこよりも練習したおかげで、完璧に仕上がっていた。応援団の演武も一番だ。


そして何よりも、白石くんの活躍。大事な演技の端緒を一人でやってのけたあの度胸は並大抵じゃない。きっと審査員の先生たちも息を呑んだだろう。

本当に、私達の団長が白石くんで良かった。




「茉理ちゃんお疲れ!」

いきなりどこかから声をかけられた。顔を上げると、首にタオルをかけた桃世ちゃんがいた。汗のせいでぺしゃんこになったお互いの前髪を見て、自然と笑みがこぼれる。

「桃世ちゃんこそお疲れ様です。かっこよかった。」

桃世ちゃんはさっきまで、副団長として演武を率いていた。その姿は、白石くんに負けず劣らず、とても輝いていた。

ありがと、と彼女は笑う。



「でも茉理ちゃん、次は君の番だよ?」

おどけて桃世ちゃんは言う。その言葉を聞いて気が引き締まった。


午前の通常競技が終わり、午後の応援合戦が終わって。

そう。次の競技は最終演目。選抜リレーだ。




正直怖い。

私の足が通用するの?今だって分かんないけど。


それでも精一杯走ること。紫が繋いできたバトンを受け取り、団長に届けることだけは絶対諦めない。


「桃世ちゃん、応援してくれる?」

「もちろん。」


私は水筒とタオルを預けると、入場門へ走り出した。

大丈夫。いつだって期待と応援は同じ量なんだから。











入場門には、もう既に大体の選手が集まっていて、各々ストレッチやバトン練習をしていた。この競技だけ他と毛色が違うのを肌で感じる。でも、そうなるのも当たり前のこと。


これまでの得点で、一応紫は現時点で2位だけど、実際のところ、1位から6位までの点差が50点もない状態だ。

そして、この選抜リレーの得点は、1位が150点で、下位になるほど20点ずつ下がっていくというシステムである。

つまり、どの組にも下克上のチャンスがあるってこと。

さすがに”選抜”というだけあって、全校朝礼で表彰されるような各学年のスポーツスターの姿が目立つ。この中に入って走ると思うと、やっぱり緊張する。




必死に深呼吸して気持ちを落ち着けようとすればするほど、嫌な考えが頭を満たしていく。

もし転んでしまったら。もしバトンを落としてしまったら。もしオーバーゾーンをしてしまったら。紫の皆の冷たい表情が浮かぶ。


『あんな奴が走るから。』『書道部が出しゃばりやがって。』


嫌なことで嫌なことを上書きしちゃって、暗い何かで囲われて、息が苦しい。

…どうしよ、足が震えてきた…。




「鈴野さん!」




誰?顔を上げたそこにいたのは、


「緊張してる?」


白石くんだった。

優しい声。初めて書道教室に来たあの日から一か月ちょっとで、彼の声はかすかすに掠れていった。でもどんな時もいなずまのように心に鋭く刺さる。

「白石くん…私…」

「鈴野さん。弱音吐くのはここでお終いにしとこ。前にも言ったけど、






『俺が絶対トップでゴールする。だからそのために、鈴野さんが俺のとこまでバトン持ってきて。』」






頼もしい言葉。私より何倍も大きなものを背負ったまま、それでも君は私に頼れる場所を作ろうとしてくれる。




ふいに私は思い出す。

いつだって、最後に『やらせてください』と言ったのは私。

白石くんのことを好きになったのも、Tシャツの字を書くといったのも、応援団の子達と仲良くなったのも、リレーに出ることにしたのも、全部決めたのは私。

それを途中で投げ出すの?そんなの私が許さない。


さっき決めたじゃない。『精一杯走る』『紫のバトンをアンカーに繋げる』って。

逃げるな。諦めるな。前を向け。






「白石くん、ありがと。もう大丈夫。」

顔を上げると、大好きな口角を上げるだけの笑顔をした白石くんがいた。

「鈴野さん、今、字を書いてるときと同じ顔してるよ。」

本当に嬉しそうに笑う。そして、人差し指に中指を絡めて、こちらへ向けた。

”グッドラック”。私も同じ仕草をする。




『健闘を祈る。』











「オンヨアマークス」、セット。

号砲係は、会場が静まり返るまで待って、そして、


ぱんっ


スターターを撃った。

ものすごい勢いで一年生が走り始める。それと同時に、怒号にも似た歓声が会場を包んだ。私はその様子を、トラックの中から見ていた。紫は今、3位。でもまだ全員で競っている状態だ。




「あかーーーーっ!!」「白組ふぁいとおおお」




グラウンドを、色んな色の声援が満たしていく。そうこうしている間に、順位が定着してきた。

現在総合トップの赤組が1位。紫は、その後ろを抜かせそうで抜かせないまま走っていく。そのうち、後半になると青が追い打ちをかけてきて、赤・紫・青の大混戦となっていった。




そして今、私の前の走者・東くんがバトンを受け取った。全色、バトンパスが終わって、ついに女子最後の走者が、皆レーンに入る。

東くんは、これ以上ないほどの全力疾走を魅せた。それでも赤は逃げ切り、ほんのわずかな差を保ったまま、最終コーナーに差し掛かった。




忘れるな、深呼吸。

怠るな、正しい姿勢と視線の向き。

怖気づくな、走り切った向こうに、君が待っている。




陸上部時代を思い出して。

東くんの足がマークを通り過ぎたら、後ろは振り向かず、手は肩と同じ高さに伸ばして走り出す。親指を下に向けて、他の指は揃えて張って。

走り出して数秒後、固いバトンの感覚が掌に押し付けられた。絶対に離さない。

意思を持ってぎゅっと握る。後ろで東くんが何かを叫んでいた。


景色があっという間に過ぎていく。自己最高速度かもしれない。

だけど目の前の赤組の女子は、依然トップを走り続けていた。

抜けそうで抜けない。あと一歩彼女より早く足を踏み出せばいいだけなのに、それができない。

息が苦しい。目の前の赤の子の背中が壁に見えてきた。耳鳴りがする。もう嫌、






「来い!!!!!!!!!!!!!」






思考が遮られる。誰かが叫んでいた。

最終コーナー。わずかなその距離の向こうで、白石くんがまっすぐに私を見つめている。その瞬間、一気に苦しさが消えた。


そうだ、前を向け。

諦めるな。君の目指すトップに、少しでも近づくんだ。


もう限界の足にもう一度力を入れる。前の子をトレースするんじゃない、彼女より、一歩、二歩、いやもっと、




気づいたときに、目の前にあったのは銀色の『紫』だった。それ以外は何もない。

抜けるような青空に、大きな背中が、『紫』の誇りが輝いていた。


君が口角を上げるのが見えた。そしてもう振り向かない。マークを越えたらしく、君の背中はゆっくり遠ざかっていく。

ぴんと張られた掌が差し出されて、私はそれに、ぐっとバトンを押し付けた。そしてすぐに私の手から団長の手に、紫色のバトンが繋がれていく。




「走れ!!!!!」




自然と、身体の底から大きな声が出た。

白石くんの独走は止まらない。バトンパスの時点ではほんのわずかっだった差がどんどん大きくなっていく。




うおおおおおおおおおおおおおお




止まない歓声の中で、君は全力で走る。


そして、

ついに、紫のバトンが、ゴールテープを切った。






わあああああああああああああああ






今日一日の中で、一番大きな歓声と拍手が聞こえた。

そのあとすぐに、ぞくぞくと全色のアンカーがなだれ込んできた。後続チームもかなり健闘したらしい。でも、




「優勝は、俺達紫だっっっっっ!!!!!」




空高く、紫色のバトンが掲げられる。

陣地から飛び出してきた応援団員にもみくちゃにされながら、君は真っ白な歯を見せて笑っていた。満面の笑みも、とてもよく似合っていた。




「鈴野さあああん!!!!!」




とりあえず膝に手を当てて肩で息をしていると、グラウンドの真逆、ゴールテープのある方から声が聞こえた。

君だ。皆に頭や体を撫でられながら、私の名前を呼んでいる。顔を上げて、私も叫ぶ。




「なああああにいいいい」




「さいこうですかあああ!!!!」




自然と笑みが零れる。本っ当に、良いこと聞くんだから。



「紫組っ、さいこうですっっっ!!!!!」
















あれから1時間後。私は、教室に戻って、皆が描いた黒板アートを眺めていた。教卓には、沢山のリボンがついた優勝杯。ここに、今年の紫組が加わる。

黒板には、皆がそれぞれの思いをこめて様々なものを描いていった。

トラックのコーナー。皆の運動靴。襷の大きなリボン。紫色の団旗。

そして、『紫』の刻まれたTシャツ。

真ん中には大きく、白石くんの字で『紫・最高』と書き込まれていた。

それを見ていると、色んな思い出が蘇ってきた。




七月の末。

君が、私ひとりぼっちの書道教室に現れた。三年間クラスが一緒だったことも思い出せなかったくせに、その志、姿、声、笑顔全てに心を奪われた。指先がぴりっとした、あの時は分からなかったけど、あれは恋だった。

私の最後の夏が始まった。




八月の上旬。

もう一度書道教室に来た君が、真剣に私の字を見てくれた。あの時出会わせてくれた桃世ちゃん達。初めは絶対に慣れ合えないと思った。胸がずきっとして、下らない嫉妬もした。でもそんな彼女が今日、怖気づく私の背中を押してくれた。君がくれた友達も含めて、全てが大好きだ。




八月の末、体育祭直前。

いきなり、リレーの選手に抜擢された。変われたようで変わっていない、うじうじした私に、君は卑下するな、と言ってくれた。また、心臓をどきっとさせて、君は笑ってみせた。勇気づけてくれた。だからせめて、『紫』の字は、皆の背中を押せていますように。




そして今日。

何度も諦めてしまおうとした。怖くて、苦しくて、また自分で勝手に止めようとしていた。でも君が、何度も私の手を取ってくれた。私の足は、誰かの役に立ったかな。

どんな形でも、紫色のバトンが君の手に渡って本当に良かった。

君の走る姿は、まるで夏のいなずまだった。触れた人の心に、いつまでもぴりぴりと痛みに似た感動を与えていく。






私の気持ちを伝える余裕はないけど、せめて感謝だけでも伝えたい。私は手の中を見る。今日の日のために用意した、名前の刺繡が入った紫色のタオル。喜んでくれるかな。




勇気を出して、教室を出る。どこだろう。誰かの影がちらつくと、全員白石くんに見えてしまう。それくらい会いたいし、”ありがとう”を伝えたい。

でも、校内のどこを見ても、白石くんはいなかった。もう帰ったのかな。




そう思って、ふと顔を上げると、そこは屋上のドアの前だった。下を向いていたから気づかなかった。




何気なく近づいて、すりガラスからドアの向こうを覗く。

そしてすぐに、息を呑んだ。






誰だかはわからない。真っ赤な夕焼けの向こうに、二人の…身長差的に、男女の影が見えた。でも、身長が高い方の背格好は、ここ一か月ちょっと、ずっと追いかけていた君に似ている。


見ちゃいけない。わかっていたのに、私の体は勝手に動いて、ドアの手前まで来てしまう。


そこまで行かなければ、せめて声は聞こえなかっただろう。なのに来てしまったから、その二人の会話が酷く明瞭に聞こえた。




女の子の影が一歩、男の子の影に近づく。その声以外、何も聞こえない。

「私、葉月が好き。これまでの一か月ちょっと、葉月の隣にいれてとても嬉しかった。できることなら、これからも同じ場所にいたい。」




神様は意地悪だ。…これじゃあ、私…




目頭がかあっと熱くなる。








ここだから聞こえる、震える女の子の声。

…桃世ちゃんの、声。




音が無くなった世界で、これまで微動だにしなかった男の子の影が動いた。

そして、夢のあの景色と重なる。











「これまでずっと、俺を支えてくれてありがと。

これからも、よろしく。

…俺も、桃世のことが好きだから。」











鼻の奥がつんとして、抑えていた涙が溢れだした。手から、タオルの入った袋が滑り落ちる。せめて泣き声は聞こえませんように。私は袋を踏みつけてそこから駆け出した。




下の階に行っても、あの屋上と同じ夕焼けが差し込んでいる。リレーのあとはもう走れない、なんて思ったけど、人間本気を出せば、火事場の馬鹿力というものが出るらしい。教室まで全力で走った。ドアを大きく開けて中に入る。

もう抑える理由がなくなったせいで、ついに私の中の何かが崩れた。あとからあとから、涙が止まらない。




わかっていた、わかっていたんだ。

桃世ちゃんが白石くんを見る視線の、責任感の中に、甘い何かが見え隠れすること。

白石くんのことを”葉月”呼びする女子は、桃世ちゃんしかいないこと。

激務の中で、唯一白石くんが頼りにできたのは桃世ちゃんだけだったこと。

二人はとてもお似合いだということ。




でも気づかないふりをしていたこと。私は、白石くんが大好きだった。








「…鈴野さん。」


白石くん…だったらよかった。ごめんね、こんな浅ましいこと思って。


「東くん。」


たまたま教室に来た東くんは、こちらを見ていた。涙でその表情は見えない。

それをいいことに、私は言った。




「振られちゃいました。相手は私の気持ち、知らないですけど。」




声にすると余計に辛い。もう私、今日は自分の首を絞めてばっかりだな。笑えてくるよ、そう思おうとしても、涙は止まらない。


「近くに行ってもいいですか。」


私を慰めてくれるの?変な人。

頷くと、私がへたり込んでいるところから少し距離を取って座った。

近くにある人の温もりが、私の思いを吐き出させていく。




「白石くんのこと、好きだったんです。

あれだけよくしてもらっちゃって…私、勘違い、しちゃい、ました。」





東くんは、しばらく黙っていた。そして、言葉を噛み締めるように、ゆっくり言う。



「勘違いじゃないですよ。

…それも大切な、青春だから。」


青春。

私の青春は何だったんだろう。

そう思ったとき、真っ先に思いついたのは、あの、指先のぴりぴりとした痛みだった。


あれは、恋の痛みだった。




色素の薄い、情熱が透けて見える瞳。

何度も私に差し伸べられた、おっきな掌。

応援合戦の時の、堂々とした立ち姿。

口角を上げるだけの、きらきらした笑顔。

ひとりぼっちの私を見つけてくれた人。




君は夏のいなずま。凄い速さでやってきて、私の心を満たして、手を伸ばした時には去っている。残っているのは、恋が実らなかった痛みと、私に魅せた生き様の記憶だけ。




これが青春かぁ。痛みも甘いや。大人になっても、忘れたくないな。




そう思いながら泣く。東くんは何もしないけど、ずっとそこにいてくれた。






「私…白石くんのこと、好きになれてよかった。

痛いくらい、大好きです…。」






上を向いて、涙は止まってくれなくて、それでもいいから。




真っ赤な夕焼けは、太陽がなかなか沈まないせいで、ずっと消えない。

その向こうで、紫がかかった雲が見えた。


忘れられない色。忘れられない思い出。忘れられない、私の気持ち。

その全部を象徴するかのように、いつまでもその雲は浮かび続けた。










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