第3話 心臓がどきっとした。
最近、よく見る夢がある。
夢の中で、私はいつも制服を着て、廊下を歩いている。
何気ない学校の風景。とっとと帰ろうと早歩きになっていたら、目の前の屋上へ繋がるすりガラスのついたドアの向こうに人影が見えた。そして、私はいつもそこで動けなくなる。
灼けるような夕日に照らされて、屋上は、鮮やかに男女二人の影を映し出した。
誰だかはわからない。でも、ぼそぼそと聞こえる男子にしては高い声は、嫌でも白石くんを彷彿とさせて。
見たくないのに目が離せない。
自分の中で争っているうちに、女の子の影が男の子に一歩近づく。
そして、ずっと聞こえていた声が無くなった瞬間、それまで動かなかった男の子が女の子の方に進み、
紅い背景の向こうで、二つの影が一つになる。
「っ…。」
いつもこの場面で目が覚める。私は半身を起こすと、汗で湿って気持ち悪い布団から抜け出した。携帯の時計はAM4:00を指し示している。
真っ暗な窓の外を見ながら、私は少し笑った。
変に心が弱いから、毎日こんな夢を見るんだ。さっさと認めたらいいんだ。
”白石くんのことが好き”だって。
あーあ、ずっと思わないようにしてたのに。やっぱりこの痛みは”恋”か。
認めたら認めたで、少し荷が下りた気がする。本当に都合がいいなぁ、私。
ふと外に意識を向けると、地平線の向こうから、ゆっくりと太陽が姿を現していた。
その景色が、やけにいつも夢が覚めるときのあの夕日に似ている。
またやっちゃったよ。今日だけは熟睡できますように、眠る前に願ったはずなのに。
今日は八月の最終日。Tシャツに字を書きこむ日だ。
私の願いもむなしく、世界は朝を迎える。次第に熱を帯びてくる空気の中で、蝉が主役級の鳴き声を響かせた。
今日も一日体育祭の練習。
応援団の子達は、競技の割り当てや応援歌の説明など、全体をまとめる仕事をしつつ、自分たちの演武の練習や話し合いなんかもしてて、本当に忙しそう。
時間がない中で沢山のことをこなすから、段取りでつまずくこともあるし、それの揚げ足を取って、あることないことぶちぶち言う後輩もいたけど、彼らは気にする素振り一つせず、一人一人真剣に向き合っていた。
今日も「ついに書くんでしょ?見に行くね!!」と話しかけてくれたのは桃世ちゃん。
彼女は今も、グラウンドの向こうで必死に何かを話し合っている。
きゅっと小さい顔も、きちんと整えられた長いポニーテールも、輝くような笑顔も全部、
本当にお似合いだ。
私、何がしたいんだろう。自分で自分の首を絞めて、頑張ってる子に嫉妬して。
一度いなくなりたい。心が丸洗いできたらいいのに。
そんなことを考えながらぼおっとしていたら、
「茉理ちゃんーーーー」
と誰かに呼ばれた。顔を上げると、向こうの方から桃世ちゃんがこちらに向かって手を振っている。
何だろう。わからないまま、そちらへ走っていった。
呼ばれた場所は、グラウンドにあるテントの下。そこには簡易的な机と椅子があった。
座ってと言われて、唯一残っていたパイプ椅子に腰かけると、その場にいる人の全貌が見えた。
桃世ちゃん、応援団の内の数人、バレー部やバスケ部の子達、そして白石くん。
女子も男子も、クラスの中で目立っている子ばっかり。なんちゅうきらきらした集まりだ…。何でこんなところに呼ばれたんだろ…。
かなり気圧されながらも桃世ちゃんの方を向くと、彼女はおもむろに話し始めた。
「あのね、選抜リレーの選手を決めないといけなくて、皆に集まってもらいました。
もちろんやるからには一番を狙う。これは共通認識でok?」
彼女が顔を上げたタイミングで、皆が一斉に頷く。もちろん私もそのつもりだ。
「だから今年は立候補制じゃなくて、50mのタイムを参考にして、速い人から走順を組んだ。」
白石くんがそれを引き継いで言う。そして桃世ちゃんが、一枚の紙を机に置いた。
「今年はこれでオーダーします。」
皆と同じように、私も紙に目を通す。
運動能力万能な子達の名前が列挙してある。その最後尾、つまりアンカーはもちろん白石くん。
…白石くん。
アンカーは、白石くん。
心臓がどきっとした。
何かの間違いかな。アンカーの前の走者、私の名前な気がするんですけど…。
「ん?」
思わず声が漏れる。勘違いにしては、時間が経っても文字が変わらない。
あれ、こういうのって次第に視界がクリアになっていって、あぁ間違ってたぁえへへみたいな…え?
「茉理ちゃん、どした?」
戸惑ってる私に、桃世ちゃんがいつもと同じ輝かしい笑顔で聞く。
「や、これ、間違ってます…。」
「どーゆう?」
「私、こんなとこに名前があるんだけど…。綱引きかなんかと間違えてない?」
彼女は立ち上がると、こちらまで来て私の両肩をくっと掴んだ。
「茉理ちゃんは、タイム的にこの走順です!間違ってません。」
「まじ?」
大間違いよそれ。少なくともその走順は大いに間違っている。
「やや、茉理ちゃんさ、50m計測の日に休んで、後からタイム取ったでしょ?
だから皆と自分の差が分かってないんだよ。茉理ちゃん、女子ならクラスの中で一番だよ?」
説明されても開いた口が塞がらない。本気で言ってる?
確かに私は中学で陸上部だった。専門は100m。足に自信がないわけじゃない。
だけど高校に入ってからは全然走っていない。
しかも次の走者は白石くん。アンカーだ。
ありえないミスをするかもしれない。そう思うと、嬉しいよりも怖いの方が勝っていた。
「あの、私こんな…。」
「こら、自分を卑下するなよ。」
断ろう、そう思って出した声は、誰かの優しいテノールにかき消された。
背中におっきな手が乗る。そのまま、顔をのぞき込まれた。また、この前と同じように。
「俺が絶対トップでゴールする。だからそのために、鈴野さんが俺のとこまでバトン持ってきて。」
色素の薄い瞳はよく透けて見えた。その奥にあるのは、掌と同じくらい大きな優しさと熱い情熱。何度も魅せられる。
「大丈夫。俺がまじで頑張って鈴野さんに一番で持ってくるんで。」
そう言ってくれたのは、私にバトンを渡す予定の東くん。
「じゃああんたが楽できるように、私が一番で持ってくる。」
そう言ってその子の背中に手を置いたのは、怖いと思っていたバレー部の元エースの女の子。
「俺も…。」「私も。」「もちろん。」
他のリレー選手の人も皆、口々に言ってくれる。
私が普段、引っ込み思案で上がっちゃうのが分かってるから、優しく背中を押してくれていた。
きらきらしてて住む世界が違うと思ってた子達が、こんな私のために、優しさと勇気のバトンを繋げてくれた。
「茉理ちゃん、紫の優勝のために、走ってもらいたいの。
お願いしてもいい?」
最後の確認のように、桃世ちゃんが言う。
正直、まだ怖いし、きっと本番までこの怖さが消えることはないんだろうけど…、
それでも、この人達と一緒に走りたい。何よりも白石くんに、バトンを繋ぎたい。
だから、
「こんな私でよければ、一緒に走らせてください。」
頭を下げる。一瞬ののち、皆から歓声が上がった。
「よし、紫優勝するぞーーーーーー!!」
東くんが大きくガッツポーズをする。
笑って眺めていた白石くんが、一歩前に出ると、自然とおしゃべりは止んだ。
「今年のリレーはこれで行こう。このチームなら絶対勝てる。」
皆が力強く頷く。
アンカーで色んな重圧もあるだろうけど、それを欠片も覗かせず、皆の真ん中で君は輝く。その仕草が、言葉が、生き様が、全てが、私の心臓をどきっとさせる。
白石くんは、太陽に向かって、左手の人差し指を高く高く突き上げた。
「今年は、紫が優勝するぞ!!!」
沢山のTシャツが並んだ書道教室。
そのほとんどの背面に、『紫』が白いペンキで刻み込まれている。もちろん、全て私の仕業だ。
あの後すぐに練習が終わり、私はここで缶詰になりながら字を書き続けた。
一枚一枚、全力で集中して、「優勝しますように」と願いを込めて、ここまで書き上げた。入れ代わり立ち代わり、応援団の子達も応援に来てくれて、Tシャツを押さえてくれたり、チョコレートを口に放り込んでくれたり、沢山手伝ってくれた。
開始から実に三時間。ついに、残りは一枚…白石くんのものだけになった。
これだけは、他の応援団員の強い希望で、銀色のインクを使うことになっていた。
普段の部活で使うことがあるから知っている。このインクは、他の色に比べてとても高い。例え割り勘だったとしても、一滴も無駄にはできない。
最後まで残ってくれたオーディエンスは、字体を選んでくれたあの2人。
特に東くんは始めから最後まで、ずっとTシャツを押さえてくれていた。きっと疲れているに違いない。私ももう腕がパンパンだ。
「最後、お願いします。」
そう言うと東くんはさっとTシャツの皺を伸ばして、ぴんと張ってくれた。
桃世ちゃんも静かに私の始筆を待っている。
ふぅ。深呼吸。
筆を銀色に浸す。穂先がなじめばなじむほど、ずっしりとした重みを感じる。
これから書く字が、白石くんが背負う字。全力で走り続ける君の背中を押す字。
怖気づきそうになる。彼のソウルに相応しい字を私は書ける?
…上等じゃない。
せーの、
「うりゃっ」
思いっきり穂先を叩きつけると、綺麗な放射状に飛沫が散った。幸先いい。
自然と笑みが零れる。
『止』は小さく丁寧に。
それと対照的に『ヒ』は、五画目を勢いよく身体ごと動かして内側に線を入れ込み、
六画目は上目に始筆を打ち、下への長さを出して存在感を。
下の『糸』において大事なのは、”固定観念”を捨てること。
上と下の『く』の大きさは大胆に差をつけて、十画目の棒は跳ね上げ。掠れも出るように、ここは慎重に。
十二画目、最後の点は内側に落として、勢いをプラスすれば…
「はぅ…。」
筆を置く。完成だ。
私がその場に座り込んだ瞬間、わっと声が上がって桃世ちゃんが駆け寄ってきた。
「茉理ちゃんすごすぎ!!!ほんとにかっこいい!!!」
お世辞でも褒めてくれたら安心できる。東くんもへたり込んでいるものの、その顔は笑っていた。
「鈴野さん…まじ…最高っす……」
「遺言?」
桃世ちゃんが笑わせてくれる。
とりあえずありがとう、と彼女は感謝してくれた。
もちろん。私も紫組だからね。
白石くんのTシャツを見る。正真正銘、私の最大限の字をここに落とし込んだ。
ねぇ、白石くん。
私別に、この恋が実らなくてもいい。
だけど、君が求めるものに応えられるようになりたい。
この字、どうかな。君の背中、ちゃんと押せてる?
どんな形であっても、この字が君の役に立ちますように。
願いを込めて、Tシャツの裾を握った。
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