第2話 胸がずきっとした。
「あっつ…。」
校門の前で、そっとおでこの汗を拭う。夏の登校は本当に大変だ。
今日は、学校に勉強をしに来たわけじゃない。部活をしに来た。
もちろん、『紫』を書くために。
やるからにはやっぱり、無難なものよりも凝ったものを渡して、喜んでもらいたいから。
学校に着いた私は、書道教室に行く前に体育館へ寄り道した。
校内に入ってしばらく歩くと、暑いからか、体育館のドアが全開になっているのが見えた。そこから漏れるのは覇気のある声。
応援団が、応援合戦の演武の練習をしているのだった。
中に入る勇気はないから、ドアの影に隠れてそっと覗く。
十数名の応援団員が、大きな声を出して演武をしている。その勢いは、まるで今日が本番と思わせるほど。
その中でも、ある一人が私の目を惹きつける。
真ん中に立つ、身長の高い男の子。
白石、くん。
久しぶりに姿を見ると、何故か胸が高鳴る。彼の頬を汗が流れ落ちて、それが太陽を反射してきらりと輝く。顎を引いて見えた横顔は、あの澄んだ瞳を強調して見せた。私を魅せた、あの瞳を。
暫く練習をしたあと、応援団の皆が隊形を崩した。休憩をするらしい。それぞれ床に座り込んだり水筒を飲んだり、疲れた様子。でもその中で二人だけ、練習場所から動かない人がいた。
白石くんと…誰だろう、女の子?
ポニーテールの長い髪と細い手足が夏の日差しに映える。二人をセットにすると、少女漫画のワンシーンに見えてきた。楽しげに何か話している。
「もう、葉月は抜けてるから!」
ひと際大きな声が聞こえて、女の子が白石くんの背中に手を置く。
2人の笑い声が響いた。
…何でだろ、見たくないのに、目が離せない…。
そっちをずっと見ていると視線を感じたのか、白石くんが顔を上げて、こちらと目が合った。
「っ」
何故だか分からないけど、顔を直視できなくて、思わず駆け出した。
その間もずっと、二人の姿が頭をちらつく。
何で?別に好きでもないのに、私、
白石くんに、女の子と一緒にいてほしくないなんて、思って…
全力で走る私にびっくりしたのか、近くの木に止まっていた蝉が鳴き止んで、どこか遠くへ飛んで行った。
私だって、自分の気持ちにびっくり、だよ…。
「も、無理…。」
硯に筆を立てかけると、背もたれに身体を預けた。今日は何故か上手く書けない。私はもう何十枚目かの書き損じを丸めてゴミ袋に投げた。…入ってないし。
「はぁーーー。」
大声でため息をついてみる。それでも気分が乗らなくて、集中力が切れた私は諦めてゴミを拾いに行った。
今日は半紙に永遠と『紫』を書いている。その中でも気に入ったのは数枚で、あとは全部丸めてゴミ袋の中だ。
上手くいかない理由はだいたいわかっていて、そもそもこのやり方があまりよくないからだ。同じ字をずっと書き続けていると、だんだん字形がぶれていって、最終的にゲシュタルト崩壊してしまう。自分でも何を書いているのか分かんなくなって、字を書く楽しささえも見失っちゃう。
何故か今日は余裕がない。
早く完成形を見せたい。その思いだけで必死に手を動かすけど、焦れば焦るほど字は崩れていく。もう、どうしよ…。
そう思っていたとき、
「鈴野さん、」
「わ、あっ」
あの日と同じように、また急にドアが開いて、白石くんが顔を覗かせた。
この前と同じようにまた驚かされた。何で毎回急に登場するの?
さっきぶりの白石くんは、遠くから見るよりも夏らしく灼けていて、心なしか背も伸びたように見えた。
「ひ、さしぶり。」
「ひさしぶり。しばらく来れなくてごめん。」
「いや、全然…。」
何とも言いようがなくてお互い黙り込んでしまう。白石くんは、さっき私が体育館から逃げたの、見えてたのかな…。色んな恥ずかしさが募って、顔さえ見れない。
沈黙に耐えかねて、私は目を逸らしたまま、今書いたばかりの試作と、これまでに作っておいた作品、合わせて20数枚を机に広げた。
「あの…今までの、字体の候補っていうか…はい…どうぞ…。」
私ってここまで暗かったっけ?自分でも自分のキャラが分かんなくなってきて、頭がくらくらする。
「すごっ…。これ全部書いたの?」
「まぁ、これが仕事なんで…。ただ、多すぎて何がいいのか分かんないっていうか…。」
「いやいやいや。」
白石くんは椅子から立ち上がり、試作の一つを手に取った。
「これ、全部最高だから。どれもめっちゃいいから選べないってだけだよ。」
また、あの口角を上げるだけの笑顔。恥ずかしいけど、でもその笑顔は正面から見たくて。
勇気を出して上を向くと、ほっとした顔の白石くんがそこにいた。
「良かった。こっち見てくれた。」
「気に入るものがあれば…。」
「全部良すぎて選べないです。これ全部全員の背中に書いてもらえますか?」
それは無理かなと笑うと、君はだよなぁと口角を上げた。
真剣に字を見る白石くんに続いて、私も大量の『紫』と向き合う。造像記タッチのものから、文字が読める程度の行書まで、書体も様々。
ややあって、白石くんはたくさんの試作の中から三枚の書を取り出して、机の端っこに並べた。
一つは、掠れが多くて勢いのある筆跡のもの。
一つは、線が太くて角もしっかりした猛々しいもの。
一つは、『叩きつけ』の技術を使って随所に飛沫を作ったもの。
「全部いいけど、俺はこの三つが特に好きだな。こん中で何が得意とかある?」
「…いや、特には。」
「そうかぁ。」
白石くんはあぁでもないこうでもないと言いながら、それぞれの書を、電気に透かしたり机に置き直したりして悩んでいる。
「俺はさぁ、この三つの中だったらどれもいいと思うんだけど、
俺以外の団員が着たらどんな感じかなぁと思うと、いまいちビジョンがはっきりしないんだよなぁ…。」
”俺以外の団員”。その言葉を聞いて、浮かんでくるのは覗き見した体育館。
白石くんと親しげに話す女の子、お似合いの二人。
当たり前だけど、私がこれから書く字は白石くんのためじゃなくて、紫組応援団のため。きらきらして、白石くんの周りにいるのがよく似合う人達のため。
ちょっとだけ、胸が痛い。
「うーーーん。もしかしたら教室に他の団員が残ってるかも。
呼んできてもいい?ちょっと行ってくる。」
そう言って君は間髪入れずに立ち上がり、書道教室を出ていく。
私たち二人だけの空間は開け放たれて、外の蒸し暑い空気が開きっぱなしのドアから入り込んでくる。
一人残された私は、ぐっと手に力を入れた。練習着の短パンが、くしゃりと歪む。
そうやって、思ったことをすぐに実行できるところ、すごく尊敬してる。
…だけど、今はほんの少しだけ、嫌い。
「書道教室なんて初めて来たー。お邪魔します!」
「てかこの字すげぇ。かっこよ。」
しばらくすると、白石くんは2人の応援団員を連れて書道教室に戻ってきた。
そしてその中には、白石くんと親しげなあのポニーテールの女の子もいた。
「鈴野さん、まじすげぇ。こんなにたくさん、まじありがとう。」
「あんた”まじ”と”すげぇ”しか言ってないでしょ。
でも本当にありがとう!!応援団でもないのに毎日書いてくれてたんでしょ?」
元野球部らしい坊主頭の男の子にツッコみながら、ポニーテールの子が話しかけてくれた。
「私、副団長の長田桃世です。」
よろしくね、茉理ちゃん。さりげなく私のことを名前で呼んで、握手をする。その瞳には濁りも企みもなくて、本当に純粋でいい人なのが分かった。
「長田さん、よろしくお願いします…。」
「やだ、”桃世”でいいからね?」
そう言ってぶんぶんと私の手を上下に振る。すると、隣から男の子の方が私の手を奪った。
「俺、東貴和です。」
元野球部にしては細身な体だけど、その肌はやっぱり真っ黒だ。真剣な顔で穴が開くほどこちらを見るから、白石くんとは違う意味で目を向けられない。
「よ、よろしくです…。」「はいっ。」
私が一言言うだけで、何故かぴょんっと跳ねながら大きな返事。やだこの人、ちょっと面白いかも…。
「で、葉月!」
桃世ちゃんは後ろに立っていた白石くんに目を向けた。
”葉月”。
彼女が君をそう呼ぶことは分かっていたけど、やっぱりちょっとずきっとする。
「ここの三つで悩んでたの?」
「そう。長田とタカはどれがいい?」
もっと悩むものかと思っていたけど、案外あっさりと二人は顔を上げた。
「うん。私、好きなの見っけ。タカもいけそう?」
「おう。」
桃世ちゃんはとても楽しそうに笑うと、からかうように言った。
「葉月は判断つかないんでしょ?
じゃあ茉理ちゃん、私達と『いっせーのーで』しよ?」
「わ、私?!…白石くんじゃなくて?」
いきなりの指名にびっくり。最近よく思うけど、こんなに重要なこと、私に任せて大丈夫なの?
そう思って躊躇っていたら、ふいに背中に大きな手が乗った。
「俺の代わり。お願いしていい?」
私の目の近くで、後ろから白石くんが笑っている。心臓が止まりそうだ。
突然のことで声が出なくて、首を大きく縦に振ると、満足そうに君は離れていった。
そして桃世ちゃんがにっこりして、大きく言う。
「じゃあいくよ?いっせーのーで!!」
皆が選んだ書は…
満場一致で、『叩きつけ』の技術を使って随所に飛沫を作ったものだった。
突き合わされた3本の指を見て、自然と声が出る。白石くんも輪に戻ってきた。
「やっぱり!!」
「どれもまじでいいけど、俺はこの飛沫が爆発力あって好きだったわ。」
「確かに、今年の『紫』は、これくらい派手なほうが絶対に良いな。」
そして私の方を見て、いたずらっぽい笑顔を浮かべる。
「鈴野さんの太鼓判ももらえたし。
今回の字は、これにしよう。」
そう言って、選ばれた書を手に取って電灯に透かす。
明るい光を浴びても、その『紫』は光に負けず存在感を放っていて、確かに”最高”かもしれないと思った。
「じゃあ、こちらで承ります。」
あれから少し話して、応援団が帰る間際、私は最後にもう一度確認を取った。
皆は力強く頷いて了解の意を示してくれた。
「まじで最高です。まっじでありがとう。」
「もうちょっと迷惑かけるけど、お願いします。私達も頑張ります!」
桃世ちゃんは拳を握る。その横で白石くんが言う。
「じゃあ、また来ます。今日も沢山ありがとう。」
丁寧に頭を下げられたので、こちらも返す。
そのまま三人を見送った。
完全に三人の背中が見えなくなって、そっと書道教室に戻ると、私はドアを背にして座り込んだ。実はさっきからずっと体が重かった。
原因はわかってる。
嫌なのは、桃世ちゃんが君のことを名前で呼んでいたことじゃない。
私が、それを許せずに、薄暗い嫉妬をしていることだ。
こんな私にでもあんなにフレンドリーに接してくれた子が、毎日共に過ごす仲間のことを、名前で呼ばないわけないのに。東くんのことだってあだ名で呼んでいた。決して白石くんだけのえこひいきじゃないのに、
どうしてこんなに驚いて、勝手に傷ついてんの。
手の中にあるのは、皆で選んだ試作。せっかく仲間に入れてもらえたのに、あんな対応してたら、明るい雰囲気を奪っちゃう。
あんなに楽しかったのに。
白石くんの口角を上げるだけの笑顔と、
桃世ちゃんの眩しい笑顔を頭の中で並べて、お似合いだな、って。
自分で自分を苦しくしてどうすんの。ずきずき、傷に塩を塗り込んだときみたいに、胸が痛む。
酷くみじめだけど、せめて泣かないように、精一杯唇を嚙み締めた。
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