夏のいなずま

on

第1話 指先がぴりっとした。

濃厚な墨の匂いは、私を自分だけの世界に連れて行く。ただそれに身を任して、さぁ今日も書こうか。




拳ほども太さのある筆をえいやっと桶に突っ込んで、間髪入れずに思いっきり紙に叩きつけた。

四方に飛び散る飛沫も、筆の隙間が生み出す掠れも、ここはその全てが個性の世界。

下の長めの線、楷書では『止め』のところをあえて『はらい』にするのが私流。

気を抜かないでゆっくり筆を戻したら、


「ふぅ……」


『紫』の一字書が、全紙に浮かび上がった。

この作品のポイントは、掠れている部分とそうではない部分を作ったことで、水流のような線を演出したところ。

全体的に見たらどんな感じなんだろ。遠くから字を見たくて、裸足に上履きを履いて数歩歩くと、誰もいないだだっ広い教室に、空虚な足音が響いた。




書道部に、私以外の部員はいない。寂しくないって思ってずっと活動してきたけど、やっぱり厳しいと感じる日もある。

例えば、今みたいなとき…いい作品ができたとき、自慢できる相手はいない。

ただの自己満でずっと書いているだけ。




本来の目的なんてもうどうでもよくなったら、自然と足が窓の方へ歩いて行った。

その向こう、七月らしい透けるような青空の下で、他の生徒達が部活をしている姿が見える。


灼けつくような太陽の匂い。野球ボールがバットに当たる清々しい音。トラックを走る陸上部の集団、誰かが汗を拭う。うっとうしいほど鮮烈な色を放つ、沢山の高校生の青春。


それを見ながら、私は今日も字を書き続ける。暑さなんて関係ない、冷房の中で、誰に褒められるでもなく、ただひっそりと。この部活に入って、何万回目かの溜息が出た。







小休憩。

水を飲みながら字典を繰る。次は何の字を書こうか。今日はモチベーション低いから、『紫』以上に良いものは書けない気がするけど。




「…こんにちは。あ、しょ…」

「だあっっっっ!!!」




完全に気を抜いていたとき、いきなりドアが開いて背の高い男子生徒が顔を覗かせた。

びっくりして大きな声が出た。思わずペットボトルを机に叩きつけると、べこんと不格好な音を出して表面がへこんだ。

「…大丈夫?」

迷惑だった?と本当に反省した顔で言うから、こちらも反省。幽霊に会ったような反応をしてしまった。

「ごめんなさい、大丈夫…です。」

でも、いったい誰?ばれないようにそっとその人を見上げる。




全体的に整った顔の中で特に印象的だったのは、目だった。

小ぶりで形のいい顔に収まった、綺麗な二重瞼の目。色素の薄い瞳の中には、こちらにもわかるほどの生気がみなぎっていて、ただ純粋に見入っていた。

「俺の顔、そんな変?」

そう言われて我に返る。初対面の人の顔をじろじろ見回して…

「ごめんなさい、あの、珍しかったから…」

「あぁ、ここに来る人がってことか」

私が言った”珍しい”は、あなたの目のことだったんだけど、とは言わず、申し訳ないけど、良い感じに勘違いしてくれたことにそっと感謝した。

「でも鈴野さん、俺のことは珍しくないでしょ。」




え’’。

この人、私のこと知ってるの?ならめっちゃ失礼なことしちゃった。

でも、あれだけじろじろ顔を見たのに、この人の素性を思い出せない。どうしよう。

その人は焦る私を見て、少し笑いながら言った。




「難しく考えないで。俺、クラスメイト。白石葉月。」

「…あ、はぁ…初めまして。鈴野茉理です。」

「だから初めましてじゃないんだってば。しかも3年間クラス一緒だし。」

本当に何も覚えてないんだ、と笑う。その口角を上げるだけの笑顔を見て、ようやく私は色んなことを思い出した。




白石葉月くん。確かに3年間クラスは一緒だった。

バスケ部の中心メンバーで、生粋のスポーツマン。あんまり頭はよくないけど、天性の厚い人望と本人のカリスマ性で、いつも皆の中心にいるタイプの人だ。

笑い方が少し独特で、どれだけ嬉しくても歯を見せて笑うことも、目が微笑みの形になることもないらしい。本人が2年生の初めの自己紹介のときに言っていた。そのルックスに教室がざわめいても、彼はやはりちょっと口角を上げただけだった。

そのかっこいい容姿と性格、少しクールに見えて実は面白いところが男女共にに大人気で、たくさんファンがいたと思う。




「白石くん…、思い出しました…。」

「そ?ならよかった。鈴野さんが覚えてなかったら不審者だもんな。」と彼はまた笑った。

素性が分かったところで、立ちっぱなしだった彼を椅子に座らせた。一応お客さんだし。

お互いに腰を落ち着かせたところで、話を聞く。


「で、ここ書道部ですけど、間違ってませんか?」


そう、それが一番疑問だった。こんな過疎化の最終形態みたいな場所に、学校のスター(しかもモテる)が一体何をしに来たんだろう。

「そうだ。まさかの”俺のこと覚えてない事件”のせいですっかり忘れてた。」

白石くんはまた少し笑ったあと、私の方をしっかり見て言った。




「俺に協力してほしくて。お願いに来た。」




「…へ?」

全く話が読めない。どういうことだ。

「実は、今年の体育祭で俺、紫組の団長になったんだ。」

「あ、体育祭…」


九月の入りにある体育祭は、本当に盛り上がる。生徒が中心になって運営して、六色対抗の激しい攻防戦が繰り広げられる。

各色のリーダーとなる応援団は、団長をはじめとして大体15人前後。運動ができて目立つ子が多くて、練習を主導し、本番はそれぞれの色のTシャツを着て、随所で大いに活躍する。

どうやら白石くんは、うちの組の棟梁になったらしい。


「えぇっと…あ、おめでとうございます。うち、今年は紫なんですね。」

「ありがと。初めてだよな、紫。1年は青で3位。2年は橙で5位だったじゃん。

今年は優勝したいな。」


あ、そうか。ずっとこの人とクラスが一緒だったから、戦績も一緒か。

目立つ世界の人との共通点って、何か不思議。

「それで、何で私が?」

「さっき見てたんだよ、これ。」

そう言って白石くんが指さしたのは、毛氈の上に放置されたままの『紫』。

彼は立ち上がって、紙の傍でしゃがんで、至近距離で私の字を眺めながら言った。




「外から見てても、すごく印象に残った。なんだろう…すごく自由に見えたんだ。

俺の知ってる『紫』とは全然違う。でも、この線のはらいとか、常識に捕らわれてないっていうか…」




そう言って指さしたのは、『紫』の中の『糸』の、下の長めの線だった。

そこ、私も気に入ったところだ…。


「今年の紫は、なんか…この字みたいなチームにしたい。

常識に捕らわれないけど、誰が見ても優勝!!みたいな。」


高校3年生、最後の夏。目の前の彼は、静かに何かを燃やしていた。

「だから、応援団のTシャツの字を書いてほしいんだ。鈴野さんの直筆で。」

「えっ、あの背中の…?」


まさか字の話が体育祭のことに繋がるなんて、全く思っていなかった。

確かに、例年応援団は色Tに『紅』だったり『碧』だったり、それぞれの色の漢字を書いていた。でもそれはプリントだったし、何で私なんかが。




「白石くん、せっかくの指名で申し訳ないんだけど、私には無理だよ…。」




私はただの高校生。一回いい字が書けたとしても書道家ではないから、それが何回も再現できるとは限らない。

しかも今回の体育祭は、ただの体育祭じゃない。応援団の多くを占める三年生にとって、最後の体育祭だ。そんなところに私の字はお門違いだろう。

でも、白石くんは折れてくれない。


「毎年、応援団の背中の字ってパソコンのフォントのプリントだったじゃん。あれ、味気なくてあんまり好きじゃなかった。

それより、鈴野さんの直筆の方がよっぽどいい。

少なくとも俺は字に力を感じたし、それが紫の優勝に繋がるとも思う。」



その目が私を貫く。

彼の内なる情熱を見てふと思い出す。

その昔、私にも同じ感情があったことを。


高校生になってからずっと、注目されないように生きてきた。そのせいで、私自ら注目されたくないと思うようになった。

でも本当は知ってる。私、一人でうじうじしてるタイプじゃなかったよね。自分の好きなものは好きって叫びたかったよね。

ようやくそのチャンスが回ってきた。今ここで掴まないでどうするの?




私は目を閉じた。だからその答えは、


「わかった。時間はかかるかもしれないけど、やらせてください。」






白石くんの方を見ると、目を見開いて何度も首を縦に振っていた。

どうすればいいかわかんなくて、とりあえず私も首を縦に振ってみる。

「…まじでやってくれますか。」

「まじでやっちゃいます…。」

「ありがとう!!!」

いきなり両手を掴まれて、急に距離が縮まった。


普段触れることのない筋張った手と、男の子のわりにきめ細かい肌。

制服から香る淡いレモンの匂いに、頭がくらくらした。


「絶対に良い体育祭にする。いや、絶対に良いものにしてやる。」

相変わらず歯の見えない笑顔。でも嬉しそうだ。

同時に、彼が触れている両手から全身に熱が伝わっていく。


熱い。どうしたの私。


「団長としての初仕事だったぁ。」

そう言って彼は手を離した。でも手は火照ったままで。


「ありがと、本当に。」

「こちらこそ。」

やっとのことでそう言って、彼を書道教室の外に送り届ける。

「じゃあ、また来るから。字の相談、乗ってほしい。」

「わかった。待ってる。」

じゃあ、と向けられた背に、さよなら、と声をかける。

そうすると、相手は振り向かずに、人差し指に中指を絡めた、”グッドラック”のポーズをしてみせた。

『”健闘を祈る”、お互いに。』

そんな声が聞こえた気がした。




彼の背中が見えなくなって、私は、近くの壁に背中を預けた。

右手で左手を押さえる。さっき白石くんに掴まれた両手が熱く、ぴりぴりと軽くしびれていた。

あんな人気者、一生付き合いなんてないと思ってた。彼がみんなの中心にいる理由も、彼が女の子に人気がある理由も、絶対に知ることなんてないと思ってた。




でも気づいちゃった。

抜群の視野の広さ。生気がみなぎって溢れて、皆に伝染させるあの瞳。そして、理想を語ることを臆さない勇気。

その全てに、誰もが目を奪われていく。

そして、私も。


夏の夕日はやけに真っ赤で、私ののぼせ上った心を映したみたい。


「鈴野さんの直筆の方がよっぽどいい。」


白石くんの声が、ずっと頭の中をぐるぐるしている。何度も繰り返したくなるくらい、その言葉が、


「すき…。」


いやいやまさかね。頭の中で首を大きく振る。私の字を評価してもらえたから嬉しいだけ。…そうだよね?


何が何だかよくわかんない、こういう時は…字を書くに尽きるでしょ。

教室に駆け足で戻る。

手早く筆に墨を浸して、おりゃっと紙に叩きつけると、黒い飛沫がそこらじゅうに飛び散った。

片付けは大変そうだけど、…うん、なかなかいい始筆じゃない?

そのまま筆を動かして字を刻み付けていく。

自然と口角だけが上がってきた。











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