蛙になれなかった白鳥は
ちくわノート
第1話
ぎらぎらと太陽が高い位置から見下ろし、地球が溶けてしまうんじゃないかと思うほど暑い真夏のアスファルトの上で、雪がふわりと舞った。
私が持ったスマホからは雪の踊りには見合わない、頼りない音圧でチャイコフスキーの『白鳥の湖』が流れている。動きづらい制服を着て、トゥシューズも履いていない。歩道と車道の区別もない狭い道路の真ん中で、観客は私一人。あまりにも粗末なその舞台上で演じられた彼女の踊りは美しかった。目線、指、つま先、全てに意思があって、私に強く訴えかけていた。
「オデットには選ばれなかったの」
雪は言った。
放課後の教室には私と雪以外は誰もいなくて、外のグラウンドからは運動部の声が聞こえてきていた。
「オデット?」
「そう。白鳥の湖って知ってるでしょ」
「てーてれれれれーれれーれてれれれれーってやつ?」
「そうそれ。それの主役」
「へぇ。そもそも白鳥の湖ってどんな話なの? それすら私知らないんだけど」
「呪いで白鳥に変えられてしまった王女オデットと王子ジークフリートの恋を書いた話」
「ふうん。白鳥ならいいじゃん。綺麗だし。蛙とかにされなかっただけマシじゃない?」
雪は何かを考えるように遠くを見た。
「むしろ、蛙にされた方がよかったかもね」
「どういうこと?」
雪は私の問いかけには答えず、バッグを持った。
「帰ろ。晶」
その後、帰り道の途中で見せてもらった彼女の『白鳥の湖』は八年経った今でも全く色褪せることなく、私の記憶の中で雪はみずみずしく、重力なんて無いみたいに軽やかに、美しく舞っている。
通夜で見た雪はあの頃よりは少しばかり大人で、しかし綺麗なのは変わっていなかった。彼女がもう舞うことが出来ないというのは受け入れ難く、今にも起き上がって私に笑いかけるんじゃないか、あるいはあの時のように『白鳥の湖』を流したら、スリラーのように棺桶から飛び出して、しかし恐ろしいというよりはむしろ華麗に舞ってくれるんじゃないか、そう思ったけれど、もちろん雪は目を覚ますことはなく、神聖な静けさを保って棺桶の中で横たわり続けた。
「晶ちゃん、今日は来てくれてありがとうね」
「いえ」
雪の母親は雪のように色白だったけれど、雪とは異なり、それは綺麗というよりは病弱な印象を与えた。
「雪はきっとあなたのような友だちがいて、幸せだったわ」
私じゃなかったら、と考える。私じゃない、誰かが雪の親友だったら雪は死ななかったのかもしれない。そういう「もしも」は考えても仕方ないとはわかっていても、雪が死んだと聞いたあの時から常に狂った永久機関のように私の頭をぐるぐる回り続けている。
「雪とは友達でした」
私の言葉に雪の母親は弱々しく頷く。
「高校2年の頃に転校してきた雪は目立っていました。私たち田舎者からしたら東京から来たってだけで注目の的なのに、彼女はお洒落で美人だった。東京から来たからモデルか何かやってたんじゃないかって噂が広まって、男たちだけでなく、女生徒も学年問わずに雪の姿を見に来て、私たちの教室の外はハリウッドスターが来日したんじゃないかってくらい人で溢れかえりました。雪はそんなこと気にしてないみたいでしたけど」
「いえ、あの子も驚いていたみたいよ。すごく沢山の人に話しかけられた。友だちもいっぱい出来そうって夕食のとき、楽しそうに話してたわ」
「実際、雪には沢山の友達が出来ました。気さくでいつも明るくて、皆から好かれてました。彼女はすぐにクラスの中心になりました。でも自惚れのようですけど、そんな彼女と一番仲良かったのは教室の隅でいつも黙々と本を読んでいた私でした。私と雪は真反対なようで驚くほど気が合ったんです。私たちは何をするにしても行動を一緒にしました。雪はもちろんモテてましたけど、私も雪と行動を共にするようになってから初めて彼氏が出来ました。それで私たちはよく誰もいなくなった放課後の教室で彼氏の愚痴を話したり、流行りのJ-POPについて話したり、ドラマの話をしたり、どれだけ時間があっても話すことは尽きませんでした。ある時、雪がバレエをやっていたことがあると言いました。雪はあまり自分のことについて積極的に話す方ではなかったので少し珍しいなと思ったのを覚えています」
「そう。五歳から中学一年までやっていたわ。レッスンは水曜日と土曜日。バレエについて文句や愚痴を言ったことがなくて、本人が楽しんでやっていると思っていたけれどある日、レッスンから帰ってきて、やめると言い出したの。驚いたわ。あまりにも急だったから」
「オデットに選ばれなかったから。そう言ってました」
「『白鳥の湖』の王女オデットね。それまでもやりたい役が出来なかったことはあるはずなのに、その時ばかりは完全に臍を曲げてしまって、何度か説得したんだけど結局辞めちゃったのよね」
喪服に身を包んだおじさんが雪の母親に近づいてきて、私たちは話すのを止めた。そのおじさんは二言三言雪の母親と話したあと、部屋を出ていった。
「私の弟なの。雪からしたら叔父さんね。雪が子どもの頃はすごく懐いていてね。お風呂も叔父さんと入るって聞かない時もあったの」
「昔から強情なところは変わってないんですね」
私がそう言うと、雪の母親は寂しげに微笑んだ。
「高校を卒業した後、私は東京の大学に行って、雪はここの松本の大学。学校は離れたけれど、私たちはしょっちゅうLINEでチャットを送りあって、嫌なことや聞いてほしいことがあった時には深夜まで電話をして、長期休みには必ず遊びに行きました。雪との予定は他の何よりも優先されて、恐らく雪もそうだったはずです。大学卒業して就職をした後でもその関係は変わりませんでした。私と雪の仲は良好で、私たちは何でも話し合いました。雪の人生は順風満帆だと思ってました。優しい両親に恵まれて、私以外の友だちも沢山いて、彼氏だっていました」
雪が見せてくれた『白鳥の湖』は私の脳にぴったりと鮮明に張り付いている。彼女の演じる王女オデットは気品に溢れていて、美しい純白の白鳥だった。
私はずっと考えていた。私の知らない悩みを雪は抱えていたのか。もしもそうなら私は何でそれに気づけなかったのだろう。一番彼女の近くにいたのは私だったはずなのに。雪にとって、優しい両親の存在や彼氏、私は救いの糸になれなかったのか。
雪は死ぬことを選んだ。きっとそれは自分の意思で。
雪は私の一部で、無くしてはいけない臓器のはずだった。雪がいなくなったのに私の体がなんの不自由もなく動けることを不思議に思った。
「雪は何で死んだんでしょうか」
ぽつんと口から溢れ出たその疑問に答えてくれる人は誰もいなかった。
○
観客席が明るくなり、雨のような拍手が、ステージ上のバレエダンサー達に降り注ぐ。
彰人が手を打ち鳴らしながら私の方を見てよかったな、と目で訴えかけた。私はそれに答えるように頷く。
東栄バレエ団のガラ公演だった。ガラ公演は有名なバレエのシーンをオムニバスで上演するもので、今日の公演の踊りのレベルはかなり高かった。
私がバレエを観劇するようになったのは雪が死んで、二年が経った時だった。当時付き合っていた彼氏がデート当日に熱を出したというので、私はゼリーやポカリスエット、お粥の材料を買って彼の家まで見舞いに行った。彼は移ると悪いからと言うし、思ったよりも元気そうではあったので、何かあったら連絡して、と言い残し、私は早々に彼の家を後にした。
そして予定がぽっかりと空いてしまった私は、適当にウィンドウショッピングでもして帰ろうかと思っていると、一枚の小さなチラシが目に留まった。小さなバレエ団の公演のチラシだった。演目は聞いたことがなかったけれど、私の頭では雪の踊りがちらついて、足を運ぶことにした。小さなバレエ団とはいえ、あの時の雪の踊りよりはレベルが高かったと思う。素人目でもそれは何となくわかったけれど、あの時の抗い難い引力を感じることは出来なかった。雪の踊りにはそういう魔力があった。
それから私は定期的にバレエを観劇するようになった。あの時感じた引力を探し求めて。
上手なバレエも、下手くそなバレエも有名な演目も、聞いた事のない演目も観てきたけれど、私の求めるものにはまだ巡り会っていない。
彰人と出会ったのは三年前、東栄バレエ団の『ドン・キホーテ』の演目を観劇した時だった。
「名古屋にもおられましたよね」
隣の席に座った彰人がそう言った。
「突然すいません。六月の名光バレエ団の公演の時もお見かけして。もしかしたらと。今日たまたま席隣だったのでつい嬉しくなって声をかけてしまって」
彰人はガタイが良く、学生時代はラガーマンをしていたらしい。椅子に窮屈そうに体をねじ込む彼の姿は少し滑稽で可愛らしかった。
私たちはそれからバレエ好き同士仲良くなって連絡先を交換した。やがて互いに惹かれあい、付き合うことになった。
彰人は商社で営業マンをしていた。話を聞くと、彰人の人生にバレエが入り込む余地はないように思われたが、昔からバレエの美しい動きを観るのが好きだと語った。
「晶は白鳥の湖が嫌いなの?」
ある公演の帰り、電車に揺られながら彰人はそう訊いた。
「え? なんで?」
「なんか白鳥の湖の時だけ、オデットを眉間に皺を寄せて観てたから」
私にはそんな自覚はなくて、指で眉間のしわを伸ばす仕草をしながら、えー? そうだった? 全然意識してなかった。白鳥の湖は好きだよ。すごい好き。と返した。
しかし、もしかすると私は雪の踊りが上書きされるのを恐れているのかもしれなかった。私にとってオデットは雪だけだった。呪いで姿を変えられてしまった美しい白鳥は黒いアスファルトの上で、何を想っていたのだろう。
大学卒業後、新卒で入社し、八年勤めた会社を退社すると告げた時、課長はこれだから女は、と言ってお局から滔々と説教されていた。嫌味なところがある課長だが、それももう無くなってしまうと思うと少し寂しい気持ちになった。
「あーあ、晶も遂に結婚かー」
同僚の美香が言う。
「イケメンなんでしょー。旦那さん」
「うーん、イケメンというよりはクマ? みたいな」
「えー、なんか好み違くない?」
「そうかなあ。確かにアイドルはワイルド系より可愛い系推しだけど、それとこれとは違うじゃん」
「いや、晶バレエ好きなんでしょ。そしたら線の細い王子様系好きなのかと思ってた。ほら男装して、踊って歌うじゃん。バレエ」
「……ん? もしかして宝塚と勘違いしてない? バレエ歌うたわないし」
「あれ? そう? 似たようなもんじゃん?」
彼女に悪気はないんだろうけど、興味もないんだろう。
「そういや、明日休むんだって? どっか行くの?」
「うん、働くのはもう少し働くけど、明日は結婚の挨拶に松本に帰るの」
「へえ、お父さん、お母さんに?」
「ううん。友達に」
美香は興味なさげにふうんと言った。
両親への挨拶は済ませてあるので、私ひとりでいいと言ったが、晶の大切な友達だから、と彰人も繁忙期にも関わらず、無理言って有給を取らせてもらったらしい。その代わり、昨日は遅い時間まで残業をして、今は新幹線の隣の席でぐうぐうと寝息を立てていた。
私はカバンから雪の遺書を取り出した。白い封筒の真ん中に端正な文字で晶へと書かれている。
この遺書は雪が死んで一週間後に私が住んでいたマンションに郵送で届いた。雪の両親にもその事を話すと、同じタイミングで遺書が彼らの元にも届いていたようだった。
内容は雪らしくない、まるで遺書のテンプレートをそのまま使用したかのように中身がなかった。何度も何度もくしゃくしゃになるまで読み返した。何かヒントがあるんじゃないか。他の人にはわからないメッセージが込められているんじゃないかと思ったけれど、何も見つけられず、雪が何故死ななければならなかったのかは最後までわからなかった。
顔を上げ、後ろにすごい速さで飛んでいく景色を眺める。
季節は冬で、東京には降っていなかったけれど、薄く雪化粧を施した山々が目に入る。
松本も今夜は雪が降るらしい。冷えるだろうな。そう思った。
松本駅に到着すると、母が私たちを迎えてくれた。荷物を私の実家に置いて、すぐに雪が眠っている墓地に二人で歩いて向かった。
「流石に松本は冷えるね」
彰人は大きな体を縮めて言う。確かに東京とは寒さの質が違う感じがする。ドライアイスを食べたみたいに吐く息は真っ白だった。
「大丈夫? 体冷えない?」
「いっぱい厚着してるし、ホッカイロも持ってるから平気」
彼は私の顔色を見て、安心したように顔を綻ばせる。
松本は東京に比べて建物が低い。でも自然いっぱいの田舎ってわけでもなくて、普通に暮らすのであれば不便はない。
帰省する度に街並みが変わっているようで、私は新鮮な気持ちで景色を楽しんだ。新しくできたカラオケ屋。潰れてしまった飲食店。昔は狭くて通りづらかった道も広く、綺麗に舗装されていた。
「ねえ、俺、言ったことなかったと思うんだけど」
「なに?」
彰人の顔を見上げる。彼は真っ直ぐ前を向いていた。
「俺、昔、死のうかなって思ったことがあった」
「え?」
「言うべきかどうか悩んだけど、俺たち結婚するし、知っておいてもらいたくて」
彼は優しく、どちらかといえばポジティブで、自殺という言葉からは離れた場所に立っていると思っていた。
「……死にたいって思うことは誰にでもあるよ。でも皆踏みとどまるんだ。人生って長いし、本当にいろいろなことがあるけど、皆ちゃんと生きてる」
「首を吊る直前までいったよ。会社に入って3年目くらいの時かな」
彰人は自虐的に笑う。
「……何があったの?」
「それが何も無いんだよ」
「どういうこと?」
「傍から見て、俺の周りに自殺すべき理由なんてひとつも無かったんだよ。大きな借金をしているわけでもないし、親友に裏切られたってわけでもない。会社では確かにその時ミスをして落ち込んではいたけど、そんなのいくらでも取り返せるミスで、なんならもっとどデカいミスを何回もやらかしたことあった。でもなんていうか人生って退屈だなって思ったんだよな。本当にそれだけなんだよ。学生の頃は何もわからずに未来に無限の可能性を感じていたけど、社会人になると何となくわかってくる。自分の十年後、二十年後、きっと同じような生活なんだ。結婚をするかもしれない。子どもができるかもしれない。それも何となく想像は出来たし、子どもの大切さなんて持ったことない俺にはわからなかった」
私は彼の大きな手のひらに触れると彼はそっと優しく握り返す。
「そりゃ友だちと遊ぶのは楽しい。出世を目指してしゃかりき働くのもいい。でもそれはいわゆる生きがいってやつにはならない。人生をめちゃくちゃにしようとして会社を辞めて落伍者にでもなろうか? でもきっと誰かが俺を助けてくれるんだ。両親が、友人が、俺の事を必ず心配する。俺の周りの人達の愛が俺を縛ってた」
「何で止めたの?」
「首くくる直前に、そういえば三日後シャルル・ポワールバレエ団の『真夏の夜の夢』のチケット取ったんだったなって思い出したんだよ。それは観たいなって思って。そしてそれを観たらまた別のやつが観たくなって、そして君に会えた」
彼の手の温もりを感じる。命の暖かさだ。
「会えてよかった」
「うん」
視界に白がちらついて、見上げると雪が降っていた。雪はふわりと私の手のひらに落ちて、静かに消えた。
「あー、降ってきたね。傘持ってきてないよね」
彰人は言う。
「大丈夫でしょ。このくらいなら。最悪、お母さんに迎えに来てもらおう」
―――蛙にされた方がよかったかもね。
雪が言った台詞を思い出す。白鳥だと救いがあるから。
「ねえ、今は退屈?」
彰人は優しく微笑む。
「全く」
私はお腹に手を当てる。まだ目立って大きくはなってないけど、確かに新たな命が私の中にある。私はこの子に無償の愛を送るし、それはきっと彰人だってそうだろう。その愛はこの子を縛ることになるのだろうか。
アスファルトの上で、雪が舞っていた。
蛙になれなかった白鳥は ちくわノート @doradora91
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