夏の夕暮れ、タナトスの子どもたち

尾崎滋流(おざきしぐる)

夏の夕暮れ、タナトスの子どもたち


カウントダウンは7から。

7つの惑星、7つの大罪、地中海世界の7つの驚異。全てのイメージを、それぞれのカウントに当て嵌める。

7の数字を数え終われば、ありったけの活力が脚へと流れ込む。そのように躾けられているのが、マーキュリーの肉体だ。


季節は夏。夕暮れ、白い月、明かりの灯ったシテ島の広場。ノートルダムの焼け跡からのスタート。

栄光のブザーとともに、ランナーたちの肉体が炸裂する。それが比喩なのは半分だけだ。何人かの肉体はそれから数分と経たずに実際に炸裂する。負担に耐え切れずに筋線維の裂ける音を、全世界の観客が血走った目で享受する。

アルコル橋を渡ってジェヴル通りへ、四肢を軋ませながら直角のカーブを曲がる。シリコンの靴が石畳を削る。早くも接触が起こり、三人がもつれ合って観客の中へ突っ込む。悲鳴と嬌声、肉と骨の破壊。

喧騒を背後に、マーキュリーは先頭集団を駆ける。背中と胸と両肩で、聖なる商標エムブレムが形を変えながらきらめく。サン・ジャックの塔を背に、クローヴィスの姿を目が捉える。


叩きつけるように地を蹴りながら、脳裏にはバッハの平均律クラーヴィア曲集、3声のフーガが厳密なテンポで流れている。このテンポが保たれている限り、その走りが乱れることはない。

マーキュリーのメンテナンスには、全ランナーの中でも抜きんでた予算が投じられている。トレーナー、精神科医、認知心理学者、漢方学者、全て最高の人材が集められ、あらゆるコンディションを、レース当日に最高の状態へと高めていく。

マーキュリーが生まれて間もない時代には、ランナーたちは薬漬けだった。多くの者が依存状態に陥り、競技そのものの存続が危ぶまれるに至り、あらゆる化学物質の摂取が禁じられた。無農薬で栽培された植物、及び一切の薬物を投与せずに飼育された動物由来の物質のみが摂取を許される。

代わって発達したのがあらゆる漢方薬、及びケシや大麻の使用、そしてあらゆる種類の暗示と条件付けだった。現在のランナーが従来の意味での自律した人格を持ち、その権利を尊重されているのかどうか、議論はようやく始まったばかりだ。

マーキュリー自身にとってはどうか。

少なくとも、マーキュリーには明確な欲望があった。少なくとも、本人はそう認識していた。

約3メートル右を疾走するクローヴィス。しなやかに伸びる腕と脚。無駄のない筋肉。褐色の肌と白い髪。その姿を見る度に、欲望としか形容のできないものが鳩尾からこみ上げる。その、走るために彫琢された姿、ぎりぎりと巻かれた発條ばねそのものとなった肉体。


バッハの完璧な和声の中で思い出すのはシチリアの陽光。マグナ・グラエキアの遺跡、古代の石壁を飛び越える幼いクローヴィス。マーキュリーは追い付こうとしてひどく転び、膝を何針も縫った。止まらない血を見て泣くクローヴィスに、渦巻く痛みと奇妙な悦び。

それを初めて思い出したのは寝そべったカウチの上、背後の分析家に語っている最中だった。その記憶がどのようにメンテナンスに関連するのか、マーキュリーは知らない。いずれにせよ、それ以来その記憶はマーキュリーの聖像となり、世界の枠組みとなり、タイムは短縮され、スポンサーは倍増した。


追憶を遮る感覚──クローヴィスの逆、左側で銀色の影が速度を上げた。

インド洋地域の大手電子企業のロゴをひらめかせながら、フィロンが先頭集団から飛び出した。ニュースを賑わせる、はねっ返りの若手。

<<まだ序盤なのにあの加速は無謀だ。追う必要はないぜ>>

耳元から、オペレーターのキュベレの高速言語。

<<そうかな、何か策があるんじゃない>>

<<あるわけない──いつものスタンドプレーさ。目立てばいいってだけのピエロには曲芸をやらせときな>>

注意経済の観点からはそのようなプレーにも合理性があるが、昔気質のキュベレは飽くまでも勝利にこだわる。経営陣にやや煙たがられる所以だ。

マーキュリーも目立つことにはあまり興味が無い。

しかし、この日のレースはチームにとって試練となるものだった。それはマーキュリーの右側で始まった。


筋肉の軋る音を悲鳴のように響かせながら、クローヴィスが先行するフィロンを追った。

<<クローヴィスが出た!!>>

<<落ち着け!落ち着けマーキュリー!!>>

フーガが乱れ、足元がミリ単位でぐらつく。街燈が揺れて夜空に線を描き、観衆の怒号が革命のように轟く。

精神を集中、どうにかフーガのテンポが正確さを取り戻し、血流を自覚するかのように、視界がくっきりと像を結ぶ。

<<クローヴィスが行った。追わなきゃ>>

<<必要ない。どっちも終盤までもたずに自滅だ>>

「追わなきゃ!」

発声された本物の声に、管制室でキュベレは唇を噛んだ。

マーキュリーの条件付けにクローヴィスの存在を関連させた代償を、チームは支払わされようとしている。レースに直接関わる事物をランナーの動機に結びつけることは諸刃の剣だった。

迷っている間にも無数のシリコンが路面を蹴り続け、先頭集団はエメ・セエールに差し掛かる。歩道を埋める観衆は血に飢えた叫びを上げ、画面越しに見つめる者たちは静かな興奮に己が肉体をまさぐる。まもなく中盤だ。

キュベレは心を決め、辞表を出す自分を思い浮かべる。

<<オーケイ、行きな、マーキュリー。全員ぶっちぎれ>>

<<了解>>

マーキュリーが、ぐっと歯を食いしばる。

フーガが途切れ、静寂。

観衆の狂騒はベールの向こうで遠く揺れている。


人々の想像とは裏腹に、ランナーにとって走ることの大部分は抑制だ。どれだけ死に近接した走りを走ろうとも、その心は冷え切り、筋肉への負荷と呼吸のバランスに恭しくかしずいている。

己を決して解き放たぬための、修道士の如き抑制。

街燈を映してきらめくセーヌの傍らで、その抑制が解かれる時が来たのだ。


「マーキュリー!?」

「マーキュリーが行った!!」

「まだ中盤だぜ、なんてレースだよ!!」

時ならぬ興奮が世界を包み込む。

3人のランナーが、後先考えずに加速していた。

テュイルリーからコンコルド広場を抜けてクール・ラ・レーヌへ、灼熱のピストンが律動し、体内の酸を燃やし尽くそうとする。クローヴィスが、続いてマーキュリーがフィロンを抜き去ると、絶叫が5つの大陸を震わせた。

キュベレの背後で、エンジニアが潰れたカエルのような声を発する。一本あたりに投資された金額が自分の年収に匹敵する筋繊維の切断をモニターしているのだ。

キーボードの上で両手が引き攣る。今この瞬間にできることは少ない。キュベレは数値を睨み続ける。


今やバッハは遠く、重い大気を切り裂くように走るマーキュリーの脳裏を流れるのはストラヴィンスキー。

不協和音と獰猛なリズムの中で、毛細血管の切れる音が聞こえる。

クローヴィスは再び右手にいた。

見えないほどの速さで両手を振りながら、その血走った瞳が追いすがるマーキュリーを見ている。

その瞬間の充実がマーキュリーの全てだった。

強靭だがしなやかな肉体を海豚のように走らせるクローヴィス。その四肢の連携、発条ばねの唸りをすぐ隣で見つめる。その熱。汗の匂い。

幼い頃を除いて、マーキュリーはクローヴィスに触れたことはない。触れたいわけではない。ただそこには欲望があった。マーキュリーはその欲望を名付けたことがなかった。エンジニアたちによってそれが玩具にされ、搾取の対象にされた後も、マーキュリーはその欲望の名を持たなかった。

いま、その名前のないものが心臓を、肺を、張り巡らされた血管と神経、縒り合わされた繊維を駆け巡り、張り裂ける寸前まで追い込んでいる。

阿片と暗示によって抑え込まれた苦痛が識閾下で焼け付き、必死に肉体の暴虐を止めようとしている。

最終カーブを二人が同時に曲がり、シャンゼリゼへ。外角を走るクローヴィスが、ありえない角度でマーキュリーに食らいつく。

最後の直線。

同じ速度で走るクローヴィスをすぐ傍らに感じながら、マーキュリーは至福の中にいる。

焼き切れていく肉体を苛みながら、もう何もいらないと感じる。

魂が一なるものの元に還り、肉の牢獄から解き放たれ──

<<頼む、もうやめてくれ。本当に死ぬぞ>>

キュベレの声。

<<ありがと、キュベレ>>

<<礼なんてやめろ。こっちが死にたくなる>>

全速力のまま終盤に突入した二人のランナーに、世界は黙示録の陶酔に包まれている。

温存した体力を使って追い上げる後続集団が、しかし差を縮めることができない。起こってはならないはずのことが、起こりつつある。

序盤から終盤まで続く加速が意味するのは、死そのもの。

全世界が見守る中で捧げられる供儀の予感に、被造物たちが恍惚の涙を流す。

走れ 走れ 限りあるものよ

かりそめの器を 捨てる時がきた──


都市の中心、偉大なる凱旋門の下で、群衆がコースに雪崩れ込む。

暴動の中で、勝利者が表彰台に登る。それはマーキュリーでも、クローヴィスでも、フィロンでもない。先頭集団の中で、誰よりも禁欲的に自分のペースを守っていた者だ。

管制室でキュベレが絶叫し、クルーに指示を与える。エンジニアは数値を、観客は中継を、スポンサーは株価を凝視している。



1ヶ月後、ボルネオ島の砂浜。

マーキュリーは陽光の下に寝そべり、あのシャンゼリゼの最後の瞬間に自分とクローヴィスの速度を緩め、命を救ったものが何だったのかを考えている。

それが何であれ、自分自身に属するものであればいいと、マーキュリーは夢想する。

そうであったらいいのにと、マーキュリーは願う。

死を賭したゲームによって贖われたオーガニック・カクテルを舐めながら、クローヴィスの大腿筋を思い浮かべる。

『紫外線がもうすぐ規定量だ。そろそろ引き上げろ』

耳の中からキュベレの指示が聞こえる。

「了解」

カクテルを放り投げ、輝くグラスと液体がそれぞれの放物線を描くのを眺める。








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夏の夕暮れ、タナトスの子どもたち 尾崎滋流(おざきしぐる) @shiguruo

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