どうしたものか。
これから書く内容がレビューであるのかどうかは正直分からないが、でも書かなくてはならない衝動を覚えた。
端的に語るのなら、こうだ。
「考えなくてもいいことに悩まされる」というタイトルに、「わざわざ読む価値は恐らくありません。」という説明文を見て、
それに焚きつけられてしまう、むしろだからこそ開いてしまうような、ちょっと心をどこかで捻った人向けの文章達と言うことだ。
ペシミズムと、シニカルと、人生における「そもそも論」の話。
刺さる人には猛烈に刺さるし、そうでない人は飛ばす。
そういった話だ。
多くの方に向けたレビューは以上であり、以降は冗長な話になるだろう。
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本文中で少しだけ出ていたカート・ヴォネガットは、著作「国のない男」でこんなことを書いている。
【人は長生きをすると、近しい人が次々に死んでいくものだ。
わたしはもう、ろくなジョークを考えられないようになってしまったのかもしれない】
「スローターハウス5」をはじめ、ユーモアと皮肉があって、悲壮を割かしあっさり、さっぱりと表現した彼もペシミズムに悩まされたし、マーク・トウェインも度重なる不幸の末に悲観に陥った。
「生きているだけで丸儲け」と「どうあがいても絶望」は両立する。
特別なことなんて必要ない。ただ、見方を変えるだけでいい。
例えば、銃を突きつけられた状態で、どんな贅沢な食材を食べてもろくに味なんてしないだろう。何をするにしても、それが「最期の行動」になるならとても楽しめないだろう。
何かを経験したり、知識を蓄えると、見えなくていいものまで見えてしまうことがある。そのうちの一つに銃があるというだけの話。
病気だから幻覚を見ているのではない。
むしろ、現実の光景をはっきり見すぎてしまっているのだ。観光名所に散らばるゴミまでもくっきり見えてしまうかのように。
一旦、そのような状態になってしまったら、もうダメなのだ。
身構えている時には、それは既に終わってしまっている。
「いつもただ押されて動かされているだけ」という感覚が消えてくれない。
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どこかの契機でぶっちゃけようと思っていた気持ちが、目の前に(それもより綺麗に整列された姿で)あるというのは、何とも不思議だった。
「これは私だけのモノではないんだ」という感覚と「でも私とは(きっと)ピッタリと同じではないのだろう」という感覚が同時に走った。
前者だけでよかったのに、後者も浮かぶのは、心をどこかで捻っているからだ。
捻った心に深々と刺さったので、「夜と霧」で有名なV・E・フランクルから以下の言葉を贈りたいと思う。
あたかも、あなたは今二度目の人生を生きていて、一度目は、今まさに自分がしようとしているようにすべて間違ったことをしたかのように生きよ。