第40話

 守りたいものを守れない痛みは巨大だ。

 大昔、わたしは外で拾った猫を連れ帰ろうとしたことがある。元々はれもんが拾い、公園の土管の中で抱きしめていた物だったのだけれど、わたしはその愛らしさに貫かれて自分の物にしたくて仕方がなくなった。

 けれどそれは適わなかった。厳しい母がいた。母はわたしから猫を取り上げるだけでなく、それを保健所のガス室に送り込んで殺してしまった。わたしの庇護したかったものは、手に入れたかったものは血反吐を吐きながら苦しみ抜いて死んでいった。

 あの出来事からわたしが何を学んだのか?

 何故わたしがあんな目にあったのか?

 それはわたしが子供で、力が足りていなかったからだ。自分の意思で猫を飼う力も母とまともに対決する力もなかったからだ。

 無力な人間は大切な物を奪われる。

 それは冷徹な摂理であると同時に正しい倫理でもあるのだ。力がないということは、責任を持てないということでもある。何かを守る力のない人間は、何かを支配して庇護する権利を持ってはならない。それは両者の為になる。母はそういうことをわたしに教えたのではないか?

 タイル張りの部屋の外に出る時に、わたしはふと、そんなことを思いだしていた。

 「終わりました」

 そう言って、わたしは亀太郎たちの前に立ち、血まみれの鉄串を掲げて見せる。

 ダイニングルームのテーブルに三人の黒ムツが腰かけている。牛糞は煙草をくゆらせ、黒鈴は退屈そうに頬杖を付き、亀太郎は両拳を膝の上にのせて姿勢よくこちらを見詰めている。テーブルの上には先ほど姫島達に向けて火を吹いた拳銃が置いてあった。

 「本当ですか?」亀太郎の目が輝く。

 「嘘じゃねぇだろうな?」牛糞は眉を顰める。「妹を殺すなんて生半可なことじゃない。何か企んでねぇか?」

 「そんなことないですよ。ほら、この血を見てください」

 そう言ってわたしは牛糞に鉄串を手渡す。

 牛糞は眉を顰めつつもそれを受け取った。目を凝らし、赤い血の付いた鉄串に目を凝らす。

 少なくとも片手がふさがって意識が目の前の鉄串に取られた形だ。わたしは服の中に隠しておいたタガーナイフを抜き放つと、勢いよく牛糞の首へと突き出した。

 差し出された腕にガードされる。

 大した強さではなかったとはいえ中学時代に空手をやっていただけのことはある。だが牛糞の右腕には深々とナイフが刺さった。牛糞は腕に突き立ったナイフを見て呆然とする。仕留められなかった、だがナイフを引き抜く暇はない。わたしは咄嗟に自分の額を牛糞の鼻っ面に叩き付ける。

 「ぐあっ!」

 鼻血が飛び散り、椅子ごと牛糞が床に転げ落ちる。わたしは牛糞が座っていた椅子を持ち上げると、勢い良く牛糞の頭上に振り下ろそうとした。

 「やめなさいよっ!」

 そう言って、横から突っ込んでくる華奢な肉体がある。黒鈴だ。わたしは椅子を放り出すと自分より十センチ以上背の低い黒鈴をあっけなく振り払い、尻餅を着く黒鈴の顔面に激しいローキックを浴びせかける。

 「きゃあっ」

 これでも腕っぷしは強い方だ。背だって百六十三センチあるし体力テストの成績も上位で、小学生の頃は喧嘩でクラスの覇権を握ってたこともある。ナード丸出しの黒鈴などは最初から物の数にも入れていない。こんな奴は同じ教室にいたら思うがままに蹂躙してわたしに諂わせてるようなタイプの人間だ。

 「てめぇ……!」

 妹が顔を覆って動けなくなったのを見て、腕にナイフが刺さったままの牛糞がわたしの方へ駆けて来た。しかし鼻が曲がって利き腕が使用不可能の状況でどこまで相手になるというのか。

 わたしは牛糞が左腕を伸ばして来るのを身体を捻って回避する。ナイフが刺さっていて動きがものすごく鈍い。わたしは懐から二本目のナイフを取り出して牛糞に振りかざした。

 銃声。

 わたしは腰のあたりに焼けるような痛みを覚えてその場に蹲る。鉛弾が肉や骨を破壊しながら己の肉体に食い込む感覚は予想をはるかに上回る激痛だった。その場で泣き叫びたくなる。

 「……ここへ来てちゃんばらを試みましたか」

 見れば亀太郎が拳銃をこちらに向けて、感情の無い瞳で私を見下ろしている。

 「わたしを選んでくれたんじゃないんですか? ……騙したんですか? 騙して不意打ちで私の友達を殺そうとしましたか。……裏切った、裏切ったんですね、あなたは」

 「……そう、ですよ」わたしは息も絶え絶えに言う。「そして、わたしの勝ちです」

 タイル張りの部屋の扉が開いて中かられもんが顔を出す。わたしが縄を解いてやったのだ。そしてわたしの方を見て一瞬躊躇したような表情を浮かべる。

 「行って! 逃げて!」わたしは激痛の中で声を振り絞った。「あんたが残ったってどうにもなりはしないんだ! 躊躇するな! 立ち止まるなうすのろ! あんたが逃げりゃあわたしの勝ちなんだよ! 逃げろ!」

 「待ってくださいよぅ」そう言って、亀太郎はれもんの方に拳銃を向ける。「逃げたらその背中を撃ちます。動かないで」

 「弾なんて入ってない!」わたしは叫ぶ。「今ので最後だ! ハッタリだ! 弾があるならもう既に撃ってる!」

 わたしは歓喜の入り混じる声で言った。予想通りだ。拳銃にはあまり詳しくないが、多くの場合、一度に込められる弾の数が六発だと言うことは知っている。補充用の弾はないと漏らしていたから、姫島に四発、晶子に一発、わたしに一発で、ちょうど魂切れを起こしている可能性があった。

 「逃げろよ!」わたしはなかなか走り出さないれもんに向けて叫ぶ。「分かった! じゃあせめて助けを呼んで来て! それがわたしを救える確率が一番高い行動って分かるでしょ? 速く!」

 そう言うと、れもんは深い葛藤を飲み込むようにして、逃げ出した。

 「待って!」

 亀太郎がその背中を追おうと走り出すが、わたしは腰から血を流しながら決死の覚悟で底に飛びつく。

 血まみれの状態で亀太郎と一緒に床に転がる。

 亀太郎の身体はほっそりとしていて華奢で、その肌は信じられないくらいすべらかだった。白い、綺麗な顔がわたしの下敷きになった体からこちらを覗き込んでいる。その表情には、怒りや焦りというよりは真っ黒な悲しみと無念が滲んでいた。

 「……妹さんの方が大切だったんですね」亀太郎は憂うようにそう言った。「信じた気持ちが裏切られるのは、いつだってつらいことです」

 「…………あなたが勝手に信じたんですよ」わたしは言った。「わたしはあなたのものじゃない。あなたの思うがままにならない。心はいつだってわたしのもの。れもんを殺したりなんかするもんか」

 玄関の扉が開き、激しい音を立てて閉じるのが分かった。わたしの全身を安堵が包む。

 れもんは逃げ切った。わたしはれもんを守り切ったのだ。そう思うと歓喜が心の奥からこみ上げて、わたしは哄笑をあげた。

 あの時とは違うのだ。愛したかった、自分の物にしたかった猫を母親に殺されたあの時とは。亀太郎という世界中の誰よりも恐ろしい悪魔から、わたしはもっとも庇護したかった妹を守り抜いた。そう思うと胸が空くような思いがした。もう何年も、ずっと心の中に燻っていたつっかえが取れて、わたしは痛みによるものではない涙を流した。

 「おい亀太郎……」腕にナイフが刺さってよたよたとしながら牛糞が言う。「まずいんじゃねぇのか? これ」

 「はい。まずいです。警察を呼ばれるとわたし達は全員逮捕されます」亀太郎はにっこりと笑った。「海外に高跳びをしましょう。付いて来てくれますよね、牛糞さん、黒鈴さん」

 そう言って亀太郎は身を捩ってわたしの拘束から逃れる。そして黒鈴の方へと向かい、軽く鼻血塗れの顔を覗き込むと、「大丈夫そうですね」と呟いてから。

 「この鉄串に付いた血は……猫のものですね」

 そう言って、床に落ちていた鉄串を拾い上げた。

 「あの部屋には殺す為の猫がストックしてありました。その血を使ったのでしょう。つい信じてしまいました。ナイフもあの部屋に置いてあった猫を殺す為の道具を持ち出したものですね」

 「だから、二人だけにするのはまずいと言っただろうが」牛糞が言う。「逃げられちまっただろうが」

 「……かに玉ちゃんがわたしのものにならないのなら、同じことです」亀太郎は息を吐き出した。「わたしにとって、信じた気持ちを裏切られるくらいなら死んでしまう方がまだマシです。だからかに玉ちゃんの言う通りにしてあげました。そして裏切られました。悲しいです。悲しくて悲しくて」

 「あんたはそれで良いのかもしれないけどね」鼻血を拭いながら、黒鈴がよたよたと立ち上がる。「いったいわよ。本当にいったい」

 「ちゃんと治療してあげるから大丈夫です。お二人はわたしを信じて付いて来てください。あなた達のことは信用しますし愛しています。どこまでも一緒にいてください。願い事は何だって叶えます」

 そう言って、亀太郎は床をのたうち回るわたしの前に膝を降ろす。

 「さて……あなたをどうしましょうか」

 わたしは内臓を潰された芋虫のようにのたうちながら、亀太郎の言葉をおぼろげな意識で聞いていた。

 「自分の物にならないのものは、壊してしまうのが一番簡単です。……あなたが猫ちゃん達に対してやって来たように。あなたが黒ムツになった動機は結局そこです。幼い頃手に入れられなかった猫を、ならばと破壊することで溜飲を下げていた。そうすることで叶わない現実に折り合いを付けていた。それはご両親からのプレッシャーや妹さんへの劣等感からをも、あなたを一時的に救い得たのでしょうね」

 そう言って、亀太郎はわたしの頬に手を触れる。

 「そして今度はあなたが壊される番という訳です。わたしは気に入ったものなら何でも欲しいですし、大切なお友達には全身全霊でわたしに寄り添って欲しくなります。逆に言えば、そこまでしてくれないのであれば、そんな人はいらないし粉々に壊れてしまえば良いと思っているということでもあります。あなたに対してそうすることはあまりにも簡単……ですが」

 亀太郎は、そこでぞっとするような冷たい微笑みを頬に刻み込む。

 「……惜しいんですよね。ただ殺してしまうのは。そうだ。あなたを高跳び先に連れて行きましょう。檻の中に入れて何年でも何十年でも飼ってあげます。知っていますか? 人を含めて、全ての生き物は絶対に逆らえない存在と長く一緒にいると、その相手を憎むよりも愛することで心を守ろうとするんです。そちらの方が生存に都合が良いから。憎んで敵対するより愛して諂う方が利益だから」

 そして、亀太郎は血まみれのわたしを強く抱きしめる。

 「動物のように扱われることに対して、最初あなたは怒りと覚えてわたしを強く憎むでしょう。しかし、その憎しみすら飲み込んでしまえる程深い優しさで、わたしはあなたを包み込みます。決して檻から出しはしませんし、人として扱いはしません。それでも年月が経つ内に、賢いあなたは状況に適応して、優しいわたしを愛するようになるでしょう。従属し、支配されることに安心し、可愛らしく尻尾を振ってわたしに媚びを売るのです。なんと素敵なことなんでしょうか」

 そう言って、亀太郎はその場を立ち上がり、しばらくして両手に様々な器具を持って戻って来た。

 「止血をしてあげます。暴れないように、麻酔も打っておきましょう。大きな荷物になりますが、まあそれなりの価値はありますよ。コレクションは何度でも集め直せますけど、あなたはそうは行きませんからね」

 遠のいて行く。意識がほどけてかき消えて行く。

 死ぬよりつらい運命がこれからわたしには待っている。悪鬼を悪鬼とも思わず信頼し、外道に脚を踏み入れたそれは報いだ。わたしはわたしでなくなって、絶望の中でのたうち続けて生きるのだ。

 それでもわたしは良い気分だった。人としてのわたしは死ぬ。けれど、わたしが生かしたれもんは生きている、生きているのだ。それだけは亀太郎にも今更どうにもできない。

 勝ったのはわたしだ。わたしなのだ。

 微笑んでいようと思った。太々しくて憎たらしくて、見ていると苛々してくるような、そんな笑みを浮かべていようと思った。そうしていればわたしは支配されない。他のことをどんなに思うがままにされたとしても、心まで支配されることはない。

 そうなのだ。わたしは思った。どれだけ深く傷付けようと、壊そうと、それで手に入るのは身体だけで、心まで手にすることは誰にもできない。わたしが今まで殺して来た猫たちも、きっとそうだったのだ。

 「嫌な表情ですね」

 亀太郎の声が耳朶を打つ。

 「気に入らないです」

 ざまあみろ。わたしは麻酔の効き始めた身体で力いっぱい舌を出した。

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キャットキラー 粘膜王女三世 @nennmakuouzyo

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