第4話

 タロウはグロウズマウルの捕虜となり、平野にある作戦基地に連行された。それは愚者の砦の攻略の為に建てられたであろう即席の建物であり、中には耳の長いエルフの軍人たちが長靴を鳴らしながら闊歩していた。

 基地には地下牢がありタロウはその中へと押し込められた。その扱いは乱暴であり、スパイとして危険な諜報活動を潜り抜けた同胞への対応とは思えなかった。早く味方であることを理解してもらい、その働きをグロウズマウル軍に、そしてマリアに認めてもらいたかった。

 牢にはタロウの他にも無数の捕虜が収容されていた。あちこちに魔法による手傷を負い、血と汗の臭いに塗れ冷たい牢の床にひしめくエスキナ人達はむさくるしかった。タロウは宿舎の大部屋の様子を思い出し不快に感じた。一刻も早くここを出たかったし、また自分はこんなところにいるべき人間ではないと繰り返し思った。

「タロウ。おまえ、裏切ってたんだな」

 声に振り返るとレオがいた。どうやら先程の戦いを生き残り捕虜となったらしかった。とめどなく出血する脚が痛いらしく両腕で抱き締めるように庇っている。精悍な顔はタロウへの憎しみに苦々しく歪んでいた。

「だから何なのだ? 牢の中で昔みたいにおいらをリンチしようったってそうはいかないのだ。負傷したおまえらと違っておいらはぴんぴんしているし、魔法だって使えるから返り討ちに違いないのだ。だからみんな、おいらが憎くても手出しできないんだよね?」

「何故エスキナを裏切った?」

「何故って復讐なのだ。おいらを虐げて毎日ボコボコにした教官や、命を奪おうとしたおまえらのことが許せなかったのだ。グロウズマウルに離反しエスキナを陥れることで、おいらはおいらの苦痛と恥辱に塗れた青春時代に復讐を果たしたのだ。ざまあみろのだ」

「くだらねぇ。そんなガキの頃のことまだ言ってんのかよ」

 タロウは思わず眉を潜めた。十八歳のタロウにとって、七歳から十四歳までの七年間は過去ではなかった。あの苦しみに満ちた日々を思い出さぬ日は一日としてなかった。

「やった方は忘れても、やられた方は……」

「自分だけが被害者だと思うなよ? 教官にボコボコにされたのも命の危険があったのもおまえ一人じゃない。エスキナが憎いのだっておまえ一人じゃない。誰だってこの国はクソだと思いながら、それでも生きていく為に必死で訓練に耐えていたんだよ。そうやって一人前の大人として認められれば、少しでもマシな人生があると信じてな」

「それじゃエスキナの思う壺なのだ。どうしてエスキナに復讐しようと思わなかったのだ?」

「偉そうにするんじゃねぇ。おまえが復讐を掲げられたのも、グロウズマウルの誰かに拾われた結果だろ? それはおまえの力じゃないし、意思でもない」

 そう言われタロウは絶句した。タロウはレオのことを見下していたが、それでもこの言葉に的確に反論するのは不可能のように感じられた。

「つうか復讐なんて別にしたくねぇよ。俺はもう一人前の戦士であの苦しい宿舎生活も終わったし、贅沢もできるし家族だって持てる。憎しみに囚われて何人もの仲間を焼き殺したおまえと違って、俺達は現実の中で少しでもマシに生きようと歯を食いしばって、自分達なりの幸福を追い求めていたんだよ」

「でもそれじゃエスキナは何も変えられないのだ!」

「変えられるね。時間はかかるけどな。俺達下っ端だって長老世代になれば少しくらい政治に口を出せるようになる。近衛師団から将校になったおまえは猶更だ。それが正攻法って奴じゃないのか? エスキナを変えようとせずに、みじめな復讐心で滅ぼそうとしたのはおまえの方だろ!」

 レオは声を荒げ、血まみれの両手でタロウに掴み掛った。

「おまえ、元帥になってエスキナ軍を変えるんだと司書のおっさんに言ったそうだな? 何故そうしなかった? あのおっさんはおまえを推薦したことで首を跳ねられるんだぞ! おまえなんかにあれだけ良くしてくれた人がよぉ!」

 ぎりぎりと首を絞められる。魔法を使えばどうとでも撥ね退けられるはずだったが、あまりの権幕でそれが出来なかった。レオの精悍な瞳にはタロウへの怒りと侮蔑が強く滲んでいた。

「おまえはエスキナから多くのものを受け取ったはずだぞ? 俺達のことだって十分に見返したし、将校用の酒も女も住む家も思うがままだ。出世して神官にでもなればエスキナだって変えられたかもしれない。それを投げ打ってまでやることが子供時代のちんけな復讐だ? 本当にくだらない奴だなおまえは! 分かっているか? 大昔俺がおまえをいじめていたのは、弱くて足を引っ張るからじゃない。現実を見ずに国と人を憎んでばかりいる、その腐った根性が気に食わなかったからだよ!」

 吠えたレオはタロウを床に叩き付け、それから息を切らしたように蹲った。

 鈍い痛みが走った。肉体的な痛みよりも、これまで見下して来たレオに精神的に打ちのめされた衝撃の方が大きかった。レオ如きに自分がまともに反論できなかったことが信じられなかった。

 自分の心の中が微かにひび割れ、光り輝いていた目の前の道に薄っすらとした靄がかかるのを、タロウは感じていた。この先グロウズマウルで生きることが出来たとしても、その靄は振り払うことが出来ずにタロウを苛み続けるに違いなかった。




 長い時間が経ったが、タロウが牢から出されることはなかった。

 タロウは焦りを感じていた。考えてみれば勤めを果たしたタロウは既に用済みでもあった。このまま他のエスキナ人と共に処刑されるのかもしれなかった。捕虜を処刑するのに、一人一人スパイでないかどうかを丁寧に判別するだけの時間を惜しむというのは、冷酷な軍隊では十分にありうることだ。

 大きな不安の中で、タロウが絶叫しそうになっていた頃だった。

 牢の中に一本の鍵束が投げ込まれてタロウの目の前に落ちた。金属で出来たそれは、持ち上げると見た目以上に重たくずっしりとした感触があった。

 思わず顔を上げると牢の外側にマリアが立っていた。三年の時を経たがその美貌はタロウの知る当時の姿から何ら相違ないものだった。エルフは歳を取るのが遅いと言われており、外見的な年齢だけなら十八歳になったタロウが追い付きつつある程だった。

「マリアさん!」

 タロウは狂喜した。最大の理解者であり味方であるマリアが自分を確認したからには、最早タロウの生命は保証されたも同然だった。鍵束を持ってマリアの近くまでにじり寄ると、牢の格子から手を伸ばしてマリアに触れようとした。

「ずっと会いたかったのだ。ここからはもう出て良いのだ?」

「いいえ。少し待ってください。せめてわたしが立ち去るまでは」

「なんで?」

「ヘレナはあなたを殺そうとしています。この基地の最高責任者であるあの人がそう決定しました。逃げてください。この廊下を右側に進み階段を上れば出口はすぐです」

 ヘレナはマリアの上官でありグロウズマウルの高級将校だった。タロウも何度か会ったことがあった。威厳を讃えた一筋縄でいかない人物だったが、タロウには期待して目を掛けてくれていた。諜報活動が上手く行っていることも知っているはずだった。

「ちょ、ちょっとどういうことなのだ? おいらはグロウズマウルに忠誠を誓ってスパイとして多くの成果を……」

「あなたは一度裏切りました」

「グロウズマウルを裏切ったことなど一度もないのだ!」

「あなたが裏切ったのはエスキナです。どういう理由であれ自分の国を一度でも裏切った人間は、別の国でもまた同じことをします。あなたをグロウズマウル国民に加えることはできません。用済みだから処刑されるのです。だから早く逃げて」

「おかしいのだ! 裏切るように言ったのはそっちのはずなのに、一度裏切ったから信じられないなんて意味が分からないのだ!」

 タロウは思わず吠えてから、冷静になって大きく息を吐きだした。マリアは軍の決定についてタロウに淡々と事実を伝えているだけであって、彼女に文句を言ったところで何ら意味はなかった。

「怒鳴ってごめんなのだ」

「いいえ。無理のないことです」

「マリアさんはおいらを逃がそうとしてくれてるんだよね?」

「そうです。ただしわたしが逃がしたことは知られないように、牢の中の人達には忘却の魔法をかけておいてください」

「分かったのだ。それとマリアさん、だったらおいらと一緒に逃げるのだ」

「どうして?」

「何故っておいら達は愛し合っているはずなのだ。グロウズマウルの国民になれないのは悲しいけれど、マリアさんと一緒にいられるならそれで良いのだ。くだらない戦争から逃げ出して、どこか平和なところで一緒に暮らすのだ」

 タロウは満面の笑みを浮かべた。それは幸福な逃避行であるように思われた。グロウズマウルに裏切られた衝撃は心を強く打ちのめしたが、マリアが手に入るならタロウは何でも良かった。

 しかしマリアは首を横に振った。

「……できません」

「なんでっ? おいら達愛し合っているはずなのだ?」

「わたしにも国に未練があります」

「こんなにも多く尽くしたおいらを処刑するような国に? また一緒に暮らそうって誓い合ったはずなのだ! そのおいらを放り出してまでどうしてこんな国を選ぶのだ?」

「分かってください」

「分からないのだ! おいらマリアさんと一緒じゃなきゃ嫌なのだ! マリアさんに捨てられるくらいならこのままここで処刑されてやるのだ!」

 本気で言っていた。それを態度で示す為にタロウは鍵をマリアに投げ返した。

 タロウは混乱していた。自分が何よりもマリアを愛しているようにマリアも自分を愛しているはずだった。ならば国を捨てるくらい何でもないはずだった。それなのにマリアは国と軍に固執してタロウを放り出そうとしていた。何もかもを失ったタロウをたった一人で。

「おかしいのだ! マリアさんはおいらを愛しているはずなのだ! おいらの為なら国だって捨てて良いはずなのだ! その愛を信じていたからおいらはエスキナを裏切って何人もの仲間を血祭りに……」

「……わたしがあなたを愛したことなど一度もありません」

 マリアは宝石のような赤い瞳でタロウを見竦めた。

「あなたをスパイに仕立て上げるのに有利だから、そのように振舞っていただけです。身体を許したのもその方が手っ取り早かったからです。女も愛も知らない薄汚れた子供であるあなたをたぶらかすのは簡単でした」

 タロウは絶句していた。床が崩れ去り天井が落ちて来るような衝撃を覚える。限りない暗闇の底に落ち続けるようだった。その闇に終わりはなくタロウはどこまでも深い絶望に打ちのめされ続けていた。

「わたしはグロウズマウルの軍人です。スパイを一人仕立て上げるのにそのくらいのことはするのです。あなたは本当に良く働いてくれましたが、それだけです」

「そんな……マリアさん、そんな……」

「しかし情がない訳ではありません。用済みになったからと言って命まで取りたい訳ではない。一人で逃げてください。わたしの気が変わらない内に、早く」

 マリアは改めて鍵束を放り投げると、タロウから目を反らして立ち去って行った。

 タロウは深い絶望の中で座り込んでいた。




 打ちひしがれていたタロウだったが、やがてマリアに渡された鍵束を手に取ると、地下牢の鍵を開け格子の外に出た。

 しかしタロウは基地からの脱出を図ることをしなかった。マリアに言われたのとは逆方向に基地内部を探索し、エルフの軍人を発見するとたちまち襲い掛かった。

「貴様捕虜の人間だな! どうやって牢を出た!」

 エルフは魔法を放とうとしたが詠唱速度はタロウの方が遥かに早かった。タロウの放った風の刃に膝を大きく切り裂かれたエルフは、苦悶の表情を浮かべてその場に座り込んだ。

「おいおまえ。マリアさんがどこにいるか教えるのだ。でないとおまえの首と動体は泣き別れなのだ」

 訝しむエルフだったが、タロウが口元で次なる魔法の詠唱を開始したのを見て白状した。

「へ、ヘレナ様のお部屋にいる。捕虜を逃がそうとした疑いを掛けられ、呼び出されたところだ」

「へぇ。……じゃ、助けに行かないとダメなのだ。」

 タロウはエルフからヘレナの部屋の場所を聞き出した後、杖を奪って歩き始めた。杖なしでも魔法を使うこと自体に支障はなく、実際エスキナではそうして来たが、それは例えるなら箸を使わずに食事をするようなもので、勝手と心地が悪いものだった。

 ヘレナの部屋は一階の最奥にあった。道中で何人かのエルフに遭遇したが、その一人一人をタロウは打ち倒して行った。模擬戦以外で魔法使いと対峙するのは初めてだったが、しかしタロウの魔術は並外れており、雑兵では相手にならない程だった。

 たちまち部屋の前まで辿り着いたタロウは無遠慮に開け放った。

「おやおや。外が随分と騒がしいと思ったら、君の仕業だったのか」

 ヘレナは泰然とした表情でタロウを待ち受けていた。豪奢な椅子に腰かけ、手にした杖の先端をもう片方の手に絶えず叩き付けるその様子は、状況を面白がっているようだった。同時にその表情には一寸の油断も感じ取れず、タロウを見竦める蒼い瞳の揺るぎなさは、これまでに出会った敵味方含めた全ての軍人の中で一番だった。

 傍らにはマリアが立っていた。マリアはタロウが現れたのを認めると、嘆きと落胆の滲んだ表情で大きく肩を落とした。

「ああタロウさん。どうして来てしまったのですか」

 責めるかのような口調だったがそれも無理もなかった。危険を冒してまで逃がそうとしてやったタロウが、事態をややこしくしにやって来たのだ。軍人としてのマリアの地位は絶体絶命だった。

「マリアさん。迎えに来たのだ。おいらと共にこの基地から逃げるのだ」

「一人で逃げてと言ったはずです」

「嫌なのだ。おいらマリアさんがいないとダメなのだ。この基地の人間を皆殺しにしてでも絶対に連れて行くのだ」

「……愚かな人」

 マリアは天を仰いだ。頭に手を当てて首を横に振る様子からは、心底タロウに呆れているのが伝わって来た。

 そのやり取りを見たヘレナは嗜虐的な笑みをマリアの方に向けた。

「語るに落ちたようだね、マリア。やはり君はこの捕虜を逃がそうとしていたんだ」

「申し訳ございませんヘレナ様」

「薄汚れた子犬を躾けてる内に情を移したといったところかな? 軍法会議に掛ければ不名誉除隊は免れないだろうね。君は優秀な部下だったから残念でならない。だがそれよりも」

 ヘレナは立ち上がりタロウに向けて杖を掲げた。

「この愚かな捕虜を処分しなければ」

「待つのだ。おいら捕虜じゃないのだ。マリアさんに教育されたグロウズマウルのスパイなのだ。作戦が成功したら仲間にしてくれるって言ったのに、なんで約束を破るのだ?」

「まだそんなことを言っているのかい? 高貴なエルフたる我々が、君のような人間を仲間と認める訳がないだろう」

「でもおいら魔法を覚えたのだ。強いのだ。何人もエルフを倒してこの部屋に来たのだ。きっとあんたらの役に立って見せるのだ」

「雑兵をいくら倒したところで威張られても困るんだよ。役に立つというのなら、私に手傷の一つでも負わせてみなよ。できるものならね。そうしたら、仲間に入れてやらないでもない」

「マリアさん、危ないからこっちに来てるのだっ!」

 言われたとおりにマリアはタロウの背後に回った。ヘレナはそれを咎めることもせず、微動だしないまま泰然とした余裕を見せ付け、タロウの出方を伺った。

 タロウは杖を掲げて渾身の詠唱を始めた。目には見えずとも大気中に確かに存在する精霊達が、タロウの呼びかけに答え集まって来るのが感じられた。今やタロウはその動きを自在に操ることが出来た。

 精霊達はタロウの魂を構成する魔力を貪り空中に火球を形成した。最初は拳程度だったそれは魔力を注ぎ込む度にみるみる内に巨大化し、やがて部屋の面積のおよそ半分を埋め尽くす程になった。未だ放たれていない火球の熱は室内の空気を陽炎のように歪めていた。

「おいらをグロウズマウルの魔導士にするのだっ。マリアさんをおいらに寄越すのだぁあああっ!」

 血走った目でタロウは叫んだ。それに呼応するようにして放たれた火球が、表情に余裕を浮かべるヘレナの全身に襲い掛かった。

 部屋中が燃え上がり大きな爆発音を響かせた。爆ぜるような熱風に晒された壁は粉々に吹き飛び、家具や調度品の類は燃え上がり消し炭になった。熱と炎による破壊は二つ隣の部屋にまで波及し基地の建物は大きく損壊した。

 吹き上がる煙の中でタロウは息を切らせて膝をついていた。全身全霊を掛けた最大の魔法はタロウを大きく消耗させていた。これほどの一撃を受ければ、どんな高位の術者も一たまりもないはずだった。

 それなのに。

「へぇ。これはなかなかどうして、ちょっとしたものだと言えそうだね」

 崩壊して外の平野の景色を覗かせる壁を背にして、ヘレナは立っていた。半透明の球形の結界がヘレナの全身を覆っている。あらゆる魔術による攻撃を遮断する最高位の結界魔法が、タロウの一撃を防御したらしかった。

 タロウは驚愕していた。流石に無傷とはいかず結界はあちこちひび割れて崩れかけており、部分的に破損した箇所から流れ込んだ熱と炎がヘレナのローブを微かに焦がしていた。

「少しばかり火傷したよ。手傷を与えたとは言える。お見事だったね。人間にしておくのは惜しいくらいだ」

「そ、そう思うのなら、約束通りおいらをグロウズマウルの仲間に入れ……」

「無理だ。軍人は誰との約束も守らない。君は初めから、そのことを知っておくべきだった」

 ヘレナが杖を鋭く振ると氷の槍が放たれてタロウを襲った。美しい程に透き通るそれはどんな彫刻品よりも鋭く尖り抜いており、タロウの扱うどの魔術より素早く己が身に到達した。

 大技を放って消耗していたタロウは回避は愚か碌に身動きすることも出来なかった。迎撃する手段もない。タロウは最早、ヘレナの放つ氷の槍に刺し貫かれるしかなかった。

「危ないタロウさん!」

 近くにいたマリアが叫んだ。そして反射的な動きで前に出てタロウの身体を突き飛ばす。

 鮮血のほとばしる音がする。

 床に倒れていたタロウにその血が降りかかった。思わず振り返ると胸を貫かれたマリアが血塗れで横たわっている。血に濡れた澄んだ氷の槍はマリアの胸を貫通し、杭のように床に突き立っていた。

「マリアさん! マリアさん、マリアさんっ」

 思わずにじり寄ろうとするタロウにヘレナは容赦なく氷の槍を放った。思わず身を翻して間一髪で回避すると、ヘレナの方を血走った目で睨んだ。

「ヘレナ……貴様ぁっ!」

「おやおや。今度はちゃんと避けたようだね」

 睨まれたヘレナの表情は涼し気であり、部下を手に掛けたことに対する痛痒など感じさせなかった。頬に笑みを浮かべたままさらに杖を振り、今度は二本の槍を同時にタロウに放った。

 それらを回避してからタロウは力の限り叫んだ。

「おいらを襲ってる場合じゃないのだ! この人に治癒魔法を撃たせるのだ!」

「どうしてそんなことをしなければならないのかな?」

「あんたの部下でもあるのだ! おいらはどうなっても良いから助けるのだ!」

「何の得もない。そいつは君という捕虜を逃がそうとした背徳者に過ぎない。進んで首を跳ねる程悪趣味ではないが、わざわざ手間を割いて回復する価値はどこにもないさ」

 次々と襲い掛かる氷の槍をタロウは素早い身のこなしで躱して行った。苦労の限りを尽くしたエスキナの肉体的な訓練が、タロウにそれを可能にさせていた。

「そいつを助けたいのなら私を倒して見せることだ。残された僅かな命が失われるまでの間にね」

 タロウはマリアの方を見た。完全に命が失われるまでは全力の治癒魔法でどうとでも蘇生できるが、死者の魂を蘇生する魔法はこの世のどこにも存在しておらず、胸を貫かれているマリアに残された猶予は幾ばくもなかった。

 彼女を助けるには無茶をするしかない。

「死なせてあげるよ。愚かなそいつと一緒にね」

 ヘレナは続け様に杖を振るって氷の槍と風の刃の波状攻撃を放った。限界を超えたスピードで詠唱すれば火球を使って氷の槍を打ち消すことは可能だったが、そうすると風の刃が身体を切り裂くはずだった。全力で避ければ両方を回避することも出来るが、その先にタロウの勝機があるとは思えなかった。

 タロウは口元で素早く詠唱し火球を放ちながら、体半分だけ身を反らし、ヘレナに向けて襲い掛かった。

 それは愚かな突進と言えた。目論見通り火球は氷の槍に衝突し蒸発させたが、しかし風の刃は容赦なくタロウに浴びせられる。

 タロウの左腕を風の刃が貫通する。ほくそ笑んだヘレナの頭上に、構わず突っ込んだタロウの杖が力強く振り下ろされた。

 ……ギリギリまで引き付けて躱す、なんて甘いことではヘレナは倒せない。仮に半身を切り落とされてでも、残る半身で相手を滅する覚悟こそが、この状況では求められていた。

 エスキナの軍事訓練で培われた棍棒術は、どんな屈強な大男でも一撃で昏倒させる威力を持っていた。頭に杖を叩き付けられたヘレナがその場で倒れ伏すのと同時に、切り裂かれたタロウの左腕が鮮血をまき散らしながらあたりに転がった。

「マリアさん!」

 気絶したヘレナにも切り離された左腕にも目もくれず、タロウはマリアの方に走り寄った。

 氷の杭で床に貼り付けにされたマリアは人形のように静謐だった。長いまつ毛を讃えた瞼は閉じられており、投げ出された細い手足はいつにも増して青白く、その全体が血液に塗れていた。

「今助けるのだ! 待っているのだ!」

 タロウは杖を掲げてマリアに治癒魔法をかけ続けた。しかしマリアの身体の傷はほんの僅かにも回復することなく、無慈悲にもその場に横たわり続けていた。

 本当は分かっていた。レオに刺されたタロウが蘇生した際は急所は避けていたが、あの時とは違いマリアを穿つ氷の槍は完全に心臓を破壊している。ヘレナとの戦いの中でマリアの命はみるみる失われ、今では完全に死亡して蘇生も不可能になっていた。

「マリアさん、マリアさん……。うわぁああああ!」

 最愛の人の亡骸を抱き締めたタロウの慟哭が、いつまでも鳴り響いていた。




 タロウはマリアの亡骸に縋りながら打ちひしがれていた。

 エスキナを裏切りグロウズマウルに裏切られたタロウにとって、マリアは最後の幸福であり、残された希望そのものだった。それを死なせてしまったタロウは、最早何も残されていないと言って良かった。

 切断されたタロウの左腕からは無尽蔵に血液が溢れ出している。このままでは自分も死ぬことは明らかだった。これをそのままにしてマリアと共にここで死ぬか、治療してここを出て放浪するか、最後までタロウは悩み続けた。

 血まみれのマリアの顔を覗き込む。

 死して尚彼女は世界で一番美しかった。タロウにはそう見えた。この美しい女性は自分を愛しても共に生きようとしてもくれなかったが、それでも最後の最後まで生かそうとしてくれた。小汚いエスキナの小鬼であり罪深いタロウを、自分の命を賭してまで。

 この人は単に優しかったのだろうとタロウは今では理解している。自国の為タロウをスパイに仕立て上げつつも、温かく豊かな心を持つあまりタロウに移った情を捨てきれず、逃がし生かそうとするあまり、最後には咄嗟の行動で心臓を貫かれ死んでいった。

 もしあの時、雪の平野で拾ったのが自分ではなく別の小鬼だったとしても、この人は同じことをしたに違いない。タロウはそう確信した。それはある意味でとても残酷な想像だったが、マリアという人を考える時それは疑いの余地もないことに思えた。何の因果か軍人になり、スパイを育てる責務を負ったことが、彼女にとって最大の不幸だったのだ。

 タロウは自分の左腕に治癒魔法を掛けた。それでも腕を再生することはままならず、ただ傷口を塞ぐだけになったがそれで良かった。切り取られ転がった左手の甲にはエスキナ人であることを示す刻印が施されており、それを再び身に纏うのが許されないことを、タロウは理解していた。

 タロウは立ち上がる。マリアの亡骸に別れを告げて、よろめいた足取りで、自分で瓦礫にした壁の隙間から外に出た。

 あの人は自分の為に死んだのだ。自分の所為で死んだのではない。自分の為に、自らの意思で、望んでその身を捧げてくれたのだ。ならばこの命はマリアに与えられた命であり、この身体はマリアが命を捨てでも守ってくれた身体だった。

 生きようと思った。生きなければならないと思った。罪深い全身を引き摺って平野を歩き、放浪の生を送ろうと思った。きっとまともな幸福を掴むことは出来ないし、遠からず世にもみじめな最期を迎えることは分かっていた。それでもタロウは命ある限り生きようと思った。

 杖を突いてあてもなく平野をさ迷っていると、あたりが暗くなりつつあるのに気付く。

 タロウは天を仰いだ。深い曇天が今にも雨を降らそうとしている。湿り気を孕んだ風は冷ややかで、微かに雨粒を纏っているようだった。タロウは分厚い雲の向こう側に傾きつつある太陽を探そうとしたが、見付けることが出来ずに肩を落とした。

 やがて水滴が降り注ぎタロウの全身に打ち付けられる。

 暗い夜がそこまで迫っている。タロウは歩みを止めなかった。水滴に濡れた手で杖を握り直すと、ぼろ靴を泥濘に濡らしながら霧雨の中に消えて行った。

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優しい魔女と拾われた小鬼 粘膜王女三世 @nennmakuouzyo

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