第3話
「お別れですね」
エスキナに送り出される時、マリアは沈痛な面持ちでタロウに告げた。
「また会えるのだ」
「そうですけど」
マリアは目に涙を溜め込んでいた。まるで今生の別れであるかのようだった。確かにスパイ活動には危険が伴うが、それでもタロウに死ぬつもりはなく生きて帰ることを約束してもいた。だからこんな表情をする必要はないと思ったが、それは送り出す者と出される者の違いかと思い受け入れた。
「あの、タロウさん。わたしは最初、スパイにするというそれだけの動機でエスキナの訓練生を選別しました。選ばれたのがあなたでした。しかし同じ家で寝起きし触れ合う内、あなたという人に愛着を覚えるようになったのです。わたしとあなたの関係はスパイとそれを育てた教官ですが、今となっては、わたしがタロウさんのことを心から愛していることもまた事実なんです。……信じますか?」
「信じるのだ。おいらもマリアさんが大好きなのだ」
「お気をつけて」
マリアは目元を覆ってタロウから顔を隠すように背を向けた。タロウもまたマリアから視線を反らしてエスキナの方角を向いた。
「必ず帰るのだ」
それが別れとなった。丸一年を共にした最愛の女性と離れ離れになるのはつらかったが、しかし今のタロウには大義と、そして夢があった。必ずやエスキナを滅ぼし、グロウズマウルの国民になってマリアと共に暮らすのだ。
マリアと別れたのは二人が共に住んでいた家のある平野だった。二日掛けてエスキナに帰り着いたタロウは、最終試験のいわばゴール地点である宿舎へと向かった。
「帰還しましたのだ」
現れたタロウに教官は驚いたような表情を浮かべた。
「貴様が生きて帰るとは思わなかったぞ」
「軟弱者にも意地がありますのだ。これも教官の指導のたまものですのだ」
調子の良いことを言うタロウ。教官は深く頷いた。
「一人でも多くの戦士が帰還するのはめでたいことだ。胸を張ると良い」
教官への挨拶を済ませたタロウは、司書のおっちゃんに顔を見せるべく図書室に向かった。
「ひさしぶりなのだおっちゃん。元気にしてたのだ?」
「おおタロウ! タロウじゃないか!」
司書は瞳に満面の喜びを讃えていた。感動した様子で椅子から立ち上がると、タロウの肩を掴んでそのむさくるしい胸元に抱き寄せた。
「お、おっちゃん。大袈裟なのだ」
「何が大袈裟なものか。良く生き延びたぞタロウ。これでおまえも一人前の戦士だっ」
目に涙を浮かべる司書がタロウには遠く感じられた。名目上タロウはエスキナの戦士となったが、それでも心はグロウズマウルに、より具体的に言えばマリアの傍にあった。そうでなければこの再会もより感動的に覚えたかと思うと、一抹の寂しさが微かに胸を過った。
「おっちゃんにまた会えたのは嬉しいのだ。今日まで生きられたのはおっちゃんの教えがあったからなのだ。ありがとうなのだ。これでもう同輩から殺されるようなことは滅多にないのだ!」
成人したタロウにはある種の人権が備わるようになり、これまで程は命を粗末に扱われることはなくなる。当分の間エスキナで諜報活動に努めるタロウにとって、それはありがたいことだった。
「いいや。生き延びたのはタロウが頑張ったからだ。タロウ、おまえは国王付きの近衛師団に入れ。俺が推薦する」
タロウは思わず目を丸くした。一人前の戦士となった後の若者の進路には様々なものがあるが、国王付きの近衛師団と言えば訓練成績が抜群な者だけが入れる、言わばエリート部隊だった。
「そんなところにおいらなんかが入れるのだ?」
「入れるとも。近衛師団に配属されるのに必要なのは、勇猛さや体力と言った前線の兵としての素質ではない。将来の軍の幹部・司令官候補として、氷のような頭脳と冷静さと言った素質が求められる。兵法の成績がずば抜けているおまえにはぴったりだ」
タロウは考える。近衛師団の仕事は宮城の内外の警備および、神官達の手足となって戦争関連の公務を行うことだ。となれば国家や軍に関する重要機密に触れる機会も多くなる。また近衛師団員はそのまま高級将校の候補生でもある。働きが認められれば、戦線における重要な任務に司令官として参加する機会も得られるだろう。それらはすべて、タロウの行うスパイ活動に対し極めて都合の良いことだった。
「確かに、近衛師団になれれば光栄なのだ。でも本当に、近衛師団に入れるのに、おっちゃんの推薦が役立つのだ?」
「おいおい生意気を抜かすな。今はこの図書室の司書をしているが、かつては俺も高級将校としてかなりの地位があったんだぞ? おまえの頭脳なら俺が推薦すればきっと近衛師団に入れるさ。体力はネックだったが、最終試験を潜り抜けたのならばなんとかなる」
そこまで言って、司書は声を低くして鋭い視線をタロウへと向けた。
「ただ当たり前だが近衛師団の訓練は生半可なものではない。肉体的な訓練はより過酷になるし、座学の方でもおまえと同等の才気の持ち主がゴロゴロ入って来る。その中で競争に勝ち抜かなければ将校として身を立てることは不可能だ。おまえにそれができるか?」
以前ならここで怖気付いたかもしれないが、しかしエスキナへの復讐を誓うがあまり不屈の精神を手に入れたタロウは、力強く頷いた。
「やってみせるのだ。おいら、元帥になってエスキナ軍をまともな軍に変えて見せるのだ」
「良く言った」
司書は力強くタロウを抱擁した。
エスキナとグロウズマウルの緊張状態は数年に渡り続いていた。
いつ戦争が起きてもおかしくない状況だった。互いに出方を伺いあい、探りを入れ合っては、薄氷一枚隔てたギリギリの平和が続いていた。その中でタロウのようなスパイが何人も育成され、両国の至るところに潜伏していった。
中でもタロウは極めて上手くやっていた。近衛師団員として宮城に潜入したタロウは、いくつもの機密書類を窃視し、上官同士が行う機密会議を傍聴した。そうして得られた情報は暗号化され、派遣された通信兵を介してグロウズマウルの作戦本部に伝えられた。スパイとしてタロウは少なくない成果と実績を上げ、グロウズマウルの上官からの信頼も獲得していった。
そうして得た情報によると、確かにエスキナはグロウズマウルに戦争を仕掛けようとしているようだった。目に入る国は片っ端から征服して植民地にしたがるエスキナのことだから、次のターゲットをグロウズマウルに定めるのは理解のできる話だ。しかしグロウズマウルは山奥の謎に包まれた異人の国家であり、その国力には不透明な部分が多かった。よって喧嘩っ早いエスキナも、自分から仕掛けるには慎重になっているようだ。
それでもいつか必ずエスキナはグロウズマウルを襲う以上、グロウズマウルとしては防衛の為先制攻撃を仕掛けたいところだ。その為には、エスキナ本土の周辺にある三つの砦のいずれかを落とす必要があるのだが、いずれも防衛拠点として多くの兵力を保有しておりままならなかった。
以上を持って均衡状態を保っていた両国だったが、それはいずれ破られるべき均衡だった。タロウがスパイとして近衛師団に潜入してから三年後、エスキナ軍はグロウズマウル国の本土への侵攻を行い、街一つを制圧し領土の一部を我が物とした。
ある日、タロウは宮城の神官室に呼び出されていた。そこで神官と共に待ち受けていたのは近衛師団における上官で、彼は厳かな表情でタロウを見詰めると低く威厳のある声を発した。
「タロウ中尉」
「はいのだ」
「グロウズマウル国への侵攻が始まった。これには多くの軍事力が必要となる。よって近衛師団で育成した青年将校の内の何人かを戦線に送ることが決定した。タロウ中尉、貴様はその一人に選ばれたのだ」
「光栄の至りですのだ」
「貴様は肉体的には貧弱だが兵法への理解に優れ、数か月前に起きた平民約二千人による反乱においても、中隊約百五十名を指揮してものの見事に鎮圧せしめた。弱冠にして中尉に特進したのもその実績と手腕の成せることである。今こそその力を戦線にて発揮するのだ」
戦線は過熱していた。軍事侵攻を受けたグロウズマウルは、奪われた領土に軍を差し向けるのみならず、エスキナ領土周辺の砦のいくつかに反転攻勢を仕掛けていた。三つある砦は現状ではいずれも揺らいでいないが、一つでも突破されればたちまちエスキナ本土が危険に晒される。
「タロウ中尉に課せられた任務は、三つある最重要防衛拠点の一つドロスピュレー防衛基地、通称『愚者の砦』の防御への参加だ。砦の防衛責任者であるクレオメニス中将に配下に就き、中隊約二百名を指揮するのだ」
タロウは内心でほくそ笑む。防衛に参加した暁には、諜報活動の限りを尽くして砦の情報を丸裸にするつもりだった。またグロウズマウル軍が攻めて来るのに合わせて破壊工作を行うことで、防衛にあたる連隊全体を混乱に陥れることも可能だった。
「グロウズマウル軍は今この瞬間も砦へと迫っている。明朝には中隊と共にエスキナを出発し戦線へと参加するのだ。良いな」
「了解しましたのだ」
神官室を出たタロウは将校に与えられる高級住宅へと帰り着くと、愚者の砦に配属されたことについての報告書を暗号文にて作成する。そして城下町に出ると尾行に警戒しながら潜伏中の通信兵に接触した。
「これを」
「はいよ」
エスキナ市民に成りすましている通信兵に手紙を渡すと、自宅に戻ったタロウは明日以降戦いに備え寝台にて休息した。
スパイとしての本懐を遂げる日が近づいていた。
愚者の砦はエスキナ本土の周囲に聳える山の中腹にある。到着したタロウが最初に行ったのは砦全体の見回りだった。それは防衛を成功させる為ではもちろんなく、砦の弱点を丸裸にしグロウズマウル軍に伝えることが目的だった。
愚者の砦は、技術的に未成熟なエスキナ軍の作成した物だけあって、杜撰な要塞だった。先進的な国家なら五十年前には見切り付けたような脆弱な素材が外壁に使われ、上級の魔術師に火球を立て続けに浴びせられれば、簡単に穴が開くように思われた。塔の場所も悪く見通しが不十分で、ルートを工夫すればかなりの近距離まで気付かれずに接近することが可能そうだった。
砦のあちこちを回りながら、タロウは懐に忍ばせておいた紙を小さく切り裂き、握りこんで丸めてから各所に落として行った。
「タロウ中隊長殿」
振り返ると、下士官となったレオがいた。地元の小隊に入隊した彼もまた、上官に連れられ砦の防衛に参加していた。
「連隊長殿がお呼びです」
「分かったのだ」
「ところで、あの……」
「どうしたのだ?」
「つかぬことをお伺いしますが、中隊長殿はその、どうやって最終試験をくぐり抜けたのですか? 確かあの時、俺はその、中隊長殿を」
「屈強なエスキナの戦士たるおいらを殺すのに、おまえなんかのヘロヘロな短刀じゃ無理なのだ。ざまあみろのだ」
「……はあ。そうですか」
「というのは冗談で、たまたま急所を外れたのを親切な旅人に手当されたのだ。もっとも、その旅人は回復したおいらに身ぐるみを剥がれたんだけどね」
そういうことにしてあった。なおも怪訝な顔をするレオに下がるように告げると、タロウは連隊長室に向かった。
砦の防衛の責任者であるクレオメニス中将は、額に大きな傷のある大柄な人物である。背丈はタロウよりアタマ三つは大きく、体重は三倍近くありそうに見えた。顔は整っているとはとても言えなかったがそれ故の凄みがあり、信じがたい程大きな形の悪い鼻の上には、残忍さが嫌でも滲むような三白眼があった。
これまで難しい作戦をいくつも成功させている実力者だった。連隊からは大きな信頼と畏怖を寄せられており、このクレオメニスを暗殺せしめれば、砦は大きく混乱するに違いなかった
「貴様がタロウ中尉か?」
「はいのだ」
「噂通りのチビだな」
「はいのだ。しかしエスキナの戦士として不屈の魂を持つと自負していますのだ」
「貴様に与える任務は砦へと続く山道の警備だ。ここに示す地図の範囲に隊を散会させ、敵軍を発見次第襲撃するのだ」
「はいのだ」
「貴様の割り当て区域は比較的広い。命懸けで防衛し、エスキナ戦士の誇りを証明してみせよ」
「はいのだ。あ……ところで連隊長殿。おいら、とても珍しい葉巻煙草を持っていますのだ」
タロウは懐から取り出した小箱をクレオメニスに差し出した。そこには高級将校でも簡単には手に入らない貴重な葉巻煙草が数本詰まっており、クレオメニスの目を丸くさせた。
「こんなものをどうして貴様が持っているのだ?」
「砦に配属されることを話したら部下がくれましたのだ。そいつの家系はエスキナ戦士の中でも名門らしく、故郷から度々こうした物品が届きますのだ。おいらはもう何本か楽しんだので、残りは連隊長殿に差し上げますのだ」
そう言ってタロウは揉み手を作り、媚びを孕んだ表情を浮かべ口元を歪める。配属されたばかりの若い将校が、連隊長に気に入られようとここぞとばかりに貢物をしたように見えるはずだった。クレオメニスは分厚い唇をにやりと持ち上げてタロウから小箱を奪った。
「ようし貰っておく。タロウ、貴様のことは覚えておいてやるぞ」
「光栄の至りですのだ」
連隊長室を出たタロウは、ただちに自分の中隊を呼び寄せ、指定された区域へ行進を開始した。
タロウは要領良く中隊を山道に散開させる。この時点で何か勘繰られると良くない為、兵の配置は完璧にやった。割り当ての区域のどこにグロウズマウル軍が攻めて来ようとも、ただちに反撃が可能だった。
指揮官としてタロウは比較的安全な後方で如才なく兵に指示を出し続けた。勝手な国の都合で命を賭けさせられているにも関わらず、不服な態度一つ取らず唯々諾々と指示に従い続ける兵達が、タロウには遠く感じられた。彼らは大義も忠義もなく、ただ戦士であることから逃げ出せないというその一点で、エスキナを憎みながらエスキナの為に死んでいくのだ。
自分はこいつらとは違う。内部からエスキナを食い荒らし、復讐を遂げるのだ。
心の中でそう呟く度、タロウの中に甘美な優越感が広がった。そしてその優位性を与えてくれたグロウズマウルと、人生の恩人であるマリアに感謝した。
『タロウさん。聞こえていますか?』
突如としてタロウのアタマの中に声が響いた。
『マリアさん?』
タロウは声に出さずに答えた。言葉を介さず直接アタマの中に話し掛ける魔術は、スパイ訓練の序盤の段階で教わったものだ。それは高位の魔術でありエルフの中でも使える者は限られていたが、人の身でありながら才気溢れるタロウは苦も無くそれを会得していた。
『マリアさん! ずっと会いたかったのだ!』
『わたしもですタロウさん。こちらは今部隊と共に近くの森に潜伏し砦を攻める機を伺っています。タロウさん、そちらの情報を教えてください』
タロウは砦の防御について知りうる限りの情報と、中隊長として自分の持ちうる裁量と可能とする破壊工作の詳細について、要領良く説明した。
『分かりました。ではタロウさんは自分の部隊を速やかに撤退させてください。その後砦へと戻り可能な限りの破壊工作をお願いします』
タロウが中隊を連れて持ち場を放棄すれば、砦までの道は素通りになる。さらに破壊工作で砦を混乱に陥れれば、到着したグロウズマウル軍はたちまち砦を制圧できるはずだった。
『了解なのだ。マリアさん、愛してるのだ』
『わたしもです、タロウさん』
マリアとのテレパシーによる通信を終えたタロウは、自らの中隊に向けて声を張り上げた。
「散開した兵を呼び戻すのだ! 今すぐに撤退を開始するのだ!」
部下の一人が驚いた表情でタロウに詰め寄った。
「中隊長殿! 何故そのようなことをするのですか?」
「連隊長殿の指示なのだ。先ほど本部から来た通信兵がくれた手紙に、そうしろと描いてあったのだ!」
「しかしそれではこの山道はがら空きになりますよ?」
「それは今さらなのだ! 既に他の区域の守りが突破され敵部隊が砦に張り付いている状況なのだ! 全戦力を砦に集中させての防衛戦が始まっているのだ! 急ぐのだ!」
その権幕に、部下達は速やかに兵を一か所に集め整列させた。そしてタロウを先頭に砦への撤退を開始させた。
しかし部隊が砦に帰り着くことはなかった。タロウがわざと道を誤ったからである。見知らぬ森の奥地へと来さされた兵達は、皆動揺した表情でタロウの方を見た。
「中隊長殿。これは道を外れているのではないですか?」
「わざとだから大丈夫なのだ。それより、今からこの紙を兵の一人一人に配るのだ」
タロウは懐から大きな紙を取り出して小さく切り取って部下達に回した。紙はエスキナのどの職人が作った者よりも滑らかで白く、指が切れそうな程に鋭利だった。
困惑するのは部下達だった。軍隊にとっての上官命令が如何に絶対の物とは言え、タロウの言動は奇怪そのものだった。数名が恐る恐るその意図を尋ねたがタロウは答えなかった。
「中隊長殿。これをどうするのですか?」
「こうするのだ」
タロウは指先をパチンと弾いた。
隊員全員に行き渡っていた紙片は突如として眩い炎を吹き上がらせた。真っ赤な炎は戦士達の全身を包み込む程に膨らみ、やがて全体で一塊となって激しく燃え続けた。
「……こりゃ燃やし過ぎたのだ。山火事になってマリアさんの隊の方まで届かないと良いけど」
重なり合う悲鳴を耳にしながらタロウは肩を竦めた。戦士達は熱さから逃れようと身を捩りのたうつが、大きすぎる炎から脱出できる者は外側にいる僅か数人だった。またそうやって炎の塊から逃げ出しても自らの身体を纏う炎は消しようがなく、燃え盛る火を背負い木々の合間を走り回るその様子は滑稽ですらあった。
全身を黒く焦がしながら炎を共に踊る部下達を見ても、タロウの心には何の痛痒も生じなかった。タロウの忠誠心はグロウズマウルにあり、敵軍たるエスキナ人をいくら焼こうと暗い歓びが沸くだけだった。
かつての優しさはマリアの為に捨てたつもりだった。だがそれほどまでに割り切れる自分の変化を目の当たりにして、タロウは小さな驚きと、不思議な頼もしさを己自身に感じていた。
己が部隊を全滅させたタロウは急いで本部である砦へと戻った。そして連隊長室の扉を叩くと、焦燥に満ちた表情で倒れこむ様に中に入った。
「連隊長殿! 大変です! おいらの部隊が全滅いたしましたのだ!」
連隊長であるクレオメニスは憤怒の表情でタロウを迎えた。タロウは隊を全滅させたことの責を問われていると解釈し、怯え切った表情で申し開きを始めた。
「申し訳ございません。ナガミミ共の魔法はまるで回避不能で、部下達は前触れもなく突如として燃え上がりましたのだ。逃げ出せたのはおいらを含めほんの数人で、そいつらとも逃げる途中ではぐれてしまいましたのだ」
言い訳をするタロウの背後から数人のエスキナ戦士達が襲い掛かった。肉体的に脆弱なタロウは一瞬にしてその場に組み伏せられた。
「下手糞な嘘は良い。貴様がグロウズマウルに通じているのは分かっている」
クレオメニスが鋭い三白眼でタロウを睨んだ。浮き上がる眉間の皺は深く激しい怒りが感じられた。それはまさしく鬼の形相であり並の戦士ならたちまち震え上がる程の迫力があった。
「そりゃどうしてなのだ?」
「貴様が命令になく割り当て区域を放棄し隊を外に出したのを、見回りの兵が発見したのだ」
「へぇ。ま、そりゃそうなるのだ。分かってたことだしどうでも良いのだ」
「ならば何故ここに戻った? 拷問されて洗い浚い白状させられた上殺されるのは明らかではないか?」
「こうする為なのだ」
羽交い絞めにされたタロウが指を鳴らすとクレオメニスの懐で炎が吹き上がる。それは先ほどタロウが渡した葉巻煙草から発されていた。魔力を込めておけば術者の好きな時に発火させられる魔法の紙片が、葉巻煙草の一つ一つに仕込まれていたのだ。
「悪くてもせいぜい毒入りと思って油断して持っていたのだ? 残念、魔法がかけられていたのだ」
炎はたちまちクレオメニスの全身を包み込む。最初に喉を焼かれたらしくクレオメニスは悲鳴すらあげられず炎の中でのたうっていた。
「貴様! 何をした!」
タロウを羽交い絞めにする戦士の一人が怒声を発した。
「何って魔法なのだ。君達も早く離れないと酷い目に合うかもよ?」
そう言い終える前にタロウは次なる魔法を放っている。タロウの身体を掴んでいた戦士達は、突如としてその場を吹き飛ばされ全身を壁に叩きつけられた。自分に触れている者を遠くまで弾き飛ばすという魔術だった。
壁に叩き付けられた衝撃で、兵達は全身のいずれかの骨が折れ倒れ伏していた。肉体的にどれほど鍛え抜かれた戦士でも、マリアに教わった魔術の前には容易く屈すると思うと清々しかった。これほど素晴らしい技術を操るグロウズマウルが戦争に勝利することを、タロウは確信していた。
タロウは掌から直接火球を放ち兵達にトドメを刺した後、砦内を闊歩し始めた。
魔法を込めた紙片は砦のあちこちに仕込んであった。タロウが歩き回りながらそれらを順に起爆させると、眩い炎が吹き上がり砦は火の海となった。戦士達は突如として吹き上がる正体不明の炎に焦りものの見事に混乱しながら、火を消すために奔走するあまり統制を乱した。
火の手が上がる度近くにいたタロウは当然疑われることになる。身柄を抑える為に襲い掛かる戦士達だったが、タロウには歯が立たなかった。戦士達は魔法によって弾き飛ばされ、火球を浴びせかけられ、風の刃で首を断ち切られた。
「なんだこいつは! ナガミミでもないのに、魔法を使うぞ!」
このまま無双の活躍と行きたかったがタロウも無敵ではなかった。魔力には限りがあり、使い続けているとガス欠を起こす為、継戦能力には限度があった。四方から襲い掛かられれば武器による被弾は免れず、治癒魔法によって肉体を回復させる度魔力的な消耗は蓄積していった。
タロウは限界を感じていた。襲い掛かるエスキナ人達は皆筋骨隆々として獰猛だった。戦士の練度が高いというその一点で周囲の国々を恐れさせるエスキナ軍は、結局のところ脅威だったのだ。
僅かに残った魔力で周囲の何人かを蹴散らしたタロウは、そのまま背を向けて砦からの逃走を図った。クレオメニスを失った上タロウの大暴れもあり砦は十分に混乱していた。そろそろ自分の命を優先して行動しても良い頃合いだった。
その時だった。
タロウではない者の放った火球が目の前を過り、近くにいたエスキナ兵に着弾した。火球の来た方を見ると、そこにはローブを着用した耳の長い男性が杖を掲げて立っていた。
「グロウズマウル軍! ついに来たのだ!」
タロウが歓喜の叫びをあげる。エルフの男はタロウににじり寄ると、敵を見る表情で杖を掲げた。
「ちょい待ちちょい待ち。おいら、味方なのだ。魔法を使ってたの見たでしょー」
男が尚も杖を振って魔法を放とうとしていた為、タロウは落ち着いて次のように口にした。
「『二つの欠けた太陽は沈まず。恵みと灼熱が共に民へと降り注ぐ』」
それを聞いて男は微かに眉を歪ませた。それはグロウズマウルに寝返ったスパイにのみ教えられる合言葉だった。
「……貴様、本当に我が国のスパイか?」
「そうなのだ。合言葉だって言ったでしょー?」
「それだけでは不十分だな。だが今すぐに命を取るには値しなくなった。手を上げて降伏しろ。捕虜になるなら命までは取らない」
鋭い両眼がタロウを睨む。タロウは溜息を吐いて大人しく両手を上げた。
こうなる可能性は予想していた。考えてみればどこから漏れるとも分からぬ合言葉の信用度はたかが知れている。味方であることを証明するには、ヘレナやマリアと言ったタロウを知る者とコンタクトを取ってもらうしかなく、それまでは大人しくするよりどうしようもなかった。
「後で話は聞いてくれるんだよね?」
「ああたっぷりと聞かせてもらう。だから、今は大人しくしていろ」
「分かったのだ」
タロウはグロウズマウル兵に連れられて行く。
火に包まれた砦には何人もの魔術師が殺到していて、あちこちにエスキナ人の死体が散らばっていた。最早勝負は着いたことが明らかだった。
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